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『歴史の道標から――日本的〈近代〉のアポリアを克服する思想の回路』

栗原 幸夫 198907 れんが書房新社,**p.

last update:20110626

■栗原 幸夫 198907 『歴史の道標から――日本的〈近代〉のアポリアを克服する思想の回路』 れんが書房新社,400p. \2940 [kinokuniya] sm02 1vie beh

■出版社/著者からの内容紹介


■目次

序論 歴史の境界線について

T
 近代への憤怒
 「日本浪漫派」以前
 中野重治と転向の問題
 敗北からの再建の道
 プロレタリア文学運動における理論と批評
 ナップ時代の意義
 『日本共産党の六十年』とプロレタリア文化運動
 アジア・アフリカ作家運動小史
 必然性の作家

U
 神山茂夫(T)
 神山茂夫(U)
 プロレタリア文学運動と神山茂夫
 転向論
 “空白の十年”が意味するもの
 党史の方法
 社会主義の現在
 戦前の中国研究とマルクス主義
 日本マルクス主義とアジア
 戦後民主主義を超えた運動理念―――ベ平連
 現代革命論への序説
 ペレストロイカ最深部を行く
 ペレストロイカの現在と展望
 日本マルクス主義と天皇制
 日本人の品位について
 天皇制批判とわたしたちの課題

歴史の道標から―――あとがきに代えて


■引用


■戦後民主主義を超えた運動理念―――ベ平連

「第二回デモ(この日、ベ平連は正式に発足した)で歌われた「橋のたもとで暮らす人/きれいな丘の上で暮らす人/でも平和のまんなかで暮らすのが/それが一番だ」という歌は、発足時のベ平連が、その思想的・感性的なレベルで、「戦後民主主義」にどっぷりとつかっていたことをよく示している。ただデモの隊列のなかには、この歌に口を閉ざした人たちや、また顔をしかめながら小声で歌った人たちも少なからずいた」(栗原、1989:283)

◇60年安保「守るべきこの日常」から「問い返されるこの日常」への移行と言う現象。

「ベ平連は最初、きわめてウサン臭い目で見られた。ベ平連にたいする批判は、大まかに二つに分けられる。一つはベ平連の「自己欺瞞的性格」に向けられた。市民、市民て言うけど、あれはモダニズムじゃないかね。なんでアメリカばかり気にするんだ、ベトナムの民族解放戦線を指示するのかしないのか。日・韓問題という日本人自身の問題から逃げて格好良くやっているだけじゃないか。日本の権力と対決するのかしないのか。―――もう一つは「市民運動」という運動論にたいする批判であった。一九六六年九月にサルトルが来日した時、ベ平連は彼とこの問題を話し合ったことがある。サルトルは、フランスでは大衆は党や労働組合に組織されているから、その外のところで独立に「市民運動」が展開される余地はない、という意見だった。多かれ少なかれサルトルのような考え方は、日本の運動家のなかにもあった。社共や総評のような既成組織はもちろん、いわゆる新左翼系の活動家たちのなかにも、こういう考えは根強かった。」(栗原、1989:284)

◇党と組合にしかなかった運動空間。そこに第三の空間を創っていく運動としてのベ平連・・・・と五月革命。異なる主体、異なる運動、変移し続けること。党と組合のAIE的側面。そこからも逸れていく・・・。

「フランスでは「五月革命」が爆発した。日本でも六七年の一〇・八羽田闘争を皮切りに、大衆的な叛乱の季節がはじまり、そのなかから全共闘運動という新しいスタイルの学生闘争が全国に広がる。アメリカでもバークレイから始まるスチューデント・パワーの運動は黒人運動とも連動しつつ、新しい反戦運動とも連動しつつ、新しい反戦運動へと大衆的に発展する。そして、それらの闘争の現場にはかならずゲバラの肖像がとベトナム解放民族戦線の旗があった。
 “ベトナム”を軸に、急激な政治闘争の高揚がはじまった。しかもそれは政治運動だけではなかった。ライフ・スタイル全体の変革が希求された。ビートルズやローリング・ストーンズが若者たちに熱狂的に迎えられた。長髪とジーンズとロック。それは政治的青年とヒッピーを結ぶ共通の風俗になった。また事実、両者は自由に移行しあった。それに文化大革命のスローガンが共鳴した。人びとは、そして特に青年たちは、生活全体を変えることができるかもしれないと、なかば本気で信じたのである。
 あくまでも「普通の市民」の日常から出発するというベ平連の運動理念は、このような生活変革派あるいは風俗変革派と多くの点で共鳴できる要素をもっていた。また「真実というものはわれわれの後から追っかけてくる」という一種の行動主義も、不毛な党派的論争や抑圧的な管理民主主義にあきあきしていた若者たちをベ平連にひきつける大きな要因になった。初期の全共闘運動や反戦青年委員会運動は、多くの面でベ平連の運動論と共通したものをもっている。」(栗原、1989:286−287)

◇生活変革、日常変革としての接点:ヒッピー、全共闘、反戦青年委員会、ベ平連、五月革命、スチューデントパワー。行動主義。

「ベ平連がその出発時にもっていた「戦後民主主義」的な限界や「平和主義」的自己欺瞞性を抜け出していくのに役割りを果したのは、「イデオロギー論争」ではなく決定的に「行動」であった。」(栗原、1989:287)

◇行動を通じたラディカル化。

「「組織ではなく運動だ」を原理とするベ平連には、当然のことながら規約も綱領もない。もしベ平連が規約・綱領をもった「組織」だったら、このような過程的な態度は生まれにくかっただろう。ベ平連は八年間の歩みのなかで、いくつかの曲り角、あるいは飛躍の時期をもっているが、もしこれが「組織」だったら、そのたびごとに綱領や運動方針をめぐって不毛な論争と分裂がさけられなかったに違いない。「組織」は変りにくいのである。しかし「運動」は変化し発展する。変化・発展が運動の常態である。そして行動を通じて徐々にすすめられる変化・発展には無理がない。」(栗原、1989:288)

◇行動を通じて確認し、深めていく、過程的態度、変化・発展の常態化。

「極端な言い方をすれば、すべての運動が“ベトナム”につきあたり、そして“ベトナム”に直面した運動はかならずまた日本に帰ってくる構造が出来ていた。こうした往復の過程で運動は新しい質を獲得し、新しい展望をつかむことができた。状況的にそういう構造ができていたのである。」(栗原、1989:289)

◇日本とベトナムの往復運動の中で発見される問題群と移行する私(たち)。


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV:  
社会運動/社会運動史  ◇ベトナムベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)BOOK
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