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『ポスト植民地主義の思想』

Spivak, Gayatri C. 1990 The Post-Colonial Critic
=199212 清水 和子・崎谷 若菜 訳,彩流社,310p.


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Spivak, Gayatri C. 1990 The Post-Colonial Critic, =199212 清水 和子・崎谷 若菜 訳 『ポスト植民地主義の思想』,彩流社,310p. ISBN-10: 4779190002 ISBN-13: 978-4779190001 〔amazon〕 ※ b

■内容(「BOOK」データベースより)
インド生まれの脱構築派マルクス主義フェミニストが、新植民地主義システムにおける女性やアジア、アフリカの多様な位置を示し、ヨーロッパのポスト構造主義理論を逆撫でする。

■目次
批評、フェミニズム、そして制度
ポスト・モダン状況―政治の終焉?
戦略、自己同一性、書くこと
文化的自己表現/代表の問題
マルチ文化主義の諸問題
植民地以後の批評家
カルカッタからの消印―インド
オープン・エンドの実践政治
『政治介入』のためのインタヴュー
『ラディカル・フィロソフィー』とのインタヴュー
暴力の構造と駆け引きする
新歴史主義―政治的コミットメントとポスト・モダンの批評家


■言及

Frank, Arthur W., 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press(=2002, 鈴木智之訳『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』ゆみる出版).
(pp29-30)
 脱近代社会においては、ますます多くの人々が、さまざまな言語化と行動の段階において、医学が自分の苦しみを一般的で統一的な視点へと還元してしまうことへの不信を表明する。寛解者の社会のメンバーは、医学の世界を裏から表まで知りつくし、医学的な語りの中での自己の位置を問い直す。政治的に植民地化されていた人々との類推を行うことで、彼らが問いただしているものが何であるのかを明確にすることができるだろう。ガヤトリ・チャクラヴォティ・スピヴァックの語るところによれば、植民地化された人々は、「支配的(マスター)テクストがそれ自体を構築する際に自分たちのことを必要としているにもかかわらず、その必要性についての認識を欠落させている(*18)」ことを明らかにしようとしている。医学の支配的テクストは、何を必要とし、そして何を認識せぬままにあるのだろうか。
 私の出会った人の中に、喉頭癌のため顎から顔にかけて広範囲にわたる再建手術を受けねばならなかった人がいる。彼の治療は相当に珍しいものであったために、外科医はそれについて医学雑誌に論文を発表し、写真つきで再建過程の諸段階を提示した。その人は論文のことを私に話し、それを見せてあげましょうと申し出てくれたのだが、その時私はその論文とは彼についての論文であろうと考えていた。つまり生命を救うためであるとはいえ、不具の身となるような試練を経験した彼の苦しみについての論文なのであろう、と。ところが論文を見ると、そこには彼の名は記されていないことに気づいた。おそらく、その人の写真は掲載しても、氏名を明らかにするのは倫理的でないと医師と雑誌は判断したのであろう。それによって、「彼の」論文の中であるにもかかわらず、彼の存在は匿名の誰か―実際には匿名の何か―として見事に無視され、ただ身体としてのみ扱われている。しかし、医学的目的から見れば、それは彼の論文などではまったくなく、彼の医師の論文であったのだ。これこそまさに、スピヴァックの語る植民地化である。医学雑誌の支配的テクストは苦しんでいる人を必要とする。しかし、その人ごとの個別的な苦しみは認知されえないのである。
 (*18)Gayatri Chakravorty Spivak, The Post-Colonial Critic: Interviews, Strategies, and Dialogues, ed. Sarah Harasym (NewYork: Routledge, 1990), 73. [ガヤトリ・チャクラヴォティ・スピヴァック,清水和子・崎谷若菜訳『ポスト植民地主義の思想』,彩流社,1992年]
(pp200-201)
 しかしながら、病いの物語を証言として理解することのうちには、やはりそれを脱構築的な形で使用する一面がある。病む人々の生命(ライフ)を媒介するさまざまな行政文書―カルテや財務一覧や病院の管理手続き―に内在している、ドロシー・スミスが言うところの「支配関係(relation of ruling)」を、証言としての病いの物語は解体していくからである(9)。スピヴァックが描きだした植民地主義の文書(テクスト)がそうであるように(第一章を参照)、行政文書は身体化された存在に依存しながらもそれを否認しているのだが、病いの物語の証言はその身体化された存在が確かにそこにあることを訴えている。病む人の身体こそが医療行政の存在理由であるにもかかわらず、科学的・職業的活動としての医療は、その身体を単なる疾患の容れ物と見なしてすませてしまう。身体化された経験は、多くの現場の医師がどれほど患者の経験に寄り添おうとしたところで、公式の医療言説からは抜け落ちてしまうのである(10)。
(p206)
 ナンシー・メアズは、多発性硬化症とともに過ごした歳月の中で、互いに与えあう関係について思索をめぐらせる機会を得た。彼女はそこで[限定的責任の倫理学とは]根本的に異質な包括的責任(extensive responsibility)の倫理学を提示している。メアズは、慈善的行為とは「決して思いやり深くあることではない」と指摘する(18)。思いやり深くあろうとして何かを与える人々は、自分自身が窮乏者[=何かを必要とする者(needy)]であるとは思っていない。何かを必要としているのは他者の方なのである。メアズよりもさらに強い言い方をすれば、「思いやる者」は、窮乏者が自分の思いやりの対象となる他者としてそこに在ることを必要とする。しかし、思いやる者は―支配的(マスター)テクストに関するスピヴァックの議論(第一章)に立ち返るならば―自分が窮乏者を必要としていることに気づかない。これによって慈善は支配へと転じる。思いやる者は、窮乏者を自分に依存させるのである。

◆鈴木智之, 20020215, 「訳注」Frank, Arthur W., 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press(=20020215, 鈴木智之訳『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』ゆみる出版).
(pp253-254)
 (*1)脱植民地主義、G・Ch・スピヴァック
 宗主国に対する政治的独立を果たした後においても、その地に生きる人々の生活の過程にはさまざまな形で植民地支配の「負の遺産」が残される。「植民地支配を脱した社会」の人々が、その社会経済的な組織において、文化において、あるいは知の編成においてなおも被り続ける「排除」や「周辺化」や「抑圧」のメカニズムを問い直し、解放のための闘争を継続しようとする知的・政治的運動が「脱植民地主義」である。その運動は、多様な形態をとりながら、いずれも西洋・近代の知識人が立脚する知的前提への根源的な反省を要求する。
 そうした脱植民地主義的な知の運動の一角を形成するものとして、「サバルタン研究」がある。「サバルタンSubaltern」とは、「従属的・副次的(存在)」あるいは「下層の人びと」を指す言葉であり、「植民地主義が不可避的に組み込まれた支配がつくりあげ再生産する社会的諸関係において『従属的・副次的』であり『下層』であることを刻印された人びと」(崎山政毅『サバルタンと歴史」14頁)に向けて用いられる。「サバルタン研究」は、198O年代初頭にインドの歴史家ラジナット・グーハらを中心に研究グループが組織されたところから、歴史記述への方法論的な反省の運動として台頭してくる。崎山によれば、「脱植民地化の歴史過程を、宗主国の歴史に還元する植民地主義史観や、エリートに表象される分割不可能な国民的自己同一性を主体においた物語として描いてきた国民主義史観への批判が、サバルタン研究の歴史記述を追究する起点となっている」(16頁)のであった。すなわちそれは、他者あるいはエリートの視点から、単一の国民的主体を前提として書かれてきた歴史に異議を申し立て、それまで「声」を奪われてきた「民衆」の視点から歴史を記述し直そうとするものである。
 ここでフランクが引用するスピヴァックの発言は、この「サバルタン研究」に対する共感と批判の相半ばするところから発せられているものである。一方でスピヴァックは、「サバルタン研究」が「インドの植民地の歴史編集の発達史を農民暴動の視点から書き直しているものとして」「最も意欲的な脱構築的歴史編集の例」であると評価する(G・Ch・スピヴァック、清水・崎山訳、『ポスト植民地主義の思想』、彩流社、1992年、233頁)。しかし彼女は、サバルタン研究が、「サバルタン」を、自らを被抑圧者として認識し、その歴史を語りうる主体として構築してしまうことに対して批判の目を向ける。(フーコーやドゥルーズの発言を批判の俎上に乗せながら)スピヴァックは、彼ら知識人が、「被抑圧者たちは(…)、もし機会を与えられたならば(…)、そしてもし連合のポリティクスをつうじてのプロレタリアとの連帯の途上で(…)、かれらの置かれている状態を語り知ることができる」という前提に立ってしまっていることを指摘し、「サバルタンは語ることができるのか」(G・Ch・スピヴァック、上村忠男訳、『サバルタンは語ることができるのか』、みすず書房、1998年、36頁)という問いを投げかける。もちろんこれは、サバルタンは語りえない、という叙述命題を導くものではなく、知識人が「植民地的主体を他者として構成してしまう」(同30頁)ことに含まれる「認識の暴力」を再度問いただそうとするものである。
 スピヴァックが「サバルタン研究」に対して放った問いは、本書の議論にとっても重要な意味を持っている。近代医療による身体の植民地化に抗して、「病む者」を「自己の物語を語る主体」として呼びだそうとするフランクの立論は、その内側から「病者は語ることができるのか」という問いを突きつけられることになる。むろんフランクはその問いの所在に対して十分に自覚的であり、そうであればこそ「混沌の語り」という逆説的な概念を導入しているように思われる。

石川准, 20011201, 「マイノリティの言説戦略とポスト・アイデンティティ・ポリティクス」梶田孝道編『国際化とアイデンティティ』ミネルヴァ書房.
(pp154-155)
人文・社会科学などのアカデミックな言説空間で発せられる言論は、そこもまた政治の場であると言われつつも、案外非戦略的である。そこは、伝統的に規範性、解放性、一貫性が支配する場であって、実際、アカデミズムにおけるこうした規範は、「マイノリティ」とか「サバルタン」などのポジションにあると自覚する人々をも貫き、知に対しては誰もが誠実であらねばならぬ、という絶大な拘束力を保ち続けている。
 しかし一方的に自分たちの手の内を見せるのは戦略的に得策でないのはわかりきっていることだから、自分について語るのでなく、他者について、社会について語るように促す言説がくりかえし発せられることにもなる。マイノリティは、自己のアイデンティティを語るのでなく、ヘゲモニーを握るマジョリティの身振りや社会システムを分析せよというわけだ。
 だが、語りの内容の矛先が「自分たち」でなく「他者」や「社会システム」に向けられているとしても、「マジョリティ」に向かって「マイノリティ」として語るべきではない、と言われることもある。それは、スネジャ・グニューがガヤトリ・スピヴァックとの対談において指摘したように、マイノリティとして「巧みに」語ってしまうと、トークン=許可証的人間としてピックアップされ、全ての移民を代表する者であるかのように取り扱われ、マジョリティの鈍感さやナイーブさを隠蔽する役割を果たさせられ、他のマイノリティから活動や発言の機会を奪ってしまうというようなことが起きることへの警鐘である。
 スピヴァックもまた、語ることの重層的なアンビバレンスについて「率直に」語っている。
 「「として語る」という問いは自己から距離を取ることを含みます。わたしがインド人として、あるいはフェミニストとして語る方法を考えるや否や、わたしが女性として語る方法を考えるや否や、わたしのしていることは、自己を一般化しようとすること、自己を代表者にしようとすること、自己をそのように語る一種の創始者から距離を取ろうとすることです。ひとが執らなくてはならない多くの主体的立場が存在します。ひとはただひとつのものではありません。それは政治的意識が入ってくるときです。だから事実、「として語ること」を何者かとして行っているひとにとって、それはそうした自我がなんであれ、自己から距離を取る問題です。けれど切札を持っている聞き手たち、つまり覇権をもつ人びと、支配する人びとが何者かあるいは他の者「として語る」誰かに耳を傾けるとき、そこでひとは問題に出会います。彼らがインド人がひとりのインド人として語るのを聞きたいとき、第三世界の女性として第三世界の女性が語るのを聞きたいとき、彼らは彼らが所有することを許された無知という事実を蔽い隠し、一種の均質化を行うのです。」[スピヴァック、1992、p.109]


*作成:植村 要 追加者:
UP:20080511 REV:
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