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『解明される意識』

Dennett, Daniel C., 1991 Consciousness Explained, Little Brown & Company.

=19980120 山口 泰司訳『解明される意識』,青土社,650p.


このHP経由で[amazon]で購入していただけると感謝。

■Dennett, Daniel C., 1991 Consciousness Explained, Little Brown & Company.
=19980120 山口 泰司訳『解明される意識』,青土社,650p. 3990 ISBN-10: 4791755960 ISBN-13: 978-4791755967 [amazon]

■青土社のHP
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B2%F2%CC%C0%A4%B5%A4%EC%A4%EB%B0%D5%BC%B1
詳細な目次と著者、訳者紹介あり。

■目次

まえがき

第I章 問題と方法
1 はじめに:いかにして幻覚は可能であるか?

2 意識を説明すること

3 現象学の園探訪

4 現象学に代わる方法

第II章 心についての一つの経験的理論
5 多元的草稿 対 カルテジアン劇場

6 時間と体験

7 意識の進化

8 言葉は私たちにどのように働きかけてくるのか?

9 心のアーキテクチャー

第III章 意識についての哲学的問題
10 「見せる」と「告げる」

11 証人保護プログラムの解除

12 資格を失うクオリア

13 自己の実態

14 想像された意識

付録A(哲学者たちのために)

付録B(科学者たちのために)

原註
訳者あとがき
文献一覧
人名索引
事項索引


■引用
太字見出しは作成者による

小文字の「現象学」
 哲学者や心理学者は、しばしば<現象学>という言葉を、私たちの意識体験のうちに棲みついた、思考[考え]、香り、かゆみ、痛み、想像された紫色の牛、虫の知らせ、およびその他もろもろといった一切の品目を――これらは、私たちの意識体験という名の一地域、一時代に特有な、動・植物群[ファウナ・フローラ]と言い換えてもよい――カバーしている、便利な傘のようなものとして用いている。(p.63上段)

とはいえ、私たちは最近の習慣に従って、現象学という用語を(頭文字を小文字にして)、意識体験の種々様々な項目を説明するときの一般的用語として採用することは、不可能ではない。(p.63下段)

カルテジアン劇場
 こういう、脳の中心をなす座」という考え方を、<デカルト主義的唯物論>と呼ぶことにしよう。こういう考え方は、デカルトの二元論は捨てたのに、「一切がそこに集まってくる」(依然として物質的な)中央劇場という[デカルト的]表象までは捨てられないでいる人たちがたどり着く考え方だからである。松果腺は、そうした「カルテジアン劇場」候補の一つではあろうが、候補としては、前帯状回、網様体、大脳前頭葉の様々な場所など、まだ他にもいろいろ挙げられてきた。デカルト主義的唯物論ではこう見ているのである。つまり、脳のどこかにある決定的な最終ラインもしくは境界線があって、情報がそこに届く順序と体験のうちに情報が「呈示される」順序はたがいに一致している。なぜなら、<そこで起こること>とひとがそれについて意識することが、とりもなおさず、そこではたがいに一致しているからだ、と。<中略>けれども、やがてわかるように、デカルト主義的二元論という名の妖怪は公然と非難されて、悪魔払いまでされてしまったというのに、「カルテジアン劇場」という説得的表象のほうは――素人であると専門家であるとを問わず――私たちの周りをいまなおうろついているのである。(p.135下段)

「多元的草稿」モデル
「多元的草稿」モデルによれば、知覚をはじめ思考や心的活動はどのようなものも、脳のなかの、感覚インプットを解釈したり推敲したりする多重トラック方式にもとづく互いに並行したプロセスによって、遂行されている。神経系統に入ってくる情報は、絶え間なく「編集・改竄」に付されているのである。(p.140上段)

ざっとここまでは、潜在的にはどんな知覚理論によっても認識されていることであるが、ここで私たちは、特徴発見や特徴弁別は<一度行われるだけでよい>という、「多元的草稿」モデルの新しい特徴に立ち会うことになる。つまりこれは、ある特徴についての個別的「観察」がひとたび脳の特定の一部によって行われれば、そこで定着した情報内容は、さらにどこか別のところに送られて、誰か「支配人づらした」弁別者の手で再び弁別されたりする必要はない、ということを意味する。弁別作業は、「カルテジアン劇場」の観客に供するよう、すでに弁別した特徴をわざわざまた<再‐現(上演)>してみせたりはしないのだと、言ってもよい。他でもなく、「カルテジアン劇場」なるものが存在しないからである。(p.142上段)

リベット問題
リベットは、このように体性感覚皮質を刺激してからチクリという感覚が生まれるまでの時間と、もっと普通の仕方で、つまりは手そのものに短い電気刺激を与えてから類似の感覚が生まれるまでの時間を比較したのである。(p.188)

ところがこれは、リベットが患者に向かって、大脳皮質を刺激することで生まれたチクリという手の感覚と、手そのものを刺激することで生まれたチクリという手の感覚とでは、いったいどちらが先に届くのかと尋ねて見出したことがらとは、違っていたのである。彼は自分で集めたデータから、どちらのケースでも、刺激の開始時点から<神経的十全性>(つまりは大脳皮質のプロセスのがチクリという意識体験を生み出すところにまで高まるのだと彼が称している時点)に到るまでには、(およそ五〇〇ミリ秒という)かなりの時間を要したが、手そのものが刺激されたときには、その体験は、<自動的に>「時間を遡って身元照会」されて、脳への刺激そのものが生み出す感覚より<前に>起こるように感じられたのだと、論じたのである。(pp.188-189下段) リベットの実験は、科学には与しない人たちから、二元論の正しさを証明するものとして熱烈に歓迎されてきたが、認知科学の学会に属する人で、この意見に賛成する人はほとんど皆無である。(p.190上段)

 体験の絶対的到着時間という、この概念は、リベットの「意識的意図」についてのその後の実験のなかで活かされている。彼はこの実験では自分の体験に直接近づけるのは(なぜか)ひとり当人だけだとされる被験者に、<自己測定>をしてもらうことで、絶対的到着時間を実験的に決定しようとしたのである。(p.197上段)

 リベットの主張によれば、(少なくとも彼一流の)行為への意識的意図と、その行為を実際に開始させる脳の出来事とを同時に記録してみると、両者の間には三〇〇〜五〇〇ミリ秒幅のズレが出るのだという。これは――〇・五秒ものズレという――実に大きなものなので、私たちの意識的行為が自分のからだの動きを<コントロール>しているのだという原理に傾倒している人たちには、実際のところ、気味悪くうつってしまう。それは、まるで<私たち>が「カルテジアン劇場」に陣取って、(私たちが今いるところとは)<どこか別のところで>進行している<現実の>意思決定を、〇・五秒遅れのテープで見せられているようなものだからである。(pp.199-199)

 私たちが投げ捨てなければならないのは、次のようないかにも自然な見方である。――どこか脳の深いところで一つの行動が頭をもたげる。それは、一つの無意識な意図として出発したあと、ゆっくりと劇場に向かって進んでいき、次第に力と明確さを増し加えたすえに、ある瞬間tにいたって突然舞台におどりでる。するとそこでは、網膜からゆっくり進んで来る途上で明るさと位置とを定かなものにしてきた一群の切れ切れの視覚表象が、すでに行進を繰り広げている。このとき、観客もしくは「私」にとっては、意識的意図が舞台に登場したまさにそのとき、いったいどの視覚表象が「舞台に出て」いたのか、これを指摘するのが仕事になる。それがつきとめられたら、今度は、網膜から舞台までの距離や伝播速度をはじめ、その視覚表象が網膜から出発した時間などを計算することができる。このようにして私たちは、意識的意図がカルテジアン劇場で生まれたときの正確な時間を決定することが可能になる――つまり、ざっと以上がそれである。(p.200)

ボールドウィン効果

ミーム、ドーキンスから
文化が(意識の刷新だけではなしに)刷新一般のための、収納と伝播の媒体になっていくときの様子は、人間意識というデザインの起源を理解しようとするとき重要である。というのも、文化というのはそれ自体、進化のもう一つの媒体にほかならないからである。(p.238上段)

  進化の条件
(1) 変異[変種]:様々な要素が一貫して豊富に存在する。
(2) 遺伝もしくは自己複製:もろもろの要素は、みずからのコピーもしくはレプリカを生み出す力をもっている。
(3) 「適性」の差:一定の時間に生み出されるある要素のコピーの数は、その要素の諸特性(その要素と他の要素を区別するものがなんであれ)とその要素が巣くっている環境の諸特性との交流いかんによって、様々に変化する。(p.239上段)

 遺伝子の場合と同様、ミームにとっても第一の法則は、「複製が必要なのはそれが何かの役に立つからではない」ということであって、複製の得意な自己複製器が、理由のいかんにかかわらず栄えるのである。(p.241下段)

 ここで重要なのは、ミームの自己複製力と、<自己複製力という点>からみたミームの「適性」と、<私たち自身の>適性(これをはかる基準が何であれ)に対するミームの貢献の間には、<必然的>結びつきは何もないという点である。(p.242上段)

発話のときに脳で起こっていることのモデル
 それにしても、この単語のトーナメントの判定[審判]は、どのようにして行われるのだろう。一つの単語や語句や文章が競争相手になっている単語や語句や文章たちを打ち負かすとき、現在の心境に対するそれらの適性や妥当性は、いったいどのようにして識別されたり評価されたりするのだろう。
 ではこの問題を振り返ってみよう。極端な官僚主義の困ったところは、「概念化器」がぞっとするほど強力で、ホムンクルスがあまりにも多くの知識と責任をもっているという点であろう。こういう力の過剰は、<前言語的メッセージ>というそのアウトプットをどのようにして表現したらよいのか、という厄介な問題を通じて明らかになる。もしもそれが、何らかの発話行為をすでに具体的に現わしているのであれば、――つまり、それがもうすでに、「定式化器」への具体的な命令として、「こころ語」である種の発話行為に<なっている>のであれば――私たちのモデルが動きだす前に、むずかしい作文の仕事はあらかた済んでいることになる。もう一方の百鬼夜行[パンデモニウム]型モデルの困ったところは、様々な起源の内容が、単語のデーモン(鬼)たちの創造的エネルギーに影響を及ぼしたり拘束したりしながらも、そのエネルギーを一方的に<支配してしまう>ことがないといった方法を見つける必要がある、という点である。(p.284下段)

<二つの相補的問題は、一つに結び合わせたら互いに解決されるのではなかろうか?>つまり単語デーモンたちが、同時に問い手でもあれば抗議者でもあり、内容デーモンたちが、同時に答え手でもあれば審判者でもあるとしたら、どうだろうというのである。十分に育ったうえで実行に移されるコミュニケーションへの意図が、発話行為の意図という次のような進化に準じたプロセスからならば、「意味」という姿をとって立ち現れることも、ありうるのではなかろうか、というのである。すなわち、そのどの一つをとっても、自分では発話行為を遂行することも命ずることもできないような多様なサブシステムが、たがいに一部直列式で一部並列式の協同作業を繰り広げているプロセスというのが、それである。
 だが、そんなプロセスが本当に存在するのだろうか。たしかに、そうした「制約充足」プロセスのモデルならいろいろあって、しかもそれらは驚くような力をもっているのである。神経様の要素同士からなる多種多様な「コネクショニスト」構造というモデルをはじめ(例えば、McClelland and Rumelhart, 1986などを見よ)、その他抽象的なモデルがまだまだある。ダグラス・ホフスタッターDouglas Hofstadterの「ジャンボ構造」などは、「ゴチャ混ぜのもの」やアナグラムなどの解決を求めるものとしては、まさにぴったりの特徴をもっているし、第9章でさらに論ずることになるマーヴィン・ミンスキー(Marvin Minsky, 1958)の、「心の社会」を構成しているもろもろの「エージェント(行為主体)」についての考えも、同様である。(p.285)

第5章で論じられた「オーウェル流の改竄」と「スターリン流の改竄」の簡潔な言い方
<体験されたことがらを変えてしまう>体験以前的改竄と、<体験されたことがらを誤って報告したり、誤って記録したりしてしまう>効果をもつ体験以後的改竄の間にきっぱりした線を引くことなど、不可能であった。(p.293)

これまで述べられた理論の要約
単一で決定的な「意識の流れ」などどこにも存在しないが、それは、意識の流れがその一点に集まって「中心の意味主体」となるような「中心の参謀本部」や「カルテジアン劇場」が、どこにも存在しないからである。存在するのは、(それがどんなに幅広いものであれ)そのような単一の流れではなく、むしろ多元的なチャンネルなのであって、そこでは様々な専門回路が百鬼夜行状態を呈しながら様々な仕事を並列的に試みるうちに、「多元的草稿」が生み出されていく。「物語」のこうした断片的草稿のほとんどは、当座の活動の調整に束の間の役割をはたして消えていくが、なかには、脳に潜んだ仮想機械[ヴァーチャル・マシーン]の活動によって、目まぐるしいバトンタッチを通してさらなる機能的役割をはたすよう促されるものもある。この機械の直列的性格(それの「フォン・ノイマン的」特性)は、「ハードウェアに組み込まれた[固定式の]」デザイン特性ではなく、むしろそうした専門家たちの[自由な]連繋プレーの帰結なのである。
 基礎部門の専門家たちは、私たちの動物的遺産の一部をなしている。つまり彼らは、ものを読んだり書いたりするといった人間に固有の行為を行うように開発されたのではなく、さっと身をかわしたり、捕食者を回避したり、相手の顔を見分けたり、手でものを把んだり、ものを投げたり、木の実を摘んだり、その他必要不可欠な作業を遂行したりするよう開発されたものである。とはいえ彼らは、自分の生まれつきの才能が多少なりともそれに向いているような新しい役割に、しばしば便宜上かり出されることがある。その結果が大混乱に陥らないのは、こうした活動をとりこんでいる流れそのものが、ほかでもなく、デザインの産物だからである。このデザインの一部は先天的なもので、他の動物とも共通のものであるが、そうした先天的デザインは、個人のなかで自己探究の特異的結果として育まれたり、デザイン済みの文化的贈与として育てられたりする思考の微少習性によって、さらにいっそう重要なものになることもあれば、重要性をすっかり奪われてしまうこともある。主として言葉によって伝えられ、言葉を欠いたイメージやその他のデータ構造などによっても伝えられる、何千という数のミームは、個人の脳を住み処と定め、脳の傾向を様々な形につくりあげていくことで、脳を一つの心に変えていく。(pp.302-303)

盲視
 盲視についての解釈では、多くの点で意見が分かれているが、次の一点では驚くほど意見が一致している。すなわち、盲視患者でも、当該部分の出来事については何一つ意識をともなう視覚体験がなくても、ともかくも目(つまり、「視覚」が働いている部分)を通して、世界の若干の出来事については情報を得ているのだという点では、誰にも異論はないという一点で。よりコンパクトに言えば、(1)盲視にも視覚情報の受容が含まれているのであるが、(2)そうした視覚情報の受容は無意識的なのだ、ということになる。(p.389)

「補填」批判
また第5章で私たちが見たのは、脳は、自分が何らかの識別や判断に到達した<あと>、「カルテジアン劇場」の観客を楽しませようと、当の判断を支えている素材にもろもろの色彩を書き込んでは、それを<再-現[上-演]>して見せるのだという、無理もないとは言え間違った仮説から生じた混乱であった。こういう<書き込み[補填]>という観念は、知的に洗練された理論家たちの思考のうちにもよく見られるものであるが、それは退化したデカルト主義的唯物論が空しく露見したようなものである。(p.408)

「補填」という観念の根本的欠陥は、脳は実際に何かを無視しているときに、脳は何かを供給しているのだということを、示唆してしまう点にある。そしてここから、最も知的に洗練された思想家でさえ、エーデルマンが「意識の最も驚くべき特徴の一つはそれが連続的だという点にある(1989, p.119)」という言葉で完璧に要約してみせたような、恐るべき誤りを犯すことになる。これはまったくの間違いである。意識の最も驚くべき特徴の一つは、最も単純な例を挙げれば、盲点やサッカード中の隙間にはっきり示されているとおり、むしろそれが<不>連続的だという点にあるのだから。意識の不連続性などと言うと、人がびっくりしてしまうのは、<見かけのうえでは>、意識は連続的だからである。ノイマンは次のように指摘している。概して言えば、意識というのは隙間だらけの現象だと言ってよいが、もろもろの隙間の時間的両端が知覚されない限り、意識の「流れ」は隙間だらけだと言ったところで、意味がないだろう、と。ミンスキーが言ったとおり、「断続的だと<表象される>ものの外には断続的に<見える>ものはありえない。逆説的であるが、私たちの連続性の感覚は、何か正真正銘の敏感さに由るのではなく、かえってほとんどどんな類の変化にも気づかない、私たちの恐るべき<鈍感さ>に由る」(1985, p.257)のである。(p.420)

見ることと信じること
とうとうやりましたね。他の多くの人たちと同様、あなたもやはり罠にはまったのですよ。どうやらあなたは、何かがピンク色をしているように見えると考えること(判断すること、決定すること、芯からそういう意見をもつこと)と、何かがピンク色をしているように<本当に見えるということ>は、別のことだと考えているようですね。でもこの二つの間には違いはないのです。実は〜なのだと何らかの仕方で判断する当の現象を超えたところに、〜のように本当に見えるいった現象が、別にあるのではないのですから。(p.430)

フィクションの経験とヘテロ現象学、ケンドール・ウォルトンへの言及
哲学者のケンドール・ウォルトンも、『フィクションを恐れ畏るFearing Fictions』(Kendall Walton, 1978)のなかでこう言っています。解釈する人の側でのこういう想像行為は、挿絵つき小説の挿絵とほぼ同じように、テキストを補って、「小説と一体化した<さらに大きな>(フィクションとしての、ヘテロ現象学の)世界をつくり上げてくれるのだ」(p.17)と。こういうつけ足しは完全に現実のものではありますが、ただ「テクスト」より以上のものなのです。――想像の産物ではなく、判断で出来ているのですからね。(pp.432-433)

クオリア批判
 そもそもクオリアが存在するように見える[思われる]のは、色彩はあちらに存在するはずはないのだから、こちらに存在するしかないのだということが、実際、あたかも科学によってすでに示されているかのように、見えているからにほかならない。しかも、こちらにあるのは、<ただ単に>、ものが色彩を帯びているように見えるときに下される判断<だけ>ではありえないようにも、見えているからである。しかしこの推理は混乱している。科学が私たちに示しているのは、光を反射する対象の特性が生きものに様々な識別状態をとらせるのだということ、そうした識別状態は脳のあちこちに分散して、多種多様な複雑さをもった数多くの内的素質や獲得習慣を支えているのだということ、ただこれだけだからである。(p.442)

色彩について
 異論の余地がないのは、その特性をもった表面ならどんな表面も、しかもひとりその特性をもった表面のみが(ロックの言う第二性質という意味での)赤い色をしているのだといった、それほど単純で非弁別的な表面特性などどこにも存在しないのだ、ということである。この事実は、はじめはひとを困惑させたり、がっかりさせたりもするが、それはこの事実が、知覚を通して世界を把握する私たちの力が思っていたよりもずっと低いことを、言い換えるなら、私たちが夢のような世界に住んでいたり、大がかりな妄想の被害者だったりすることを、示唆しているからである。私たちの色彩視覚は、見かけに反して、私たちが対象の単純な特性に近づくことを許してくれないのである。(p.446)

 色分けというと、私たちはつい、「自然の」色彩視覚を活かすようデザインされた「通り一遍の」カラースキーム[色彩設計]を賢明なかたちで導入したもののことだと考えがちであるが、こういう考え方は、「自然の」色彩視覚というものが、<はじめから>、色分けにこそその<存在理由>があるような色彩そのものとともに進化したのだという事実を、見過ごしている(Humphrey, 1976)。自然界には「見られることを必要とする」ものもあれば、それらのものを見る必要のあるものもあるため、前者を目立ちやすくすることで後者の手間をとかく縮小するというシステムが進化したのである。(p.447)

 色のついた岩、色のついた水、色のついた空、赤茶けたさび、真っ青なコバルトなどのように、――はじめに色彩があって、それから「母なる自然」がやって来て、ものを色分けするのにそれらの品を用いることで、<それらの>特性を活かしたのだと考えるのは、間違いである。むしろはじめに表面の多様な反射特性、光色素の多様な反射特性等々があって、それから「母なる自然」がこれらの原材料から効率的でたがいに調整のついた「色」分け/「色彩」視覚システムを開発したのであって、こういうデザイン過程を通して固定してきた諸特性の一つに、私たち正常な人間が色彩と呼んでいる特性があるのである。(p.448-449)

私と物語
 自己防衛と自己制御と自己決定の根本的方策として<私たちが備えている>のは、クモの巣を紡ぎ出すことでもなければ、ダムを築くことでもなく、かえってストーリーを語ることである。もっとはっきり言えば、私たちが自分が何者であるのかを他人――や自分――にむかって語る様々なストーリーを、うまく調合したり調整したりすることである。《中略》私たちのお話は紡ぎ出されるものであるが、概して言えば、私たちがお話を紡ぎ出すのではない。逆に、私たちのお話の方が私たちを紡ぎ出すのである。私たちの意識は、そしてまた私たち人間の意識は、そしてまた私たちの物語的自己性は、私たちのお話の所産ではあっても、私たちのお話の源泉ではないのである。
 こうした物語の筋道や流れは、ただ一つの口や、ただ一本の鉛筆やペンから流れ出すという明らかに物理的な意味だけではなく、もっと微妙な意味においても、<あたかも>単一の源泉から流れ出す<かのように>流れ出す。こうした流れが聴き手に与える効果は、彼らを促して、それらの流れがその個体の言葉であり、それらの流れがその個体をめぐる流れであるような、一つの統一的なエージェントの存在を措定させ(ようとす)る点にある。つまり、<物語的重力の中心>を措定させようとするのである。物理学者は、ある対象の重心を措定することで得られる、つまりは、それとの関係で重さをもったすべての力を計算できるような一点を措定することで得られる、並み外れた単純化を評価する。私たちヘテロ現象学者もまた、物語を紡ぎ出しつつある人体のために物語的重力の中心を措定してやることで得られる、並み外れた単純化を評価する。生物学的自己と同様、こういう心理学的もしくは物語的自己もまた、やはりもう一つの抽象であって、脳の中の一つの点などではないのに、驚くほど強力で、ほとんど手で触れることさえできるほどの、特性誘引者だとされている。つまりは、持ち主の不明なものとしてあちこちに散在しているありとあらゆる項目や特徴の「記録所有者」とされているのである。(pp.494-495)

自己
 私の理論によれば、自己というのは、何か昔からある数学的な点といったものではなく、かえって生きたからだのの来歴を披露する無限の属性や解釈(これには、自己-属性や自己-解釈も含まれる)によって定義されるような、一つの抽象なのであるが、また同時に[一つの抽象としての限りで、]生きたからだの来歴の[物語的重力の中心]にもなっているのである。自己は、このようなものとして、そうした生きたからだの進行中の認知経済のなかでかけがえのない役割を果たしているのであるが、それは、一つの能動的なからだが心的モデルとしなければならない、自分をとりまくあらゆる事物のなかでは、この[能動的なからだという]行為主体が自前で備えているモデルほど決定的なものはないからである。(p.505)

自己とメイク・ビリーブ
 自己認識の必要は、自分のからだの動きの外的指標を確認したら、それでおしまいになるわけではない。私たちは自分の内的な状態、傾向、決定、強さ、弱さについても知る必要があるからであるが、こういう認識を手に入れる基本的方法も本質的には同じで、――何かをしたら、何が「変化する」のかを気をつけて「見る」のである。高等な行為主体は、自分の肉体的状況と「心的」状況の双方を追跡する習慣を確立しなければならない。すでに見たとおり人間の場合は、こういう習慣を維持するためには、主として虚実とりまぜたお話をみずからしたり、点検したりすることを絶えず重ねていることが必要になる。<中略>哲学者のケンドール・ウォルトン(Walton, 1973, 1978)と心理学者のニコラス・ハンフリー(Humphrey, 1986)は、自己を紡ぎ出すことにかけてはまだ新米の人間たちにこうした習慣をもたらすのには、みずからドラマやお話をしたり、ごっこ遊びといういっそう根本的現象に興じたりすることがどんなに重要かを、様々な視点から示している。(p.507)

動物と苦しむ能力と道徳性
問題は、彼らには<推理を行う>能力があるかでもなければ、彼らには<苦しみに耐える[苦しむ]>能力があるのか、なのだ。」(Bentham, 1789)これらの問いは、普通、道徳的評価のたがいに対立的な基準となっているようだが、ドーキンスは次のように論じている。「苦しみに耐える能力に倫理的価値を与えることは、結局のところ利口な動物に価値を与えるよう私を促すことになるだろう。たとい私たちが、推理を行うというデカルトの規範を退けることから出発しても、苦しみに耐える能力をもっていると最も多く思われるのは、他ならぬ推理を行う当の動物だからである。」(p.153)(p.534)




◇作成者:篠木 涼
UP:20080311
BOOK
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