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『過去の声――18世紀日本の言説における言語の地位』

NAOKI SAKAI.1991 Voices of the past:the status of language in eighteenth-century Japanese discourse. Cornell University Press,349p.
=酒井 直樹 20020620 以文社,570p.


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■NAOKI SAKAI.1991 Voices of the past:the status of language in eighteenth-century Japanese discourse. Cornell University Press,349p.
酒井 直樹 20020620 訳:川田潤・齋藤一・末廣幹・野口良平・浜邦彦 『過去の声――18世紀日本の言説における言語の地位』,以文社,570p. ISBN-10:4753102211 ISBN-13:978-4753102211 \7140 〔amazon〕[kinokuniya]

■内容
内容紹介 国際的総合雑誌等の代表編者として、既に多くの読者をもつ行動する思想家ですが、本書はそれらの活動の基盤になる主著の翻訳です。一八世紀(徳川期)の日本の思想界では、中国思想(朱子学)への批判が始まり、漢意(からごころ)と和魂(やまとごころ)の対立に至る言語をめぐる爆発的な論争が起こります。この論争の過程を明晰に紹介することによって、今日においても哲学上の根本問題である「シュタイ」(主観・主体・主語・主題)の諸相を明かし、アイデンティティに関わるラジカルな問いを提出します。本書の刊行目的は、丸山真男氏の大著『日本政治思想史研究』を凄ぐ現代の展望を提起すること、国際化によって改めて関心を高めている「日本研究」が文化の閉域に陥らないこと、そして社会の面一化がもたらす言葉の不自由を解放することです。

内容(「BOOK」データベースより) 「私が話し、書く言語は、私に帰属するものではない」この意表をつく言葉で始まる本書は、18世紀日本(徳川期)の言説空間―漢学・国学・文学・歌論・歌学―における言語をめぐる熾烈な議論が、その果てになぜ日本語・日本人という起源への欲望を生み出したかを解き明かす。シュタイ(主観・主体・主語・主題)・言語・文化・歴史の不可分の関係を論じ、「日本思想史研究」を塗り替える、丸山真男以来の達成。

■目次
日本語版への序文
まえがき

序章 理論的準備
 言語にとって他なるもの
 言説空間とテクストの物質性
 非親和化をとおして「私たち」の閉鎖性に風穴をあけること
 本書を導く三つの関心
 言語の雑種性
 自己の脱中心化の論理

第T部 中心の沈黙――伊藤仁斎と間テクスト性の諸問題


第一章 言説編制様式における変化
 言説空間とテクスト性
 間テクスト性
 一つの出発
 「誠」と「偽」という観念
 「物」の地位
 自己の身体と不可視性

第二章 伊藤仁斎――身体としてのテクストとテクストとしての身体
 言説性批判
 超越主義と「近さ」
 言説における会話の出現
 発話主体と異質なもの
 主体性と人称・人格
 非選言的機能と選言的機能
 変化という問題

第三章 テクスト性と社会性――実践、外部性、発話行為における分裂の問題
 「情」とテクスト性
 社会的行為の倫理性
 徳の刻印的性質
 制度と外部性
 「愛」と「道」

第U部 枠づけ―意味作用の剰余と徳川期の文学


第四章 発話行為と非言語表現的テクスト
 文学的言説と新しい編制
 見ることと読むこと
 枠組みとその効果
 語り
 歴史性の不在
 テクストの表象と表象されるテクスト
 ある状況における場違いでないテクストと場違いなテクスト
 身体行為と言行為的状況

第五章 代補
 発話行為への偏執的な関心の欠如
 俳諧とテクストの開放性
 絵入り狂言本
 口述表現的な連続体の重層化
 声と身体との分離
 直接的な、もしくは間接的な話法
 他のテクストの共存
 生と死
 読みの行為
 直接的な行為、間接的な行為
 入れ子構造、枠設定とイデオロギー
 再現‐表象型とゲシュタルト型

第六章 異化とパロディ
 さまざまなジャンル、分類法
 書記素と多義性
 俳諧化あるいは二重の操作
 異化のパロディ
 複数の声
 視座あるいは射映
 テクストの物質性
 発話行為と身体
 知覚と自己の分裂

第V部 言語、身体、そして直接的なもの――音声表記と同一なるもののイデオロギー


第七章 翻訳の問題
 〈特定の〉言語にとっての外部
 和訓の問題性
 内部と外部
 発話行為における言語表現的なものと非言語表現的なものの相互依存関係
 会話の優先
 会話の線条性と和訓
 体験的な知と観想的な知
 受動性と能動性、読みと書き

第八章 表音表記と歴史
 空間および時間的ずれとしての再現‐表象
 古典の地位
 人間の身体と内部
 日本語の弁別的同定
 テクストへの想像的関係――表音表記とテクストの歴史性
 音声の先行性
 超越的価値の否定
 書記としての歴史的時間
 詩と理論の拮抗
 一つの言語のうちの異種混交
 統辞論――詞と辞
 テクストとその言行為的状況
 「情」と刹那性
 「誠」と沈黙

第九章 舞踏術の政治
 社会的現実のイデオロギー的構成
 統合の論理
 二つの記憶の形式、二つの歴史の意味
 主体を編む織機
 矛盾の場としての歌
 身体の書記
 舞踏術の政治
 死産される日本語・日本人
 言語の可能性としての死
 外部性

結論
 国民語と主体性
 言語における真正さ
 普遍主義と特殊主義
 日本語の復活/維新


事項索引
人名索引

■引用(※スラッシュは頁の変わり目)

P. 10
ある著者の「思想」を知ることや、あるいは特定学派の系譜を知ることに、私は興味をそそられていないからである。それとは逆に、私の関心はといえば、彼らがそれと知らぬうちにその探求対象を措定する可能性の条件となった、多種多様なテクストの形式と、それらを条件づけていた諸実践系の相互関係のほうに向けられている。私の関心がめざすものは、「言語とは何か」という問いそのものであり、この問いが喚起する諸問題にほかならないのである。
P. 19
私はこの本で、歴史の記述者であるような振りをすることをやめようと思う。ここで求められているのは、むしろ、ある種の現象学的還元が、私たちの言説空間の内部に必然的にもたらすような非親和化であると言うべきである。還元とは、自然視されているものについての諸々の前提を疑い、無効化する方法のことである。しかし、私が従おうとするタイプの還元は、テクストの、形相的指示内容や超越論的主観性への還元を含むものではない。かえって、それは主観性を言説に還元する決断である。本書の根本前提は、主観性の形式的な所在が、言説において構成されるというものである。すなわちここでは、言説は主観性に先立つのである。しかし、ここで、「サブジェクト」あるいは「サブジェクティヴィティ」という用語は、それらの多様かつ異質な用法間に織りあわされた複雑な側面を表現するにはいささか物足りない点を、私は認めざるをえない。言説には取り込むことのできるために、多くの矛盾と曖昧さを含みはするものの、「歴史的主体」という語句にまつわる不確実な事柄を明確にする助けとして、私は、「主語」「主観」「主題」「主体」など、技術的な語彙群を導入しようと思う。
P. 41
この間テクスト性という概念はテクストの対話論的構造をも解明するので、テクスト分析の際には異なる声のみならず異なる発話様式の複数性が考慮されるまでになっている。あるテクストは別のテクストを包摂するものとして了解されているわけだ。別のテクストを直接引用するということだけでなく、問題にしているテクストの間テクスト的なテクスト分析は、意味の生産がどれほど他者の音声的発話転写に依存しているかを明らかにする。こうした視点からクリステヴァは歴史的テクストを分析し、テクスト生産の歴史的固有性を定義すべく努めているのである。
P. 53
朱熹は理と気という二つの重要な用語については明瞭に異なるものとして語っている。同時にこの二語は、物への参入あるいは受肉という観点から見た場合、物の中に両者とも現存していると考えられている。さらに理が物に参入するということに関して言えば、理が物に先行するのかその逆なのかは決定不可能である。理は物のなかに必ず内在し、理の存在は物の存在に依存しているようにみえる。しかし、朱熹は、理がそこで顕現するところの物が存在する瞬間に先行してすでに理が存在していることを認めている。
P. 56
第一に、理/気の差異は言語記号の領域に限定されない。朱熹の言説においては言語的現象の領域と非言語的現象のそれとを区別する基準を見つけることは不可能である。フェルディナン・ド・ソシュールはこのシニフィエ/シニフィアンという組み合わせは、言語学以外のより広い分野の研究に組み込まれるべきであると示唆しているよ/うにもみえるが、彼がこれらの二概念に与えた基本的定義は言語学的なものであった。これとは対照的に、朱熹の言う差異化は実体的である。それは世界内の森羅万象に当てはまるという意味である。文字どおり「天地万物の理」である。理と気の差異化が実体的であるということは、われわれにとっては特に重要である。というのは、このことが朱熹の宇宙における言語の地位は、近代言語学におけるそれと根本的に異なっているということを暗示しているからである。この点、特に重要なおは、言語的なものと非言語的なものとの区別の欠如が、理とは物の意味のみならず習慣や態度の意味でもあることを暗示しているということである。朱熹は着飾ること、食べること、振る舞うことを「事物」として語っている。物が理にとっての場所であるとうに、事物は理を包含する。そして事物のなかに受肉した理は「道」と呼ばれる。理はたんに形態論的に定義された基本的統一体としての意味であるばかりでなく、統辞的に構成された意味論的統一体である。だから言語、物、そしてテクストがいかに相互に関係し、時には混在しているのか、そして朱熹の議論んおなかでそれぞれがいかに相互に弁別されているか(あるいは弁別されていないか)を説明するためには、私は理と気という概念を意味作用の問題との関連において検討しなければならないだろう。
P. 66
しかし、この言説においては、読みが文書から本来的に意味を引き出す手段と関係する場合には、問題を孕む可能性がある。彼の議論では、読みとは世界一般を理解する支配的様式である以上、一冊の本から意味を引き出すことも、意味が広がって、世界を解釈することと同じになってしまう。先ほど引用した箇所において朱熹が想定しているのは、本と読む主体との間に存在する関係がどんなものであろうと、本来的な意味は本自体に内在しているということである。言い換えれば、読むという行為は完全に受動的であり、読む主体の個物性が意味に影響を与えることは不可能なのである。図式Aにおいては理と物は融合するような構造になっているが、すでに確認したように、朱熹の言説ではテクスト的物質性と同等のものはしばしばテクストの意味の本質直観的存在に置換されてしまっている。まさにこれこそ、朱熹の言説で、書記とテクスト一般が把握される様式なのである。こうして、テクストの物質性とテクストの意味(理)の本質直観的存在との差異は意図的に抑圧される。結果として、書記、特に儒教の/古典は、歴史的時間のみならず読者という経験的主体性をも超越すると想定されることになるのである。同様に、書物の本来的な意味は常に既にその書物のなかに安置されていることになる。それは果実の中にその味が潜んでいるのと同じである。書物の本来的な意味は、書物の物質的現前のなかに常に既に存在しているというわけである。
P. 74
朱熹の議論において、こうして認識論と倫理が統合される。行為は究極的には知識に還元され、当為規定(プレスクリプション)は事実記述(ディスクリプション)へと還元されるというわけだ。私は何を為すべきかという問いは、最後には、私は真理を知っているか、という問いに還元される。理の探究と誠の維持は代補的な関係にある。というのも、身も心の支配へ従属させることと、個物の単独性を一般者のもとに包摂させることは、最終的には同義だと考えられているからである。ということは、この言説空間には、単独性としての個物を容れる余地はまったくないのである。自己の身体は最終的には心の所有物になり、心に相応したものとなる。つまり、心に相応した、個物性を奪われた、たんなる特殊性にな/るのである。われわれ自身の身体を含めたこの世界に存在する無数の物の多様性は、それらが心に現前するものとして捉えられるや否や、あらかじめ与えられた理の秩序に順応することが、初めから定められたものとなってしまう。ということは、その本質において物を認識するとは、偶然性あるいは無責任、すなわち「妄」によって表わされるような異質性を排除し、心に現前する物と現実に存在する物が本来的に同一であることを呈呈させるわれわれの能力に、その根拠があるということになる。しかし、理はあらかじめ物に内在していると考えられているので、普遍的諸範疇に相応したかたちで物の表象を心はいかにして構成することができるのか、という問いは呈示されることはない。むしろ、朱熹は、理は事実上物のなか、宇宙のなかに存在するので、心はその究極的に明晰さにおいて、人の身体という限られた範囲において、全宇宙に存在する理を反映するのだ、と言い張るだろう。物と人の身体とが存在論的なつながりとして存在する以上、誠は、物における理と身の行為における理との原初的な連続性を保証することになる。こうして、誠という媒介によって格物を司る思考法則と人間の所作を統制しなければならない実践法則とが、理という一観念のなかで統合されるのだ。誠において、宇宙論と倫理の区別は溶解する。誠において、事実記述的なものと当為規定的なものの乖離は補填されると信じられているのである。
P. 83
敬は、第一義的には、語り手と聞き手の主体の社会的立場、あるいはこの場合は身分、に関係する規則によって決定される徳である。これらの規則は出会いの単独性や、抽象化を逃れるもの――人が個人や個別の出来事に対処する現実状況の個別性――を超越する。対照的に、誠は行為の実働化に、ある具体的状況において出会った個人との応対のなかでに行為の実行に人を導くだろう。伊藤は、同情の可能性が存在するのは、状況の個別性とは無関係に存在する形式主義にその妥当性の根拠を求める理のような原理とは別のところにある、と主張しているが、そこで注視されているのは、原理の形式主義が行為に関わる個人を、個別性を剥奪された交換可能な個人一般として扱う、という点であろう。当事者たちの主体的立場が相互に明確に定義されているかぎり、敬はあらゆる間人格的相互行為に適用できるという意味で、恩師、父、将軍、社長としてのあの人に、つまり一群の社会規範によって決定された身分的同一性をもつ主体的立場としてのあの人に、方向づける。また敬は、恩師であり、父であり、将軍であるという理由で私はあの人を敬わなければならないと命令する――つまり、あの人が僧侶あるいは医師という社会的立場をもつから、私はあの人に敬を尽くさねばならないのである。他方、誠は特定の他者と社会関係において自分が占める社会的立場に対応する一般原理を提出しない。それは、対面する他者の一人ひとりが一般化することができない個物だからである。それゆえ、社会的なものへの根源的な配慮、つまり、私が出会うかもしれない他人はみな究極的には非対称的な他者なので、そのような個物的なものを主体的立場に完全に還元するのは不可能であるということへの根源的な意識が欠如しているとき、敬を司る人が順応すべく努める一群の超越的一般規則と考えられているかぎりの良心は、偽の一形式として考えられるべきであろう。
P. 92
第二に、この情の定義によって、異質なものが言説経済=配分を破壊するのを防止する言説の働きが明らかになっている。宋理学者による敬概念は情が本質的に馴到可能であると密かに想定している。情は規則的なものにとって異質な契機を必然的に包含することを認知しているにも拘わらず、いやむしろ認知しているため、宋理学者にとって絶対必要だったのは、情が最終的に所与の言説の経済=配分に順応する運命にあるという、説得力に富んだ議論を見出すことであった。もちろん、孟子の性善説はこの目的を叶えるように解釈されていた。これとは対照的に、伊藤はこの経済=配分とは無関係に情は生じると明言しているのである。彼は情が敬に順応することを保証するものは根本的にはないと主張している。情がその自発性を剥奪され結果的に馴致されるためには、心において対象化される必要があるが、伊藤は情をまさに対象化されうるものの外として、つまり思慮可能なものの外部として定義しているのである。彼にとって(大文字の)他者の現出は「情という出来事」として起こるのだ。それは認識上の出来事ではないのである。
P. 94
異質なものの開示を可能にし下説の限界を示すものは、新たな言説序列化の導入。すなわち「発話行為」である。
P. 97
覚えておかなければならないのは、人は言語によって/おいて自己措定するということである。パンヴェニストが主張するように、言語のみが自我という概念を発することができる。彼は「「我」とは彼が「我」と言うところの者だ(Est ego qui dit ego)」と言っている。さらにパンヴェニストによれば、「私」と言うところによって個人は他者との相互依存的関係に参入するが、原則としてこの他者は誰でもかまわない。ヘーゲルが例証したように、このように指名された「私」とは常に矛盾の場であり、この矛盾こそ「私」を措定し「私」の実定性を可能にするのである。それは、想像力において指示された「私」は、メッセージを聞き、受け取る受信者に対して他者であるばかりでなく、指名あるいは指示する者である個人にとっても他者だからである。「私」ということばが何らかの意味をもつのは「他者」と対立関係にあるのみなので、この「私」は事実上「他者」によって可能になっていると考えるべきであろう。「私」と言うとk、すでに人は「他者」の領域に転位しているのであり、発話行為において措定された主体性は原「自我」との無媒介的関係を喪失しているのである。
P. 100
ほとんどの場合、言語を言語行為に帰属させることは一つの主体を想像することによって可能になるように思われる。われわれはすでに発話行為における、語る主体の分裂を確認した。されにわれわれは「私」という言葉(主語)のなかに登録され、かつそれによって意味されている匿名の「私」の反対にあるものは、現実に発話を遂行する特定の「私」であるという周知の命題に注目する必要がある。被発話態の主体の外部に現われるこの特定の「私」こそが再現‐表象されなければならに「私」なのだ。発話行為の主体であるこの「私」が再現‐表象されな/ければならないという限定条件は、発話行為の主体の存在可能性にとってたんに付帯的な事態なのではない。ジャック・ラカンやその他の人びとが示したように、発話行為の主体は再現‐表象されることを予想した主体としてのみ存在可能である。言い換えれば、被発話態の主体は主題的に措定され再現‐表象される必要がある。主題的に再現‐表象されるかぎり、ある特定の言語内で、どのような種類の統辞論的機能において発話行為の主体が表示されるかは、二次的な問題である。これは発話行為の主体は、誰かに対して再現‐表象されなければならないということである。発話行為の主体と被発話態の主体との間には亀裂が必ずなければならないということだけではなく、発話行為の主体は発話行為の主体が再現‐表象されるところの誰かから分離していることが絶対に必要なのだ。発話行為の主体が再現‐表象されることを予想しているということは、その主体は上述した分離を伴って初めて存在可能であり、あえてラカンの鏡像段階論に言及するまでもなく、鏡の例で示されるような再現‐表象構造を伴っている。
P. 139
「仁・義・礼・智」という文字はある概念を示しているが、ある超越的な本体としての「仁」や「義」があり、その本体に対する符票として文字『仁』と『義』が存在しているわけではない。これらの用語の適用性が、実際には、文字の専制から逃れ、言行為的状況で発話行為に影響を与える特定的で個別の状況に支えられているため、暫定的にそのようなものとして決定される。しかしながら、発話行為から被発話態への通路が因果関係――あるいは、もちろん、表現的因果律でもよいが――で了解するわけにはゆかないように、言行為的状況は被発話態の構成に影響を与える点で、言説に対して異質である点を忘れるわけにはゆかない。というのも、発話行為の完成、つまり、意味作用の形成は、必然的に言行為的状況を排除するからだ。言行為的状況から切り離され、言行為的状況から独立させられるかぎりにおいてのみ、文字は独立した概念としての資格を獲得し、「すでに発話されてしまったもの」としての被発話態が存在する。被発話態は発話行為の後に来ると言うことができる一方で、その逆の方向に、被発話態から発話行為へと遡及的に起源をたどることは不可能であ/る。それゆえ、すでに説明したように、発話行為の身体としてのシュタイとは復元不可能な仕方で逃走するもののことであり、それは被発話態において欠如としてしか存在しないのである。そして、身体ではない発話行為の主体は、常にこの欠如を代補する想像上のものとして形成されるのだ。
P. 144
明らかにここで問題なのは、「心」に対する社会性の外部性である。「徳」の実現は、「徳」が「心」に現前することとは決定的に異質でなければならない。「心」の内面、考えること、知ることの外部として成立して初めて、「徳」は社会性を得ることができるのだ。さらに、伊藤が主張するには、「心」の外部に置かれていなければ、たんにそれを「徳」と名づけることさえできない。「徳」が基本的に社会的であるということは、「徳」を「痕跡」としてしか考えられないということである。まさに意図と結果の間に断絶があるために、社会的行為は社会性を達成する、つまり「徳」となるのだ。もちろん、社会的行為の結果としての「徳」はよい「性」とかよい意図の潜在性の外化あるいは現実化などではない。このような「徳」の考え方における本質的な契機とは社会的行為の現実的遂行であり、その結果、たんに意図された行為、夢想された行為は「徳」とはまったく関係がなくなるのである。よって、「徳」は「反求」や「黙識」を通じて達成されることはありえない。というのも、このような理学者の戦略は、社会的行為の社会性でとりわけ重要な、不連続の契機をまさに欠いているからである。
P. 148
すでに述べたように、朱熹にとって社会性とは、明鏡止水のようなコミュニケーションの透明性を保証するため、物質性によって作り出される余剰、偶発性、塵を排除するかぎりにおいてのみ思考可能であった。彼は、基本的な普遍的規則が形成されると同時に、普遍的規則に基づいてそこで同意が形成されるような理想的な共同体を前提している。少なくとも、論理的には、普遍的規則が形成さえることと理想的な共同体がそれに合意することとは同時に成立することになる。間主観性における主観同士の互換性、そのような間主観的な互換性を保証する超越的な視点、そして、原初的同意がそれに基づいて形成される普遍的規則は、互いに一連の同語反復として繋がっている。そして、理学者たちがそのような全体性が想像できるかぎり、この理想定共同体は宇宙の全体性と一致すると主張したことは言うまでもない。
P. 150
疑いもなく、伊藤の倫理学の核心は、宋理学が恐れ隠蔽しようとしたもののなかにあり、そのなかでこそ伊藤の議論の核心に私たちは直面させられることになるのである。人はまさに意図した倫理的行為の結果をあらかじめ保証されていないから倫理的になりうるのである。意図と結果の間に断絶があるからこそ、倫理は可能となる。確かにこの非連続性は、考えることと為すことの間の奈落あるいは深淵と一致する。為すことには物質性(身体や状況などの)が伴うため、必然的に事物に変容を生じさせる。逆に、身体を含めた物質変容が含まれていなければ、それを為すこととは呼べず、その結果、行為とは呼べないのである。
そして、他者の心が他者の身体の内側に位置づけられるために私たちは他者の心を知ることができないのではなく、他者を知ることは、常に他者に対する行為を含み、他者に働きかける行為を必要としているため、完全に他者を知ることはありえないのだ。この意味では、「あなた」と「私」を分ける、埋めることのできない間隔、あるいは間隙化は、発話行為の主体としての「私」を発話行為の身体あるいはシュタイから切り離す、発話行為に存在する裂け目と同種のものなのである。
P. 157
すべての社会的行為が、それぞれ独自の慣習や文化編成をもち、慣習や文化編成に巻き込まれている個人間で起こることは言うまでもない。つまり、社会的行為は一般的テクストに刻印された特定の範囲のなかでしか起こらないのだ。この点では、各個人は文化的・歴史的に限定されている。しかしこれは別に、これらの文化的。歴史的限定がすっかり対象化され、意識されているということではない。人が属する慣習のすべてを列挙することは論理的に不可能である。それは数え上げるには多すぎるからではなく、ある一つの慣習を対象化するためには、必然的に別の慣習の対象化を抑圧するからである。例えば、いわゆる文化的差異の認識は、暗黙のうちにある言語ゲームが共有されるときに初めて可能となる。共役不可能性の認識は、共通の言語ゲーム(これについてはのちほど詳しく論じるが)が共有されていないかぎり、生じることはない。つまり、共役不可能性の認識は社会性のなかでしか起こりえない。それゆえ、人は複数の言語ゲームのなかで行為し、発話行為の身体はこの複数の言語ゲームを跨ぐレヴェルで機能するのだ。このため、言語ゲームの無限性が発話行為の身体に内在し、その身体はまさにクロード・レヴィ=ストロースが「ブリコラージュ」と呼ぶものである。限られた目的や手段によって定義された一連の合理性の規則に、その身体が収まることはない。身体は常に物質性の創造的な使用を含んでいる。それゆえ、発話行為の身体は常に社会性の詩的(ポエティック)な性格とともに、制作的(ポイエティック)な性格を具えているのだ。伊藤仁斎の詩学を発見するために、その著作に――確かにいくつか詩はあるが――わざわざ詩を探す必要のないのはこのためである。
P. 158
このようにして伊藤の「社会」――この言葉を用いるのはためらわれるのだが――という概念にたどりついた。/のちに論じるように、彼の社会は荻生徂徠の考え方ときわだった対照をみせる。伊藤の社会は、一連の共有の文化制度によって定義された全体性(荻生の「内部性」)によっても、あるいは「心」が表象しうる宇宙全体(理学者の宇宙)によても、想定することができない、閉じられていない天の下の世界を指している。
P. 167
多くの歴史的な芸術作品が証明しているように、視覚表現的要素を含む文学と造形芸術のジャンルは、一七・一八世紀に突如として出現したわけではない。書記の導入以来、日本群島における代々の政体によって、言語表現的テクストを視覚表現的要素と結びつけるさまざまな表現形式が採用されてきた(ジャック・デリダにより提唱されている意味でこの「書記」という用語を厳密に理解するならば、「日本文化」には、便宜的に/「書記体系」と呼ばれるものが導入される以前から、資格行元的テクストと言語表現的テクストの相互依存関係があったことになる。さらに、「書記」の日本群島への導入という発想そのものが幻想的なものであることも、ここで確認しておこう。「書記のない文化」などというものが考えられないからである)。のちに、音声的な書記体系である仮名文字によって、人びとはテクストを口頭・聴覚性に還元する装置を案出しようとした。日本では、表現形式における異質性が顕著であったが、視覚表現的テクストと言語表現的テクストの間テクスト性の問題は、もちろん、日本に限られたことではない。そのような問題は多くの文化や時代に見つけられるが、ここで解釈しようとしているのは、例えば、映像を口頭性などの他の形式のテクストに変形する特殊な様式である。
P. 170
一七世紀初期、徳川幕府がその支配を確立し、多くの政治制度が変化するにつれて、文学作品がますます出版されるようになった。仮名草紙は当時の出版文化のなかでもっとも人気のあるジャンルのひとつであった。仮名草紙では視覚表現的テクストと言語表現的テクストが共存している。このジャンルに分類されるすべての作品が絵画的な挿し絵を含んでいたわけではないが、挿し絵を具えたものが、一八世紀の同様の文学作品ときわめて異な/っていることには注目すべきだろう。
仮名草紙はおもにその語りの様式において他の一八世紀の文学作品と違っている。「語り」と呼ばれるこの特徴に関して非常に多くの研究がなされてきた。しかし大部分の研究がその「語り」の系譜をつくりあげ、影響を辿ることに終始し、物語論的分析をなおざりにしてきたため、一七世紀においてこの種の文学の生産が始められ、維持された条件を同定する方法は明らかになっていない。
P. 171
第一に、視点の区別の欠如が、仮名草紙に支配的な語りの様式の定義として挙げられるべきだろう。仮名草紙物語は、語り手の視点が他の視点から曖昧にしか区別されない。一枚岩的な表象空間を提示している。語りのなかにさまざまな声の相互作用を認めることはできるが、存在するはずの多様性や差異は、表象空間の内部にも外部にも存在しない匿名の話者の声に同一化され、統合されている。しかしながら、これは、ミハエル・バフチンが単声的な小説と呼んだ語りの形式の声に同一化され、統合されている。ヨーロッパの一九世紀小節とは違って、仮名草紙では、支配的な声は、描かれている事柄や事件に絶対的な権威を行使する一つの視点や超越的な主体に収斂しないのである。というのも、権威ある主体の声が存在するためには、作者による他者の支配がなくてはならないからである。しかしなが/ら、仮名草紙では、単声的な支配を構築するために必要な作者の声と登場人物の声の、この根本的な区別そのものが不在なのだ。
P. 174
この点で、いわゆる日常会話とか話し言葉と呼ばれるものが、どのような社会においても存在する自然で所与の事柄ではない、ことに留意するのは重要である。日常会話とか話し言葉は、他の制度と同様に一連の条件により同定される。話し言葉と書き言葉の区別は、歴史・文化的に特定の形態なのだ。日常会話が原初的なもので、書記がその二次的な派生物であるという今日ですら幅広く通用している神話は、根の深い帝国主義の一端であり、そこからの排除は、明らかに、一八世紀における日常会話の取り込み以上に不自然なことであるわけではない。日常会話の排除と包摂はひとしく言説の制度化の産物であり、それゆえに、ひとしくイデオロギー的である。
このような観点からすると、「近さ」の領域、つまり、日常、卑俗、低俗な生活空間がそれ自身では定位されえ/ないことは明らかであろう。あらゆる直接的な体験、無媒介的な現実、そして「現実」感は、言説によって媒介されているのだ。すべての「無媒介性」が、実際には、媒介的な形式なのだ。換言するなら、一八世紀の日本群島人は、一七世紀の人びとが無媒介的だとは認識しなかった形式を、無媒介的で自然なものと考えるようになったのだ。どのようにして無媒介性の形式が言説のなかに構築され、それらを無媒介的であるとみなすためには、どんな障害を乗り越えなくてはならなかったかを問わなければならないだろう。
P. 176
日本の学問研究が説話文学を口承伝達と呼ぶものの意義は、ここにある。口承伝達は、コミュニケーションやメッセージの伝達という概念においてかけがえのない意味をもつ、ある距離を消滅させるのである。そこにあるものは、作者による発話の起源的行為と、他の共同体の一員によるその行為の反復との違いが共同体によって無視され、その違いが消去され、無意味なものとされ、共有の伝統が肯定され、称揚される言語表現的行為なのである。その口承性は伝達の物理的形式、すなあち、話されるか書かれるかとは関係がない。口承性は「彼ら」と「私たち」、過去と現在、送り手と受け手の隔たりを消し去るのだ。
P. 182
原テクストで示されるすべてのものを、従属するテクストに移し換えることはできない。別の表象形式に翻訳不可能な部分が常に存在するだろう(翻訳、転写、移転といったすべての比喩的な用語は、あるテクストの表面から別のものへ移行するなんらかの種類の存在があることを示唆しているが、それは特定の物理的(p. 182)/形式から独立しているとされる。そのような幽霊のようなものを真剣に論じることができるのだろうか。このことが移転・翻訳の問題と密接に関わっていることは言うまでもないだろう)。しかし、二つの異なるテクストを結ぶこの種の関係は、あるテクストを別のテクストに置き換えうることを前提しているだけでなく、二つのテクストが関係づけられることによって、どちらにも属さない意味作用の剰余が生じることなく、それぞれのテクストに固有の独立した意味、あるいは意味作用があることを前提にしているのである。この間テクスト性の様式を特徴付けているのは、第一に、二つのテクストの相対的な自律性、第二に、二つのテクストの分離である。間接的にそれらに生命を吹き込み、歪めてしまう外部あるいは地平などなしにテクストは出現する。口述表現的テクストと視覚表現的テクストの組み合わせは、どちらか一方のテクストが単独で示すものに還元することのできない統合的な全体を作り出すことはない。二つのテクストの対応関係は、隣接して置かれ、教諭する物語の線条性によって調和させられていれも、徹頭徹尾、分離したままである。(p. 184)
P. 186
発話行為を通じてのみ、テクストは状況と結びつけられるのに対し、テクストを被発話態と考えることは、テクストが反復可能で固定可能な、すなわち、状況から独立していると主張することになる
P. 188
意味作用の過程はあたかも、意図から発話へ、そして被発話態に至る、一連の進展する段階を次々と踏んでゆく過程として了解できるようにみえる。発話行為への段階では、話者は彼あるいは彼女自身の発話行為に現前していることになる。しかし、同時に、発話行為/を「シュタイ」あるいは「発話行為の身体」と、発話行為の主語あるいは主題が回復不可能なまでに分離した副次‐周辺的(パレルゴナル)な裂け目の現出、と解釈することもできる。発話行為とは、枠組みを設定し、分離し、区分することでもある。それゆえ、発話行為によって実働化され定立された意味を、区分あるいは枠組みが設置される以前の段階まで辿ることはできない。というのも、意味とは、枠組みによって、枠組みを条件として生産されるものであるのだから。しかし、私たちがもつ常識的な発話行為の理解では、被発話態の意味と同じとされる話者の意図の存在が過程されているのが普通である。意味の副次‐周辺的生成の観点からすれば、意味は発話行為の後に来るものである。一方で、段階過程的な観点からすれば、意味は発話行為の前にあることになる。では、このような逆説はどうして可能なのだろうか。発話の同一性の源としての被発話態における意味は、発話行為に先んずるものとして、つまり発話行為の前にすでに存在しているものとして、生産されなければならないのである。言うまでもなくここでの問題は、本書で(大文字の)他者として示してきたものとは異なり、むしろ、例えばラカン的な(大文字の)他者によって問題化された、原初的反復に関わる問題である。こうした問題が扱わなければならないのは、社会制度の客観性が発話行為における主体の分裂を想定していることを明らかにしているからだ、と言ってよいであろう。「私が言ったこと」から「私」が引き離され、分離されないかぎり、「私」は社会的に責任のある(応答可能な)やり方で他者と結びつくことができないのである。それゆえ、「意味作用の過程」とは、意図から被発話態への進展の過程を意味するのではなく、発話行為の身体であるシュタイが退去し、副次‐周辺的な裂け目が作り出される過程を意味しているのだ。
P. 190
「状況」という用語が、現代の物理学で考えられている匿名で空白の空間ではなく、行為が生起する場を示すことに留意しておこう。行為の遂行者を参照しなければ、「状況」という用語はたんなる空間と同じである。つまり「状況」とは、行為の行為者が行為する空間なのである。この点からすると、この用語の劇作的な含みを否定できない。「状況」とは、行為(=演技)の行為者、すなわち人の身体をその一部として含んだ、ある総体のことである。行為者(=演技者)の身体(物体)は、所与の空間に生命を与え、それによってその空間を状況に変化させる。彼らの身体はある容積を占め、その空間に存在する他の物理的な対象物と共存する。しかし、行為者の身体はたんにその空間のなかに並存する対象物ではなく、環境を自分たちの行為の軸に沿って方向づける特権的な存在なのだ。匿名で中性的であった物理的空間に人間の身体は方位を感覚‐方向性を導入するのである。さらに、これらの特権的な物体は、発話を生み出し、おたがいに言葉を交わすことができる。人の身体を通じて言語は状況と結びつけられるのである。
この文脈では、なによりもまず、身体的な行動としてしか発話は特定の時間と場所で起こる事件とみなされることがない、ことを強調しておかねばなるまい。ある状況における事件として理解されるとき、言語表現的テクストは、それゆえ、同時に身ぶりのテクストでもあるのだ。しかし、身体的な動きとして理解されるテクストは、行為者の身体以外の対象物とも関係してしまう。
P. 195
演劇的行為が一八世紀の言説空間の中心的な位置を占めることになるのは、この文脈においてである。演劇的実践が最も複雑なテクスト形式の一つであることは間違いない。演劇的実践は、同時に、視覚表現でもあり、言語表現でもあり、身振りによる表現でもある。演劇的行為には空間的表現形式と時間的表現様式の双方が含まれている。/時間的に展開すると同時に、演劇的実践は場面にある「事物」だけでなく、一つ以上の行為の同時的な発生も含むことができる。演劇的実践では、単一の語り手の声と線条的な表現に関する問題が非常に複雑な様相を示さざるをえない。というのも、異質な要素が、所与の状況の意味生成装置に統合されるからだ。状況はさまざまなテクスト形式の統合と分離の可能性と複数の会話の可能性を受容するだろう。理論的には一人以上の演技者が同時に喋ることもありうるし、もちろん、演劇の上演では多くの声が併存することになる。この種の多様性は「語り」の線条的な物語形式では不可能だった。説話では多くの語り手がいるにしても、語りの声は統一され、その結果、単一の声となる。演劇表現においては、声の複数性は空間的な観点へと変換され、そこで発話の複数性は舞台上の異なる地点へと配分され、それらの場所で複数の演技者の身体と結びつけられる。独白(モノローグ)と対話(ダイアローグ)を区別するのは、このようなテクストへの空間化の導入の仕方である。対話とは、異なる位置から声が発せられるテクスト形式であり、その位置を決定する要素こそ人間の身体なのだ。
P. 200
「語り」は、多様な声によって断片化され散種されたはずの物語を一つに縫い合わせる連続的で、包括的な声を投射する。それでもなお、この独和論的な声は、ミハエル・バフチンが声の単一性を話し手である「私」の単一性と同定することによって公準として立てた声とは同じではない。「語り」はもちろん物語の一形式であるが、特定の話し手をもたない。この文脈において、一七世紀後半以前の言説空間には対話の審級自体が組み込まれていなかった、ということを再び思い出しておくべきだろう。すなわち、発話行為自体を分節化するような言説編成が不在であったのだ。一般的に「語り」は語る声であることは確かなのだが、「語り」が語っているのは、発話行為と被発話態との明確な分離が完全には確立されていない様式を通じてのみである。被発話態では、個々の行為者や歴史的な重要性を帯びた場所や年表における日付は確かに分節化され、固定化されてはいる。しかしこれらの事項は特定のテクストの内部で構成されるにすぎない。しかしながら、発話行為の主体や場所や空間――これらの事項はテクストという産物よりもテクストの生産に特に関係したものである――は主題的な問題化の範囲の外にある。一七世紀/以前のさまざまな言説では、発話行為の主体や、発話行為に関するその他の問題は、分節化されていなかったのである。それならば、このような状況に応じて、「語り」において誰が語っているのかという問いを発することは無意味であったと言えるだろう。
P. 204
また別の絵入りの狂言本である『福寿海』において、近松門左衛門は作者という肩書きをもつ訳者として登場している(近松は作品の巻頭の役者表のなかでは作者の肩書きをもってその名前が挙げられている)。しかし、匿名の人物に属する作者の声が、引用された登場人物の台詞の間に置かれていることに私たちはほとんど気づくことはな/いだろう。役者たちの発話は、口述表現的な連続体の統一性を多様化し、断片化するものだが、ここでは声に出して語りうるような語り手の呈示とはまったく違った描写的語りによって連続体の統一性はまとめられている。この描写的語りは機械的で機能的であり、引用された台詞を線条に連関させるために必要な最小限度の情報を控えめに述べるにすぎない。時に、この語りは述語や動詞の屈折語尾を欠いているために、線条に発話することもできなくなる。したがって、口述表現的な連続体は二種類に区分できるだろう。発話できる台詞を転写したものと、場面を描写したものであるが、後者は発話可能性とは無縁である。それゆえに、ここで私が関心を抱いているのは、口頭言語化と非口頭言語化の区分である。確かにこの区分は、特にこの言説空間に特有の発話と書記との二項対立と無関係でないばかりか、引用された台詞と描写的語りとの差異化は、また両者の時間的差異とも関係しているのである。
P. 211
これまで頻繁に言及されてきたように、徳川期日本に隆盛を極めていた現遂行的な芸術}(=舞台芸術)のさまざまなジャンルは、呈示に関して独特の、少なくとも現在では馴染みのない混合形式を採用していたように思われる。日本の学者たちはこうした芸術の一つである人形浄瑠璃の起源を一六世紀中期にまで遡っているが、商業的な成功の全盛を極めたのは一八世紀前半であった。この芸術形式は台詞の詠唱と音楽、さらに人形の動作の整合的な組み合わせの上に成り立っている。非口述表現的テクストを含むこれら複数のテクストが、演劇的実践のテクストの内部で共存しているという特徴は、けっして徳川期の日本の上演的な芸術(=舞台芸術)にのみ特有のものではないが、人形浄瑠璃や歌舞伎などにおいてさまざまなテクストが間テクスト的に整合化されているこの事情を、われわれが通常「劇場芸術」として理解している規定の範囲内で理解するのは難しいだろう。ロラン・バルトは日本の人形浄瑠璃についての卓越した論文で、またノエル・バーチは、似たようなテーマについてのさらに広範囲にわたる研究において、それぞれ日本の演劇や映画のこのような特徴に言及しているが、バーチはそれを「人間中心主義やそのほかのあらゆる中心主義の拒絶」として同定している。このような認識は、彼らが記述している中心主義を近代の主観中心主義によって理解するかぎりにおいて、確かに道理にかなっている。しかし、他の中心主義に関する他の可能性はありえないのだろうか。興味深いことに、バルトもバーチもさまざまな口述表現的テクストや被口述表現的テクストが総合されることによって、いかに演劇術的遂行に貢献しているかについて指摘している。重要なことは、語りの声の発話の主体は、舞台における虚構の位置(人形浄瑠璃では人形の身体)からは分離されている点である。しかし、われわれは声の出所が俳優の身体に一致しているように思われる能においてさえ、発話の主体の位置と声の間/に絶えず断絶や転移が起こっていることを想起しておくべきであろう。言葉で表現される悲しみは俳優の身体の運動からはしばしば独立して、感情や言葉やしぐさの表現は滅多に共時化されることはない。もし登場人物の言葉を内的な感情の表出として聞くことを期待するならば、ほぼ確実に失望するだろう。というのも、言葉は、登場人物の外観と彼あるいは彼女の感情との間を媒介したりしないからである。あたかもこのように記述された悲しみは、登場人物の内面の奥ではなく、むしろ言語そのもののなかに存在するかのようなのだ。
P. 221
ここでは、ロラン・バルトが注意を促したように、人形浄瑠璃の(大文字の)テクストでは、発話行為の主体と被発話態の主体とはけっして一致しないことを必ず記憶しておかなければならない。語りはただ詠唱者だけによって行われる。つまり詠唱者は声を独占するのである。人形は結局のところ近松門左衛門が木偶と呼んだものにすぎず、いわば舞台上で行動する身体そのものはけっして語らないのである。登場人物の声を直接役者の実際の発話に帰することはできない。この基本的な制約のために、人形浄瑠璃の(大文字の)テクストは発話行為と被発話態との修復不可能なズレを明らかにしめすことによって、ヒューマニズムのイデオロギー的な「枠づけ」を暴露するのである。被発話態の主体は究極的には発話行為の主体と一致するように思われるようになり、主体の内面性の神話が生まれるのは、この枠づけによってであるのだから。
しかし、それだからといって、日常会話とメロディを伴った詠唱との対比が、引用された台詞と描写的語りとの重層化に直ちに呼応することにはならない。登場人物は必ずしも普通の声で話すとはかぎらない。実際に、時折り登場人物の発話は劇的強調の水準にまで達し、日常会話は儀礼化され、形式化された語りと混じり合う。このようなときには、登場人物はあたかも歌っているかのように話し、会話をしているかのように歌う。このような語りの様式は徳川期の日本の遂行‐演技的な芸術(=舞台芸術)にのみ特有のものではもちろんない。他の社会でもこれに相当する例、例えばヨーロッパのオペラのようなものを容易に挙げることができるだろう。しかし、詠唱する声/の源泉が身振りの行為の位置から乖離していることによって、人形浄瑠璃の(大文字の)テクストが生み出す意味作用の過程の新たな表現は、明らかに一八世紀の言説に特有のものである。人形浄瑠璃は、無名の形式化された発話から個別化された直接的な発話に至るまで、多くの水準の朗読活動が生まれることを可能にし、それぞれに特有の情緒的感情的特徴を表わすことが可能になるのである。
P. 237
このように、言説は、時間と空間との間の根源的な差異を包含し始める。この差異は最終的には差延にほかならない。いかなるテクストも完全に時間的にも、完全に空間的にもなりえない。この差延の経済=配分によって口述表現的な連続体を分節化することを通じて、言説はゲシュタルトを取り込むことになり、このゲシュタルトのおかげで、語りの連続体は、図と地に分けられるようになる。後で論じるように、この差延の様式は、一八世紀の文学/生産を支配することになるだろう。そして、たとえ文学テクストが劇場における行為‐演技に関するものではなくても、この表現の様式には忠実であったように思われる。一八世紀の言説空間における書くことと読むことの対比構造は、実に、この差延にもとづいて組織されていたのである。この構造を通じて、読みの行為は、書記を図と地からなる図式に挿入し、図と地との間に可能な関係の一つとして相互依存を見出す。第一に、書記は一定の地と相互に関連しているとみなされ、書記の意味作用が図と同一視される。書記は被発話態としてみなされるさいには地面に差し戻すのだが、その起源の場面では、図と地とが身体的な行為において統合されていることになっている。このように、一八世紀には、読みの問題は次の仕方で措定された。読書行為は、どのように、ある種の前述語的経験/(改ページにあらず)前言語表現的経験か、あるいは身体的な認識か、このどちらかと同一視しうるようになるのか、と。
P.239
身体的行為を、リズムやメロディや他の音楽的特徴によって飾られた、口述表現的な発話と統合されるように変容することは可能である。人が歌うときには、身体は通常歌のリズムに合わせて揺れたり動いたりする。身体の運動は、伴奏が流れていないときには、「自然な」ものであったり「自発的な」ものかもしれないが、伴奏と共時化されるとこの身体的行為はもはやそのようにみなすことができなくなる、舞踏は第一義的に身体的な運動であるが、そこでは口述表現的な発話(歌われたのだとして)と身体的な運動と音楽は共時化され、同調され、亀裂が身体的運動と口述表現的なテクストとの間に噴出することが抑えられる。亀裂が噴出しないにもかかわらず、しかし、行為‐演技は自然であるとも自発的であるともみなすことができない。というのも、行為‐演技は規則化され、形式化され、儀式化されているからだ。このように考えてくると、なぜ間接的な行為‐演技を論ずることができるのかがわかってくるだろう。
直接的な行為では、それとは逆に、身体的な行為と言行為的な状況との間の断絶はないことになる。身体的な行為と言行為的な状況は同時的であるが、特に制度によって同時化されているわけではない。直接的な行為における身体的な行為と言遂行的な状況の同時性は特に訓練を必要とせず、そのために、自然であるとも自発的であるとも考えられるのだ。ところが歌や舞踏では、身振り、語り、音楽などが共時化されても、言行為的な状況は同時的ではない。歌や舞踏では、言行為的な状況とは独立に行動し発話することができるからだ。そこで、仮に、身体の行為は、直接的な行為と間接的な行為の二つの範疇に区分できると論じておこう。直接的な行為は、そこに参入しているすべての要素――つまり、身体的、言語表現的な発話、言行為的な状況――の間の同時性を前提する。直/接的な行為はさらに音楽性やその他の形式化する力の不在によって特徴づけられるだろう。これに対し、間接的な行為は、言行為的な状況を除く参入する要素の、要素の間の共時化t調整を必要とするが、言行為的な状況とは同時的ではない。
P. 240
間接的な行為は、身体の振る舞いで、特定の言行為的な状況から切り離されたものを言う。この間接的な行為には、時間性の変容ばかりでなく、また視点の推移や発話行為の主体の消滅が含まれている。音楽性とともに形式的で儀礼化されたパターンを辿ることによって、行為者‐役者の身体は言行為的な状況への依存を止め、それによって、想定された個人主義的な独創性や自発性をも失うことになる。間接的な行為の二つの重要な特徴は、行為‐演技が反復することができるということと、別の人間が演じることもできるということである。最初から、人は第三者、つまり無名な誰かとして登場するのである。間接話法と同様に、間接的な行為も自律的であり、特定の言行為的な状況からは独立を保っている。行為‐演技の反復可能性は、間接的で形式化された行為がこのように相対的に自律し、独立していることを含意しているのである。すなわち、間接的な行為は、シフターのもつ「いま」、「ここ」の特定性を喪失しているのだ。同じ身体的運動を、過去にも、現在にも、未来にも行うことができる。この超歴史性は、間接的な、形式化された、あるいは、儀礼化された行為の可能性の条件である。身体的な行為を形式化し儀礼化することによって、演技者は、すべてが変わってしまう歴史的時間の侵蝕を超越するのである(これ以降の章では、儀礼化された行為におけるこの超歴史性の問題を詳細に探求するつもりである)。
P. 241
遂行‐演技者は、他人が、音楽と身体的な行為と口述表現的な発話との共時化を通じて、テクストに加わることができるような可能性を切り開く。とともに、主体はこのようなことがなければ済むような地位へと引き落とされる。歌のなかでなされた約束は何の責任ももたらさない。というのも、メッセージと遂行‐演技は異なった行為者に帰せられ、したがって、遂行‐演技者はメッセージについて責任を問われることはないからである。歌を歌っているのは、歌い手ではなく、無名の声であり、具体的な人ではなく、ある抽象的な人格である。同様の議論は舞踏にも適用することができる。舞踏では、遂行‐演技者の自己と演じられた人物とが乖離しているからである。ここで「人物」という言葉は仮面を意味する「ペルソナ」に由来するということは想起するに値するだろう。特定のしぐさ――例えば、ちらりと見たり、腕を上げたりすること――は、遂行‐演技者の情緒を表わすのではない。つまり、舞踏では、遂行‐演技者の個人的な情緒は感覚‐方向を変えられ、それによって仮面を被らされているのである。
P. 242
身振りのテクストの儀礼化や間接話法の編成は、儀礼化されていない「自然な」振る舞いや、直接話法的で日常の会話と対照するときだけ、特徴が明かになるということを想起すれば、「自然な」行為や「日常の」会話の観念はそれ自体「所与の」ものではなく、テクストに関するさまざまな範疇との対立を通じで構成されるという事実は無視してはならない。つまり、ただ差異だけが存在するのだ。この差異とは、二項対立を生み出すものであり、この二項対立がなければ、「自然な」振る舞いも儀礼化されたしぐさも存在しえない。それ自体で自然な振る舞いやそれ自体で直接な会話などはありえないのである。したがって、「自然な」振る舞いや直接話法は、儀礼化され、形式化された行為や発話がその対立項として導入されたときにのみ可能になるのだ。これらの対立項がなければ直接話法の会話や形式化されていない振る舞いはありえないだろう。
P. 246
再現‐表象型では、言語表現的なテクストは、絵画的テクストにたいしてメタ命題として機能する。この再現‐表象型におけるテクストの相対的自立性は、絵画的テクストや言語表現的なテクストが、あたかもたがいを必要としていないかのように呈示されることから由来する。両者の関係は、しばしば再現‐表象の関係であり、絵画的テクストは再現‐表象されるものであり、言語表現的なテクストは再現‐表象するものになる。たいていの場合二つのテクストの間には暗に従属関係が存在することになる。あるいは、言語表現的なものは絵画的なものの翻訳とみなして、両者の関係を視覚的な意味生成体系から言語表現的なそれへの記号体系間翻訳と考えることもできるかもしれない。また、視覚的なものは主語でもあり主題でもあり、言語表現的なものは述語でもあるので、二つのテクストの関係は、主語と述語に関する伝統的な理解に、大雑把に言えば、たとえることができるだろう。言語表現的なものは「これは何であるか?」のような疑問に対する答え――この場合には、「これ」はもちろん視覚的なものを指している――として、視覚的なものに関連している。
P. 251
一八世紀には文学的な発話がジャンルによって分類され、分類の体系に従って評価されていた。いかなるジャンルもそのジャンルに特有の性格、つまりおそらくは他のジャンルがもっていないような特徴によって、それぞれ一定の距離を維持していたのである。このジャンルによる遠隔化の仕組みは、支配的な分類法を支えていた。この分類法では、あらゆる文学生産は、多様な社会関係が調和的に全体に内属するものと想像する「権力」によって管理されていたのである。したがって、文学作品はもちろん一定の社会的・政治的な制度の権威が作者に押しつけた強制力をただ反映するものであった。ということを意味しない。一つには、社会的・歴史的「環境」そのものが複数のテクストから成るからである。したがって作品は、必ずしもテクスト外の現実を反映するだけではない。むしろ私が「権力」と呼ぶものは、テクストは他のテクストとどのように関係づけられることが可能かを制約する規則、あるいは/一群の規則のことなのだ。実際に、この文脈における権力は、例えば、政治的組織や政治集団のような権威にのみ帰せられるものではない。それは、特定の文学的生産性において働いているさまざまな制約や機制の総体のことなのだ。言い換えれば、このような権力は、文学やテクストの生産のための一群の可能性の条件に相当する。私はこれからこの一群の条件をジャンル間の非連続性の空間と呼ぶことにしたい。というのも、このような空間の内部で、ある文学形式の可能性と不可能性が与えられるからである。
一般的に、ジャンル間の非連続性の空間とその空間に属している諸言語は、読者層によって、あらかじめ与えられたものとして、また自然なものとして知覚されている。このような空間の思い込まれた透明性は、この空間を確立している権力の効力に完全に共鳴しているといってよい。したがって、このような空間内の文学形式が透明に思われるようになればなるほど、権力はますます効力をもつようになる。われわれと一八世紀を隔絶する歴史的・文化的距離はわれわれにある特権を授けてくれている。この特権によって、当時の文学的な言説は、われわれの知覚にとって不明瞭で、また不透明にみえてくるのである。当時効力をもっていたさまざまな権力は、ほとんどの場合、現在ではわれわれを操ることはできない。しかし同じ理由によって、われわれ自身のテクスト生産物は、「われわれ」の間のさまざまな権力の管理の支配下になる点を忘れるわけにはゆかない。ここで含意にされているのは、「われわれ」の内部において継承され、内面化されている制約や規制に対する盲目性が、まさに「われわれ」にこのような権力によって「われわれ」を操作している現場なのである。
P. 259
石川が俳諧の原則による作品の再構成と呼んでいる作業は二つの前提にもとづいて遂行されている。まず第一に一般の読者層が古典文学やジャンル間の非連続性の空間に馴染みがなければならない。古典から引用された語句や語りの構造のさまざまな形式は、この空間の内部に規定されたある位置に属するとすぐに理解されねばならないだけでなく、また特別な同位体やイメージ群とただちに連想を形作るのでなければならない。文学一般について言えることだが、発話は、文化的真空においては生起することなく、古典の書庫にすでに存在しているテクストに対抗あるいは同調して、つまり間テクスト的に(さまざまな様式のテクストの並存としての間テクスト性ではなく、対話論的な間テクスト性として)生産されるのだ。単一の言葉、例えば先に引用した狂歌のなかで「象」という言葉は、自動的に古典に関連した比喩的心象群を喚起するはずだ。この場合には、能の『江口』で、江口と呼ばれる/小村の遊女が象に乗って、普賢菩薩に変身することが思い浮かぶだろう。この点で、すべての言葉や語句はすでにさまざまなテクストへの連想が沈殿しているのだ。したがって、間テクスト関係によってのみ、言葉は、過去の作品から読者に備給された特定の期待に従って、意味を表わすようになるのだ。他の作品への密やかな言及がなければ、作品は連想を喚起することはない。
第二に、古典によって充?され、構成された空間は、日常会話の場から隔離されている、とされている。第四章で論じたように、一七世紀末に現出したこの新しい言説空間では、人が現に生活している現実は古典文学の言語が適切に余すところなく描写できるようなものではない、と想定されている。古典の言葉や語彙は異質であり、したがって、日常の世俗的世界に関わっている言葉や語彙に直接訴えることはないという暗黙の合意が成り立っていたのである。日常会話の領域は公式的で公認された言説の言語とは分離され、距離を置かれているということは、しかしながら、古典の公式的な言語の弁別的な統一体が存在すると想定されていたことを必ずしも意味しない。このような統一体の内部であれば、いまでは一般の聴衆には理解できなくなった活動や感情や感覚も、十全に表現できていたのであろうが、そのような言語の統一体が明確に意識されていたわけではなかったのである。つまり、古典文学の言語からの疎外の感覚はあったわけだが、その距離間は、ある言語統一体と別の言語統一体の距離として表象されていなかったのである(一つの言語統一体と別の言語統一体の距離として表象することができるようになるためにはどのような条件が必要かは、次章以降の第V部で詳細に論じることになるだろう)。
P. 261
俳諧の原理に従って作品を再構成すること(すなわち二重操作)によって、本来的な古典は、原本とは関係のなかった新しいテクスト/コンテクストと関係づけられるようになる。古典文学と日常言語の間の非連続の感覚は、実は、この新たな関係づけの思いがけなさによって生み出される。言葉の思いがけない併置は、参照される原テクストに新たな意味を加えることによって、原テクストを変容される。つまり、この関係づけの作業は、原テクストに忠実でありその元の姿を再現しようという意志よりも、原テクストの真正性を歪め原テクストの権威をないがしろにしようという意志によって、動機づけられているといってよい。さらに顕著なことは、パロディ文学の作家たちが、原テクストを「近さ」の世界に統合するためだけに原テクストの真正さに興味を抱いているということだ。すなわち、パロディ作家たちは、もっぱら原テクストを笑うために、その真正さを尊重していたのである。まさにこの理由のうえに、異化はまた、親近化の一形式なのであり、パロディ文学の偶像破壊は常にある種の卑俗化の意識に伴われているのである。名声のある古典テクストは、そのテクストに関係づけられている権威や崇高さを剥奪されて、日常や世俗や卑俗の場面に大胆に挿入される。
P. 279
すなわち、公認された古典が読者に何を言おうと、日常の現象の表面にはなにものも隠れておらず、したがって、「近さ」の領域、すなわち世俗的に日常的で取るに足らない日々の行為の空間こそが、実際のところ究極の権威が存在する場所なのである。パロディ文学は、読者の心から多様なイデオロギー的拘束を除去するのを助けた。このイデオロギー的高速の主な機能こそは、単声の「真理」を一般庶民の手の届かないところに措呈し、こてによって古典的な文献への公認された注釈の存在を正当化することにあったのである。まさにこの文脈において一八世紀のパロディは異化と同時に親近化でもあった。パロディは、古典的な文献に関係づけられていた正統性や本来性を異化すると同時に、正式の教育を受けていないと推定される人びとが古典的な文献に直接近づけるようにしたのである。パロディ文学は、読者に対して、古典のもともとの意味を知る必要はなく、読者は古典を同時代の場面に置き、当時の他のテクストに囲まれたとき、古典がどのような機能するかをみればよいと教えたのである。
P. 279
この点で、伊藤仁斎が正典的な文献を扱っていた方法は、パロディ文学の出現を事前に暗示していたと言えるだろう。正典的な文献の権威にもとづきメタ言語を生み出す代わりに、古代の古典文献と注釈との間の上下関係を逆転させたのである。伊藤は、古典文献が同時代人に語りかけるような次元を決定しようとしたのである。古典的な文献が非言語表現的なテクストに遭遇する場、すなわち私が「近さ」の領域と呼ぶ言遂行的な状況から生まれるはずなのだ。言遂行的な状況は、古典的な文献にとって地として機能している(古典的な文献は代わりに図として機能している)にもかかわらず、言遂行的な状況は、意味の構成のために、文献そのものと同じくらい重要な役割を果たしているのである。伊藤の「古義」の概念は、作者のもともとの意図でもも/ともとの発話の場面の十全性を表わすものでもない。それはむしろ文字の意味は超越的なものとみなすべきはなく、その文字が用いられている特定の言説の内部で理解すべきであるというような認識へと向かわせるものである。したがって、儒教の教義の普遍妥当性は、仁斎も関わっていた同時代人の言遂行的な状況との関係で判断すべきなのだ。普遍性は一般性と混同されてはならないのだ。漢文古典と読むさいに同時代人の状況が関連することは、伊藤の卑近さの議論においてもさらに強調されている。妥当性は第一に倫理性に関わっている。すなわち、それは同時代の状況における行動を通じて確立される徳の視点からのアプローチなのである。
P. 282
見ることもまた構造化された手続きであり、それによって、テクストの物質性の異なる側面が主題的な関心の中心となる一方で、他の側面は、差異化されないままにおかれる。読むという行為は、実は、見るという行為の一形式であるが、読むことと見ることとでは異なった側面が主題化されるのだ。本を読む代わりに見たり観察したりすることはできる。たとえ同じ本であっても、読むのと、その本が見られる場合とでは、異なるテクストとして現れるようになる。この点でもまた、テクストは常に複数のテクストである。つまり、テクストはすでに複数の他のテクストなのである。
P. 290
言説空間が変化するにつれて、古典に認められていた想定された権威は挑戦され、絶えず疑問視されるようになった。作家たちは、もはや、新たな文献の生産と既存のテクストの集大成との間に想定された安定した関係には満足しなくなった。作家たちはしだいに既成の表象の形式が十分適用できない、「近さ」の領域を意識し始めたように思われる。同時に、久しく透明で理解可能だとみなされていた古典は、歴史的な距離が実際に人びとと古代とを分離しているのだということが認識されるにつれて、疑わしいものとなっていった。しかしながら、このような意識は、たんに時間が経つにつれて引き起こされる歴史的な時間によって生まれるものではないことに注意しておかなければならない。もっと正確に言えば、古いテクストも新しいテクストもどちらも同じように理解することができるような視点が喪失されることによって、古代の古典的テクストと現在に生きる人びととの関係が疑問視されるようになったのである。このような変化は、言語と人間との世界との関係における根本的な変容が引き起こした。言語と非言語的現象との、つまり分節可能なもの(ザ・アーティキュラトリー)と見えるもの(ザ・ヴイジブル)との差異化自体が変化し、結果として言語の観念は、これまで明確な言語的現象からなる領域から排除されてきたものを包含しなければならなくなったのである。したがって、この点で「近さ」の領域は、たんに新たな言説の領域、新たな言説の対象の分野というわけではなかった。むしろこれは、言語的な表現の新たな次元であり、身体的な実行‐演技としての発話行為と被発話態との二項対立があからさまになったときに、生まれたものだった。
P. 291
したがって、初期徳川文学と一八世紀のパロディとを区別するのは、多義性の存在ではなく、どのように多義性/が組織されているかというその様式である。つまり多義性において、構成要素が連続しているか断絶しているか、という問題なのである。非連続が原則としてあるときには、多義性は単一の集大成の内部で多くの書かれたテクストを組み合わせるだけでなく、また異化をも引き起こす。普通、本来的で洗練されているとみなされているものを、世俗的で卑俗な対象や日常生活において普通に遭遇する出来事と結びつけることによって、パロディ作家の作品はあるジャンルの作品がもつとされる本来性や洗練といった価値の信用を失わせ、そのような価値を失格させ、そうすることによってそのジャンルの作品を異化するのである。
P. 294
確かに権威はもはや高みに、遠く洗練された場所に由来するものではない。それは、「ここ」や「いま」にあり、そこでは事物は身体との関係において原初的に理解される。しかし、身体に関連した「ここ」や「現前」は、常に言語表現的なテクストによって把握されることを逃れる。というのも、言語的表現ではなく、むしろおそらく感性的表現の特徴である位置や視座を奪われているために、身体の生きられた経験は言語化しえないものなのだから。ここに、一八世紀の言説空間を動機づけ続けていた意味生成の矛盾がある。「近さ」の領域は感性的であるがゆえに、引用することはできても、主題論的に論じることはできないものなのだ。「近さ」の領域は、おそらく発話行為の場所ではあるが、被発話態では場所になることはない。高度の強度をもった沈黙としてのみ、それが被発話態に伴っていることを漠然と示唆する以上のことはできないのだ。
P. 295
だからこそ言語表現的なテクスト、特に書記は、一八世紀の言説空間の内部では代補を必要とするのだ。発話行為が第一に考えられるときには、被発話態は発話行為の痕跡としてみなされるにすぎず、その機能は発話の起源における反復の発話行為の様式を示唆し、指示することである。しかし、一八世紀の言説空間における支配的な欲望は、まさしく発話行為とは何であるかを限定することであった。しかし、やがて明白になるように、これは無理な目標なのだ。発話行為が言語表現的なテクストとして分節的に限定されるやいなや、それは被発話態へと変容させられてしまうだろう。
P. 296
ここまできて、言語と言語表現的なテクストの問題は、儀礼の問題と遭遇する。というのは、もし仮に儀礼の観念が形式化された振る舞い、つまり多様なテクストと音楽との共時化によって規定されないとなったら、いったい/どのように儀礼の観念を理解できるというのだろうか。儀礼の本質は、非言語表現的なテクストから被発話態を構成することになり、それによって、個人の主体性、あるいは主体のイメージは集合性へと解消される点にある。つまり、儀礼は、超自我的他者(ラカンのいう(大文字の)他者)を、動作が全体としてアドレスされる(というのもあらゆる動作は意味するかぎりにおいて間接的であるから)無名の聞き手(アドレッシー)として措定するのである。しかし、まさにこの(大文字の)他者、この「集合性」は、動作の実行に先行すると信じられるゆえにこの他者は政治的な意義を帯びる。この他者は、儀礼の実行によって設定されるのだから儀礼の実行に依存しており、そのかぎりで儀礼の実行の後にやってくる。ところが、儀礼は、その実行に先行しれある「集合性」が存在するという信憑性に依存しているのである。しかし、この超自我的他者はどこにも存在しない。だから、(大文字の)他者が物象化され、既存の「集合性」と同一視されるとき、それは既存の権力関係を肯定するものとなるだろう。それとは対照的に、(大文字の)他者やその先行性は他の方法で理解されるとき、存在しない「集合性」、つまり既存のさまざまな制度に順応しない不可能な集合性を表わすことになるだろう。
P. 309
和訓に対する荻生の批判は多くの儒学者を観察した結果にもとづいていた。繰り返し彼は論攷の読者に、儒学者が中国の書物を直接読む能力をもたない点を指摘する。中国の古典を実際に読んでいると主張しつつ、彼らは中国の古典を和訓のシステムによる訓点法を通じて読んでいるにすぎない、と言うのである。原書を和訓で読むということは、原書を読むことを避けることであり、実際に中国語のテクストを読んでいないということだ、と徂徠/は主張する。和訓は読者が中国の原書に直面することを妨げる。というのは訓点法がそれらの書物を部分的に翻訳し、また解釈してしまっているからである。読者が中国の書物を訓点法によって読むかぎり、中国語の異質性はすでに樹立された概念様式に馴化され偽装されてしまう。ほとんどの場合、和訓への依存は日本で使われている中国語を、外国の文化を理解しようとするときには一度は経験しなければならないはずの疎外感かしに、日本で使われている言語に統合しうるかのような幻想を作り出す、というのである。
P. 310
一八世紀の日本は多くの社会階級、社会集団、地域などに分割されており、人口の大部分が直接仕えるような一つの標準化された言語はなかった。そのかわり、漢文から土地の俗語に至る、多くの異なった言語の様式があり、機会に応じて同一の個人が異なった言語を使い分けたのである。非公式に日常の状況では、聞き手と話し手の関係が許される場合は、里言葉、つまり俚言が使われた。儀礼の場面では別の様式の言語を使い、手紙は、一定の会話用語彙を除いた候文で書かれ、公式文書や知的論文は漢文や漢文から派生した様式が使われた。これらは、広汎な言語的多様性を生みだし、数多く存在した異なった言語様式はほんの数例にすぎない。
しかし私は、日本語という言語統一体が不在であったという主張をいわゆる歴史的事実にのみ根拠づけるつもりはない。これから示すように、言語の統一性はたんなる経験的事実、観察可能な実証性として現出することはあり/えない。言語の統一性の媒体は常に言説だからである。
P. 320
荻生徂徠はこうしたほとんど治療不可能にみえる日本儒学の欠陥を根治する任務を自分に課した。もし読みというものが、つまるところ、会話の特徴と考えられる原初的な十全性を回復するための手段にすぎないならば、古代のテクストを理解するとはそのような十全性、つまり、ある「内部」への参入を意味するのではなければならないだろう。もし口頭の発話が無媒介的な行為の領野へそのまま統合されるのならば、言語は語用論的な条件からまったく独立しなくなり、発話が起こる歴史的現実から独立した、一つの対象として存在することを止めなければならないだろう。しかし、こうした極限的な発話行為にまつわる調和・統合状態、十全的な状況は、読者自身がそうした歴史的現実、つまり「内部」にすっかり内属しているのでなければ実現不可能である。もちろん、こうした状況へ没頭するためには、状況内に物理的に現在するという以上のことを必要とする。あたかもその言語が自分の母(国)語であるかのようにそれを使うことができ、その言語を知っているということに気がつかないほど、その状況を知悉し、内面化しているのでなければならないのである。十全的な状況では人の身体はその母(国)語と合体しているはずだ。これは理想的で想像上でのみ可能な達成状態であって、人はそこに到達することを考えることが/できるだけなのかもしれない。しかし、荻生にとっては、これはわれわれが考えるよりもずっと具体的なものであり、古代の先王の統治という理念に何度も訴えることによってこの状態を達成する可能性を彼は垣間見続けたのである。
P. 322
こうして荻生の翻訳観が導入されたことは、一八世紀の言説空間において会話と書記の間に極端な二項対立が現出したことを示すはずである。実際に会話を書記の背後に想定すること、書記を会話の転写とみなすことは、いか/なる点から言っても、それだけでテクストに対する優れた接近方法であるのでもなければ、また自然な接近方法だ、と言うこともできない。そうした接近方法が、それだけでテクストのより優れた理解をもたらすということでもない。にもかかわらず、こうした書記の見方の帰結が広範に及び、根本的な変化をもたらしたものであったという点は疑いを入れないのである。というのは新しい読みの様式が真理の観念そのものと学問の目的を定義し直し、新たに定式化したからである。そして、言説空間の変容の核にあったのは、言語表現的テクストと非言語表現的テクストの間の差異の再編成であった、と言える。和訓の正当性を破壊しようとする荻生の試みは、それまで言語表現的なテクストとしてみなされてきたが、言説空間の変容の結果、非言語表現的テクストの地位まで下落してしまった種類のテクストを排除する必要性によって先導されていたのである。
P. 325
一八世紀の初頭では、原中国音を発音しないことが一般的な習慣であった。したがって、この例で言えばテクストBは中国の書物を読むから排除されていたわけである。原文は第一義的に眺めるべきものとして与えられたのである。そのテクストが変換された後でのみ和訓の規則に従って発音することができるようになる。だから、荻生が新しい読みの方法を導入するまでは、テクストの視覚的側面と聴覚的側面は混合され、この二つの側面を偏執的に分離し、おたがいを独立させようということはなかった。声は絶えず視覚を参照し、会話は書記の副産物にすぎなかったのである。したがって、荻生の図式は二重の努力を意味した。まず、読みの過程で書写刻印から弁別さ/れた声の水準を同定し、次いで、その水準から視覚的要素を除去すること、である。
P. 326
テクストの本質が声の無媒介性と同一視されるとき、書記の視覚的現前は、まったく否定的とまでゆかなくても、/二義的なものにならざるをえず、テクストの意味作用において顕著な働きをしてはならないことになり、書記の唯一の目的は元の会話を転写することにあることになるだろう。もっぱら原文に到達することとのみを目指すかぎり、書記はテクストの意味を覆い隠す傾向のある干渉物、つまり障害にすぎなくなるのである。この立場から出てくるのは次のような結論である。書記の現前が不可視であればあるほど、テクストはより透明になることになる。
もう一つ、荻生の読みの方法において決定的な重要性をもつのは、同じような構造が翻訳されたテクストにも課せられている点である。翻訳されたテクストは無媒介的で直接の理解をもたらすような言語でなされることになっている。そこで、荻生は中国の古典を「俚言」、つまり、書かれた刻印を頼りにせずに、庶民がおたがいに意見を交換し合うために使うお里言葉に翻訳しようとする。つまり、そこで使われる言語は、翻訳されたテクストをさらに翻訳したり注釈したりするような必要のないものでなければならなかったのである。当然、彼の理解した翻訳観は、日常の交際、日常の会話で用いられる言語の透明性に沿って案出されたものであった。こうして、書記に対する会話の優位は、荻生の「思想」が形成されるうえでの基本条件となっていたのである。
P. 350
これまでの議論で、学派の間の区分が制定された位相、つまりどのように異なる古典が正統性の源泉として参照されていたか、は少なくとも指し示すことができたと思う。同様に、私は、類似性が定位された言説の位相も指摘した。それは、一八世紀のテクストが古代のテクストと関連づけられる間テクスト性の位相であった。さまざまな学派に関係していた著述家たちがさまざまな説を正統化しようと試みていたが、彼らが自分の言説を古典に関係づける構造は、少なくとも考察の対象にされた人びとに関するかぎり一様であった。一八世紀の言説においては、歴史がこのような意味で重要な役割を担っていたのも、テクストの産出を規制する間テクスト性の特定の構造の輪郭を歴史が描いていたからである。ただしここで言う歴史とは、出来事の継起性に基礎を置く、ある種の歴史記述とは何の関係もないことだけは指摘しておこう。そうではなくて、この歴史とは正統性の条件のことであり、歴史とは正統性とは識別できないほどに絡まりあっていた。歴史とは特定のジャンルや学派にとっての所有物でなければ言説の対象でもなかった。言説空間の全体に行き渡る言説編成の本質的な構成要素であったのだ。このように影響という観念に頼らなくとも、言説空間における差異と同一性の網の目を分析し解釈することは可能なのである。
P. 358
『古事記』が示しているように、中国語の書記様式が現在の近畿地方の住人に知られるのとほとんど同時に表音表記が存在した。一千年の間、表音表記は現在日本と呼ばれる地位でかなり広く用いられていたいくつかの刻印システムに吸収されていった。この間、表音表記システムである仮名が漢字を補うために発明される。しかし、仮名(「間に合わせの名」の意味)は、われわれが現在片仮名や平仮名として知っている固有の記号様式のことを指しているのではない。むしろそれは、喚起される音素との連関でその図像的統一体を維持させるある種の記号の使用法のことである。言い換えれば、漢字の言葉としての機能が音声への照応という面に限定されている場合には、漢字さえも仮名とみなされうるのである。われわれは「万葉仮名」にこの例を認めることができる(そこでは漢字が表音文字として使われている)。書記が仮名書きと同定されるのは、それがひとえに音の生成という観点からみられているときに限られる。一方、表音表記は原則であり、この原則によって書写刻印が意味の構成に参画するのだが、それはこの文字が音素の単純な連続に線状的に連なることができないという条件のもとに限られる。そうである以上、表意文字は必ずしも、音を喚起しない記号というのではない。むしろ、それは複数の音を喚起することもあれば、あるいはまったく喚起しないとこもある記号なのであり、したがって音と多声的に関係する。一方、表音表記の立場は、テクストは音の連続に還元されうるし、そのテクストの意味は音だけで構成された意味と同一であると想定するものなのである。それゆえ表音表記は、書写刻印が音と単声的に関わるべきだと主張するのである。これと関連して、われわれはここで重要な命題に行き当たる。表意表記と表音表記がこのように定義された以上、テクストを必ず音声化しなければならないという要請がないかぎり、テクストは同時に表意的でありかつ表音的であることができるし、あるいはテクストは一方的に表意的で当たり表音的であたりするわけではない。書記を視覚的なものとみなすかぎりは、この表意的と表音的という二つの範疇は適用できない。
P. 359
表音性とか表意性というような範疇はすでに音声中心主義のなかで規定されているのであり、これらの範疇が優れてイデオロギー的なのは以下の意味においてである。つまりこの二つのそれぞれは、人間存在がテクストに対してもつ想像的かつ実践的な関係の二つの様態であって、テクストの知覚における読み手の欲望の備給は一定の規則に従っているという意味なのだ(ルイ・アルチュセールのよく知られているイデオロギーの定義とまんざら関係がないわけではない)。これらの範疇は常に暗黙の命令に関わっており、これらの命令のもとで書記が読まれたり、朗読されたり、あるいはたんに眺められるだけであったりし、またこの命令に従って意味への欲望を刻印に備給する際の様態が決定されるのである。換言すれば、これらの範疇(カテゴリー)が、人がテクストとの関係を備給かつ実践する際に従う基準の実践系を選定するのである。こうして、書記システムに伴うイデオロギーへの言及なくして、漢字体系の表意的性質だとか仮名のみならず、アルファベットの表音的性質だとかを云々するのは無意味なことであることが判る。アルファベットに付随するイデオロギーを混乱させたマラルメやアポリネールの試みによって、われわれはすでに、アルファベットと記号体系でさえこの音声中心主義的なイデオロギーに対抗して使用しうる、と認めることを余儀なくされたのではなかったのか。イデオロギーから独立しては、書記システムはそれ自体で表意的にも表音的にも象形的にもなりえない。どんな記号システムであれ、言説のなかで価値づけを受けなければならないのである。
P. 361
しかし、「常識的な範疇」を使って、中国語の書記がそもそも非表音的で表意的であるなどと主張するとは、いったいいかなる根拠に拠っているのだろうか。すでにみたように、荻生徂徠は中国語の書記が表音的でありうることを明快に理解していたし、またある程度までは、彼は漢字をそのように扱うことに成功している。荻生の成功が部分的なものにとどまったのは、彼が中国語の書記をその本来の表意的性質に反して使おうとしていたからなのではなく、のちに詳述するように、いかなる書記も――ある会話と言ってもいい――あるイデオロギーに完全に適合させることなどできないからなのだ。
P. 362
これらの条件がいったん成立すると、表音性/表意性の対立は非常に先鋭化し、その結果日本語という言語領域が、表意性から常に逸脱するものの根源として設定されることになった。中国語で書かれたテクストに現れないが、にもかかわらず音声化するためには付け加えられなければならない部分が、とりあえず日本語の領域として線引きされたのである。和訓は、日本語がどのような位相で書記に干渉しているかを明らかにする恰好の装置であったと言ってよい。そもそも和訓とは、仏教寺院などの場で大陸渡来の書物を扱っていた僧侶たちが、本来読み上/げることのできない漢籍の書記を音声化できる形にしようと考案したものであったことを想起しておこう。七章で説明したように、この変換は本質的に、次元の異なる二つの操作からなっていた。一つは統辞秩序の再編成(いわゆる返り点)の操作であり、他方は助詞と活用語の語尾、その他の送り仮名を付け加えたことである。後者の操作に対しては、注釈者たちが漢籍の原文に、原文にあらざるものを加えているという意識をもっていたために省略されることが多々あった。「てにをは」に関する研究が伝統的にこの第二の操作を主たる対象にしていたのは、助詞という文法的単位は漢籍には見出せないにもかかわらず、助詞を添付することが漢字のテクストを朗読可能にするものであたからだ。こうした特徴は視覚テクストには見出せないが、聴覚テクストであれば明らかである。会話/書記、透明性/不透明性といった二項対立が言説空間において統整的役割を担うようになるまでは、助詞も問題にはならなかった。しかしこれらの二項対立がいったん規則として確立し、これらの規則に則って読み、知ろうという欲求が構成されるようになると、これら助詞や活用語の語尾の両義性に知的関心が集まったのは当然のことであった。こうして一八世紀の著述家たちの多くが助詞や活用語の語尾を日本語に独特の特徴とみなすようになったのもまた当然であった。
P. 366
読むという作業はわれわれがすでに存在する書記に対して働きかけることであるが、この読むという次元においては、書記それ自体の物質的存在が音声に先行するということは否定できないだろう。まず最初に書記があり、そののちに読者がそれを読むのだから、彼あるいは彼女の声が書記に付加されるのである。もし書記が『古事記』の/ように多声的であれば、書記に対していつでも一つ以上の声を当てはめることが可能となる。本居の理解によれば、しかし、読むという行為において、書記に音声を付加するということは、まさに、その書記が転写している原初的音声に立ち戻ることでなければならない。
P. 370
ここでは「語」はテクストの表層、つまり一連のシニフィアンに関わっているのであり、表層が表わすシニフィエとみなされているわけではない。このように「語」を新しく定義し直すことによって、本居は同時に、原則として他のいかなる解釈や注釈にも先んずるような意味の次元というものがあることを指摘する。偏見から自由になって誠実に読むことにより開示されるであろうものはすべて、このように同定されたシニフィアンの次元においてはすでにあらわであると、彼は宣言する。この意味においては、「語」はア・プリオリティを示しているのに対して、読者がテクストの背後にとにかく想定している「意」や「理」はア・ポステオリティなもの、つまり見せかけにすぎ/ないのだ。だから「語」が「意」や「理」に先行しているという論理的ア・プリオリティを厳密に遵守せねばならないことを彼は強調する。「意」や「理」が「語」の後に生じるのであるかぎりは、それらは括弧づけされねばならないのだ。読者は『古事記』を読むに当たって、一種の現象学的エポケ、判断中止を奨励されていると言えよう。しかしわれわれは、これほどまでに特権化され聖別化された「語」が、紙の上に筆記されているとか持続的な実体を与えられているなどと考えてはならない。「語」は文字ではないのだから。
P. 403
理論的に説明されねばならないのはこの点である。というのも、ある個人によって獲得された言語や制度が共同体的な次元をもつと考えられるのは、この身体の存在様式においてだからである。だが、もし良心的な一人の学者が古代の言語や制度を学んだとして、その成果は学者自身のものに限られはしないだろうか?その場合、内部とは明らかに彼一人にだけ現出するのではないだろうか?荻生はどういう根拠で、内部の現出は個人を超えて、周剛的なもの一般にまで向かうと主張できたのだろうか?荻生やその他の一八世紀の著者が、いくばくかの生徒に古代の文献や古代言語を教えるだけで、徳川期日本の社会を古代のそれに変えることができると信じたとは想像しにくい。そこで問題になっていたのは、短期的な観察によってその有効性を計ることができるような政治的企画はなかったのである。
この点でわれわれはとくに、一八世紀の言説空間における言語と制度に関する二つの命題に注意しなければならないだろう。第一は、身体が言語の場とみなされており、制度が存在するという事実自身が個人を孤立した実体として把握することの不可能性を意味していたということである。社会的相互関係は個別化された二つの身体や意識/の間で起こるのではなく、身体のイメージこそが、主体と他の主体との関係が発生する場となるのである。しばしば身体内において心が不可視の内部の奥所として描かれるにもかかわらず、実は心はすでに社会的に構築されているのである。私性や秘密、内面性のような心の属性は、すでに社会的な範疇なのだ。したがって、言語や制度の習得はたんに一個の行為主体が振舞う仕方に影響するだけでなく、彼女と彼女「自身」の関係、さらに彼女と他の人びととの関係をも変容させるのである。
第二に、言語と制度は投企された「集合性」という意味において本質的に他者の所有になるものである。自己とは常に、言語のなかでは「他者」として措定されるものであることは言うまでもない。しかし、発話行為の主体の本来性を宣言する代わりに、言語の使用は主体を消滅させ、匿名の「私」という主語に置き換える(もちろん、言語使用以前には本来的で匿名でない「私」があると言いたいわけではない)。一つにはこの言語使用の根本的な性格のために、荻生は自分の弟子たちが流暢に古代中国語を話せるようになるためには、かれらは古代の中国人にならねばならないと論じることができたのである。言語使用のなかから現われる話者は、言語あるいは「内部」によって定義される領域に属しているが、言語使用以前の個々の話者はそのような領域には属していない。したがって、言語に習熟することは、常に他者の秩序に従属することである。だが同時に、それはいまだに存在しない「集合性」を「言表的に」確立する試みでもありうる。言語における主体/主語は常に他者に従属するものであり、同じことは制度についても言えるだろう。決められた行動のパターンに入ることによって、人はまず制度の成員を規制していると想像される規則に馴染み、ついで制度のイメージに馴染み、そして所与の制度的環境において期待される役割へと自己を変容させてゆくのである。こうして人は規則――そては転移の規則である――に従う主体‐臣民として定義されることになる。
P. 407
この議論の背後にあるのは、言語表現的・非言語表現的テクストをその生成の機能から解釈するという、一八世紀の言説に顕著な傾向であった。テクストが何を意味しているか、何を表象しているかが問題なのではなく、それがいかにして意味生成するかが問題だったのである。ここから、古代の書記は歴史的事件として登録するためではなく、その発話行為の条件を明らかにするために研究されたのである。発話行為が孤立してみられ、事件として把握されるかぎり、その遂行的な状況への内属はただ歴史的時間の回復不能な性質を知らせるにすぎず、その蘇生や再現を考えることはまったく不可能であろう。このアプローリをとるかぎり、古代のあらゆる議論やその理想的秩序は真剣な意義を失ってしまうだろう。明らかに、一八世紀の古代研究で起こったことはそういうことではなかった。当時の言説は行為遂行への関心をめぐって組織されていたからである。継続的な議論の中心には、行為への関/心、行為‐演技者が、彼(女)の遂行する状況との間に確立する運動感覚回路への関心があった。加えて、いわゆる社会秩序は行為の志向性から独立した物事の集積ではなく、行為‐演技者と状況との間に生じる関係なのである。したがってそれは、それ自体で存在するものとして把握されてはならず、このように考えられた社会的現実の実在性は、すでに活動的な行為主体の役割を包摂していたのである。
P. 413
荻生によれば、政治権力の本質は何かが起こることを防ぐ能力ではなく、誰かに欲望させる能力にある。それは禁止的なものではなく、積極的かつ創造的なものである。支配者と被支配者が内部に属し、制度の体系に従って欲望するようにプログラムされているかぎり、支配者も被支配もともに制度に従属しているのだから、支配者と被支配者の間に基本的な差異はありえない。支配者と被支配者を決定的に区別するものは、知の領域のなかに見出されなければならない。支配者は知っているが、被支配者は知らない。あるいは、支配者は知っているべきであり、被支配者は知ってはならない(「依らしむべし、知らしむべからず」)。だが支配者は被支配者に対する彼(女)の政治的優越を保証するために、何を、いかに知っているべきなのだろうか?
日常生活において、被支配者は彼らの行ないの対象と間主観的な利害に埋没している。彼らは制度、あるいは「もの」に従ってゲームに参加している。彼らは与えられた全体のイメージ、あるいは全体を表象していると想定される権威を前提し、それを問うことはない。同じように、支配者も所与の全体のイメージの有用性を前提し、彼の日常生活を成り立たせている種々のゲームに参加する。だが同時に、支配者は自分がそれに従って欲望し行為する制度が、歴史上のあるときに作られた作為であることを知っている。支配者は自分が欲望し、欲望させられていることを知っている。彼が所与の状況においてゲームに参加し他者と相互行為をなすかぎり、彼は利害に囚われ不公平で、部分的である。すなわち、彼は寛大(=仁)であると主張することができないのである。というのも部分的であることなしに、人はいかにしてゲームに参加することができるだろうか?ゲームへの参加の本質は、他者/よりも自らの利益を追求することであり、ゲームの約束事によって設定された一定の目的を達成しようとすることにある。言い換えれば、参加は統制されたやり方で敵対者と争うことを要求するのである。ゲームが可能になるためには、プレイヤーは「エゴイスティック」で「自己中心的」で「部分的」でなければならない。
P. 420
私はある学習内容を暗記するために――それは訓練の形式である――ある学課を音読する。それから私はそれを何度も反復する。荻生が描いているように、反復するたびに一歩ずつ進歩し、ついにはその教えが暗記され、私の記憶に刻み込まれる。一方で、もし私がこの訓練による進歩を振り返るなら、私はその進歩の継続的な局面を次々と自分の心に描いてみることができるだろう。幾度もの音読(=読書)のそれぞれが、そのたびごとの個性と、そのときそれに伴っていた特別な環境をもって回想されてくる。どの一つひとつの音読も、その前や後の音読と同じではない。「朗読の各々は、私の歴史の特定の出来事として、再び私の心に浮かんでくるのである」。われわれはどちらの場合も「思い出す」と言うが、暗記の意味で「思い出される」学科の記憶は、習慣のあらゆる証徴を帯びている。
P. 423
「経」と織目、織物との、それにもちろんテクストとの語源的な繋がりを見逃すことはできない。この字はまた儒教の古典を表わすのにも使われ、とりわけ荻生の古文辞学では「六経」を示すたえに使われていた。ここで私/は、古典研究、経済、政治学がたがいに織り合わさっていることに気づかずにはいられない。あるいは、おそらく私は、何より、近代の経済学の学問とただちに等置することのできない「経済」という術語のあいまいさを認めなければならないだろう。「経世済民」の意味での経済学は、社会関係を定義し、維持する交換の形式を扱わなければならない。したがって経済学の本質的な問題は儀礼、贈与交換、度量衡、公的秩序の階層秩序、衣装、命名の方法を含まざるをえないことになる。
P. 424
私はこの説明のなかで二つの点を強調したい。第一に、儀礼も音楽も身体の運動に関わる制度として把握されている点である。作法や儀式の一般を指す「礼」に関しては、作法の習得や儀式の上演において身体の動きが不可欠/であることはあまりにも明白である。だが音楽はなぜ必然的に身体の動きと関連するのだろうか?「楽」の字を説明しながら、太宰は再びその語源に訴えている。つまり「音楽」を表わす「楽」は、また「楽しむ」ことをも意味するのである。楽しみは人が身体を動かすときに生まれる。身体を動かす「所作」によって、人は心をなだめる。時には、人は悲しみや絶望のよな非日常的な感情を覚え、普通に体を動かすことによっては救われないことがある。そのとき、人は歌うことによって声を解放し、楽器を演奏するのである。このように、歌、舞踊、楽器の演奏の周動的な名称である「楽」とは、パターン化された身体の動きとして基本的に把握されている。
第二に、音楽はそれによって、儀礼によって決定される社会的立場を再生産し強固にする手段として理解されている。それは社会的立場の布置によってたがいに分け隔てられている主体が、上下関係を流動化させることなく寄り集まり、共同性を享受するようにする手段なのである。したがって政治的に言えば、音楽は保守的な、つまり現存する社会秩序を温存するための、手段として考えられている。それが人びとの情に訴え、その心を動かすとしても、音楽は個々の主体を割り当てられた立場に閉じ込めるように働く。この理由によって、例えば太宰の師である荻生徂徠は、もはや宋理学のように超越的な「性」を意味するものではないが、ア・ポステリオリな社会的立場の布置を統制し、規則化するものとして、「理」という文字を再導入するのである。このように、礼と楽は情を統御する基本的な手段として概念化されているのである。
P. 432
こうしたいっさいの異質性にもかかわらず、一八世紀の言説は言語表現的テクストを身体的運動からの派生物と/み続けていた。実際、この言葉と身体の融合の望みを絶たないでおくために、いくつかの言説装置が編み出されていた。とりわけ重要であるのは、この時代に現われた統辞論の研究である。すでに述べたようん、文法学者たちは絶えず身体的テクストに特徴的な、姿勢としての全体性に言及していた。富士谷成章の身体の隠喩がおそらく一番よい例だろう。彼の言語研究においては、単語の統語論的機能をいかに形態論的に分類すべきかという分析的関心は、発話の統合性を身体的行為における詩性の統合性と等置することによっていかに説明すべきかという総合的な関心によって釣り合いが保たれていた。彼は言語表現を自律的な単位の総和としてみるのではなく、行為としての発話行為は身振りの特徴を共有しているのだと強調した。同様に、本居宣長は「係り結び」を、身体の一部位による身振りが常に適合され、従属されるような身体的姿勢に比せられる統合性の表明だと認識していたのである。
P. 440
歌をこのように特徴づけることで明らかになるのは、それが言説編成における言語表現的テクストと非言語表現的テクストとの、直接的行為と間接的行為との間の両価的な教会を特徴づけているということである。それは「誠」の場所なのであり、その場所のなかでは言語と非言語が統合されると想定され、世界のなかでの言語の原初的な投錨点が同定されるのである。こうして、一八世紀に行われたあらゆる言語の研究は、明示的また黙示的に、歌というこの特権的な言説の対象を指していたのである。「言語とは何か?」という問いは、一八世紀の言説空間においては歌を考慮に入れることなしには答えられない。言語の世界を定義するための根本的な原典は、人間の活動のこの領域に位置づけられると想定されていたからである。発話行為が意味作用ではなく意味作用の過程の点から概念化され、社会的現実が身体的・テクスト的生産性の効果として考えられていたのもまたこの理由からであった。それは一見非政治的で、同時代の政治闘争に対して明らかに無関心であったにもかかわらず、詩や歌は社会の統御の問題や制度的再生産におけるヘゲモニーの問題についての議論の鍵を握っていたのである。詩的なものと政策的なものの間の関係をどのように考えられるかが、この議論の政治的含意をほとんど決定していたのである。
P. 443
身体の運動機能に根ざした内部の統合された構成要素として、言語はいまや内部を代表するものとしてその統一性を獲得する。言語の統一性は、したがって、内部のイメージに従って形成される。言語を統一体とする思考が可能になるのだ。だが一八世紀には国民的・標準的言語など存在しなかったことを忘れないようにしよう。同時代の世界が断片化されており、その言語が引き裂かれているということは、ほとんどあらゆる論者の一致した見解であ/った。だから統一された内部の観念によって示唆される言語の統一性を、同時代の現実のなかに認定することは不可能であった。単一の日本語というものはなく、複数の日本の諸言語があっただけなのである。こういう言い方でもまだ、その状況の記述として不適切かもしれない。というのも何らかの民族(エスノス)の統一性を暗示する日本語・日本人なるもの(ジャパニーズ)は、内部の統一性に相当するなんらかの総覧的な統一体の概念に訴えることなしには同定されえないのだから。したがって単一の日本語の統一性は、同時代の世界に探し求められるかぎり、見出すことのできないものだったのである。そこに見出されるのは、ただ地域的な多様性であり、さまざまな言語の限りなく散種的な混合であった。歴史が救援に駆けつけたのはこの文脈においてである。古代に標準的な言語を措定することは、現在における内在的な統一性の不在を指摘することによって、その多様性を劇的なものとして提示するための手段であった。一貫した統一体としての全体は過去に想定されていたから、現在は欠如として、根本的な変化を要する否定的なものとして分析されたのである。理想化された統一性を書記以前の古代世界に投影することは、一八世紀の文化において日本語を不在として、喪失として刻印することであったのである。
P. 445
だが、もういちど、このような民族的集合性の統一体が、既存の社会秩序に直接的に結びついていたわけではないことを忘れないように確認しておこう。徳川期日本の社会は共同性を欠いていると感じられており、民族的統一体は常に過去に、古代に投射されていた。この意味で、社会的行為が確立する匿名の集合性のある種の実体化が常に起っていたわけだが、それは直接に既存の秩序と等置されていたのではなかった。この民族的同一性は、まずは喪失として、はるか昔に存在したがもはや存在しないものとして現れたのである。こうして、日本語・日本人は一八世紀の言説に誕生したとき、それははるか昔に死んでいたのだった。日本語・日本人は死産されたのである。
P. 449
失われた声が蘇りうるのは再現‐表象としてのみであるというだけでなく、発話行為の観念それ自体が、われわれが発話行為を思考の対象として理解しているかぎり、不可能なのだということもまた明らかにできる。ここに文書があるとしよう。それが存在するためには、この瞬間より前のある瞬間にそれが生産されたのでなければならないことは明らかにみえる。同様に、ある発話が現在において、何らかの形式で――例えば転写された声という形式で――被発話態として存在するということは、いまより前の瞬間に生産され、記録されたはずだ、ということを意味するだろう。したがって、生産物がそれに先行する生産を前提するのであって、被発話態も同じように発話行為を前提するのだという結論に導かれるであろう。だから、文書や被発話態としての発話がいま・ここにあるのだから、テクストの生産と発話行為――その唯一の痕跡は、書物や文書、碑文という狭い意味で理解されたテクストである――があったに違いないと仮定する推論を避けるわけにはゆかなくなるだろう。しかし、言うまでもなく、私たちが論じてきたテクストは狭義のそれではない。テクストを書物、文書、碑文と同じだとみなすことが許されるのは、ただ換喩的にのみの、あるきわめてまれな文脈においてだけなのであって、「テクスト」という術語は、テクストのテクスト性を保存するために、あらゆる可能な手段によって、「書物」や「言説」や「作品」との混同を避けなければならない。「発話行為‐被発話態」や「生産‐生産物」という単純な時間的継起関係は、まさにテクストの観念に混乱をもち込む。そのような単純化は、ある発話の意味作用が、精神が肉体に宿るかのように、書物や文書、碑文の物理的存在に住み込むことは不可能であるという自明の理を無視している。とい/うことは、テクストの読みは常に発話行為であり、テクストは書物と完全に似ているわけではなく、その統一性は物理的な対象の輪郭によって与えられている書物とは違って、そこには物質性――私がテクストの物質性と呼ぶもの――と、さまざまな要素――発信者、受信者、それに多くの異なった種類の主体(話す主体、読む主体、等々)――との間のさまざまな関係が含まれているのである。読まれたり聞かれたりすることがなければ、書物はたんに綴じられた紙の束であるにすぎない。
P. 450
書物という観念は、このテクスト性の内的な分節化に無関心である。一方で、書物は、その統一性が紙の束やそれに相当するものの輪郭として与えられる物理的な実体であると定義されており、他方では、書物はそのメッセージの同一性によって定義されている。書物という観念においては、これら二つの定義が恰も統合されているかのように共存しているのである。しかし、メッセージの意味作用が、紙の束という性質からは抽出されえないことは明らかである。物理的な実体として書物を定義づけても、そのいわゆる内容については何も分からない。物理的な実体に刻印された印影にメッセージを認めるためには、人はそれを読まねばならず、その読みのなかで、書物の内容はすでにそこにあるものとして、つまり非時間的で、個々の読みの行為のばらつきからは独立なものとして構成されるのである。実は書物の二番目の定義は最初の定義を裏切っているのであって、この二つの共存を当然視する立場は神秘主義あるいは迷信にすぎない。人が内容の王聖を考慮に入れようとするなら、書物の観念はもはや助けにはならないだろう。われわれに必要なのはテクsとの概念なのであり、それは書物と読みの行為を包摂するものである。読者において、「私」はあたかもテクストの外部に立っているかのようにテクストと対面するのではない。読書において「私」はテクストのなかで登場するのであって、それはメッセージの同一性としての書物が、テクストのなかで登場するのと同じことなのである。
P. 460
日本語という統一体が、言説において思考可能かつ共役可能な差異同士の出会いを描写するために喚起された一つの作為(つまり発明)であることは、疑う余地がない。この仕掛けによって、『古事記』のような既存言説の内部では順応不能だったものが、全員一致で理解された「私たち」に対する同定可能な一つの他者として、その既存言説へと横領されていったのである。この言説上の発明品は、共役不能なものを共役不能なものとして理解すること、思考不能なものと思考不能なものとして決定することへの回路を切り開いたのだ、と言って言えないことはないだろう。それはこれまで沈黙させられてきたものの場を露呈され、異なる実践系へとこの場を連結することに成功した。詭弁と思われるかもしれないが、それは、たとえ人が出会っても思考も理解もできなかったものが、限定され定義され思考され、さらに思考不能なものとして了解される過程を開示したのである。共役不可能なものはこうして同定され、思弁においては共役可能なものとして登録されたのである。
P. 464
一般に時枝国語学と呼ばれるものは、国語という概念に非常に重要な役割を割り当てている。言語学者の使命は言語の本質を知ることであると定義した時枝は、一般言語学から個別的な言語研究を演繹するのではなく、その逆に、既存の一般言語学を個別の言語の研究を通じて問うという仕方の言語研究を提案している。彼はこの言語学観を、言語一般を扱うとされる言語哲学と、個別の諸言語についての実証的検討を必ず含む言語学との間の関係にも/敷衍している。言語哲学を廃棄する代わりに彼が強調したのは、個別言語の研究は言語一般の本性に関する支配的な見方を疑い、挑戦するための機会として捉えるべきであるということであり、個別言語の研究は言語哲学的な理論的厳密さを要求している、ということであった。ここで暗示されているのは、一九世紀のヨーロッパの言語学に対する明白な批判であって、彼の考えでは、ヨーロッパの言語学では近代ヨーロッパ言語に関する通俗的概念をそのまま言語の普遍的本質と素朴に想定してしまっているのである。さらに、時枝は民族中心主義的ではない言語研究、言語一般の理解と探究と個別言語の検討との関係を、それまでとは異なる角度から考える研究を理論的に追求するための下図を描こうとした。そこで、彼は、言語をその普遍的特徴において扱い、相違する諸共同体や社会集団が所有する言語像に内在する固有の差異を無視する傾向をもつ言語哲学は、個別の言語を直接検討している人物によって常に問い直されるべきであると主張したのである。この意味において、彼はすべての言語学者は言語哲学者でなければならないし、一つの言語に関する経験的データを記述する枠組みとして機能する言語本質観を常に検討し、再評価しなければならないと論じた。こうして、言語学者は、言語的現象に関して生み出された経験的かつ客観的データのみならず、今日の私たちならば言語に関する知識をめぐる一群の実定性として生み出された経験的かつ客観的データのみならず、今日の私たちならば言語に関する知識をめぐる一群の実定性として措定される言語学というエピステーメ――言語について知識を得ることを可能にする条件――と呼ぶかもしれないものにも注意を払うことを、彼は要求したのである。
P. 469
だから、多くの漢学者や国学者が、当時の言語状況の雑種性について危機的な意識をもった理由を、言語が透明性を失い、人びとの間の伝達機能を失ったからだという歴史的事実に因果的に求めることはできない。それは経験の問題ではないのである(ここで因果律にもとづく歴史的説明を求めることは、日本語の理念の生成の偶然性・事実性を隠蔽してしまうように思える。さらに、歴史的変化に究極的な基礎づけを求めることもまたできないだろう。歴史は精神の自己展開でも、理性の目的論としても考えることはできない。歴史には最終的な根拠が存在しないからである)。そうではなく、透明で均質で雑種性をもたない純粋日本語という理念が、多言語性の了解の大幅な変換に伴って登場してくることと彼らの危機意識は相関していたのである。透明で均質な言語の形象を仮説することで、不透明で不均質なものとしての既存言語を知覚することが可能になったのだ。つまり、日本語の死産は、同時に、純粋で均質な非雑種的な言語への欲望を喚起したのである。
P. 481
一八世紀を通じて、ある一言語の統一性が想像される主題化された議論と、こうして対象化された言語との差異は鋭く認識されていた。それゆえ荻生徂徠の場合は古代中国語、国学者の場合は日本語が、過去において言語として常に措定されていたのであるが、誰も、その言語が現存するとは考えなかった。これらの思想家たちはこうした諸言語は過去のある時点でのものがかつては存在していたと信じていたけれども、ある言語の統一性は同時代の既存共同体の統一性とは直接同一視はできないという意識を維持していた。確かに彼らは徳川幕藩体制を断片化され、混乱し、内的一貫性や調和とは程遠いものとして捉えていたが、しかし内在的に均質で一貫した全体の統一性、あるいは「内部」という地位を自らの同時代の政体に重ね合わせることを拒絶したのはそれ以上の理由があった。一つには、彼らの議論はまだ強力に批評的な衝動を孕んでいたので、彼らは均質な「内部」のイメージを措定して、疎外され、断片化された同時代の現実に光を当てようとしたのである。つまり、日本語とは一つの「理念」として、特に失われた「理念」としてのみ可能であり、必然的に存在しないものとであるという洞察は彼らを完全には失っていなかったのである。確かにそれはどこにも存在しない、ということを知っていた。
この意味において、私は日本語とその「文化」は、一八世紀に誕生したと主張する。その一方で、一八世紀の日本語観と明治以降の近代的な日本語観との差異についても強調しようと思う。一九世紀末に起こったのは、日本人という統一体と無媒介の「私たち」を分けていた距離の崩壊である。この距離のおかげで、一八世紀の言説は文化/的国民主義の一変種への完全に退化することはなかったのである。しかしこの距離と日本語の喪失への感覚が消去されると、日本人の統一性と「内部」が、既存の言語と共同体に、媒介なしで同一視されることになる。もちろん、この同一視が達成したのは、思考不能なものの場を排除し、文化的諸制度を標準化し、言語を均質化することであった。この過程において、実体化され、均質的体系性の統一性を暗示すべく造られた「文化」という概念が、徹底的に利用された。まず「内部」なるものがすでに存在するという同意を醸成することで、居周混淆的なものを助長する可能性のあるものだ、すべて非合法化する権威が支配者に与えられたのである。日本語とその民族の存在なるものが導き出され、現在において存在するように造られ、その結果、あたかも経験においてこうした実体が観察可能であるかのように、疑問の余地がない確実性へと変容させられた。こうして日本人は死んでいた過去から復活させられ、国民として、近代国家に対して、近代国家のために、臣民としての役割を果たすようになり、それと同時に、日本語が文化本質主義の実証主義的言説における一つの実体として設定されたのである。言うまでもないが、これこそ日本という近代国民国家が世界的植民地主義、文化本質主義、そして人種主義へと横領されていった過程にほかならない。だからこそ、私は、「文化」という概念のこうした用法を打破するために、「言説」を本書の考察の核に置いたのである。
以下注
P. 493
朱子学を幕藩体制イデオロギーとして考えることの問題は、すべて間テクスト的距離を扱い損ねたことが原因だと思われる。その距離は歴史的距離かあるいは社会集団間の距離として自動的に解釈されてきたのである。私は、ここで、支配的イデオロギーと社会階級間あるいは社会集団間との距離が関係していないと言っているのではない。むしろ、テクストの形成を社会や経済の形成に還元することはできないということだ。社会における権力関係はテクストにおいて構成されるのであって、その逆ではない。
P. 514
バフチンは話し手の意識の個別性(individuality)、すなわち不可分性(indivisibility)を拒絶することによって、常に既に分裂した話し手を措定した。この点では、話し手は自己同一的なものではない。他方では、バフチンは、ポリフォニーを多様な声、多様な話し手の参加によって説明している。バフチンは、たんに発話行為の場面では複数の話し手が存在すれば、産出されるテクストは必然的にポリフォニック(多声的)であり、対話論的であることを示唆しているだけなのだろうか。明らかにそうではない。対話論性(dialogism)の概念は、常識的な対話(dialogue)の理解とはあまり関係がないことを強調しておかねばなるまい。たとえ独白(monologue)であっても、基本的には対話論的であるというバフチンの主張を参照されたい。
P. 538
荻生は原則を意味する「理」という漢字を、「理(おさ)める(regulate)」という動詞に使っている。「その人〔仁斎先生〕専ら孟子を守りて、先王の礼楽の教へを知らず。故に以為(おも)へらく、情を理(おさ)めずして可なりと。……それ情なる者は思慮に渉らざる者なり。楽(がく)の教へたる、義理の言ふべきなく、思慮の用ふべきなし。故に性・情を理(おさ)むるに楽(がく)を以てす。これ先王の教への術なり」(『弁名』下「性・情・才」第六則、前掲『荻生徂徠』一四三頁)
P. 540
気づかれる読者もいるだろうが、「自民族中心主義(ethnocentricity)」は通常、この段落での私の用法とは反対の意味で使われている。自民族中心主義とは、ある価値の普遍性を主張することが、暗黙のうちに特定の民族集団の同一性を特権化し、そ/こからの価値の非差別的な開放性を主張しつつも、他の集団に対する自己の優越を断言する。そうした言説編成のことである。ここから、民族的無私(エスニック・セルフレスネス)(明示された主張)と自己中心性(セルフ・センタードネス)(転位された本音)という二つの対立する概念が、自民族中心主義に特徴的な二重構造のうちに共存することになる。この点で、徳川期日本の言説編成は民族的無私の主張の側面を欠いたまま自民族中心主義的に表れている。それは開放的な装いをもたないのである。けれどもこれから論じるように、徳川期日本の言説編成は、正統的な自民族中心主義言説との代補的な調和関係を容易に形成する。一八世紀末から一九世紀初めにかけての国学の文献は、一七世紀の山崎闇斎の書物に加え、このように特殊主義的で未成熟な自民族中心主義の形成が、普遍主義的で本来的な自民族中心主義へと転化すること、あるいはその逆もあることを広く示している。自民族中心的な閉域を強化する程度において、これらの間にほとんど違いはない。

■書評・紹介

■言及



*作成:岡田 清鷹
UP:20090731 REV:
酒井直樹  ◇身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
 
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