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『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』

Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge.
=20000725 高橋 さきの 訳,青土社,558p.

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Haraway, Donna J.  1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge.  =20000725 高橋 さきの 訳,『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』,青土社,558p.  ISBN-10: 4791758242 ISBN-13: 978-4791758241 3600  [amazon][kinokuniya] ※ b02

■内容

ジェンダー/セクシュアリティ/階級/文化を規定する「自然」概念を内破させるために、霊長類学、免疫学、生態学など、生物科学と情報科学が接合する。 高度資本主義を支える先端的科学知が構築しつづける「無垢なる自然」を解読=解体し、フェミニズムの囲い込みを突破するハラウェイの闘争マニフェスト。 霊長類学、免疫学、生態学など、生物科学が情報科学と接合されるテクノサイエンスの現場をサイボーグ状況に着地させる。

■目次

謝辞
序章

第1部 生産・再生産システムとしての自然
第1章 動物社会学とボディポリティックの自然経済――優位性の政治生理学
第2章 過去こそが、論争の場である――霊長類の行動研究における人間の本性と、生産と再生産の理論
第3章 生物学というエンタプライズ――人間工学から社会生物学に至る性、意識、利潤

第2部 論争をはらんだ読み――語りの本質と語りとしての自然
第4章 はじめにことばありき――生物学理論のはじまり
第5章 霊長類の本質をめざした争い――フィールドに出た男性=狩猟者の娘たちの1960〜1980
第6章 ブチ・エメチェタを読む――女性学における「女性の経験」への挑戦

第3部 場違いではあるものの領有されることもない他者たる人々にとっての、それぞれに異なるポリティクス
第7章 マルクス主義事典のための「ジェンダー」――あることばをめぐる性のポリティクス
第8章 サイボーグ宣言――二〇世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム
第9章 状況に置かれた知――フェミニズムにおける科学という問題と、部分的視角が有する特権
第10章 ポスト近代の身体/生体のバイオポリティクス――免疫系の言説における自己の構成


訳者あとがき
参考文献
索引

■著者略歴

1944年コロラド州デンバーに生まれる。イェール大学で実験生物学から科学史に転じ、生物学の博士号を取得。 1980年からは、カリフォルニア大学サンタクルーズ校で、科学技術論とフェミニズム理論を講じている。 本書収載の「サイボーグ宣言」、「状況に置かれた知」は、大きな反響を呼んだ。 他に、発生学、霊長類学、分子生物学とテクノサイエンスの現況を扱った著書として、 『Crystals, Fabrics and Fields』、『Private Visions』、『Modest Witness』などがある。

■要約

訳者あとがき

「この文章で、ハラウェイが描出したのは、一言でいえば、テクノサイエンスや生物学の枠組みのシフトであり、そうした枠組みを通して見える世界の変容であった」(pp.516)

「本書の各章で扱われるテーマは、一見、ばらばらに見えるかもしれない。 しかし、これらの各章には、構築されたものとしての自然という、文化対自然の二元論には決して解消されえない〔「えない」に傍点〕存在としての自然というテーマが一貫している。 そして、本書は、自然をめぐる二元論を指摘するための書物ではない。 本書は、自然という存在の、二元論には解消されえない〔「えない」に傍点〕構築のされ方を探る作業の現場である」(p.506)
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第8章 サイボーグ宣言――二〇世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム

集積回路の女性は共通言語というアイロニックな夢を見るか

「サイボーグ――サイバネティックな有機体〔オーガニズム〕――とは、機械と生体の複合体〔ハイブリット〕であり、 社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である」(p.287)
「サイボーグはポストジェンダー社会の生き物である」(p.289)

本章の議論
1.「フェミニズム、社会主義、唯物論に誠実であるような、反語的〔アイロニック〕な政治神話を築く作業」(p.286)
2.「境界を曖昧にする快楽〔「快楽」に傍点〕と、境界を構築する責任〔「責任」に傍点〕とについて」(p.288)
3.「社会主義フェミニズムに貢献するような作業を、ボスとモダニズム、非自然主義のモードで、ジェンダーなき世界について」(p.288)

「サイボーグの最大の問題点は、軍国主義と家父長制資本主義、国家社会主義の非嫡出子である点」(p.291)

不明瞭になってきた境界(pp.291-295)
1.人間と動物の境界
2.動物−人間〔生体〕と機械の区分
3.物理的なるものと物理的ならざるもの

議論の前提(pp.295-296)
1.アメリカの社会主義者やフェミニストたちの大半が、「ハイテク」や科学文化に付随する社会実践、シンボリックな図式化、 物理的な人工物などに、精神/身体、動物/機械、理想主義/唯物主義の一層深い二元論を想定していること
2.世界規模での支配の強化に抵抗せんとする人々の団結/一体性が、今日ほど尖鋭なかたちで必要とされたことはないこと

サイボーグの世界(p.296)
1.戦争という男性至上主義の乱行で、女性の身体が最終的に領有される過程に関わる
2.人々や動物や機械と連帯関係を恐れず、未来永劫にわたって部分的なままにとどまるアイデンティティや相矛盾をする立場に臆することのないような、 社会や身体に関わる
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断片化するアイデンティティ

「フェミニズムという名詞にこだわりつづけることさえすでに難しい。……女性〔フィーメール〕「である」という状態が存在するわけではない」(p.297)

シェラ・サンドゥーヴァル(pp.298-299)
「抵抗意識」と称される有望な政治的アイデンティティのモデルを理論化した。誰が有色の女性であるのかを特定するうえで、何ら本質的な基準がないことを重要視する。

ケイティ・キング(p.300)
フェミニズムの実践のさまざまな「契機〔モメント〕」や「会話」をとらえて、女性たちの運動を分類して、 自らの政治指向があたかもフェミニズムにとっての究極目的〔「究極目的」に傍点〕であるかのごとく論じる傾向を批判する。

「キングとサンドゥーヴァルが共通して到達したのは、詩/ポリティクスを介した団結/一体性を、領有、包摂、 そして分類によるアイデンティティ確定といった論理に依拠することなく創出しうるような方策を身につけることの重要性という地点である」(p.301)

「私は、歴史上、「人種」、「ジェンダー」、「セクシュアリティ」、 「階級」による支配に効果的に立ち向かうための政治的一体性/団結が、今日ほど必要とされている時代を知らない。 また、今日ほど、我々が構築作業の一端を担う可能性のある一体性/団結に実現の可能性がある時代も知らない。 ……少なくとも、「我々」は、自らがこの種の支配の実践に手を汚していないと主張することはできない。 社会主義フェミニストをはじめとする白人女性は、「女性」というカテゴリーが無垢ではないことを発見した」(p.302)

「マルクス主義/社会主義フェミニズムも、ラディカルフェミニズムも、カテゴリーとしての「女性〔ウーマン〕」や、女性の社会生活に伴う意識を、 自然なものであるとみなすと同時に、変性させてきた。……賃金という関係性がもたらす帰結は、 労働者が彼の(原文のまま)生産物から引き離される過程で生じる組織的な疎外である」(p.303)

キャサリン・マキノン(pp.304-306)
「キャサリン・マキノン(1982, 1987)によるラディカルフェミニズムの解釈は、アイデンティティという存在を基礎づけるような作用を持つ各種の西欧的理論に内在する領有、 包摂、全体化指向のカリカチュアとしか言いようがない」(p.304)

「マキノン流のラディカルフェミニズムの物語りに組み込まれた全体化指向は、ラディカルな非−存在〔ノン‐ビーイング〕という経験、 そしてそうしたことに対する宣誓を強要することによって、その目的――女性の一体化/統一/団結――をなしとげるのである。 マルクス主義/社会主義フェミニズムの場合同様、意識/自覚とは達成されるべき存在であって、自然の事実ではないとされる」(p.305)

「マキノンは、フェミニズムが、まず階級構造に着目するようなマルクス主義の場合とは異なる分析戦略――すなわち、まず、性〔セックス〕/ジェンダー構造やその発生関係、 つまり女性のセクシュアリティが男性によって構築、領有されてきた点に着目する分析戦略――を採用したのは必然であったと論ずる」(p.305)

「女性は、単にその生産物から疎外されているばかりでなく、深い意味では、主体として、あるいは潜在的主体としてさえ存在していない。 というのも、彼女の女性としての存在は性的搾取に依拠しているからである」(p.306)

「アイデンティティについてのマルクス主義系のどの議論も、女性の一体性に関して確たる根拠を付与しえていないという点に関して、 私は、マキノンが正しく論じていると思う」(p.306)

「マキノンが意図的に行っているような、女性の「本質的」非−>307>実在という装置を介したあらゆる差異の意図的な抹消は、 決して推奨できるようなものではない」(pp.306-307)

「再生産/生殖〔リプロダクション〕は、社会主義フェミニズムとラディカルフェミニズムという、一方が労働に根拠を置き、 他方が性〔セックス〕に根拠を置き、その双方ともが、社会や個人のリアリティの支配や無視の帰結を「虚偽意識」と称している二つの動向にとって、 異なったトーンの意味を有していたということなのだと思う」(p.307)

社会主義フェミニズム――階級構造/賃労働/疎外
労働。労働とのアナロジーで再生産/生殖を論じ、労働を拡張することによって性〔セックス〕を論じ、労働に付加することによって人種を論じる。

ラディカルフェミニズム――ジェンダー構造/性的搾取/対象化
性〔セックス〕。性とのアナロジーで労働を論じ、性を拡張することによって再生産/生殖を論じ、性に付加することによって人種を論じる。

ジュリア・クリステヴァ
女性は第二次大戦後に若者などのグループとともに歴史的なグループとして出現した。(p.308)

「白人ヒューマニズムの論理、ことば、そして実践に軽々しく参画したこと、そして支配の単一の根拠を探ることによって我々の革命の声を確保しようとしたことに関して、 我々は少なくとも有罪だというのが、私の考えである」(p.309)
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支配の情報工学

「社会主義とフェミニズムのデザイン原則にのっとった見取り図――を描出してみたい。 私のスケッチの枠組みは、科学とテクノロジーの緊密な結びつきの中で、世界規模の社会関係の配置替えがいかなる範囲に及び、 いかなる重要性を有するのかによって設定されている。……我々は、有機的で産業的な社会から、 ポリモルフな情報システムへの移行――すべてが労働であるような社会からすべてが遊戯、>310>死に至るゲームであるようなシステムへの移行――を経験しつつある」 (pp.309-310)

二項対立的な見取り図〔一例〕(pp.310-311)
有機体――生体部品〔バイオティック・コンポネント〕
優生学――人口管理政策
衛生――ストレス管理
生殖――複製
第二次大戦――スター・ウォーズ

「科学によって知ることが可能なありとあらゆる対象が、(管理者にとっては)コミュニケーション工学の問題として、 (抵抗を試みる者にとっては)テキスト理論の問題として定式化されることを必要としている。そして、その双方が、サイボーグの記号論である」(pp.313)

「この世界のありとあらゆる種類の部品に感染しうる特権を有する病理は、ストレス、すなわち、>314>コミュニケーションの破綻〔ブレークダウン〕である。 サイボーグは、フーコーのバイオポリティクスの対象とはならない。 サイボーグが、ポリティクスを――バイオポリティクスをはるかにしのぐ強力なオペレーションの場を――シミュレートする」(pp.313-314)

「女性たちが直面している状況とは、私が支配の情報工学と称する生産/再生産とコミュニケーションの世界システムへの女性の統合/搾取である」(p.314)

「我々の身体を創造しなおすうえでは、コミュニケーション・テクノロジーが必須のツールとなる」(p.315)

「ある意味で、生体は知の対象として存在することを停止し、生体部品〔バイオティック・コンポネント〕、すなわちある種の情報処理装置として存在するようになった」(p.316)

「さまざまなシミュラクル、すなわち、原型〔オリジナル〕なき複製〔コピー〕の技術上の基底をなすのは、マイクロエレクトロニクスである」(pp.316-317)

「マイクロエレクトロニクスは、労働からロボット工学やワープロ作業、性〔セックス〕から遺伝子工学や生殖技術、 精神からAI(人工知能)や意思決定過程への翻訳を媒介する」(p.317)

「機械と生体との差異は完全にぼやけているし、心とからだと道具が緊密きわまりない関係をとり結んでいる」(p.317)

「私が、「科学とテクノロジーの社会関係」なる奇妙で回りくどい言い方を使用したのは、我々が技術決定論に関与しているわけではなく、 人々の間に構築されたさまざまな関係に依拠した歴史システムと対峙しているのだということを示唆するためである。 しかし、このフレーズは、科学やテクノロジーが権力の新鮮な源泉となっていること、 そして、我々もまた、分析や政治行動の新鮮な源泉を必要としていることを同時に示唆している」(p.318)
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「家庭」の外の「ホームワーク経済」

「「新産業革命」は、新たな世界規模の労働者階級、そして新たなセクシュアリティや民族性〔エスニシティ〕を生成しつつある」(p.318)

「状況は、単に、輸出加工部門、特にエレクトロニクス部門の科学系多国籍企業にとって、第三世界の国々の女性が好ましい労働力であるというだけにとどまるものではない。 その構図はもっと体系的で、再生産/生殖、セクシュアリティ、文化、消費、生産をも含みこんだものである」(p.318)

「リチャード・ゴードンは、こうした新たな状況を「ホームワーク経済」と呼んだ。 ゴードンは、この用語に、電子機器の組み立てに際して生じる文字どおりの内職〔ホームワーク〕という現象も含めてはいるものの、 ゴードンが「ホームワーク経済」という名称を付与しようとしたのは、 従来、女性の職種――すなわち、文字どおり、女性のみが担ってきた職種――に特有であるとされてきた数々の特徴を包括的に含むような労働の再編である。 労働は、それを行うのが男性であると女性であるとにかかわらず、文字どおり、女性的〔フィーメール〕、あるいは女性化された〔フェミナイズド〕ものとして再定義されつつある。 女性化されることが意味するのは、極端に弱い立場に追い込まれ、予備労働力として分解・再組み立てされたり搾取されたりする対象となり、 労働者としてよりは奉仕者であるとみなされるようになり、賃労働に時間契約で就いた結果、就労時間制限すら用をなさなくなり、猥褻かつ場ちがいで、 セックスに還元可能な状態と常にスレスレの存在となることである」(p.319)

「こうした経済、技術の新たな編成は、福祉国家が崩壊し、 その結果、女性に対して、自らのみならず、男性、子ども、老人の日常生活をも維持せよとの要求の強まったこととも関連している。 貧困の女性化――福祉国家の解体によって、安定した職業が例外と化したようなホームワーク経済によって生起し、子どもを養っていくという意味で、 女性の賃金が男性の賃金に匹敵するようなレベルに達することはないだろうという予測のもとに維持されている動向――が、焦眉の課題となっている」(p.320)

家族の理想形態の図式(p.321)
1.公私二元論に形づくられた家父長制的家族には、公私別々の活動圏という白人ブルジョワイデオロギーと19世紀的な英米系ブルジョワフェミニズムが付随していた。
2.福祉国家や家族賃金といった制度によって媒介(強制)された近代家族――非フェミニズム的なヘテロセクシュアル・イデオロギーが興隆を迎えた。
3.ホームワーク経済の「家族」――さまざまなフェミニズムが爆発的に生まれ、ジェンダーそのものが逆説的に強化されつつ、侵食された。

「食糧やエネルギー作物のハイテク商品化が進んでも、女性がその恩恵に浴することはまずないし、また女性の食糧調達責任が軽減することはないのに、 生殖/再生産をめぐる状況はますます複雑になっているので、生活は厳しさの度を増すばかりである」(p.322)

「コミュニケーション技術は、あらゆる人々にとっての「公的生活」を消し去るうえで必須のものであり、その結果、ほとんどの人々の経済的犠牲のもとに、 なかんずく女性の犠牲のもとに、恒久的なハイテク軍事体制が急成長することになる。 ……ジェンダー化されたハイテク想像力、すなわち惑星の破壊やその結果生じた状態からのSF的逃亡について思いをめぐらす想像力が、 ここに生み出される」(p.323)

「こうした社会生物学の物語りが依拠しているのは、身体を、 生体部品〔バイオティック・コンポネント〕あるいはサイバネティックなコミュニケーション・システムとみなすハイテクの身体観である。 生殖/再生産をとりまく状況がさまざまに変遷を重ねる中で、医療の状況も変化し、女性の身体の境界を「視覚/映像化」や「介入行為」がすりぬけるようになってきた。 ……>324>セルフ・ヘルプでは不充分である」(pp.323-324)

「どのような政治的アカウンタビリティを>325>構築すれば、我々を分断する科学・技術の階層を横断して女性同士の連携を達成することができるだろう?」(pp.324-325)
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集積回路の女性

「私は、イデオロギーとしては、ネットワークのイメージの方が好きである。 というのも、ネットワークのイメージの方が、空間やアイデンティティがたっぷりした感じがするし、 個々人の身体やボディポリティックの境界をうまくすり>326>ぬけられそうな感じがするからである。 「ネットワーキング」はフェミニズムの実践であるとともに、多国籍企業の戦略でもある――織り物は、抵抗するサイボーグにうってつけの作業かもしれない」(pp.325-326)

「以下のリストを、「アイデンティティへの同一化」や一体なる自己という立場から読まないでいただきたい。 争点は分散にある。散逸構造〔ディアスポラ〕を生き抜くことが課題である」(p.326)

集積回路での女性の「位置」〔例〕(pp.326-329)
家庭
家庭という労働搾取工場の再出現、強化された核家族、激しい家庭内暴力
市場
標的となった女性の連綿たる消費労働、金融システムの抽象化、消費の性化の強化
有償労働の場
安定雇用の見こみもないような状態、労働が「周縁化」あるいは「女性化」する事態
国家
ハイテク軍事化、私化と軍事化の密接な統合
学校
資本と公教育の結びつきの強化、大衆の無知と抑圧のための教育
診療所/病院
強化される機械−身体の関係、新たな特殊歴史的疾患の出現
教会
政治闘争において、精神性が占めつづけている重要な位置

「支配の情報工学は、不安がいちじるしく増幅され、文化が疲弊し、 最も傷つきやすい者が生存するためのネットワークが常に欠落しているような状態としてしか描写のしようもない」(p.329)

「銘記しておくべきは、失われたもの、特に女性の位置から見て失われたものというのが、往々にして、致命的な抑圧形態なのであって、 そうした抑圧状態であっても、目下進行中の暴力に直面してしまうと、郷愁を帯びて自然化されてしまうという点についてだろう。 ハイテク文化によって媒介された一体性の混乱をめぐる葛藤が必要としているのは、 「ソリッドな政治的認識論の基礎をなす見通しよい批判」対「操作された虚偽意識」というカテゴリー間での仕分けを行うような意識ではなく、 ゲームの規則を変化させる思慮深い可能性を秘めた、出現しつつある快楽、経験、力についての曖昧な理解である」(p.330)

「反語的ではあるけれども、ひょっとすると、動物や機械と融合する過程を介して、 我々は、いかにして人間〔マン〕たらざりうるか、――いかにして、西欧のロゴスが具体化された存在としての人間〔マン〕ではないかたちで存在しうるか、 ――について学ぶことができるかもしれない」(p.331)
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サイボーグ――政治的アイデンティティという神話

「私は、本章を、アイデンティティと境界をめぐる神話物語り――ひょっとすると、 20世紀後半の政治的想像力とは何なのかをかいまみせてくれるかもしれない神話物語り――をもって締めくくりたいと思う(図版1――巻頭)」(p.332)

「「有色女性」は、科学系の産業にとって好ましい労働力であり、真の女性なのであって、彼女たちのためとあらば、 世界規模の性市場、労働市場、生殖/再生産のポリティクスさえ、めくるめくうちに日常生活へと変貌する。 性産業や電子部品の組み立てに雇用される若い韓国女性は、高校から採用され、その段階で、すでに集積回路向きの教育を受けている。 多国籍企業にとって極めて魅力ある「安価な」女性労働力は、読み書き能力、特に英語の読み書き能力を身につけている」(p.334)

「書くという行為は、植民地支配を受けるすべての集団にとって、特段の意味を持つ。……書く行為の持つさまざまな意味をめぐる論争は、 今日、政治>335>闘争の主要な形態となっている。書くという行為〔プレー〕を解き放つことは、命とりともなりかねない深刻な事態なのである。 米国の有色女性の手になる詩や物語りは、書くという行為について、――意味を体現しうる権力にアクセスするとはいかなる事態なのかについて、 ――繰り返し扱ってきた。しかし、ことここに至って、書くという権力は、もはや男根的であったり、無垢であったりしてはならない。 サイボーグの読み書きが男性/人類〔マン〕の堕落――ことば以前、書くこと以前、 男性/人間〔マン〕以前の昔むかしに存在したかもしれないような全体性をめぐる想像力――に関わる存在であってはならない。 サイボーグの読み書きは、生存のための力――起源における無垢に立脚した力ではなく、 自らを他者として刻印した世界を刻印するツールを制圧する過程に基づいた力――に関わるものである」(pp.334-335)

「近年、我々の身体をC 3I(指揮〔コマンド〕−管制〔コントロール〕−通信〔コミュニケーション〕−情報〔インテリジェンス〕) のグリッド上に位置する暗号〔コード〕の問題としてテキスト化した。フェミニズムのサイボーグによって語られる物語りには、 通信〔コミュニケーション〕と情報〔インテリジェンス〕を暗号〔コード〕化しなおして指揮〔コマンド〕と管制〔コントロール〕を覆すという仕事が待っている。
 比喩的な意味でも、字義どおりの意味でも、ことばのポリティクスは有色女性のさまざまな闘いに通底>336>しているし、ことばに関わる物語りは、 米国の有色女性によって書かれた豊穣たる現代文学において、特段の力を発揮している」(pp.335-336)

「であればこそ、サイボーグのポリティクスはノイズに固執し、汚染を擁護して、動物や機械との非嫡出の融合に歓喜する。 こうしたことは、大文字の男性と女性に混乱を持ち込むような接合のしかたであり、 欲望――ことばやジェンダーを生成する存在として想定されている力――の構造を覆し、ひいては自然と文化、鏡と目、奴隷と主人、 からだと心といった「西欧」アイデンティティの再生産構造やモードを覆す。「我々」は、起源において、サイボーグとなることを選んだわけではないが、 サイボーグとなることを選んだことによって、より広範な「テキスト」を複製する作業に先立って、 個の生殖/再生産に思いをめぐらすようなある種のリベラルなポリティクスや認識論の基礎が付与されることとなった」(p.337)

「サイボーグたちは、真の生命/生活を得んだための犠牲といった発想をイデオロギーの源泉とすることを拒む。……生存こそが最大の関心事である」(p.339)

「ハイテク文化は、二項対立に興味深いかたちで挑戦する。……我々は、自らがサイボーグ、混成物〔ハイブリッド〕、モザイク、キメラであると思う」(p.340)

「一つの帰結として、道具とつながっているという我々の感じ方は、強まっていると思う。コンピュータ・ユーザーが経験するトランス状態は、SF映画や文化ジョークの定番になった。 ひょっとすると、他のコミュニケーション装置との複雑なハイブリッド状態について最も強烈な経験が可能で、場合によってはすでに実地で経験ずみなのは、 対麻痺をはじめとする障碍の重い人々であるのかもしれない。 アン・マキャフリーは、プレ・フェミニズムの『歌う船』(1969)で、あるサイボーグ――障碍の重い子ども>341>の誕生後に作製された、 その女の子の脳と複雑な機械装置のハイブリッド――の意識について探究した、この物語では、ジェンダー、セクシュアリティ、ものごとの具体的なかたち、 スキルといったもの――要するにすべて――が再構築される。なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらねばならず、 せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しないのだろうか、と」(pp.340-341)

「我々にとって、我々が想像をはじめとする各種の行為を実践する際には、機械は、生体の欠損部分・機能を補う装置とも、親密な部品とも、近しい自己ともなりうる」(p.341)

フェミニズムSFの例(pp.341-344)

「サイボーグ――我々の敵対するものではない存在としてのサイボーグ――の想像力をシリアスに受けとめると、いくつかの結論が導かれる。 我々のからだは我々自身のもの(our Bodies, ourselves)――身体は、権力とアイデンティティの地図である。サイボーグとて、例外ではない。 サイボーグの身体は無垢ではない――サイボーグは楽園に生まれたわけでも、一体性としてのアイデンティティを求めているわけではなく、 相対立する二項対立をはてしなく(要するに世界が終わるまで)生成するわけでもなく、アイロニーを当然のものとして受けとめる。 一つは少なすぎるし、二つというのは一つの可能性にすぎない。スキル、それも機械のスキルを目一杯楽しむことは、もはや罪ではなく、 事物が具体的なかちをとる過程の一つの側面となった。機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。 機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。 我々は、各種の機械に対して責任ある存在となることができる――機械たち(they)は我々を支配するわけでも脅かすわけでもない。 我々は境界に対して責任ある存在であり、我々が境界なのである」(p.345)

「サイボーグたちであれば、性や性にまつわる具体的な事物の部分的で、流動的〔フルーイッド〕で、きまぐれな側面を、 もっとシリアスに受けとめるかもしれない」(p.345)

「何をもって日常的活動――経験――とみなすのかという、イデオロギーに満ちた問いには、サイボーグのイメージを利用してアプローチをすることが可能だと思う」(p.346)

「有機体や、有機体論的なホーリズムのポリティクスは、いずれも、復活〔リバース〕というメタファーに依拠し、一様に、 生殖する性〔セックス〕という源泉を要求する。サイボーグに関係があるのはどちらかといえば再生〔リジェネレーション〕の方であって、 サイボーグは生殖の基盤〔マトリクス〕や大方の出産には疑念をいだいている、と私は思う」(p.346)

「我々は、復活〔リバース〕ならぬ再生〔リジェネレーション〕を必要としており、我々が再構成される過程をめぐってのさまざまな可能性の中には、 ジェンダーなきモンスターの世界の出現を希求するというユートピアの夢も含まれる」(p.347)

サイボーグの想像力が導く議論(p.347)
1.普遍的で全体化作用を持つような理論の生成は大きなまちがいであり、そうした理論は、リアリティの大半を常にとり逃がしてしまうことになる。
2.科学やテクノロジーの社会関係に対して責任を持つことは、反科学の形而上学をやめることを意味し、 日常で遭遇するさまざまな境界を構築しなおすという熟練を要する作業を大切にし、そうした作業を、他者との部分的な関係性を保ちつつ、 しかも我々を構成する各種の部分〔パーツ〕のすべてとコミュニケーションをとりながら行ってゆくことを意味する。

「サイボーグの想像力は、二項対立という迷路――我々が、これまで、我々自身に対して、 我々の身体や道具についての説明を行ってきた枠組み――から抜け出す道筋を提示することができる」(p.347)

「サイボーグの想像力は、 新右翼の超特価/超救済説教師〔スーパーセイバー〕たちの回路に恐怖の鉄槌を打ち込むようなことばでフェミニストたちが会話しているような事態に関わる想像力である。 サイボーグの想像力は、機械、アイデンティティ、カテゴリー、関係性、宇宙の物語りといった存在の構築と>348>破壊の両方を意味する。 スパイラル・ダンスには、女神もサイボーグも加わっているものの、私は、女神ではなくサイボーグとなりたい」(pp.347-348)
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■引用

 「西欧人にとっての適性な状態とは、自己に対する所有権を有し、コア・アイデンティティをあたかも所有物のごとくに所有し、保持している状態である。 この所有物は、さまざまな原材料から時間をかけて作ってもよいし、――つまり、文化の産物であってもよいし、――生まれつきのものであってもよく、 ジェンダー・アイデンティティとは、こうした所有物なのである。 自己を財産として所有してないということは、主体ではないということであり、したがって,媒介作用を有さないということである。」(p.258)

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■言及

北村 健太郎 20140930 『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』,生活書院,304p.  ISBN-10: 4865000305 ISBN-13: 978-4-86500-030-6 3000+税  [amazon][kinokuniya][Space96][Junkudo][Honyaclub][honto][Rakuten][Yahoo!] ※

◆高橋 透 20060601 『サイボーグ・エシックス』,水声社,180p. ISBN-10: 489176578X ISBN-13: 978-4891765781 2100  [amazon] ※ b c02

◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4-260-33377-1 2940  [amazon][kinokuniya] ※, b
 序章冒頭に引用:「サイボーグたちは、真の生命/生活を得んがための犠牲といった発想をイデオロギーの源泉とすることを拒む。[…]生存こそが最大の関心事である。」 (Haraway[1991=2000:339])
 「2 機械の肯定
 問題なのは、「管(カニューレ)が外れ呼吸ができなくなる呼吸器」といった出来のわるい機械であり、出来のわるい機械を作り、使いつづけさせている人たちであり、 危険を減らそうとしない人たちである。はっきりしているのは、起こっていることが、「機械」に対する「自然」、 「機械による延命」に対する「自然な死」といった抽象的な図式のもとにあるのではないということである。機械は機械だから問題にされているのではない。 信じがたく出来のわるい機械があるから、それをもっとよい機械にしようというのである。  同時に、人間と機械の新しい関係、といったようなことを語ってしまう人たちのように、ただ抽象的に機械との接合を賞揚しようとする必要もまたない。 機械、人工のものと身体との関係はまずまったく具体的な関係であり、その問題とは身体とさしあたり身体でないものとの接続の場、接合面に生ずる具体的な不都合や不快である。 身体と身体に接続するものとの間のインターフェイスの問題があり、苦痛の問題があって、人間と機械との接合は実際にはしばしばうまくいかない。サイボーグもなかなか大変なのだ。 治療や、治療と称せられるもののための身体の管理に伴う不快も同様の不快である。例えば「不妊治療」についてそれを問題にしたのがフェミニズムだ。
 そのようなことは「倫理」の主題にとっては次元の低いことだと思われたのだろうか、生命倫理学、医療倫理学ではあまり問題にされない。 しかし単純な痛みやつらさを軽く考えること、軽く位置づけてしまうことこそが問題である。自分のために自分が大切にしているものを譲渡しなければならない。 その支払いが低く見積もられることに敏感であるべきであり、得られるかもしれないものと支払うだろうものと、両者の天秤のかけられ方を問題にしてよく、問題にすべきである。 そして自分のためならまだ仕方がないが、とくに他人にとって(も)有益なもの(例えば子どもを産むこと)のために、自らが時間を費やし、空間を狭められ、 身体の不快や苦痛を得なければならない場合がある。体外受精(+胚移植)の是非についての議論はとうに終わったことにされてしまっている。 しかしその苦痛、負担は終わっていないのだから、依然としてその技術はほめられたものではない(このことを立岩[1997b:156-158]で述べ、[2004e]で繰り返して述べた)。
 つまり、得られる代わりに引き換えになるものがあるということだ。もちろん、どんなものを得るにしてもその代わりに何がしかを払うということはあり、 それは仕方がないことだとも言えるのだが、問題は何と何が引き換えになるかであり、その支払いはどうしても支払わなければならないものなのかである。 いらなければ使わなければよいし、使うしかなければ、不具合が少なく苦痛が少ない方がよい。
 ALSの人たちはALSがなおるようになることを切実に求めている。それはまったく当然のことなのだが、 別の障害の場合には、なおすこと、なおされることへの疑義もまた示されてきた。それはなおすために、 (なおらないのに)支払うものが多すぎるからだった。多くの場合には、すんなりとなおるのであればなおすことの方がよいだろう。 しかしそのために多くを支払わねばならないのであれば、それはやめて機械や人によって補ってもらった方がよいということになる。 ここではなおすことと補うことのいずれがよいのか、あらかじめの順位はついていない。このことを第2章4節に記した。 そして次に、補う方法しかない場合には、あるいはその方法の方がよい場合には、それはうまく補われた方がよい。ALSの場合もうまく機械が合わない時の苦痛は大きい。 その苦痛はない方がよく、なくせないとしても少ない方がよい。
 以上の当たり前なこと、当たり前にすぎることを確認した上で、機械と身体との関係を「ただ機械につながれた状態」とか 「スパゲッティ症候群」というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきでない。不要な管が不要であることはまったく当然のことだが、 必要なものは必要だというだけのことである。私たちは、そのままに与えられたものとしての身体が保存されるべきことを主張する必要はない。 さらに、自らの生存を断念するという不自然な自然に回帰することもない。技術を、痛いから拒否することはあるが、否定しない。 触手を伸ばして栄養を摂取する動物がいるように、その自然の過程の延長に機械はあるだろう。それもまた自然の営みなのだと、自然が好きな人に対しては言ってよい。 なんならそれを進化と、進化が何よりも好きな人に対しては、言ってもよい。  この意味で機械は肯定され、技術は肯定される。 この本の冒頭に――「サイボーグ・フェミニズム」というものを提唱したということになっている――ダナ・ハラウェイの著書からの引用を置いた。 次のような文章もある。
【405】 《なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらねばならず、せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しないのだろうか》(Haraway[1991=2000:341]) 《機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。 機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。》(Haraway[1991=2000:345])」

◆立岩 真也 2000/12/15 「二〇〇〇年の収穫」
 『週刊読書人』2366:2

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*増補:北村 健太郎
UP:20070405(ファイル分離) REV:0406,1114, 20090401,20160614
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