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Essentially Speaking

Fuss, Diana 19900301 Essentially Speaking, Routledge, 114p.


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■Fuss, Diana 19900301 Essentially Speaking, Routledge, 114p, ISBN-10: 0415901324 ISBN-13: 9780415901321 [amazon] ※ g02

■目次
Acknowledgement ix
Introduction xi

 1 The "Risk" of Essence 1
 2 Reading Like a Femnist 23
 3 Monique Wittig's Anti-essentialist Materialism 39
 4 Luce Irigaray's Language of Essence 55
 5 "Race" Under Erasure? Poststructuralist Afro-American Literary Theory 73
 6 Lesbian and Gay Theory: The Question of Identity Polistics 97

Note 121
Bibliiography 131
Index 141




第六章 レズビアンとゲイの理論――アイデンティティの政治の問い(Lesbian and Gay Theory: The Question of Identity Politics)

問題設定
「ゲイ・アイデンティは経験的事実であるのか政治的虚構であるのかかという問いと同じく、ゲイ・レズビアン理論を分裂させもすれば活気づけもした2、3の事柄がある。ゲイの社会運動の政治的指導者にとって、ゲイ・アクティヴィズムの動員や正当化は、ゲイの本質という概念に依拠している。「ゲイ・プライド」、「ゲイ・カルチャー」、「ゲイ・センシビリティ」などは、すべてゲイ・コミュニティの試金石として呼び起こさるもの、長きにわたり抑圧されてきた集合的アイデンティティの現われを示すものである。他方で、近年のゲイ理論では、自然な、本質的な、普遍的なゲイ・アイデンティティへの固執が拒まれつつあり、かわりに「近代同性愛の形成」が語気強く述べられる。同性愛主体は自然にではなく、言説によって、重層的な言説をとおして生産されるのであると。ミシェル・フーコーの言説理論は、現れつつあるゲイ・レズビアン理論の諸領域に、はっきりと分かる深いインパクトを与えた。セクシュアリティを脱本質化し、同性愛を近代の「発明」として歴史化するフーコーの試みは、アイデンティティの問題系についてこの主張を繰りかえすポスト構造主義者の隆盛期にあって、「ゲイ」、「レズビアン」「同性愛者」といったカテゴリーの意味や適用に関してゲイ理論家や活動家が目下おこなっている論争の地盤を創ったのである。」(p.97)

◇「アイデンティティの政治」/同性愛の発明理論に関する議論の核心にあり、現在のゲイ・レズビアン・コミュニティに広く知られた言葉で、一般的には、「個人的なアイデンティティ感覚――ゲイ、ユダヤ人、黒人、女性など――に依拠した政治」を意味する。それは、個人の意識高揚に役立ち、集合的な政治行動を動員し、密な関係性や目に見えるコミュニティの基盤になった。(p.97)

◇「アイデンティティの政治」研究とその問題点/現在の「アイデンティティの政治」研究は、組織的、政治的道具としての明らかな効用を、否定したり過小評価したりするのではなくて、この概念の分析的前提、またそれと関係する本質主義の役割を探究している。ファスがここで、アイデンティティの政治の歴史的、文化的形成過程を調べるのは、抽象的でぼやけたアイデンティティという概念を解読するためである。

→ @ポスト構造主義のフェミニズムから、アイデンティティは、同一性、統合性、唯一性などのファルス中心主義的な概念として批判されている。だが、ファスによるとアイデンティティ概念は、ほとんど一つの意味に収斂しないで多様な対立しあう意味をもっている。
  Aまた、アイデンティティと本質をいっしょくたにする議論がある。だが、ファスによると、これらは全く独自の歴史的な形成をとげてきたものである(p.98)。

◇主題/Jeffrey Weeks、David Halperin、Gary Kinsman、John D'emilio、Simon Watneyらのゲイ男性を主題にしたフーコー派の研究を参照しながら、レズビアンを主題にして分析する。(p.98)


「アイデンティティの政治」の政治
◇「Combahee River Collectiveの行動綱領(manifesto)」/黒人レズビアン女性の活動グループで、性的、人種的、経済的、異性愛的抑圧を広く問題にしていた。

「私たち自身の抑圧に焦点を当てるのは、アイデンティティの政治という概念自体に織り込み済みのことである。私たちが信じているのは、どこかの誰かにくわえられる抑圧を終わらせようとすることではなくて、もっとも深く力のあるラディカルな政治が、自分たち自身のアイデンティティから直接に出てくるのだということである。「黒人フェミニストの主張」(1982年、16頁)」(p.98)

◇Cherrie Moraga/チカーナの理論家。被抑圧の主体は、同時に抑圧の主体に転換しうると論じる。カラードの女性たちが、ラディカル・フェミニズム内部で、アイデンティティの政治を提起した。(p.99)
◇Barbara Smith/「私たちはアイデンティティをもっています。ですから(therefore)、政治に従事しているのです」

→ 「アイデンティティと政治の結びつきは、因果的、目的論的に定義されている。アイデンティティの政治の担い手にとって、アイデンティティは必然的に(necessary)ある特定の種別の政治を規定する。」(p.99)
→ 「アイデンティティと政治との因果的結合」は、個人的な政治に取りかかる前に、自らの真のアイデンティティを「主張せよ(claim)」、あるいは、「発見せよ(discover)」という圧力になる。(p.100)


◇二つのアイデンティティ概念/「発達(developing)」の対象であるアイデンティティと、「発見(finding)」の対象であるアイデンティティの区別。「アイデンティティ」の定義と、「レズビアン」という語の意味過程は異なる。(p.100)

◇Jenny Bourneの批判/「「アイデンティティの政治」の政治は反動的なものである。反動的というのは、それが非政治的、非唯物論的、主観にこもったものの見方を育てるからである」。「「個人的なものは政治的である」というフェミニズムの格言への盲信」。

「アイデンティティの政治がひどい猛威をふるっている。搾取はお払い箱(それが外在的な決定要素)。抑圧はそこにある(それは個人に内在的である)。何がなされるべきなのかという問いは、私は誰なのかという問いに置き換えられている。政治文化は文化政治にバトンタッチする。唯物論的世界は形而上学的世界に道をゆずったのである。(1987年、1頁)」(p.101)

→ だが、政治運動全体を動かしたフェミニズムのスローガンの重要さを忘れるべきではない、とファスは言う。「まず、「個人的なものは政治的である」という主張は、個人的な愚痴、孤立した不平不満として以前は片付けられていたマイノリティ集団に、注意を喚起する磁場を生み出した」。「〔政治的〕集団が没落したことを示すことは、個人や集団の失敗を特定させるのではなくて、具体的な社会的抑圧のなかで広範におよぶ生きた経験を取り囲む、政治感覚の拡張を帰結させる」。むしろ、政治が個人生活に持ち込まれることで引き起こされるのは――政治はそれ自体としては空虚である――、個人的なものの逆説的な脱個人化である。だが、たしかに「ゲイやレズビアンであること(being)」は何がしかの政治的効果はおよぼすが、それだけで政治的アクティヴィズムにいたるわけではない。政治的なものの個人的なものへの還元は、目標を先送りにさせて、革命的活動を自己の発見や個人の変容に矮小化してしまうのである。「個人的なものは政治的である」は、社会的な経験を再び私的なものにしかねない状況がある。「いずれにしても、政治的なものの個人的なものへの還元に挑戦するとしたら、必然的に「アイデンティティの政治」を取り上げ再び政治化(re-politicizing)していく」ほかない。(p.101)


同性愛を発明する
◇「同性愛は生まれか育ちか」という原因論(etiology)/同性愛は、超歴史的、超文化的、カテゴリー超越的ではなくて、社会的に偶然かつ多様に構築されている――17世紀以前の西洋には存在しなかった――と考えるならば、同性愛の原因探しは的外れになる。(p.107)

→ 17世紀の産業社会勃興期に西洋の同性愛が現れたと説明するにせよ(Adam)、ロンドンなどの大都市で、トランスヴェスタイトや同性愛サークルのような形で、同性愛役割が見られはじめると説明するにせよ(McIntosh)、18世紀には、賃労働者の拡大と都市人口の肥大化を受けた、あるいは、19世紀には医療の専門家と性的「類型(types)」の社会的組織化にともなって同性愛が現れたと説明するにせよ、社会構築主義が同意するのは、同性愛は西洋文化の近年の現象であるということである。(p.108)

→ 構築主義は、同性愛のアイデンティティ編成やセクシュアリティの主体一般に関する問いにいたる。

◇「発明説(invention theories)」=社会構築主義の利点/
@ 「発明説は、外在的、文化的、統一的な「条件」としての同性愛の見方を拒絶するので、セクシュアリティの民族中心主義的な分析を生産することには不利に作用する」(108)。構築主義者には、まだ白人、中産階級、男性同性愛者を「同性愛役割(homosexual role)」の典型とする傾向がある。発明説には、性的のサブカルチャーに多様性を見いだす理論的な力がある。
A 発明説は、同性愛アイデンティティだけではなくて、すべての性的アイデンティティ――異性愛もふくめて――の構築性を分析できるようにしてくれる。
B 構築主義は、「同性愛」、「異性愛」、「両性愛」やまた他の性役割を階級化(classifications)として理解させてくれる。
C 発明説は、同性愛アイデンティティの社会的構築について研究するだけでなく、しばしば混同されがちな、男性同性愛者とレズビアンに分析的な区別を設ける。
D 「発明説は、歴史化(historicize)と文脈化(contextualize)への衝動によって特徴付けられる。それは、存在論(同性愛とは何であるのか)の領域から、社会的、言説編成(どのようにして同性愛は生産されたのか)の領域に移行する。」(pp.108-109)


◇構築主義の危うさ/構築主義は「精神(魂psychic)」というカテゴリーを消去してしまう。精神分析は、「精神」を、異性愛主義ヘゲモニーの産物とみなし、社会的規制のシステム一般として心的葛藤の理論を拒んでいる。また、同性愛嫌悪の研究も異性愛中心主義の分析のなかで、「精神」概念を棄却してしまう。

→ ファスによると、構築主義においては、社会が精神を消去することなく、精神と調和するあり方を説明できなくなる危うさがある。(p.109)

◇Simon Watney/イギリスの「ゲイ解放戦線」に対する批評。「同性愛嫌悪」という概念は、歴史的、社会的な構築性よりは、内的な衝動にどうしても焦点が当たってしまうと主張。(p.109)
◇Gary Kinsman/「同性愛嫌悪」概念は、ゲイの抑圧を私的領域に封じ込め、それを組織化する社会関係を曖昧にしてしまうと主張。

→ ファスによると、構築主義では、アイデンティティの構築性が分析されているとしても、そこで問題になっているのは社会的な構築だけである。だが、自然な、あるいは内的なセクシュアリティが存在しないと考えたとしても、必然的に精神というカテゴリーが否定されるわけではない。むしろ、精神分析や精神という概念は、欲望を分節する社会編成を理解するためにも重要である。「あらゆるアイデンティティは排除に基礎付けられているという前提条件」が理解できる。(p.110)

◇Jonathan Dollimore/ドリモアは、ゲイの抑圧経験を禁じられた欲望に還元するのでもなければ、上部構造の効果に還元するのでもない。同性愛嫌悪が文化を循環するあり方、異性愛中心主義が同性愛嫌悪を位置づけるメカニズムを解明しようとする。

→ 同性愛嫌悪と異性愛主義の関係(p.110)

◇「同性愛理論と運動におけるゲイ/レズビアン二項対立の表面化」(pp.111-112)
◇「性差の現代的理論における同性愛の場所」(pp.111-112)

■書評・紹介

■言及



*作成:高橋 慎一
UP: 20080526 REV:20081104
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