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『シリーズ外国人労働者@ 出稼ぎ日系外国人労働者』

藤崎 康夫 19910331 明石書店,248p.


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■藤崎 康夫 19910331 『シリーズ外国人労働者@ 出稼ぎ日系外国人労働者』,明石書店,248p. ISBN-10: 4750303569 ISBN-13: 978-4750303567  \1896 [kinokuniya] w0111 n09


■著者紹介(奥付より)
藤崎康夫(ふじさき・やすお)
 1936年東京生まれ。熊本大学教育学部卒。熊本県天草郡河浦中学校、東京都立大塚盲学校、足立区立第四中学校二部(夜間中学)の教師を経て、ルポルタージュ、評論活動に入る。パウリスタ新聞東京支社長。


■目次

T ある逮捕事件の波紋
 ボリビア移民C氏の突然の逮捕
 沖縄とボリビア移民
 逮捕と日系人の声
U 日系人の母国労働への道
 ブラジル移民80年と逆流現象
 ブラジルにおける母国労働への過程
 揺れた日系社会――1989年
 査証手続きへの不満
V 労働力不足にあえぐ日本企業と日系人労働者
 日本企業の労働者不足
 ある日系人斡旋業企業の実態
W 日本と日系人
 日本海外移民の幕開き
 南米移民と日系社会
 日系人と日本
X 日系人労働者のその後
 二、三世への門戸開放
 新入国管理法と日系人
あとがき


■引用

「 南米移住者が母国で働き始めたのは、東京オリンピック(1964年10月)の関連施設や道路工事に追われていたころだ」と、いわれる。その後、沖縄復帰(1972年)を記念した「沖縄海洋博」の建設工事にも、同県出身の移住者たちが帰郷し参加していた。だが、中南米の移住者・日系人たちの母国就労が、本格化したのは1985年の秋頃からだとされる。
 日本の中小企業、とくに零細企業である下請会社では、かつてない深刻な人手不足に直面し、外国人労働者で労働力を補うことにより、生き残りをはからなければならなくなっていた。」(p.10)

「 中国、東南アジアなどからの労働力の移入が起こるなかで、中南米からの移住者・日系人の母国就>11>労も起きたのである。
 まず日本国籍をもつ移住者と日系人(二重国籍も含む)が、就労を目的に帰国してきた。日本国籍を持つため、外国から来たとはいえ、外国人労働者とは違い、その労働に違法性はないのである。この“日系人”という労働力に目をつけ、労働力が不足する企業への人材派遣を目的にする斡旋業者が、日本でつぎつぎと現れた。また、現地にもその出先機関や就労希望者を集め送り出す組織が生まれた。
 横浜市に本社を置く「三協工業」(後章で再度触れる)は、その人材派遣を目的とする代表的な斡旋業者である。同社は神奈川、埼玉、愛知県などの自動車関連企業などに、ブラジル移民を主流とする中南米の移住者・日系人を送り込んで、そのニーズに応えた。
 中南米の国々は、激しいインフレに見舞われた。「国際為替レート」というマジックで、「YEN」は、多額の現地通貨に化けた。日本で働けば、一か月の収入が五か月、十か月分にもなる。自国では到底得られない金額を手にできるのである。また政情や社会不安もある。これはブラジルにかぎらず多くの中南米諸国が抱える共通の悩みでもある。
 移住者・日系人の母国への逆流現象は、経済的な理由が全てではない。日本での就労は、移住者・日系人にとっては、母国訪問の好機である。
 “一度は、父母や祖父母の国を訪ねてみたい”と思う彼らにとっては、働きながら母国訪問ができる、絶好の機会となった。しかし、母国から伝わる話は、甘いものだけではなかった。搾取、事故、自殺者、消息不明……といった暗い話も伝わり、訪日への不安もあった。日本へは行きたいが、情報をつかむ術もなく事情に疎い移住者・日系人は多い。彼らは、日本を訪問してきた知人や日系旅行社など>12>にその情報を求めたのである。
 旅行社に、
「どこか、日本での就職先を紹介をしてほしい」
と依頼してくる者もいる。
 日本では、外国人の単純労働者の導入をめぐり、議論が百出していた。しかし、日系人の労働については、行政の特別な方針も提示されないまま、なりゆきにまかされた状態だった。」(pp.11-13)

「 日本の国籍を持つ人の子供あるいは配偶者は、その親や配偶者が国外にいる場合でも、子弟であることを理由に、三年以内の日本滞在が認められ就学、就労も可能となっていた。正確には日系人の在留資格は、「4-1-16-1(日本人の配偶者または子――日本人の家族として本邦に在留する場合)」>13>か、「4-1-16-3(法務大臣が特に在留を認める者――他の在留資格に該当しない者)」の二種類の“地位または身分に基づく在留資格”が得られるのである。(『入国管理及び難民認定法』の1990年6月1日、改正前。)
 だが、日本国籍を持たない二世たちは、入国に際し、一般外国人同様の入国審査がある。また、「法務大臣が特に在留を認める者」といった、その基準も不明確である。
 日本で在留資格を得るには、本人が日系人であることを証明する書類や日本の親族などの身元保証などが必要である。」(pp.13-14)

「日本での就労を目的としての訪日であることが明白であっても、現実には日本政府から発給される査証(ビザ)は、「4-1-4(観光、スポーツ、親族の訪問、見学、講習又は会合への参加、業務連絡その他これらに類似する目的をもって、短期間本邦に滞在しようとする者――本邦において報酬を受ける活動に従事するものは除く)」に限られていた。
 現地の日系人たちの間では、
「日本へ労働に行くのがわかっていながら、なぜ日本政府は、“観光ビザ(4-1-4)”しか発給しないのか」
という批判の声も上がっていた。
 就労が認められない観光ビザのまま働くことは、もちろん違法となる。」(p.17)

「 日本側の悪徳斡旋業者のあくどいピンハネや人権を無視したやり方が、現地でも問題になっていた。その日本側の野放し状態に苛立つ声もおきていた。
「日本人は、同胞まで食いものにするのか」と、ブラジル人の批判に、肩身をせまくする日系人たちもいた。
 しかし、このC氏逮捕の報に、日系社会や日系人の間で、即座に大きな反響と批判の声が起きた。その一番大きな理由は、“日本”と“移住者・日系人”との間にある、母国日本の就労についての意識のギャップである。日系人就労者の問題は、「外国人労働者」の一言では、かたづけられない問題>19>を含んでいるのである。
 その背後には、日本国家とその海外移民政策が浮き彫りにされているからである。」(pp.19-20)

「(ボリビアでは――引用者註)熱帯農業は投機的な正確が強い上に、借入資金による営農で、不安要素もまだ多い。日本の高度経済とこのような状況から、ボリビアの沖縄移住地では、1980年代に入ると、南米諸国でもいちはやく、母国での出稼ぎ労働がはじまった。」(p.26)

「「大阪に行くのも、ハワイやブラジルに行くのもたいした変りはありません。沖縄と移住地との往来も結構さかんです。“移民”も、“国内への出稼ぎ”も感覚的には大きな違いはありません。」
 沖縄出身のブラジル移民のK氏の言葉である。」(p.27)

「 この頃(1989年後半期)、すでに中南米日系人の母国への就労数は、「3万だ」、「5万だ」、「いや7万だ」といわれていた。正確な実態はつかめないが、外務省中南米局は4〜5万人という見解をとっていた。
 この数万の日系人が外国からきた労働者として、日本の中小企業を支えている事は、もうまぎれもない事実であった。
 だが、この日系人の母国就労問題についての、日本側の態度は、非常に曖昧であった。
 サンパウロ州議員は「現状のままでは不祥事件の起る可能性が非常に高くなる。就労ビザを……」と日本政府関係者へ訴え、海外日系人大会では、母国で就労する二、三世の処遇と保護を訴えた要望書を提出していた。ブラジルの日本語新聞の各紙は『“出稼ぎ”合法化に期待』『日本は外国人労働対策を急げ』……と訴える社説を掲げていた。>33>
中・南米側の日系人の要望や訴えについて、日本側は対応らしい対応をしていない。この現状が混乱と不安を巻き起こしていたのである。
 こんな状況のなかで、まぎれこんだ悪質な斡旋業者が横行したのであった。しかし、日本は日系人の就労者への取り扱いについては、ほとんど方針らしいものをださなかった。」(pp.33-34)

「今後、日本が、日系人の母国就労への方針、対応を明確にしないまま、この日系人の就労問題をなしくずしに事をすすめていくとしたら、これからさらに多くの問題を生み出すだろう。
 日系人労働問題で、まず日本側に必要なのは「日系人」への認識なのである。日本はアジア有数の「移民送出国」である。しかし、日本の海外移住政策や実態が語られることはあまりにも少なかった。
 この問題には、まず「移住者・日系人とは」という問いがなければならない。」(p.42)

「 日系人の母国就労は、“Uターン”とか“逆流現象”とか、特別視されているが、ブラジルにおいては、たんなる一現象にすぎないものである。ヨーロッパ系の人々にとっては、母国や外国での労働は、“国内労働”とさほど変わらないのである。
「ドイツ系の人たちは、1903年以降の移民の子孫の場合は、世代に関係なく、証明さえできれば、西ドイツ(旧)のパスポート(旅券)を取得して、西ドイツに行って働いています。それ以前に移住してきた人も、その時の状況の審査はありますが取得は可能です。父母両系とも平等にあつかわれています。ポルトガルは、ブラジルの兄弟国ですので、ブラジル日系人であっても労働が可能です。そ>46>47>れが日本は日系二世であっても、一般には入国に対して観光ビザしか発給していません。こんな状態ですから、どうしても“日本”と“日系人”の間にはあつい壁ができてしまうんです」
とブラジル・パラナ州在住の戦後移住者、林紀典氏(45歳)は、いかにも残念そうにいう。
 ブラジルには、ポルトガル、イタリア、ドイツ、スペインなどヨーロッパ諸国のヨーロッパ系の人々が多い。かつてポルトガルはブラジルの宗主国であった。ブラジルとポルトガルの往来も就労も自由である。かなりのブラジル人が就労していた。イタリア、ドイツ、スペインは、それぞれの国の移住者の子孫であることを証明する書類を在外公館に提出することにより、比較的簡単に国籍が与えられ、二重国籍が認められ、母国でその国民として就労ができるのである。
 国籍取得可能な世代――イタリアの場合は父系は三世代、母系は二世代。ドイツの場合は世代に制限がない。スペイン系も父または母がスペイン人である限り世代に関係がない。
 国籍の付与は、各国が独自に決定するものである。
 日本人移住者の子供が日本国籍を取得するには、生後三ヶ月以内に管轄の日本総領事館に出生届(出生証明書と申請書類)を出さなければならない。出生により日本国民で国外で生まれた者は、国籍留保の意思表示をしなければ、出生時にさかのぼって日本国籍を失うのである。日本国籍の留保による二重国籍者は存在するが『国籍法』の第14条(国籍の選択)で、22歳に達するまでに、いずれかの国籍を選択することを規定し、二重国籍を拒否しているのである。しかし、現実には二重国籍のチェックは困難で、日系二世の中には、二重国籍とブラジル国籍の両者がみられる。」(pp.46-48)

「 母国を見たい。
「1989年は、出稼ぎで大揺れに揺れ、日系社会は大きな変動期をむかえました。これは日系移民史に新たな1ページを加えたことになります。」
 サンパウロからやってきたH氏は私にいう。
 確かにH氏の言葉通りに、日本海外移民史において、今までかつてなかった数万人におよぶ中南米の日本人移民・日系人が、母国企業への就労のため日本にやってきた。
 この移民・日系人の動向と、日本国の対応は、労働問題としてだけではなく、“日本海外移民史”の上においても見落とせない。ここに日本国の“移民政策”や“日系人の観念”の本質が顔をだすことになる。
 母国にやってくる人たちの職業も年齢も様々である。公務員もおれば、技術者も学生もいる。だが、主流は農業従事者と商店関係者であろう。家族に留守を託し、事業拡張の資金稼ぎを目的にしている人も多い。なかには別荘を持ち、裕福な人たちの姿もある。」(p.60)

「対外債務1200億ドル、年率1000パーセントと超インフレ、最低賃金約40ドルというブラジルから見れば、日本は魅力>70>ある職場である。さらに日系人にとっては、“母国訪問”という魅力がさらに加わるのである。」(pp.70-71)

「 南米最大の商業都市サンパウロ市を州都とするサンパウロ州には、日系人の70.8パーセントに>84>相当する82.8万人が居住している。この母国労働についても、サンパウロ州は、もっとも大きな影響をうけている、といえる。
 サンパウロ州の下本八郎州議員は1982年2月9日、サンパウロのグァルーリョス空港から成田に向かった。
 訪日した下本議員は、13日、東京・霞ヶ関の外務省を訪ねた。
 就労を目的として訪日中のブラジル日系人が2万人といわれる中で、ブラジル国籍の日系二世が、少なからぬ数に達していることが予測されていた。そのほとんどは観光ビザで訪日している。入国後、資格変更で就労可能なビザの取得ができればよいが、出来ないこともある。また、観光ビザのまま隠れて働いていれば違法である。
“日系人から犯罪者を出すわけにはいかない”という思いが下本州議員の胸にはあった。
 下本議員が「日本国籍を所有しない日系子弟の日本就労について長期ビザ交付」の実現を、宇野宗祐外務大臣(当時、以下同)に陳情した。同じことを渡辺美智雄政調会長や石原慎太郎元運輸大臣にも伝えた。
 帰国した下本州議員は、2月17日正午、サンパウロ市内の“ホテル・バロン・ルー”において日本語新聞を相手に記者会見を行った。
 記者の関心は、下本州議員の“日系人に対する就労ビザの交付に対する請願”に対する母国の反応だった。
 その模様を3月18日、『パウリスタ新聞』は、「2年のビザを 隠れて働く二世たち」という見出>85>しで、つぎのように報じた。
 〈(略)ブラジルはこれまで日本の国策としての移住を広く受け入れ、多くの日本人に門戸を開放してきた。こんどは日本の番というわけではないが、「移住した日本人の子弟」ということをぜひ念頭において考慮してもらいたいと陳情した。
 宇野宗祐外相の紹介を受けた外務省幹部との会談では、予想されたように「二世といってもブラジル人」との観点から、これを認めれば他の諸外国からの出稼ぎ者も受け入れざるを得ず、「日系人にだけの特別措置はどうだろうか」という対応であった。(略)>86>87>(略)〉」(pp.84-88)

「サンパウロ総領事館は、世界で最大の日系社会を抱えているだけに、日系人の動きを敏感に反映する。
(略)
 1987年から88年にかけての旅券発給の30パーセントに近い増加は、一世の日本での就労がなお続いていることを表し、またビザの発給の1988年の前年比の47.2パーセントという急増の主な要因は、日本国籍をもたない二世たちの日本就労である。さらに1989年にはいり、急増をつづけていた。
 日本国籍を持たない、日系二世たちへの日本の査証の発給のあり方について、日系人の多いサンパウロ州、パラナ州を中心に不満の声が上がっていた。それは強まる一方であった。日本政府は、明ら>90>91>かに就労を目的にしている日系人に対しても、“観光ビザ(在留資格4-1-4)”しか発給しないという、かたくなな態度をとりつづけていた。
 さらに不満の声を高めたのは、その観光ビザ発給についての手続き方法にあった。
「これは日系人への差別としか思われません。観光ビザを発給するのに、日系人だけに特別な書類の提出を求めているのです。同じブラジル国内の出先公館の中でも、日系人の少ないところは必要がないのに、日系人の多い地域が特別扱いされているんです。観光ビザの発給なら、どこでも同じ手続きに統一すべきであるのに……。しかも館員の、“お前たち、嘘をついて出稼ぎに行くんだろう”という言葉を聞いたときは腹が立ちました。(略)
 ポルトガルやイタリア、西ドイツ、フランスなどヨーロッパの先進国に比べ、日本は同民族系への扱いがぜんぜん、異質でダメなんです。ブラジル人たちはいってますよ。同胞や同民族への理解を示そうとしない国が、まず世界を理解することなんてできないでしょう」
と、H氏はいう。
「日本の求人は増えているが、日本政府は、明らかに日系人の母国就労については、制限したがっている」
 日系人たちの不満の声である。」(pp.90-92)

「 観光ビザ取得で、サンパウロ、パラナ、ブラジリヤ、リオの総領事館および領事館から特別に日系人に求められる書類とは――身元保証人の身元保証書、財産証明書、在職証明書、所得証明書、預金残高証明書と、親の申立書である。
 在日の身元保証人にどんな書類が、具体的に求められているのだろうか。
 まず、在日保証人の、つぎの書類を自筆による書信(手紙、テレックス)で取り寄せることが求められていた。

一、申請人と在日保証人との関係(具体的に)
ニ、身元を引き受けるに至った経緯(詳しく)
三、訪日目的および理由(詳しく)
四、日本滞在中における具体的な日程表
 @宿泊予定地(保証人宅、ホテル等)
 A日程及び観光先、親族訪問先
 B誰が(主な人)どのような交通機関利用して申請者を案内するか
五、日本滞在中の身元保証
 @滞在費及び帰国旅費は、申請人が払うのか、それとも在日保証人が一切負担するのか(詳しく)
 A滞在中において、入国目的(観光、親族訪問等)以外の活動、すなわち報酬を受けるいかなる>0094>仕事にも従事させないことを保証できるのか
 B申請者に日本国法令を遵守させることができるのか
六、在日保証人の住所、氏名、年齢、職業(勤務先、役職)、電話番号、但し在日保証人が在日外国人である場合は、保証人の国籍、在留資格、在留期間も記載する他、外国人登録証の写しを提出してください
七、在日保証人の家族の氏名、年齢、職業(勤務先、役職)
八、その他、在日保証人の保証能力を立証するものとして、次の書類を併せて提出して下さい(コピーでも結構ですが、最近のもの)
 @住民票(戸籍謄本)
 A在職給与証明書
 B源泉徴収票
 C銀行預金残高証明書
 D納税証明書 」(pp.94-95)

「 (1989年――引用者註)7月20日から22日にかけて、米国・ロサンゼルス市では、北・中・南米の日系人を結ぶ「第5回パン・アメリカン日系人大会」が開催されていた。各国から400人の代表が参加していた。同大会にはブッシュ大統領、デュークメジアン知事らからも祝電が寄せられた。
 この大会の中でも、南米諸国の日系社会が直面している“母国日本への就労問題”について、集中討議が行われた。
 日本での就労日系人は、日系人口122万人のブラジル約2万人、4万5000人のアルゼンチンが約8000人、7000人のパラグァイが約500人、8万人のペルーが約5000人という推定数字が出されたが、現実にはこの数字をはるかに上回ると思われる。>118>
 日系人労働者や外国人労働者から搾取をする日本の斡旋(人材派遣)企業への怒りの声が起きていた。日本での就労は、二世の研修として制度化することを訴え、大会宣言に盛り込まれた。」(pp.118-119)

「 日本で外国人労働者問題が、政府ベースで取り上げられたのは1975年の「外国人船員の乗組みは差し控えること」とする水産庁の通達が端緒だといわれる。しかし、当時と今日では状況は大きく変化している。
 今春、経済企画庁主催の「外国人労働力に案する研究会」(座長、島田晴雄慶応大学教授)は、外国人単純労働者の合法化を柱にした報告書をまとめて、首相の諮問機関である「経済審議会」に提出し、審議が開始された。1989年10月20日、海部内閣は閣僚懇談会で、「技能労働者は可能な限り受け入れる」「単純労働者については多様な角度から検討する」という基本方針を打ち出し、研修生の受け入れ拡大やそのための専門機関の設置などを検討した。
 このような状況の中で11月10日、衆議院法務委員会では、入管法改正の審議が始まった。」(p.155)

「外国人の単純労働が禁じられている方向の中で、結果的には、日本の国籍をもつ移住者や日系二世の二重国籍者が、一層貴重な労働力として注目をされた。中南米の日系人をあつかう斡旋業者(企業)の活動は、さらに活発になり加熱していた。」(p.156)

「 1989年12月5日、中南米国会議員連盟と在中南米18カ国の大使との懇談会が午前11時から約1時間、ホテルニューオータニ梅の間でひらかれた。病気で欠席の同議員連盟、田中龍夫会長(当時、衆議院議員)に代わり、福田赳夫元総理が挨拶にたった。
 外務省坂本中南米局長より、本年度中南米大使会議の会議内容と外務省の対応の概略の説明が行われた。
 会議内容は、1、中南米地域の全般的動向と主要問題、2、経済動向、3、今後の対中南米・技術協力のあり方、4、広報・文化、領事・移住、5、今後のわが国の対中南米政策のあり方、であった。
 その中で、坂本中南米局長は、同地域からの日系人労働者の受け入れ問題について、
「この問題に対しても、長時間議論しましたが、結論から申しますと、日系人については、技術研修、>0159>将来の日本と中南米の懸け橋になりうる日系人という観点から、もっと健全な受け入れ体制を考えるべきではないかということになりました」
と語った。
「この問題に関して、基本的にどう考えるべきか」
という有馬元治議員の質問に対し同局長は、難しい問題としながらも、
「中南米に関しましては、日系人がたんなるお金の出稼ぎにくるということではありません。ニ、三世においては、自分の両親が育ったところ、おじいさん、おばあさんが育った国を見たいという気持があること、日本語の勉強がしたいという気持、それからさらに出来ればお金も稼ぎたいと思っているのです。将来の日本と中南米の関係を考えたとき、あたたかく迎え、中南米との関係を深めるべきで、文化交流、その他の懸け橋になるという認識で議論をしました。私はこの認識は正しいと思います」
と答えた。
 ただ、あまりおおっぴらに日系人を優遇することは、非日系人との関係上、難しい問題があり、工夫を要すると語った。」(p.159-160)

「 日系人の母国労働については、関係省庁の対応はかなり遅れ、不明確な態度が続いていた。やったことといえば、労働省が人材派遣をやっている斡旋業者に1988年3月、罰則のない行政指導である「改善勧告」をだしたぐらいのものである。
 法務省としては、日本籍を持つ移民一世や二重国籍の日系二世については調べようもなく、また外国籍の日系ニ、三世については親族訪問として入国し、在日資格を切り替え、滞在する場合、就労か親族と共に暮らすことが目的なのか、これもチェックしようがない。結局、「日系人就労問題については、法務省の役割には馴染まないのでは……」とされた。
 外務省は、日系人を日本人と外国人との間にある“グレーゾーン”として扱い、なかなか態度を表明しなかったが、12月5日の中南米国会議員連盟と在中南米18カ国の大使との懇談会席上で、やっと中南米課長が、受け入れる方向で検討していることを明らかにしたのである。」(p.161)

「 先の記事に出てくる「三協工業」は、日本移住者・日系人の就労者をいち早く取扱い、その大手として知られた斡旋会社である。
「今はいくつも同じような斡旋会社が日本にはありますが、三協は、なんといってもこの業界を開拓した企業です」
と、ブラジルで旅行者を営むH氏はいう。」(p.166)

「 日系人の母体は日本移民である。
 日本は、アジアの三大「海外移民送り出し国」である。その数は100万人を超え、現在、日系人の数は200万人を越えると予想される。」(p.204)

「UCLAアジア研究所員で渡米一世の歴史をまとめた『イッセイ』(1988年出版)、の著者で、アメリカ日系二世ユウジ・イチオカ氏(1936年生まれ)は『東京新聞』のインタビューの中で、「日本人と日系人」について、次のように答えている。
 〈――日本では国際化がいわれていますが。
 「ある意味で口先の国際化です。(略)>0204>(略)日系人は日本ではないのです。
 日本の延長ではなく、アメリカにいることに存在価値があるんです。アメリカ人でありながら黒人や白人とも違うところに存在価値があるんです。人間は適応力があるので、違う言語、違う文化の中で生活すれば変化するのは自然です。変化した日本人であること、変化は悪くないことを認めてくれれば国際化といえます。(略)」
 (略)
 ――日本ではアジアへの関心が高くなってきましたが、米国では。
 「最近ではアジア系アメリカ人という意識が出てきました。東洋系は中国、韓国、フィリピンなどと多い。協力していけば、アメリカでは数がものをいいますから。しかし、アジア系アメリカ人と>0205>いうのは、日系も中国系もアメリカ人だからこそ生まれた意識です。」〉」(pp.204-206)

「 さまざまな論議をよんだ「出入国管理及び難民認定法」の改正は、1990年6月1日から施行されることになった。
 法務省は、新聞紙上で「政府広報」として次の内容の記事を出した。

「出入国管理及び難民認定法」の主な改正点は……
○外国人の在留資格が増え、旅券には、在留資格が「技術」「就学」などわかりやすく日本語で表示されます。
○日本で代理申請できる「在留資格認定証明書」制度の新設や、審査基準の明示により、入国手続が簡素・合理化されました。
○6月1日以降入国した次のような外国人を、故意に雇用したり、あっせんするなど不法就労を助長した者は、新たに処罰されることになりました。>0225>0226(写真)>
 ・在留資格が「短期滞在」など就労を認められない外国人
 ・在留期間を経過して不法に残留する外国人等、詳しくは最寄りの入国管理局(支局)へ  (法務省)

 同法の改正は、在留資格制度の整理の他に、外国人の不法就労助長罪を新設し、不法就労外国人の締め出しを狙ったものだった。南北経済の格差の問題、国内労働力の深刻な不足……といった根底にある問題の解決とはほど遠い法改正であった。」(pp.225-227)


■書評


■言及


*作成:石田 智恵
UP:20080806 REV:20080916
外国人労働者/移民  ◇「日系人」/日系人労働者  ◇BOOK  ◇身体×世界:関連書籍
 
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