HOME > BOOK >

『病いの戦後史――体験としての医療から』

向井 承子 19900320 筑摩書房,246p.


このHP経由で購入すると寄付されます

向井 承子 19900320 『病いの戦後史――体験としての医療から』,筑摩書房,246p. ISBN-10: 448085536X ISBN-13: 978-4480855367 1495 [amazon][kinokuniya] 品切(2001) ※

 *著者より御送付いただいたこの本を1000円+送料でお送りします。

■目次

 伝染病撲滅の光と影
  生老病死を包みこんだ戦後世界/飢えと伝染病、そして防疫
  バイキンは底辺を襲った/病は光を避け、闇にうごめく
  エイズ・パニックの周辺/血友病患者、国を提訴
  身体は微生物の草むら/予防注射禍の足跡
 健康幻想とクスリ産業
  つかの間の平穏、昭和三〇年代前半/健康という感覚の喪失
  新薬ブーム幕開けの時代/まるで、ポパイのホウレン草
  人間の技術が人間を襲う/スモン病が日本に発生した理由
  体験としての医療史/医療行為とはそもそも人体への侵襲である
  悪魔の歴史、人体実験/専門家たちの”落ちた偶像”
  遅れてきた患者の権利意識
 いのちを産む性の記録
  選択としての子産み/技術としての出産
  「計画分娩」に驚く/必要な技術、不必要な技術
  家なき子たちの谷間/差別としての病い
  現代の間引き――いのちの選別技術/人類の未来と調和する
  いのちの技術のシステム化
 慢性病の時代と長い老いの到来
  慢性病の時代を生きる/救急病院という名の老人収容所
  ただ、三界に家なし/強いられる”ぼけ”
  弱者が弱者を食む/寝たきり老人を大量生産する
  福祉と医療のはざまで/看とりの医療の現実から
  人と場をつなぐケアとは……/病気と疾病の違いは……
 病院化社会と見えない死
  弱者淘汰としての死/体験としての「瀕死」と内的意識の存在
  ICUと手のぬくもり/脳死は死なのだろうか
  ”見えない死”の前に立つ/ハイテク工場としての病院
  過去と未来のはざまに立つ

■引用

 いのちを産む性の記録
 「マスコミの報道記事は、ある時期に突然爆発的に特定のテーマに集中することがあるが、医療関係の記事のスクラップを見返すと、一九八六年はまさに日本人が大衆感覚で生命倫理を問い始めたスタートの時期にあたっていると思われる。」(p.136)

 「寝たきり老人を大量生産する」(向井 1990:169〜)以降からの引用
 「それにはもちろん、費用がかかる。私たちは、区役所に行って、東京都が行なっている「寝たきり老人福祉手当」の対象者として登録した。初めて私たちが登録した時は月額一万七五〇〇円だったが、一九八九年一〇月から四万一〇〇〇円と、じりじり上がってきている。介護手当も月に七〇〇〇円出る。そして、行政が行なっている対策で利用できるものはなんでも利用することにした。そんな流れの中で、在宅寝たきり老人を訪問してくれた保健婦さんのお世話で、シャワー・イスも無償で風呂場に備えることができた。その椅子は、つい最近までよそのお年寄りが使っていたのだが、<171<亡くなった方のでもいいですか、と尋ねられたものだった。(中略)
 繰り返すが、この全てが費用がらみである。それができる、という程度の生活を私たちがどうにかしているという証明なのだろう。でも、母自身の収入といえば、月三万円足らずの老齢福祉年金だけで、収支のバランスは全くとれない。老人福祉手当は、そんな自立を助けるための費用としては、少しは役に立つものだった。この制度ができたのは昭和四七年(1972年/引用者補足)一〇月、シビル・ミニマムなどの地方自治の発想を基本に福祉を重点に据えた美濃部都政が始まった時だった。その遺産である福祉の制度を鈴木都政も引き継ぎ成長させている。首都圏の他県とは桁外れの高額の「手当」を、私たちはありがたく利用させてもらっている。ありがたい、という意味は、その伝統を築いた歴史の担い手たちへの謝辞である。
(中略)
 この数字をどう見るか。たとえば介護者に毎月支給される介護費用七〇〇〇円では、家政婦費用の丸一日分にも満たない。介護者が一日でもだれかを頼んでゆっくり休める費用にもならない。また、老人福祉手当にしても、安心して身辺を任せられる人を頼む費用にはならないし、老人用の品<172<を整えようとすると、ベッドひとつとっても桁違いである。その制度について国はなんの補助も出していない。そして、在宅、在宅と声高にいわれる昨今がやってきている。在宅福祉とは、ほんとうはきめを細かくしようとすると、施設よりも費用がかかるものなのに、実際はある程度の生活レベルを保てる家族と同居を前提の、ちょっとお小遣い程度の金銭のばらまきを福祉といっているのではないか、と私には感じられる。仕事をしている女性にとっては、仕事をやめた方が安上がりの、主婦の在宅前提の考え方が頑固に基調にある。しかも、ひとりになにもかも背負わされて疲労困憊の主婦の立場には思いをやらない、「うちてしやまん」式の親孝行の実践が期待されている日本を象徴してはいまいか。
 それでも東京とは他府県とは比較にならないほど高いのである。在宅の「寝たきり」、あるいは「痴呆性老人」とその家族に行政が手渡す金額は、月五万円近いのが東京都、たとえば神奈川県では年額三万五〇〇〇円、千葉県では月額一万一五〇〇円の市町村への補助金交付、そして国は零円である。みんな、どうやってくらしているのだろう、と私は思う。そして、ふいに一番簡単な結論に思いがいってしまうのである。
 病気が一番好都合なのである。世間も納得するし、家族も楽である。そして、老人医療もあって、付き添いをつければ還付の制度もある。なんと、好都合なことであろうか。まるで「姥捨て山」のような病院の光景はたぶん、そこかしこに存在しているのだろう。」(向井 1990:171-173)

「たとえば、老人福祉手当てを受けるには資格がいる。在宅で六ヵ月以上、入院で三ヶ月以上を寝たきり状態にあることである。「寝たきり」の基準というのがあって、食事、排泄、入浴、その他の、身辺の具体的な自立機能について民生委員による調査と証明がいる。父も母も、この資格に合格して受給者になれたのだが、ここで矛盾が出てくる。少しでもこの基準から外れると資格を喪失してしまうことである。極論に聞こえるかもしれないが、寝たきりを強いておけば、資格喪失には<174<ならない。応々にして、その方がみとる側にとって楽なことがある。そうやって、死に追いやるのを奨励しているのかなあ、と思うことがある。(中略)
 病院で寝かせておけば、受給資格は死亡時まで永遠である。そして、現行の健康保険制度のもとではその方が遥かに安上がりとなる。その事自体の問題は問わずに手間と費用をかけた在宅介護の結<175<果だけを審査して資格を云々する根底の思想の貧困に私は苛立ってしまった。寝たきりから、少し自立し始めた時期を支える方法はまるで用意されていない。いや、念頭にもないといった方があたっているかもしれない。事実、老人福祉手当関連の書類には、資格喪失を届け出る項目があるのだが、そこには、「死亡」、「転出」、「その他」などの項目はあるのだが、「快癒」という項目は見たことがない。たぶん、初めから想定されていないのに違いない。」(向井 1990:174-176)
 →老い

■言及

◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表


UP:20071116
身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)