? Dworkin, Andrea 『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』
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『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』

Dworkin, Andrea 1989 Pornography: Men Possessing Women, Dutton

=19910431 アンドレア・ドウォーキン著 寺沢みづほ訳 『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』,青土社


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Dworkin, Andrea 1989 Pornography: Men Possessing Women, Dutton
=19910431 アンドレア・ドウォーキン著 寺沢みづほ訳 『ポルノグラフィ 女を所有する男たち』,青土社 ,  393p+10, /2400 ISBN-10: 4791751280  ISBN-13: 978-4791751280 [amazon] [kinokuniya] ※ds00 df03 b

■紹介
内容(「BOOK」データベースより)
暴かれる真実。「女」はポルノが作る。「男」はポルノが作る。「社会」はポルノが作る。「歴史」はポルノが作る。サド、バタイユからキンゼー報告、アングラ雑誌まで、さまざまな性描写の内に秘匿される〈意味〉を徹底的に暴き出した、ラディカル・フェミニストの熱い名著。

内容(「MARC」データベースより)
サド、バタイユからキンゼー報告、アングラ雑誌まで、さまざまな性描写の内に秘匿される"意味"を徹底的に暴き出す。ラディカル・フェミニストの熱い名著。

■目次
再版に際しての序論
まえがき

1 権力
2 大人の男と男の子
3 サド侯爵
4 物・対象
5 力の行使
6 ポルノグラフィ
7 娼婦

訳者あとがき
引用注


■引用等
太字見出しは作成者による
以前において、個々の女は孤独、それも筆舌に尽くし難いほどに孤独であったし、恐怖の中で隔絶され、生き延びようとする意志によってさえ恥辱を招じ込むことになっていた――個々の女が果てることのない強姦、果てることのない殴打を受け続けたのは、結局のところ、彼女が生きる意志を持っていたために他ならない。個々の女は、他の女の声が我が身に起こったことを話す声、彼女自身に起こったのと同じ話をする声を、それまで聞いたことがなかった。それはまさに果てしなく繰り返される同一の物語なのである――そしてそれゆえにこそ、それを生き延び、耐えぬき、そこから逃げ出し得た女たちは、どの人も、ブルジョア的な意味での個人ではない。これらの女たちは、自分自身の経験の意味を断じて投げ棄てはしない。その意味とは次のことである。ポルノグラフィは女の体と精神に対する組織化された破壊行為である、強姦、打擲、近親相姦、売春は、ポルノグラフィと相互に活性化しあっている、ポルノグラフィの特質は非人間化とサディズムである、それは女に対する戦争であり、人間の尊厳や自我や人間的価値に対する連続攻撃である。生き延びた女たちの一人一人は、自分自身の人生経験から、ポルノグラフィは女を捕囚化するものだ――女たちはポルノ・フィルムの中に捕われているし、そのフィルムが他の女に対して使用されるし、また男がそのフィルムを持っているかぎり女は捕われ続けている――ということを知っている。(pp.31-32)

行なうこと
『ポルノグラフィ:女を所有する男たち』はさらに、ポルノグラフィを、最終的には適正な脈絡の中に位置づける。支配と屈従のシステムたるポルノグラフィは、実際に重さと意義を持っている。それは、誕生の際の条件のために差別されるあらゆる人間集団が、歴史上実際に被ってきた現実の苦しみと処罰が持つのと同じ重さと意義であるし、また歴史上、尊厳ある人間という範疇から追放され、相互に保護や権利や尊敬を分かちあう共同体から粛清されたすべての人間の苦しみと同一の重さと意義でもある。ポルノグラフィが生じる。それは、女の身に実際に起こるのだから、物質的リアリティの世界の外側のことではないし、またそれは男をいかせるのだから、物質的リアリティの世界の外側の話ではない。男の射精は現実のことである。彼の精子が撒き散らされる女――ポルノグラフィにおける典型的な女の使用法――も現実のことである。男は、男の精神、思考、夢、ファンタジーは、男にとって女の体や生活よりももっと現実のことだという理由を言いたてて、ポルノグラフィの特質を精神的なものとして規定するが、実際には、男たちは社会的権力を使って、女を取引する年商百億ドルのビジネスを、ファンタジーという規定で美化しているだけである。これは、権力を持つ者が、他の人間をくいつぶすのみならず、言語をも食いつぶすやり方をまざまざと示す例である。(pp.48-49)

 猥褻と憲法修正第一条の両方に関して言うなら、これは、何を見せるべきで何を見せるべきでないかを論じる本ではなく、今現実に見せられているものの意味を論じる本である。
 これは、ポルノグラフィとエロティカの違いを論じる本ではない。フェミニストたちが既に、尊敬に値する大変な努力を払って、その違いを定義づけており、エロティカには交情と相互関係が含まれているのに対し、ポルノグラフィには支配と暴力が含まれているという主張で、おおむね一致している。しかし男の性的語彙、即ち権力の語彙の中では、エロティカは高級なポルノグラフィ――より高級な消費者のために、より高級に作られ、表現され、仕上げられ、装丁され、デザインされた尾ポルノグラフィ――のことでしかない。<中略>男の思考システムの中では、エロティカはポルノグラフィの下位範疇でしかない。(p.54)

男の権力、男性至上主義イデオロギーの教義
 男の権力はまず第一に形而上学的な自己――即ち、先験的に存在する「私は存在する」、揺るがぬ基盤としての自己、潤色や弁明などを必要とせず、あらゆる否認や挑戦にも超然としていられるほどに絶対的な自己――の主張である。(p.56)

 男性至上主義イデオロギーの第一の教義は、男はこうした自己を持つが、女は定義上、必然的にそれを欠いているということである。(p.56)

 第二に、権力は、より弱い他者や、権力としての強さを使うことを許可されていない他者をおとしめ、彼らの意に逆らって肉体的な強さを行使することである。(p.58)

 男性至上主義イデオロギーの第二の教義は、男は女より肉体的に強く、そしてその理由のために男は女を支配する権利を有するということである。(p.58)

 第三に、権力は、自己と肉体的強さを駆使して、或る階層の人々全員に、自分たちとは別の階層の人々全員に対する恐怖を植えつけるという、威嚇の能力として機能する。(p.59)

男性至上主義イデオロギーの第三の教義は、生物学が神にとって代わった(だから、生物学は必要とあらばいつでも、いともやすやすと時代錯誤の神学支持に走る)世俗的社会の中では、「男は生物学的に攻撃性が強い、生来闘争的である、永久に変わることなく敵対的である、遺伝学的に残酷である、ホルモンの影響のために戦闘傾向が強い、そして矯正不能なまでに敵愾心と好戦性が強い」という信念である。(p.61)

 第四に、男は、壮大かつ至高の権力たる、ものを名づける権力をにぎっている。この名づける権力によって、男は、経験を定義し、ものごとの境界や価値を明確にし、個々のものの領域と特質を指定し、何が表現でき、何が表現できないかを決定し、知覚そのものを支配できるようになっている。(p.62)

男性至上主義イデオロギーの第四の教義は、男だけが知的かつ創造的であるという理由をもって、男だけが権威をもってあらゆるものに命名する権利を持つことである。(p.64)

 第五に、男は所有する権力を握っており、歴史上、この権力は絶対的とされ続けている。(p.64)

男性至上主義イデオロギーの第五の教義は、男が、女と女から生まれるものを所有する権利を持つということが、歴史以前、進歩以前に決定づけられた自然なことだという想定である。(p.65)

 第六に、金銭の権力は、明らかに男の権力である。金はものを言うが、それは男の声で喋るのである。金は女の手の中にあれば、文字どおりの意味――それと等しいか、それより安価なものなら購うことができるという金額としての意味――しか持たない。(p.66)

男性至上主義イデオロギーの第六の教義は、金は正確に男らしさを表現するということである。(p.67)

 第七に、男はセックスの権力を握っている。男たちはこれと逆のこと、即ちこの権力は女の中にあると主張しているが、実はその女を彼らはセックスの同義語として見ている。(p.69)

 男性至上主義イデオロギーの第七の教義は、性的な権力が確実にペニスから発しているということである。(p.72)

男の権力とポルノグラフィ
 ジャンルとしてのポルノグラフィの主要なテーマは、男の権力、その本質、その重大性、その行使、その意味である。ポルノグラフィの中に表現され、またポルノグラフィを通して表現される男の権力――自己の権力、他者を支配して従属させる肉体的権力、威嚇の権力、命名の権力、所有の権力、金の権力、セックスの権力――は、相互に絡み合い、ますます強まっているもろもろの緊張の中に見てとることができる。男の権力に付随するこうした緊張は、ポルノグラフィの実質と製作の両方に、本質的に備わっている。ポルノグラフィの作り方と手段は、男の権力の作り方とその手段である。憎むべきもろもろの価値――それが女に当てはめられる時には、男には正常で中立的な価値として知覚される――が調和し、首尾一貫しているという点で、ポルノグラフィは、メッセージとしても物としても経験としても傑出している。(pp.74-75)

ヴァージニア・ウルフ
 いわゆる男のヒューマニズムなるものに参画しようとしたが、結局のところ男の文化は女の正規の参画など容認しないということを、苦しい経験を通じて見出したすべてのフェミニストに共通する嫌悪感を込めて、ヴァージニア・ウルフは次のように書いている。「私は男の視点を嫌悪する。男のヒロイズム、美徳、名誉なるものにうんざりしている。こうした男たちがなし得る最善のことは、これ以上自分自身について語るのをやめることである」。(p.112)

男性至上主義とは、でたらめなやり方であれ統制のとれたやり方であれ、ともかく男が他者、とりわけ女に対する暴力行使を習得したということを意味するのだが、そのために、男の暴力の何らかの形態に忠誠を誓い、言語や行動で暴力を擁護することは、男の自我を証明する際に有効な第一の規準になっている。(pp.120-121)

ペニスに対して、また男が規定したセックスに対して、女が抱く嫌悪感は、宗教に束縛された女の潔癖主義(この考えは、ペニスを隠された神聖なタブーに保とうとする男の策略である)としてではなく、女に対して男がしかける一対一の攻撃の主要な行為者たるペニスに、女が敬意を払うのを拒んでいる態度として理解されねばならない。(p.126)

 男の子も大人の男も、大人の男によって現実に性的虐待を受けている。この否定し得ないし、否定してはならない事実を、ホモ嫌悪の人間が歪曲して強調する時、男の性的虐待の第一の犠牲者が女と女の子であるという事実は、巧妙に視野から排除される。(p.127)

女の場合と異なり、大人としての男は再び性的虐待を受けることはまずありそうにない。(p.130)

大人の男は、将来自分が報復として強姦し返されないために、自分自身の息子や自分の近い男の身内を強姦しない傾向がある。男の利益は時として相互に葛藤するにせよ、父親による息子の強姦は、男性至上主義のシステムとは絶対に共存し得ない。父親と息子の間の一対一の性的な戦闘は、家父長制度の骨組みを引き裂いてしまうからである。(p.131)

T・E・ロレンス
アラビアのロレンスとして伝説化されたT・E・ロレンスは、大人になって打擲・強姦された経験を持つが、彼はシャーロット・ショーに宛てた手紙の中で、強姦による侵害は、それを耐え忍ぶことで高められる、つまり男になれるという類のものではないとの絶望感を述べている。(p.133)
T・E・ロレンスはこの屈辱経験をを再現することによって、それを祓おうと試みた。即ち、金で雇った若者に自分を鞭打たせ、彼自身は自分の屈辱と肉体的な苦悶を自己統制しようとした。(p.134)

ロシア革命以前のロシアでは、人々はニヒリストになろうと懸命に努めていた。ニヒリストになるには多大な努力を要したのである。ところが現在のこの世界、即ちアウシュヴィッツ以後、ヒロシマ以後、ヴェトナム以後、ジョーンズタウン以後の世界の至るところでは、ニヒリストになるには何の努力も要らなくなっている。重力と同様に、ニヒリズムは、自然法則、男の自然法則である。勿論、男たちは疲れている。現代とは、新たな効力を生み出す新たな方法を用いて、今までに全く類を見ない大きな規模で他者を絶滅・破壊させるという、極度の疲労を強いる時代である。<中略>この「素晴らしき新世界」の真中では、女に対して激烈な残酷行為を行なうことは、何と慰めになることか。また何とおなじみであることか。旧来の価値は今なお廃れていない。世界は明日終末をむかえるかもしれないが、しかし少なくとも今夜には強姦――キス、性交、尻をたたいたり、顔をこぶしで殴ったりすること――の楽しみが存在しているというわけである。男と女が情交を持つところでは、二十世紀半ばが他のすべての世紀ときわ立って違っていることなど一つもない。そこに存在するのは、奪い取るための女、男が決定した奪い取りの方法という、昔ながらの価値ばかりである。(pp.146-147)

サドとマラー
 革命の指導者ジャン=ポール・マラーは、旧体制のもとでサドが投獄されるに至った犯罪の本質を見抜いた。彼はサドを告発したが、間違ってサドと同名の別人が処刑されてしまった。マラーはこの手違いに気づいたが、これを訂正する前に命を落とした。彼自身が、シャルロット・コルデイによって暗殺されたのである。(p.164)

 サドに傷つけられた少女たちや女たちはすべて、伝記作家たちや知識人たちから、特定の階級の者だけに向けられるのと同じ軽蔑によって扱われている。特に男から女への金渡しは、罪を払拭し、傷害をも否定する――解説者が凡庸な伝記作家であろうと、偉大な文芸批評家であろうと、こうした結論を出すことでは皆一様である。女を買うために金を使うことは、明らかに男たちを催眠術にかける。それは不思議にも、女に対するあらゆる犯罪を許してしまう。いったん女が支払いを受けたなら、罪は償われる。現実に何が行なわれたかに関わりなく、実際に害など何も行なわれなかったということにするのは、金銭の支払いの特に重要なテーマである。(p.175)

対象化
 性的物体への愛、欲望、強迫観念は、男の文化の中では、物体自体の特質に対する自然な反応と見られている。最初の関心事は物の形態であるから、男は肉欲や性交能力を刺激する特定の形態であることを強く要求する。性心理学の分野でベッカーが信頼できる反応の型と呼んだものは、大抵は対象化と呼ばれている。対象化とは、達成された事実であり、具体的に言うなら、形態――男の推測と経験の中で、勃起を引き起こすのに必要なあらゆる形態――に対する、男の主観化され、ほぼ変わることなく固定化された反応のことである。適切な物に対する適切な反応が対象化だとされ、その妥当な範囲――即ち、女の形態や、女の属性の混合や、女の体の部分がどのようであるべきなのか――は、世俗文化の大祭司たる心理学者によって定められる。あらゆる物、あらゆる人間が、女、および男が規定する女の性的部分の、何らかの種類の代用品と見なされる危険がある。しかし、代用することは適切ではないとされる。男性至上主義の存否は、女を性的物体と見なせる男の能力の有無にかかっているからである。(p.218)

対象・物化の第一の標的は女である。男の文化の中で、男は、対象・物化の妥当な範囲について、とりわけ男が他の男を対象・物化することの存続可能性について、実際に論じあっている。しかし、男が、対象・物化それ自体の道徳的意味について、論じることはない。性的な反応とは、具体化された反応、即ち、存在するだけで性的欲望をかきたてる、特別な属性を備えた物によって喚起された反応だということは、当然のこととして受け容れられている。(p.219)

男の文化
 男の文化は、男と女の違いを言い立て、その違いに誇りを持つ上に繁栄している。女を物化することは、自然で正常だとされ、奨励されている。一方フェティシズムは不自然で異常だとされ、反対されている。しかし、フェティシズムが物化の論理的帰結であることは確実なのだ。そして、人間を物として知覚することが、その人間に対する罪にならないならば、罪なるものは全く存在しなくなる。なぜなら、女に対するすべての侵害は、このいわゆる正常な現象の帰結だからである。(p.240)

「自発的に疑念を停止すること」
コールリッジが言う「自発的に疑念を停止すること」は、文学作品を読む時以上に、ポルノグラフィを見る際に一貫して作用している。自発的に疑念を停止することは、ポルノグラフィを見る時に極めて重要である。もしそれがないとしたら、人は次のことを想起してしまうだろうから。プライヴェートな状態の女たちとして説明されている女たちは、全くプライヴェートな状態の女などではなく、カメラの前で熱いライトにさらされ、快適ならざるポーズをとらされ、衣装や化粧を不自然につけられた女たちであり、カメラの後ろにはカメラマンがいて、その後ろには出版者がいて、その後ろには何百億ドルもの産業があり、その後ろには、ポルノは人間の自由に不可欠な表現の自由であり、憲法で擁護されていると主張する金持ちの弁護士連中がいて、その後ろには、このすべてを革命的と見なして賞賛する知識人たちがいて、そしてこれらすべての人々――モデルを除く――の後ろには、こういう男たちのために下着を洗濯し、トイレ掃除をする女たちが存在する。(pp.254-255)

性的支配の制度
 男の性的支配は、イデオロギーと形而上学を備えた実体的な制度である。女の体を性的に植民地化することは、実体的な現実であり、男は、女の体の性的・生殖的使用を支配する。その支配を支える個々の制度の中には、法律、結婚、売春、ポルノグラフィ、健康管理、経済、組織化された宗教、女に対する体系化された肉体的攻撃(例えば、強姦や打擲など)が含まれる。(p.354)

娼婦に対する想定
 自分の体を売りたがる女の欲望は、しばしば、金や快楽やその両方への強欲として表現されている。自然な女は売春婦であるとされる一方で、職業的な売春婦は、興奮や快楽や金や男に対して強欲である売春婦だとされる。(pp.358-359)

 売春婦の快楽は、セックスで使用されるあらゆる女の快楽と同じだが、しかしより強烈だと想定されている。特定のもの――職業的な娼婦――は、一般的なもの――生来売春婦である女たち――の状況の中に存在している。金は、生来の女であることのみならず、女の精髄、二倍の女らしさを意味するセックスのために存在するものとしての女の身分を固定化するものであるため、買われることによって女の快楽がさらに強まる、という論法である。職業的な売春婦とそれ以外の女との違いは、種類ではなく程度の中に見たてられる。(p.359)

娼婦に対するイデオロギーの左派と右派
 右派のイデオロギーと左派のイデオロギーがある。右派のイデオロギーは、母親と娼婦の境界は現象学的にリアルだと主張する。そこでは、処女は母親になり得るものである。一方左派のイデオロギーは、性的解放とは抑制なしの女体の使用、共同の自然資源としての女――一人の男が所有し、私物化するのではなく、多くの男たちが使える女――の使用だと主張する。左派においても右派においても、形而上学は同一である。即ち、女の性欲が現実化されれば、それは娼婦の性欲に他ならないし、女の側の欲望はふしだらな女の肉欲である、という根本的な考えは同じである。さらに、いったん女が性的に使用可能な存在になるなら、どのように、なぜ、誰によって、何回もしくはどれほど頻繁に女が使用されようとも、何ら問題にはならないし、女の性的意志は、自分を使用されたいという意志である場合にのみ存在するという点でも、両派の見解は一致している。女の身に何が起ころうとも、常に正常な使用と見なされていることには変わりないし、もし女がそれを嫌悪するなら、間違っているのは使用の方ではなく、女の方なのである。(p.360)

 ポルノグラフィに明示される男の性的支配の制度の中では、欲望や生殖を実現したところで、出口も救済も全くない。(p.385)

 ポルノグラフィがもはや存在しなくなる時、私たちは自分が自由であることを知るだろう。(p.386)


*作成者:篠木 涼
UP: 20080727
Dworkin, Andrea アンドレア・ドゥオーキン 性(gender/sex)フェミニズム (feminism)/家族/性…身体×世界:関連書籍BOOK
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