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『意味の復権――フォークサイコロジーに向けて』

Bruner, Jerome  1990 Acts of Meaning, Harvard University Press.

=19990920 岡本 夏木・仲渡 一美・吉村 啓子 訳『意味の復権――フォークサイコロジーに向けて』,ミネルヴァ書房


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Bruner, Jerome 1990 Acts of Meaning, Harvard University Press.
=19990920 ジェローム・ブルーナー著 岡本 夏木・仲渡 一美・吉村 啓子 訳『意味の復権――フォークサイコロジーに向けて』,ミネルヴァ書房, 251p. 2800  ISBN-10: 4623030180  ISBN-13: 978-4623030187 [amazon] [kinokuniya]※ n08


■目次

謝辞
第1章 人間研究のあるべき姿    I 認知革命の由来
  II 文化と心理学
  III 「する」ことと「言う」こと
  IV 生物学的制約と文化的創意性
   V 構成主義と相対主義
  VI 科学的心理学とフォークサイコロジー

第2章 文化装置としてのフォークサイコロジー
   I 文化心理学とフォークサイコロジー
  II フォークサイコロジー
  III フォークサイコロジーのなりたち
  IV 物語の特性
   V 通常性と逸脱性
  VI 人生が芸術を模倣する
  VII 「詩」と「真実」
 VIII 経験の体制化
  IX 形式論理を越えて

第3章 意味への参入
   I 物語の力の達成
  II 意味の生物学
  III 物語へのレディネス
  IV 事象の規範性と逸脱性
   V 家族内のドラマ
  VI 『クリプからの物語』
  VII 生活の物語化

第4章 自伝と自己
   I 「自己」をめぐる見解
  II 自己研究の要件
  III 家族のストーリー
  IV 家族とのインタビュー
   V Goodhertz一家
  VI 「現実世界」と「家庭生活」
  VII 社会的歴史的力の表現
 VIII まとめ――「説明」と「解釈」

Notes
事項索引
人名索引
訳者あとがき

■引用
太字見出しは作成者による

認知革命Cognitve Revolution、その後の展開に対する批判、ブルーナーの見解
 本来考えられていた認知革命は、心理学が人類学や言語学と、哲学や歴史学と、そして法律学の分野とも協力することを事実上必要としていた。ハーバード大学の認知研究センターの初期の評議員に、哲学者のW.V.Quine、精神史学者のH. Stuart Hughes、言語学者のRoman Jakobsonらが入っていたことは驚くことではないし、もちろん偶然でもない。またセンターの会員の中では、哲学者、人類学者、言語学者の人数が、心理学の専門家――その心理学者の中にはNelson Goodmanのような新構成主義の代表者も含まれているのだが――の人数とほとんどかわらないということも驚くべきことでもなく偶然でもない。(p.4)

 「計算」ということを新しい認知科学のメタファーとして使い、「計算可能性」ということを新しい認知科学における運用可能な理論の充分な規準とまではいかないが、必須のものとして用いたことで、メンタリズムに対するかつての不快感が再び立ち現れてくるのは避けられなかった。心とプログラムが同じものとみなされるならば、心的状態の地位――計算システムのプログラム的特性によって固定されるのではなく、主観的な特徴によって固定される古風な心的状態の地位――はどうなるのだろうか。そのようなシステムの中では、――信じる、欲求する、意図する、意味を把握するといったような志向的状態という意味での「心」――にとっての居場所はありえないだろう。新しい科学からそのような志向的状態を追放しようとする叫びがすぐに起こった。(pp.10-11)
ダニエル・デネット、ポール・M・チャーチランド、ジェリー・フォーダーへの言及

 心的状態とか志向性に対する新しい攻撃と関連して、行動主体(agency)という概念に対する攻撃が起こってきた。概して認知科学者は、行動が方向づけられているという考え方、それどころか目標に向かって方向づけられているちおう考え方に対しては何の異議も唱えていない。行動の方向は、行動結果の有効性の計算によっていくつかの選択肢の中から決定されるのであれば、この考えは完全に受け入れられる。また、たしかに「合理的選択理論」の目玉となる。しかしながらその新しいムードの中で、認知科学は目標指向行動に対して双手を挙げて受け入れているにもかかわらず、行動主体という概念に対してまだ慎重な態度をとっている。というのは、「行動主体」ということばは、志向的状態の支配を受けた活動としての行為という意味を含んでいるからである。(pp.12-13)
志向説擁護でジョン・サール、ケネス・ゲーガン、クリフォード・ギアーツへの言及

私が言わんとする見解は、裏返して言うと次のようなものである。人間の生や心の形を決め、行為の基底にある志向的状態を解釈可能な体系に位置づけることによって行為に意味を与えるのは、文化であって生物的なものではないということである。それは文化が有するシンボリックな体系――つまりある文化に属する言語や談話の様式、論理的、物語的な展開――の形式に固有のパターンや相互依存的な社会生活のパターンを考えることによってなされる。さらに言えば、人類の進化における神経の特質の淘汰に、文化的な要請や契機が重要な役割を果たしているという見解に、神経学者や自然人類学者も徐々に達しつつある。もっとも新しいところでは、神経解剖学の見地からGerald Edelmanが支持する説があり、他にも自然人類学の論拠に基づくVeron Reynolds、そして、霊長類の進化データに関するRoger LewinとNicholas Humphreyのものなどがある。(p.49)

フォークサイコロジー
 さて、私はフォークサイコロジーがあらゆる文化心理学の基礎になるべきであると提唱した。そこで私の考えていることを説明するために、われわれ自身のフォークサイコロジーを構成する主要な要素の見本を、「参加観察者」としてとりあげてみたい。これらは、単に構成要素にすぎないということをくれぐれも心に留めておいてほしい。すなわち、フォークサイコロジーを成り立たせている人間のありかたについて物語に入っていく基本的な信念もしくは前提である。たとえば、われわれのフォークサイコロジーの明白な前提は、人びとが信念と欲求をもっているということである。(p.55)

 フォークサイコロジーはまた、われわれの欲求や信念の表現を変容させる一つの世界をわれわれの外部に仮定する。この世界はわれわれの行為がその中に位置づけられる文脈であり、世界の在り方は、われわれの欲求や信念に理由を与えることであろう。(p.57)

そして、フォークサイコロジーを組織していく原理の決め手となるポイントは、論理的、あるいはカテゴリー的であるというよりも本質的には物語的であることを再度強調したいがためである。フォークサイコロジーとは、行動主体である人間についてのものである。(p.61)

物語の特性
 おそらく、物語の第一の特性は、本来的に内在する時系列性であろう。一つの物語は、事象、精神状態、そして登場人物つまり行為者としての人間に関わる事件の、独自の一連の流れから成り立っている。これらが物語の構成要素である。しかし、これらの構成要素は、いわばそれ自身としては生命や意味をもってはいない。これら構成要素の意味は、全体としての時系列のもつ総体的形態、つまりそのプロットや寓話の中でそれらが置かれる場所によって与えられる。(p.62)

 物語の二番めの特徴は、それが一つのストーリーとしての力を失うことなしに、「事実」上のことにでも「想像」上のことにでもなり得るということである。すなわち、ストーリーのもたらすセンスとストーリーが指示するものとは互いに特異な関係をもっているということである。(p.63)

むしろ私は、経験を物語の形式やプロット構造等へと体制化する人間のレディネスや傾性のつもりで言っているのである。(p.65)

 物語のもう一つ重大な特徴は、すでに行きがかり上触れてきたように、物語は例外的なものと通常のものとをつなぐ環を鋳あげることを専門としている点である。ここで、この問題に移ってみよう。一見、ジレンマと思われるものから始めたい。フォークサイコロジーは規範性という衣をまとっている。フォークサイコロジーは人間の状態の中での予想できるものと通常となっているもの双方、またはいずれかに焦点をあてているのである。そして、これらに正当性もしくは権威を与えている。しかしながら、フォークサイコロジーは、例外的なもの、通常でないものを理解可能な形にするという目的達成のための強力な手段でもある。というのも、第1章で強調したように、一つの文化の存立可能性は、その文化が葛藤を解決する、つまり、相違点を解明し、折衝をくり返して共同体的意味を作り出すことができるかどうかによって決まるからである。(pp.67-68)
グライスの協調の原理を活用して通常なことについての語りに触れた後で↓

 これとは対照的に、通常性から外れた例外的なことに出くわし、誰かにいったいどうしたのかとたずねると、相手はほぼいつも、理由(つまり、意図的な状態についての何らかの特殊事情)を含むストーリーを話すだろう。さらに言えば、そのストーリーはほとんどいつも、その出会った例外的事象が何らかの理由をもち、「意味」をもつことが可能である世界を説明するものになるだろう。(p.70)

ストーリーの機能とは、正当とされる文化パターンからの逸脱を緩和し、あるいは少なくとも理解可能にするような意図的な状態を見いだすことある。(p.71)

経験の体制化
 さて、ここで広義には「経験の体制化」とも呼びうるかもしれなぬ物語性をもつフォークサイコロジーの役割に戻ってみたい。とくに二つのことに関心がある。一つはかなり昔からのものだが、普通、枠付けまたはスキーマ化と呼ばれているものであり、もう一つは情動の調節である。(pp.79-80)

物語の引き金としての逸脱性
最初に、むしろ存在を立証するものとして、ごく幼い子どもにおいてさえ、物語の引き金となるのは、規範をはずれたできごとの力であることを示しておきたい。(p.114)
Joan Lucarielloによる実験、Peggy Millerの研究

Judy Dunnの"The Beggining of Social Understanding"を論じて↓
むしろ、彼女の言いたいのは、社会的理解は、たとえ結果的にどれ程に抽象的になろうとも、その子が主役――行動主体、犠牲者、共犯者――である特定の文脈下での実行行為として、常に始まるということである。子どもは、告げたり、正当化したり、言いわけすることが求められるようになる前に、まず日常の家族「ドラマ」での役割の演じ方を学ぶのである。何が許され、何が許されないのか、どういうことがどういう結果につながるのか、これらを最初に行為の中で学ぶのである。そのような行動としての知識を言語に変換するのは、後になってはじめて行われる。


*作成:篠木 涼
UP: 20080521 REV:20081104  
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