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『「いのち論」のはじまり』

村瀬 学 19910201 JICC出版,223p.

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last update: 20150920

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■村瀬 学 19910201 『「いのち論」のはじまり』,JICC出版,223p. ISBN-10: 4796600647 ISBN-13: 978-4796600644 1600 [amazon][kinokuniya]

■内容

■目次

I 「いのちの絵」から
1 いのちの絵を描く
2 萩原朔太郎の竹のイメージ
3 スプーン一杯の土の中
4 微なるもの
5 古代の「巻き込み」の図柄
6 再びいのちの絵へ
II 「ある」と「いる」
1 日常語の中の「ある」と「いる」
2 「どこか―に―ある」と「なか―に―いる」
III 「ある」――この物質をイメージすることば
1 山が「ある」
2 「物」のイメージ
3 現代物理学のイメージする「物質」
4 「形」と「空」
5 「こころ」の中の土台
(付)「座標」としての「地平」
IV 「いる」――このいのちのイメージすることば
1「囲いの――なかに――にる」
2「なか」とは何か
3 うち――うつし――にる
4 いる――にる――なる
5 「植物」のイメージ
6 天体に「いる」

「いのち」から「人間」へ
I 根源としての交わり
1 「忘れている」というしくみについて
2 根源としての交わり
3 〈生命〉なるものの原型
4 「似なるもの」の解釈
5 「魂不死の証明」について
II 物質と生命
1 「宇宙」への気づき
2 「半――機構」について ――物質と物体との区別への拠点 
3  「似――機構」について――生命と生物との区別への拠点
4 「包まれ」と「包みかえし」
5 「住み」にむけて
III 「衣・食・住」の宇宙性
1 はじまりとしての《両場性》
2 「中間性」の位置
3 「食」とは何か
4 「衣」とは何か
5 「住」とは何か
A 予備の考察
a  迷子と遠出
b ウロウロするということ
c 放浪と定住
B「住み」について
a 静と動
b 転化しあう衣・食・住
c 隠れること
d 住の宇宙的性格へむけて
IV「人間」の根拠はどこに求められるか
1「考言歩としての人間」「生食死としての人間」
2 重症児や老人は「赤ちゃん」みたいであるか
3 ある母親の訴え
4 言語・貨幣の位置と重症児の位置
5 倫理の発生基底について
V 「人生」をまるごと対象にする視座
1 人生の短さについて
2 人類史の「初期」をめぐって
3 「類的なもの」のイメージ
VI なぜ「人生論」なのか
1 雑誌における「人生言及」
2 古代の死と現代の死
3 「人生論」は中世に生まれた
4 「ことわざ」のもつ反転性
あとがき

■引用,書評,言及

*ここでは特に、IV「「人間」の根拠はどこに求められるか」を紹介する。


W 「人間」の根拠はどこに求められるのか

1 「考言歩としての人間」「生食死としての人間」
「寝たきりの重症の心身障害をもった子ども――この子どもの前では、私たちは人間の理解の仕方がみな非力になってしまう。
 ・・・・・・これほど、無力な状態はないんですよ、と。」p166

「私たちは「考える葦」(パスカル)としての人間、「我思う故に我あり」(デカルト)としての人間、
つまり「考え、喋り、歩く」ものとしての人間を《人間の原型》とみなすことにすっかり慣れてしまっている。」p166

吉本隆明は「大衆の原像」を問い、「生まれ―成長し―老い―死ぬ」という骨格を生きるところに、人間の最も価値あるものをみようとしてきた。
「大衆の原像」=「根源の価値」= 平坦な生き方 =「誰も生きたことのない原像」=価値観の収斂する場所と想定しえる (吉本『どこに思想の根拠をおくか』)

「誰も生きたことのない原像」を「生き、食べ、死す」人間像と呼ぶ

「考え、喋り、歩く」人間像  =  「考言歩としての人間像」
「生き、食べ、死す」人間像  =  「生食死としての人間像」  とすると

「考言歩としての人間像」 人間だけの共通像であるように見える
「生食死としての人間像」 人間だけの共通像として見えてこない

吉本隆明は「生食死の人間像」を「社会的存在としての自然性」と規定し、当然のことながら「言葉を使う人間像」が入ってくるという。こうもいう。「書きことば」を生きる知識人に対置されている「話しことば」を生きる大衆は最低限の
「考言歩」を有していなければならない。「考言歩」は「社会的存在」の別名である。

2 重症児や老人は「赤ちゃん」みたいであるか

こうしてみてくると
「デカルト式人間像」=「考言歩としての人間像」に吉本隆明の「大衆の原像」=「生食死としての人間像」を対抗させ、そこに重症の障害を持つ子の存在の根拠を見出そうと試みているが、うまくゆかない事態に直面してしまう。

赤ちゃんと老人は決して同列に扱われるものではないのに、似たようなものとして類推されてしまう。
老人は赤ちゃん程度とされてしまうことがある。また、重症児と赤ちゃんが同程度にされてしまう。

上記から「みなすべての人が人間とみとめられるわけではない」ことになる。
人間であるための条件がいる。それは「考言歩」に集約されてしまうが、「考言歩」の像をとらない者を「人間」として見ている場合がある。

3 ある母親の訴え
 
 cf 重症児の母親の新聞記事 「最重症心身障害者をお持ちの親御様へのお願い」

医学の言葉と比較してみると、あきらかな違いが見えてくる。
医者たちには「発達段階の低い子」としか見えないのだが、母親には「43歳になった息子」なのである。
そこに「医学の言葉」では決して見えてこない何ものかがある。「倫理の言葉」がいる。

4 言語・貨幣の位置と重症児の位置

5 倫理の発生基底について

「だとするなら「人間であること」の根拠はどこへ求めていけばよいのだろうか。
 現代の流行思想風に言えば、どだい根拠を求める発想自体が、近代の枠組みの発想なのだということになるだろう。
「人間であること」の根拠づけなど、どこにもできはしないのだ、と。」p182

「人間なる概念は・・・・・「倫理の言葉」でしかないところがある。そこのところをうまく問われなければならない。」p182

「あの母親は「この子も人間なんだから」といった人間の概念にこだわっていたわけではなかった。
 自分が世話しなければ死んでしまうというところにこだわっていた。」P184

「はじめに「人間の定義」があってそういう「人間」の世話をしてきたのではなく、世話をすることによってはじめて生じる「内部」があったと理解するべきなのであろう。そこで生じる「内部」こそが「倫理」だったのだと私は思う。」p185
「考言歩としての人間」を基準としてつくられている高級な倫理(道徳、規範としての倫理)ではなく、最も初源的な生活感覚、習俗としての倫理の発生基底がもっと問われなければならない。p185

「「考言歩としての人間」「規範にそう人間」だけが唯一の人間の基準とされる教育界、心理、精神医学界、そして社会一般に対して、それに抗しうる人間像は、以上の「倫理」として現れる人間像をつきつめるところからしか見えてゆかないような気がしている。」p186

村瀬学
 1949年京都生まれ  同志社大学文学部卒業、地方公務員
主な著書に『初期心的現象の世界』『理解のおくれの本質』『子ども体験』『新しいキルケゴール』
『「人間失格」の発見』『「銀河鉄道の夜」とは何か』(いずれも、大和書房)などがある。

 1949年 京都府生まれ
 1973年 同志社大学文学部卒業
 1975年 交野市立心身障害児通園施設(あすなろ園)勤務
 1992年 交野市立機能支援センター(子どもゆうゆう)勤務
 1993年 国際日本文化センター研究員
 1995年 同志社女子大学助教授
 現 在、 同志社女子大学教授 生活科学部人間生活学科 児童文化研究室


 「はじめに「人間」の定義があって、そういう「人間」の世話をしてきたのではなく、世話をすることによってはじめて生じる「内部」があったと理解すべきなのであろう。そこで生じる「内部」こそが「倫理」だったのだと私は思う」(村瀬学[1985→1991:184-185])
 *立岩真也『私的所有論』(第5章「線引問題という問題」扉)に引用
 「◆12 村瀬学は本章の冒頭に引用した本とは別の本で次のように言う。
 「…この両親にとっては、この子は「ゆり」と呼ぶことのなかにしか見出せない何者かなのである。「ゆり」と呼ぶこと以外ではけっして見えてこないものがある。
 そういうふうに言えば、そんな「ゆり」なんていう名前なんぞ、世間にはいっぱいあるじゃないか。人間にも植物にもつけられる名前が、何で一人の女の子の唯一の生を表し得るのか、という人もいるかもしれない。「品名」として見たらたしかにそうである。しかし「品名」だけをほじくってもわからないのである。
「品名」はあるときに「名前」として意識され、、そして「名前」は「姿(顔+身)」を呼びだすきっかけとして自覚されるときがくる。そのきっかけを作るのは「場所(位置)」なのである。
 『苦海浄土』には、「とかげ」のような手足を持つわが子に寄り添いつづける親の「場所(位置)」がある。その「場所」から呼ばれる「ゆり」という「名前」は、その場所からしか見えない「姿」をとらえていて、それは「無比の姿」として見出されているのである。
 つきつめると、「名前」というものには、個人的な命名行為というより、人間の姿(原型)を呼びだすための共同の行為としてあったものである、としか考えられない面がある。「人間の姿(原型)」を産む行為とでも言えばよいか。しかしそこには、その産む「場所」が問題であった。おそらく昔の人たちには、その場所を「共同の場所」として共有できる感性があったのではないかと思う。しかし、今日ではその場所は、一人一人の育ての親たちが個別的に意識する、個人的な場所になりつつあるように見える。が、私はそのようには単純には思うことはできない。「名前」をつけて「姿」を自覚する「場所」は、あくまで「共同の場所」でしか発生しない、そうとしか私には考えられないのである。というのも、「名前」をとおして感じとる「人間の姿(原型)」は、人間の共同体の活動のなかでしか自覚できないものだからである。」(村瀬[1995:35-36]、村瀬[1996:132-133]もほぼ同文。「自分の名付けたものは「大事」にする。この「名づけ」のもつ利己的な共生力について」書かれた文章である。『苦海浄土』は石牟礼道子の著書(石牟礼[1969]))」
 *立岩真也『私的所有論』第5章注12


*作成:川口 有美子(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP: 20040525 REV: 20150920
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