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『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』




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Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge=20000725 高橋 さきの訳,『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』,青土社,558p. ISBN-10: 4791758242 ISBN-13: 978-4791758241 3600 [amazon] ※ b c01 c02

■広告・紹介

http://www.seidosha.co.jp/

     ジェンダー/セクシュアリティ/階級/文化
     を規定する<自然>概念を内破させるために

高度資本主義を支える先端的科学知が構築しつづける<無垢なる自然>を解
読=解体し、フェミニズムの囲い込みを突破するハラウェイの闘争マニフェ
スト。霊長類学、免疫学、生態学………生物科学が情報科学と接合されるテ
クノサイエンスの現場をサイボーグ状況に着地させる。

<著者略歴>
ダナ・ハラウェイ(Donna J. Haraway)1944年コロラド州デンバーに生まれ
る。イェール大学で実験生物学から科学史に転じ、生物学の博士号を取得。
1980年からは、カリフォルニア大学サンタクルーズ校で、科学技術論とフェ
ミニズム理論を講じている。本書収載の「サイボーグ宣言」、「状況に置か
れた知」は、大きな反響を呼んだ。他に、発生学、霊長類学、分子生物学と
テクノサイエンスの現況を扱った著書として、『Crystals, Fabrics and
Fields』、『Private Visions』、『Modest Witness』などがある。

◆内容(「BOOK」データベースより)
霊長類学、免疫学、生態学など、生物科学が情報科学と接合される―。高度資本主義と先端的科学知が構築しつづける“無垢なる自然”を解読=解体し、フェミニズムの囲い込みを突破する闘争マニフェスト。

◆内容(「MARC」データベースより)
セクシュアリティ等を規定する「自然」概念を内破させるために、生物科学と情報科学が接合する。高度資本主義と先端的科学知が構築しつづける「無垢なる自然」を解体し、フェミニズムの囲い込みを突破する闘争マニフェスト。

■目次

第1部 生産・再生産システムとしての自然
 動物社会学とボディポリティックの自然経済:優位性の政治生理学
 過去こそが、論争の場である:霊長類の行動研究における人間の本性と、生産と再生産の理論
 生物学というエンタプライズ:人間工学から社会生物学に至る性、意識、利潤
第2部 論争をはらんだ読み:語りの本質と語りとしての自然
 はじめにことばありき:生物学理論のはじまり
 霊長類の本質をめざした争い:フィールドに出た男性=狩猟者の娘たちの1960〜1980
 ブチ・エメチェタを読む:女性学における「女性の経験」への挑戦
第3部 場違いではあるものの領有されることもない他者たる人々にとっての、それぞれに異なるポリティクス
 マルクス主義事典のための「ジェンダー」:あることばをめぐる性のポリティクス
 サイボーグ宣言:20世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム
 状況に置かれた知:フェミニズムにおける科学という問題と、部分的視角が有する特権
 ポスト近代の身体/生体のバイオポリティクス:免疫系の言説における自己の構成

■引用

 「西欧人にとっての適性な状態とは、自己に対する所有権を有し、コア・アイデンティティをあたかも所有物のごとくに所有し、保持している状態である。この所有物は、さまざまな原材料から時間をかけて作ってもよいし、――つまり、文化の産物であってもよいし、――生まれつきのものであってもよく、ジェンダー・アイデンティティとは、こうした所有物なのである。自己を財産として所有してないということは、主体ではないということであり、したがって,媒介作用を有さないということである。」(p.258)

 「サイボーグたちは、真の生命/生活を得んだための犠牲といった発想をイデオロギーの源泉とすることを拒む。…生存こそが最大の関心事である。」(p.339)

 「…道具とつながっているという我々の感じ方は、つよまっていると思う。コンピュータ・ユーザーが経験するトランス状態は、SF映画や文化ジョークの定番になった。ひょっとすると、他のコミュニケーション装置との複雑なハイブリッド状態について最も強烈な経験が可能で、場合によってはすでに実地で経験ずみなのは、対麻痺をはじめとする障碍の重い人々であるのかもしれない。アン・マキャフリーは、プレ・フェミニズムの『歌う船』(1969)で、あるサイボーグ――障碍の重い子ども(p.340)の誕生後に作製された、その女の子の脳と複雑な機械装置のハイブリッド――の意識について探究した、この物語では、ジェンダー、セクシュアリティ、ものごとの具体的なかたち、スキルといったもの――要するにすべて――が再構築される。なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらねばならず、せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しないのだろうか、と」(pp.340-341)

 「サイボーグ――我々の敵対するものではない存在としてのサイボーグ――の想像力をシリアスに受けとめると、いくつかの結論が導かれる。我々のからだは我々自身のもの(our Bodies, ourselves)――身体は、権力とアイデンティティの地図である。サイボーグとて、例外ではない。サイボーグの身体は無垢ではない――サイボーグは楽園に生まれたわけでも、一体性としてのアイデンティティを求めているわけではなく、相対立する二項対立をはてしなく(要するに世界が終わるまで)生成するわけでもなく、アイロニーを当然のものとして受けとめる。一つは少なすぎるし、二つというのは一つの可能性にすぎない。スキル、それも機械のスキルを目一杯楽しむことは、もはや罪ではなく、事物が具体的なかちをとる過程の一つの側面となった。機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。我々は、各種の機械に対して責任ある存在となることができる――機械たち(they)は我々を支配するわけでも脅かすわけでもない。我々は境界に対して責任ある存在であり、我々が境界なのである」(p.345)

■紹介・言及

◆立岩 真也 2000/12/15 「二〇〇〇年の収穫」
 『週刊読書人』2366:2
◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4-260-33377-1 2940 [amazon][boople] ※, b
 序章冒頭に引用:「サイボーグたちは、真の生命/生活を得んがための犠牲といった発想をイデオロギーの源泉とすることを拒む。[…]生存こそが最大の関心事である。」(Haraway[1991=2000:339])
 「2 機械の肯定
 問題なのは、「管(カニューレ)が外れ呼吸ができなくなる呼吸器」といった出来のわるい機械であり、出来のわるい機械を作り、使いつづけさせている人たちであり、危険を減らそうとしない人たちである。はっきりしているのは、起こっていることが、「機械」に対する「自然」、「機械による延命」に対する「自然な死」といった抽象的な図式のもとにあるのではないということである。機械は機械だから問題にされているのではない。信じがたく出来のわるい機械があるから、それをもっとよい機械にしようというのである。  同時に、人間と機械の新しい関係、といったようなことを語ってしまう人たちのように、ただ抽象的に機械との接合を賞揚しようとする必要もまたない。機械、人工のものと身体との関係はまずまったく具体的な関係であり、その問題とは身体とさしあたり身体でないものとの接続の場、接合面に生ずる具体的な不都合や不快である。身体と身体に接続するものとの間のインターフェイスの問題があり、苦痛の問題があって、人間と機械との接合は実際にはしばしばうまくいかない。サイボーグもなかなか大変なのだ。治療や、治療と称せられるもののための身体の管理に伴う不快も同様の不快である。例えば「不妊治療」についてそれを問題にしたのがフェミニズムだ。
 そのようなことは「倫理」の主題にとっては次元の低いことだと思われたのだろうか、生命倫理学、医療倫理学ではあまり問題にされない。しかし単純な痛みやつらさを軽く考えること、軽く位置づけてしまうことこそが問題である。自分のために自分が大切にしているものを譲渡しなければならない。その支払いが低く見積もられることに敏感であるべきであり、得られるかもしれないものと支払うだろうものと、両者の天秤のかけられ方を問題にしてよく、問題にすべきである。そして自分のためならまだ仕方がないが、とくに他人にとって(も)有益なもの(例えば子どもを産むこと)のために、自らが時間を費やし、空間を狭められ、身体の不快や苦痛を得なければならない場合がある。体外受精(+胚移植)の是非についての議論はとうに終わったことにされてしまっている。しかしその苦痛、負担は終わっていないのだから、依然としてその技術はほめられたものではない(このことを立岩[1997b:156-158]で述べ、[2004e]で繰り返して述べた)。
 つまり、得られる代わりに引き換えになるものがあるということだ。もちろん、どんなものを得るにしてもその代わりに何がしかを払うということはあり、それは仕方がないことだとも言えるのだが、問題は何と何が引き換えになるかであり、その支払いはどうしても支払わなければならないものなのかである。いらなければ使わなければよいし、使うしかなければ、不具合が少なく苦痛が少ない方がよい
。  ALSの人たちはALSがなおるようになることを切実に求めている。それはまったく当然のことなのだが、別の障害の場合には、なおすこと、なおされることへの疑義もまた示されてきた。それはなおすために、(なおらないのに)支払うものが多すぎるからだった。多くの場合には、すんなりとなおるのであればなおすことの方がよいだろう。しかしそのために多くを支払わねばならないのであれば、それはやめて機械や人によって補ってもらった方がよいということになる。ここではなおすことと補うことのいずれがよいのか、あらかじめの順位はついていない。このことを第2章4節に記した。そして次に、補う方法しかない場合には、あるいはその方法の方がよい場合には、それはうまく補われた方がよい。ALSの場合もうまく機械が合わない時の苦痛は大きい。その苦痛はない方がよく、なくせないとしても少ない方がよい。
 以上の当たり前なこと、当たり前にすぎることを確認した上で、機械と身体との関係を「ただ機械につながれた状態」とか「スパゲッティ症候群」というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきでない。不要な管が不要であることはまったく当然のことだが、必要なものは必要だというだけのことである。私たちは、そのままに与えられたものとしての身体が保存されるべきことを主張する必要はない。さらに、自らの生存を断念するという不自然な自然に回帰することもない。技術を、痛いから拒否することはあるが、否定しない。触手を伸ばして栄養を摂取する動物がいるように、その自然の過程の延長に機械はあるだろう。それもまた自然の営みなのだと、自然が好きな人に対しては言ってよい。なんならそれを進化と、進化が何よりも好きな人に対しては、言ってもよい。  この意味で機械は肯定され、技術は肯定される。この本の冒頭に――「サイボーグ・フェミニズム」というものを提唱したということになっている――ダナ・ハラウェイの著書からの引用を置いた。次のような文章もある。
【405】 《なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらねばならず、せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しないのだろうか》(Haraway[1991=2000:341]) 《機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。》(Haraway[1991=2000:345])」
◆高橋 透 20060601 『サイボーグ・エシックス』,水声社,180p. ISBN-10: 489176578X ISBN-13: 978-4891765781 2100 [amazon] ※ b c02


UP:20070405(ファイル分離) REV:0406,1114
Haraway, Donna J.  ◇フェミニズム (feminism)  ◇サイボーグ  ◇身体  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 

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