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『刑法における生命の保護――脳死・尊厳死・臓器移植・胎児の傷害』(新訂版)

齊藤 誠二 19890115 多賀出版,545p ISBN: 9784811542034



■齊藤 誠二 19890115 『刑法における生命の保護――脳死・尊厳死・臓器移植・胎児の傷害』(新訂版),多賀出版,545p. ISBN-13: 9784811542034 [kinokuniya] 【絶版】

■詳細

■引用

「〔i〕生命維持装置を取り外すということは、実際には、生命維持装置などをつかう「特別の治療方法」を「ふつうの治療方法」にかえるという形で問題になるものであるが、問題になる場合が2つある。それは、(i)「死の危険をともなう場合」と、(ii)「確実な死に直結する場合」が、それである。
 〔ii〕 まえの「死の危険をともなう場合」には、①生命維持装置が治療や意識の回復のために役だたなくなっており、②この装置を取りつけておくことが病院や家族にあまりにも大きな負担をかけるようなときには、③患者の事前の承諾か保護者の承諾をえて、その装置を取りはずし、ふつうの治療にかえてもよい。それは、治療行為の限界線上にあるもので、許された危険としてみとめられるからである。」(324)

齊藤の議論 ⇒ 「はじめから回復が不可能であることがわかっているときには医師には生命維持装置を取りつけたりして治療をしなければならない義務はないのだから、はじめは回復の見込みがあったが途中からその見込みがなくなった場合にも、医師には生命維持装置などを取りつけつづけるなどという治療をつづけなければならない義務はないはずであるから、この場合の医師は患者の死を防がねばならない保証人としての地位にあるものとはいえず、したがって、この場合に生命維持装置などを取りはずしても犯罪となることはないからである、とおもっている」(327)

これに対する内藤謙の批判 「いったん取りつけた生命維持装置は、すでに生命維持のための既成事実となっているから、それを取り外す場合をはじめから取りつけなかった場合と全く同じにみることには疑問の余地がある」(341)

齊藤の反論 ⇒ 「この批判は、わたくしの考えを、わたくしの考えは、「いったん取りつけた生命維持装置」を「取り外す場合を、はじめから取りつけなかった場合と【全く同じにみる】」ものであり、この「ことには疑問の余地がある」としているが、率直にいって、わたくしには、わたくしの考えにたいして、どうして、こういう批判がでるのか、よく理解することができない。それは、わたくしたちは、いちども、「いったん取りつけた生命維持装置を取り外す場合を、はじめから取りつけなかった場合と全く同じにみる」というようなことをいったことはないからである。わたくしは、基本的には、脳死説をとるので、脳死が確定できた場合には、(とうぜんのことながら、患者が死亡してしまったときには、医師には死者を治療することはできないので、治療をつづけなければならない義務はなくなり、)生命維持装置を取り外しても問題となることはない、また、脳死とまでは確定できないが、現代の医学のうえでみとめられているあらゆる回復のための努力をはらってみたが、脳の機能の回復の見込みはないことがわかった場合には、(医師はそれ以上治療をつづけていることはできないのだから、)医師にはそれ以上治療をつづけていかなければならない義務はなくなる、それは、たとえてみれば、ちょうど、はじめから回復の見込みがまったくない患者が運ばれてきたときには、(治療をする//ことができないところでは治療をしなければならない義務はないのだから)治療をしなければならない義務がないことと同じように考えることができることである、ということをいっただけである。ここでいおうとしたことは、もはや治療をすることができないところでは、治療をしなければならない義務はない、もっと一般的にいえば、それをすることができないところでは、それをしなければならない義務はない、という」ごく当たり前のことである。」(342-3)
「わたくしたちが問題にしている場合に、いわゆる患者の側の同意を必要とするという立場をとるとすると、患者があらかじめ意識のあるときに承諾をしていないし、また、その患者に近親者がいないときには、たとえその患者がどんな治療をくわえても差し迫った脳死の状態に移ることを避けることができないような状態になり、いわゆる「人間としての尊厳を保った生存状態とはいえなくなった状態」になったとしても、医師の治療義務はつづき、生命維持装置を取り外すことはできない、ということになる。
 かつて、わたくしは、基本的に、こういうように考えながら、わたくしたちが問題としている場合に、いわゆる患者の側の承諾がなくても、医師の治療義務はなくなる、としたが、いまでも、基本的に、こういう考えをとりたいとおもっている。」(347)

■確認/コメント(堀田義太郎)

 上の議論で「取り外し」つまり中止の対象は、生命維持に資する治療である。言い換えれば、生命維持に役に立つ治療が「可能」だということが前提である。生命維持治療が「不可能」な状況であれば、いちいち「取り外し」の是非を問題にする必要などない。取り外さなくても死ぬだけだからだ。齊藤は「治療できない場面では治療の義務はない」と述べているが、生命維持治療ができる状況であるからこそ、その「中止」あるいは「取り外し」が問題になるのであり、したがって、齊藤の言う「治療」には、生命維持に役立つ治療は含まれていない。
 齊藤によれば、「治療」とは何よりも脳機能の回復に資する治療にほかならない。そして、脳機能の回復が見込めない場合には、生命維持の義務もないということになる。
 だが、それは「長期脳死」と呼ばれる人はもちろん、重度障害新生児等をはじめとして、かなり広範な人々を、本人の同意なく死なせることを認める議論になる。(さらに、齊藤の議論では、たとえば昏睡状態に至らせるような治療(セデーション)も無意味だろう。)

UP: 20080817 REV: 20100628
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