? Mackinnon, Catharine A. 『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』
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『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』

Mackinnon, Catharine A. 1989 Only Words, Harvard University Press

=19950831 キャサリン・A・マッキノン著 柿木 和代訳 『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』,明石書店


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Mackinnon, Catharine A. 1989 Only Words, Harvard University Press
=19950831 キャサリン・A・マッキノン著 柿木 和代訳 『ポルノグラフィ――「平等権」と「表現の自由」の間で』,明石書店,  185p, \2000 ISBN-10: 4750307165  ISBN-13: 978-4750307169 [amazon] [kinokuniya] ※ds00 df03 b

■紹介
内容(「BOOK」データベースより)
女性や特定の民族・マイノリティーの平等権を侵害する暴力表現=ポルノグラフィは、表現の自由によって、無制限に守られるべきなのか。アメリカを代表する法律家が鋭く描き出した平等権と表現の自由の相克。

内容(「MARC」データベースより)
女性や特定の民族・マイノリティーの平等権を侵害する暴力表現=ポルノグラフィは、表現の自由によって無制限に守られるべきなのか。アメリカを代表する法律家が鋭く描き出した平等権と表現の自由の相克。

■目次
イギリス版への序文

第1章 ポルノグラフィは名誉毀損か差別か
第2章 人種ハラスメントとセクシャルハラスメント
第3章 平等問題と表現問題

原注
あとがき――日本語版刊行に寄せて  秋田一恵
謝辞


■引用等
太字見出しは作成者による
〔〕内はルビ
問題提起
 オークランド市の場合の男たちは、殺人が行なわれている現場にたまたま居合わせた人たちであるが、それでは、殺人が計画されたもので、わざわざお金を払って見にきて、そしてはやしたてたとしたらどうなのだろうか?もし特定の産業が、女性と子どもに性暴力を加え、ときには殺す現場を映画に撮って販売することだけを商売にしているとしたら、これも「加担」なのではないだろうか?さらに、このような映画市場を支え、そういう映画を見ながら、「女を殺せ!女を殺せ!」とか、「女をレイプしろ!女をレイプしろ!」とはやしたてる人もまた「加担」しているのではないだろうか?(p.8)

ポルノ=表現の欺瞞
 好むと好まざるとにかかわらず、ポルノグラフィは「表現である」という主張についても議論しないわけにはいかない。この主張では、ポルノグラフィを政治的表現、教育的表現、芸術的表現、文学的表現とは切っても切れないもの、区別できないものとして見ており、まるで片方が危機にさらされると、もう片方が当然危機となるという立場をとっている。しかし実際にはポルノグラフィを厳密に定義するならば、その外観、作られ方、使われ方、与える影響などを考えた場合、いわゆる「保障された制度」とは簡単に区別できるのである。この性的侵害、性的不平等、奴隷売買の媒体物としてのポルノグラフィがまるで一つの意見であるかのように、また反論に値するほどシリアスな議論であるかのように扱うこと自体、ポルノグラフィの持つ法的および知的な欺瞞性にある程度加担してしまうことになる。つまり、実際の姿は性的搾取を正当化するカムフラージュでしかないのに、これは誠実な議論に値するのだという見せかけのわなに私たちがはまってしまうということだ。しかし、まさに「女性は性行為のために利用され傷つけられることを望み選択するのだ」というポルノグラフィの嘘と同じくらい、「ポルノグラフィは表現である」という嘘は、現在の英米法制度では実際大きな影響力を持っているのである。(pp.9-10)

 話を法律論に進める前に、まず、私たちと表現との関係、つまり言語、言論、思想の世界、コミュニケーションの世界との関係について考えてみよう。(女性にとって法制度とは何かについて考えることは、我々の現実感覚、安全感、社会での立場等への態度に影響するが、それについては後で述べる。)あなたは、言葉が自分のものではないことに気がつく。あなたは自分の知っていることを語るのに言葉を使えないことに気がつく。知識とはあなたの人生から学ぶものではなく、情報とはあなたの経験をもとにしてできたものではないことを悟らされる。自分の身に起こったことを考えることは「考える」ことには入らないこと、でもそれを「行為すること」は「考えること」に入るということに気がつく。あなたの現実は、社会的現実の一段下のどこかにあることを学ぶ。あなたの現実は全面的に露出しているのに見えない、叫んでいるのに聞こえない、いつも考えているのにとても考えられない、「表現」であるにもかかわらず表現不可能な、言葉を超えたものであることを知る。そして、あなたの語る言葉は「表現」ではなく、あなたの虐待者があなたにしたことが「表現」であることに気がつく。(pp.22-23)

 アメリカではポルノグラフィは国家によって保障されている。この概念は、昔のように「侵害された女性の沈黙」を基本としている。つまり、実際に起こっている虐待を無視し、代わりに「女性」と「性行為」についての「思想」や「視点」を基盤としているのである。このように女性の従属が現実には無いかのように扱うことで、技術的に洗練された女性人身売買行為は消費者が選択できる「表現内容」となり、虐待された女性はポルノグラフィ業者の「思想」や「感情」となり、性的虐待はまるで存在しないかのように消されてしまう。(pp.26-27)

 このようなアプローチ、つまり現在の法のアプローチでは、ポルノグラフィは本質的には「差別」としてではなく「名誉毀損」として扱われている。つまり、それが何をしているか(差別)ではんく、それが何を言っているか(名誉毀損)、そしてそれを誰かが行動に移すとなんらかの効果つまり被害が出る、というふうに考えられている。原則的には、このような視点では、そのようなコミュニケーションの形式では、人を「不愉快」にするということ以上には何も悪いことは起こらないことになる。(pp.27-28)

ポルノグラフィがやること
 ポルノグラフィがやることは心のなかでやっているだけでなく、現実の世界でも実際にやっているのだ。まず最初に確認しておくべきことは、女性をセックス映画に出演させるために強制し、威嚇し、脅迫し、圧力をかけ、ごまかし、言葉巧みにだますのは、そこに表われた思想ではなく、ポルノグラフィ産業だということだ。(p.32)

ポルノグラフィの影響、何らかの形で「やる」こと
 ポルノグラフィを見る人はやがては、なんらかの形で、それを三次元の世界で実行したくなるのだ。やがては、なんらかの形で彼らは「やる」のだ。そうさせられるのだ。それが可能だと感じたとき、そのために罰せられないと感じたとき、実際にやるのだ。自分たちが影響力をおよぼせる分野にしたがって、自分たちの持っている力をすべて使って、この世の中をポルノグラフィ的場所に保ち、いつもペニスが勃起しているようにする。(p.36)

 ポルノグラフィを見ることによってやりたくなる性行為を、女性に強要するために必要となる「強制力」と、このような「制作過程の状況」との二者間にはつながりがある、と私は考えるようになった。言い換えれば、ポルノグラフィを作るために女性に対してこのような強制力を加えなければならないのなら、他の女性にポルノグラフィの内容と同じことをさせるには同じようなまたは異なった形の強制力を必要とするのではないだろうか?(p.38)

ポルノグラフィから「性行為」そのものへ
 ポルノグラフィが社会に蔓延するにつれて、「性的に興奮させるもの」とか「表現の問題としての性行為〔セックス〕の本質」が変化してくる。単なる言葉であり映像であったものが、マスターベーションを通じて性行為〔セックス〕そのものになる。ポルノグラフィ産業が拡大するにつれ、これが性行為〔セックス〕の一般的経験になっていき、ポルノグラフィの中の女性は男性にとっての女性のセクシュアリティの生きた原型となり、したがってそれが女性の経験となる。言い換えれば、人間が物になり、相互的なものが一方的になり、与えられるべきものが盗んだり売られるようになるに従って、性的対象物となることが女らしさを意味し、一方的な行為は相互関係のこととなり、力づく同意を定義し、映像や言葉が所有と利用の形態となり、そのなかで女性は実際に所有され利用される。ポルノグラフィでは映像や言葉が性行為〔セックス〕である。同時に、ポルノグラフィが作り出す世界では、性行為〔セックス〕は映像であり言葉である。性行為〔セックス〕が言論になるにしたがって、言論は性行為〔セックス〕となる。(pp.43-44)

ポルノグラフィと「まねごと」の嘘
 よく言われるもう一つの嘘は、ポルノグラフィは「まねごと〔シミュレート〕」だというものである。これはどういう意味だろう?これでいつも思い出すのが、ビンを使った強かんを「にせもの強かん〔アーティフィシャルレイプ〕」と呼ぶことだ。ポルノグラフィでは、ペニスが女性に対して何回も何回も押し込まれるのを見せるが、実際に何回も何回も押し込まれているからなのである。一般メディアでは、暴力場面には特別効果が使われるが、ポルノグラフィでは、女性を殴ったり拷問したりする場面では実際に女性を殴り拷問するのだ。「まねごと」と言われると、強かんは本当の強かんではなく、お話の一部で、だから女性が拒否したり抵抗しているのは演技である、と聞こえてしまう。もしそれが演技ならば女優が何を感じているかがなぜ問題になるのだろうか?ところがポルノグラフィの中の女性たちは本当は楽しんでいるのだと、耳にタコができるほど聞かされてきたが、それでは楽しんでいるのもただの「まねごと」ではないのか?画面のなかで男性のペニスが勃起しているのもこれまた「まねごと」なのか?勃起もまた「演技」なのか?(p.45)

ハラスメント
 セクシュアル・ハラスメントと人種ハラスメントのあいだで重要となる表現問題における違いというのは、私の考えでは、人種をもとにしたハラスメントと性の階級〔ジェンダー〕構造をもとにしたハラスメントのあいだの違いではなく、(この二つはいずれにしても分けがたいことが多い)、性行為である「言論」と性行為でない「言論」との違いである。ポルノグラフィと同じように、性的なハラスメントは性行為である。性的でないハラスメント、内容を通じて害を与える。それがいまわしくかつ論理的でもなく、非常に感情的で偏見をもてあそんでおり、平等な権利に対して破壊的であり、まさに伝統的集団に対する侮辱が示しているように、内容を通じて害を与えるのである。(p.77)

アメリカの「表現の自由」と平等
 一個人が自分の所属している集団を理由として抹殺されることは、不平等の究極であるということを誰も語らなかった。憎悪言論を禁止することは「憲法上の平等」を推進することであるとは誰も考えなかった。私の知るかぎりでは、修正第十四条を有効とするために憎悪宣伝を禁止するべきであると議会に提案した人は誰もいない。それどころか、憎悪言論の規制が論議されたとき、問題として取り上げられたのは「この法律が『表現の自由権』に対する侵害が大きすぎるかどうか」であった。(p.108)

 だから、アメリカでは今まで一度も、平等と表現について、憲法で保障された二つの価値としての公正な論戦、つまり平等が条例およびその施行を支持し、表現がそれに挑戦する、という形での議論はなかったのである。裁判所は、法律上の平等権を、憲法の表現保障に比較して考えてきた。このような議論では常に平等が勝利をおさめてきたが、法的な不平等という枠組みを与えられたポルノグラフィ問題が出てきてから、平等は、修正第一条に破れ、そのあと、表現を基礎とした憎悪条項への攻撃にもまた負けてしまった。つまり、ポルノグラフィ条令と憎悪犯罪条項は、憲法上の平等条例を使えば合憲となるのに使われていないので憲法違反となるのである。さらに、放送や資金集めのキャンペーン等の分野に言論が拡大されてもいいのに、それもされていない。(pp.109-110)

ポルノグラフィの定義の一例
ポルノグラフィを公民権侵害として訴えられるようにしたThe Model Ordinance(モデル条令)では「ポルノグラフィ」を次のように定義している。「写真や言葉の両方または片方を通じて、女性を性的に支配している状態を描いたもので、さらに次のうち一つ以上を含んだものである。(1)女性が性的対象物、物質、商品として非人間的に描かれている、または(2)女性が侮辱や苦痛を与えられることを楽しむ性的対象として描かれている、または(3)女性が強かん、近親かん、その他の性的攻撃を受けながらそれを性的快楽として味わっている性的対象として描かれている、または(4)女性が縄で縛られたり、切り取られたり、切り刻まれたり、傷跡を付けられたり、肉体的に傷つけられる性的対象として描かれている、または(5)女性が性的に屈伏状態、奴隷状態、または見せ物として描かれている、または女性の体の一部、たとえばワギナ、乳房、おしり等について、女性がこのような体の一部だけかのように矮小化して描かれている、または(7)女性が物質や動物によって挿入されている様子が描かれている、または(8)女性が堕落、侮辱、傷つけられる、拷問等の物語のなかで描かれている、汚辱や劣等、出欠、傷跡のついた、または傷つけられた状態がまるで性的であるかのような文脈で描かれている。この定義では『女性の代わりに男性、子ども、性転換者を使用した場合』もまたポルノグラフィとされる。」(pp.150-151)


*作成者:篠木 涼
UP: 20080727
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