『製糸同盟の女工登録制度――日本近代の変容と女工の「人格」』
東条 由紀彦 19900131 東京大学出版会,465+3p.
■東条 由紀彦 19900131 『製糸同盟の女工登録制度――日本近代の変容と女工の「人格」』,東京大学出版会,456+3p ISBN-10:4130260499 ISBN-13: 978-4130260497 \7560 [amazon]/[kinokuniya] w01 w0112
■内容
女工登録制度の成立から破綻までの過程を辿るなかで女工の人格的成長と抵抗の実態を明らかにし,さらに「家」や工場世界の歴史的変化を分析することにより,「近代」社会から「現代」社会への移行という戦前日本社会の巨視的変遷の意味を提示する.
■目次
はじめに
第一章 製糸同盟の女工登録制度
一 はじめに
二 登録制度の形成
三 登録制度の「確立」
四 登録制度の「空洞化」
五 小括
第二章 「近代」的労働市場の変容と製糸女工
一 はじめに
二 労働力移動の変化と広域・大規模募集圏
三 〈分断的累積的労働諸市場〉と〈統一的位階層的労働力市場〉
四 〈統一的労働力市場〉の組織化
五 小括
第三章 「近代」的生産過程の変容と製糸女工
一 はじめに
二 〈産業技術上の変化〉と〈労働力編成〉
三 多条機導入以前の〈産業技術上の進歩〉の性格
四 〈労働力編成〉の「現代的枠組」
五 製糸業における〈労務管理〉の形成
六 多条機導入の意義
七 小括
第四章 登録制度廃止と女工の「人格」
一 はじめに
二 登録制度廃止の経緯とその問題構成
三 労働者の「人格承認」と〈移行期〉国民統合
四 小括
おわりに
補論T 等級賃銀制の「解体」――女工の勤続、「能力」、賃銀決定(昭和一〇年)
補論U 明治二〇〜三〇年代の「労働力」の性格に関する試論
あとがき
索引
■引用
「「労資関係」とは、「労働者と資本家の関係」のことではなく、「労働と資本の関係」のことである。「労働」とは行為であり、「資本」とは「モノ」である。行為と「モノ」との間には、根源的な異種性・他者性がある。そして「モノ」による行為の「包摂」の、その他者性から来る「矛盾」のプロセスこそが、あらゆる労資関係固有の問題領域の根底にあるものなのである。この問題の所在を端的に示したいために、またそれこそが我々がまず対象とすべきリアルな存在であることを示したいために、筆者は「労資関係」と書くのである。」(p.1)
「「モノ」による行為の「包摂」、フィクションによる実在の「包摂」には根源的な矛盾がある。両者の「運動」のロジックは、根源的に他者的である。世界はそれを、「労働力」なる「モノ」を「創りだす」ことによって「解決」する(「隠す」)。マルクスの「労働力」概念の発見の根本的意味は、ここにあると思われる。
「労働力」も、究極的なフィクションである。工場に事象として実在するのは、実際には、人間の万古不易の行為たる労働と、ここ数百年の産物たるその支配と搾取の行為以外の何者でもない。しかし人々はその事実を抑圧し、それを「固められた」「労働力」の「支出」として処理する。労働する人々としての労働者諸個人は、「外なるモノとしての労働力の所有・取引者」に、自己を改編する。行為する労働者は、非人格的な「労働力」と、その人格的な「所有」者へと分裂する。自己の不易の欲望を、そうした=迂回した=抑圧された経路で充たすのである(4)。」(p.2)
「最後にそうした国民統合のプロセスにおける、労働者諸個人の「人格性」の問題がうかびあがる。「人格的」な存在だけが、「非人格的」な「モノ」を所有することができる。他方労働者諸個人は、自前の市民社会を喪失することによってはじめて、他者(資本)によって、人格を「認められる」意味と必要が出てくる。
我々はこうした文脈で出現したキイシンボルとしての労働者の「人格」と、その「承認」のモチーフの意味を、本書全体を通して追求していくことになる。」(p.7)
「(7)「私のモノだからあなたのモノではない」ことを「私的所有」の「原理」的なものと考えると、その対極に、「私のモノだから(それを通して)あなたのモノである」という所有が考えられる。これが狭義の「個人的所有」である。「個人的所有」は他方、「私のモノは存在せずみんなのモノ」なる「原始的所有」の対極に立つ。他ならぬ「私」と「私のモノ」が、「個人的所有」にはあるのである。「共同体的所有」概念は、この区別があいまいである。「あなたのモノ」でもあることは、「定期的な割替」や「非所有(所有喪失)の自由」の規制、といった歴史具体的な姿形をもつ事柄である。「個人的所有の再建」とは、そうした実在の「原理」の再建である。」(p.11)
「(10)「フィクション」が抑圧的であればあるほど、我々にとって肝腎なことは、「幻想」のフィクション性を単にあばくだけでなく、その成立の根拠を示すことに移る。あるいは、「実在の支配」が、「自由な契約」関係として現れる、そのメカニズムの解明に。そしてその点で、近代の(「外面的」な)メカニズムと、現代の(「内面的」な)それとの間には、決定的なちがいがあるのである。
「生身の支配」は、あまりに抑圧的である。しかし現代の人々は、近代の人々のように、身を隠すべき、あるいは守るべき自前の市民社会を持ってはいない。「労働力」なる「使い捨て」の「モノ」の所有者としての限りでの、市民=自由な契約主<12 13>体として自らを維持する外に、自らを「合法化」できない(何も所有しない=人間をやめるより他には、唯一マシな選択である)。
それ故逆説的だが、そういうフリをすることを通じて、現代の諸個人は、資本という「モノ」による、人格的存在としての自己の包摂から(自己の一部を非人格的「労働力」なる犠牲としてささげることで)、自由な、所有者としての自己の最後の部分を「守って」いるとも言えるのである。こうした文脈で「労働力」概念は(またその概念を媒介とした「自由な契約」の幻想は)、決して事実ではないが、人々が現にそれによって存在を拘束される現実である。あるいは端的には、彼らが自我を守りつづけるためにとりつづけねばならぬ麻薬である。そうであればこそ、資本に包摂された市民社会から抜けでることが、今日までかくも困難だったのである。」(p.12-13)
「従って「人格承認」の要求は、以下の二つの側面をもつシンボルへと成長していった。第一は、労働者諸個人の、失われつつある人格性の回復の必要である。この時期の労資紛争の多くは、労働者諸個人のこの欲求に根ざすものであった(46)。
しかし第二にそれは、近代の同職集団という〈実在の協働社会〉が、大局的には避けようのないものとして失われていく中で、彼らの労働者・生産者・生活者としての諸価値を、何らかの形で充たそうとする新しい〈現実の協働社会〉形成の希望、そのシンボルとして成長していった(47)。その場合、さしあがり(初期)は、新たな〈現実の協働社会〉を、「人格承認」要求として経営に要求することのその内実は、明瞭なものとは言えなかった。だが抽象的な「人格承認」を要求する、その運動の中で(それへの答にさしあたりは関わらず)、〈現実の協働社会〉形成の希望を、彼らは次第に育んでいった(48)。
ところで新たな〈現実の協働社会〉の希望とは、直接的には第一次的面接集団としての職場集団の形成の希望である。しかしそれはその本来の姿として、あらかじめ自己をそこに限定する契機を備えているものではない。その希望は、「万人の労働に基づく社会」という幻想の協働社会を現実のものにしようとする、生活世界レベルの欲望に淵源を持つものである。それ故それを、労働に基づく全社会的な連帯を求める希望へと発展させていこうとするのは、それ本来の自然な欲望のあり方なのである(49)。」(p.345)
■書評・紹介
稲葉 振一郎 19921000 「労使関係史から労使関係論へ――東条由紀彦「製糸同盟の女工登録制度――日本近代と女工の『人格』」(東京大学出版会,1990年),佐口和郎「日本における産業民主主義の前提--労使懇談制度から産業報国会へ」(東京大学出版会,1991年)」『経済評論』41(10),88-112
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/rousi_.htm
佐口 和郎 19911000 「「製糸同盟の女工登録制度--日本近代の変容と女工の『人格』」東条由紀彦」『経済学論集』57(3),115-118
岩本 由輝 19910800 「「製糸同盟の女工登録制度--日本近代の変容と女工の『人格』」東条由紀彦」『日本史研究』(通号 348),72-79
市原 博 19910700 「「製糸同盟の女工登録制度」東条由紀彦」『経営史学』26(2),p82〜86
大島 栄子 19910300 「「製糸同盟の女工登録制度--日本近代の変容と女工の『人格』」東条由紀彦」『歴史評論』(通号 491),84-90
池田 信 1991000 「「製糸同盟の女工登録制度--日本近代の変容と女工の『人格』」東条由紀彦」『社会政策学会年報』(通号 35),223〜227
下田平 裕身 19901200 「「製糸同盟の女工登録制度--日本近代の変容と女工の『人格』」東条由紀彦」『日本労働研究雑誌』32(12),46-49
*作成:橋口 昌治