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『近代とホロコースト』

Bauman, Zygmunt 1989 Modernity and Holocaust, Polity Press.
=20060920 森田 典正 訳『近代とホロコースト』,大月書店,296+20p.


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■Bauman, Zygmunt 1989 Modernity and Holocaust, Polity Press. =20060920 森田 典正 訳『近代とホロコースト』,大月書店,296+20p. ISBN-10: 4272430696 ISBN-13: 978-4272430697 \3885 [amazon][kinokuniya]

■著者(訳書より+α)
Zygmunt Bauman(ジークムント・バウマン)
リーズ大学・ワルシャワ大学名誉教授。現代ヨーロッパにおいてもっとも大きな影響力をもつ社会学者。著書に、『社会学の考え方』(HBJ出版局)、『立法者と解釈者』(昭和堂)、『リキッド・モダニティ』(大月書店)、『政治の発見』(日本経済評論社)、『リキッド・ライフ』(大月書店、近刊予定)、『アイデンティティ』(日本経済評論社)、『廃棄された生』(昭和堂)など。
■内容(「BOOK」データベースより)

アウシュヴィッツを可能にした社会的条件をえぐり出し、近代社会の底知れぬ深淵を描いて思想界に衝撃を与えたバウマンの主著。"ヨーロッパ・アマルフィ賞受賞作"。

■内容(「MARC」データベースより)

われわれは、ホロコーストを可能にする一方、ホロコーストの再現を食い止める手段を何も持たない社会に住んでいる-。ホロコーストによって暴きだされた近代の暗闇。その経験が現代社会にもつ意味を明らかにした古典的名著。

■目次 ■引用(太字による強調は原著者、〔 〕による補足は引用者=安部)
「他者とともに存在すること」の実存的状況には三つ目の描き方の仕方がある。それは道徳にたいするこれまでとはまったく異なる、まったく新しい社会学的アプローチの端緒となるかもしれず、また、正当派のアプローチが隠してきた近代社会の側面を洗いだし、明確にするきっかけとなるかもしれない。第三の描き方の仕掛け人であるエマニュエル・レヴィナス……にとって人間存在のもっとも基本的で不可欠の属性である「他者とともに存在すること」は、何よりもまず責任を意味した。……私が責任を負わないかぎり、私にとって他者は存在したことにはならない。それこそが他者の存在様式、近接様式なのだ。……/もっとも強調しなければならないのは、私の責任の無限性である。それは対象の性質にかんする予備知識のあるなしとかかわりがない。それはそうした知識の先に立つ。それはまた、対象にたいする利害関係的意図の有無とも無関係だ。他者との近接性〔「他者とともに存在すること」〕、連帯というきわめて人間的な態様は知識や意図によってつくられるわけではない。……/レヴィナスによれば、責任こそ主体の本質的・基本的・根本的構造なのだという。「他者にたいする責任」、したがって、「自分の行動ではないもの、あるいは、自分にはどうでもよいものにたいする」責任。主体性の、そして、主体であることの唯一の意味であるこの実存的責任は、契約的義務とは何の縁もない。それはまた相互利益の期待ともまったく無関係である。……それには相互利益、「意志の相互性」、また、自らの責任とともにこの私の責任にも報いてくれる他者の存在が期待されていない。……責任感を担うことが、主体の構築でもあるのだ。ゆえに、それは私の問題、私だけの問題である。(: 237-239)
あらゆる道徳的行為の礎石ともいえる責任は、他者との近接性から発生する。近接性は責任を意味し、責任は近接性を意味する。なにごとも単独では認識しえないから、それぞれ独自での相対的優位性の議論はほとんど無益である。責任の希薄化、それに続く道徳的衝動の中和が起こると、近接性は物理的・精神的分離に取って代わられる(あるいは分離と同意語になる)。近接性に代わる選択肢は社会的距離である。近接性の道徳的属性は責任であった。社会的距離の道徳的属性は道徳的関係の欠如であり、異物恐怖症である。近接性が侵食されると責任は沈黙する。仲間や同胞が他者に変容すると、責任は憎しみに取って取って代わられる。社会的分離は変容のプロセスである。……分離を可能にしたのは近代合理社会の技術と官僚制度であった。(: 240)
ナチス国家の成果はほかにいくつもあろうが、その最大のものは老いや若きや、男性や女性を問わずあらゆる種類の人間を組織的、意図的、非感傷的、冷血的に殺害するための巨大な障害を乗り越えたことだった。すなわち、「肉体的苦痛を目前にしてあらゆる正常な人間が感じる生物的同情」を克服したのだ。われわれは生物的同情についてはあまり知らない。しかし、殺人への憎悪、他人に苦悩を強いることの抑圧、苦しむ人間に救いの手をのばす衝動は普遍であって、その普遍性を証明する人間の根源的状況については、確認手段のあることをよく知っている。(: 241)
抽象的カテゴリーとしての「他者」は私が個人的に知る「他者」とは単純にいって交わることがない。後者は道徳領域に属し、前者は完全にその外側にはじきだされている。後者は善悪の意味論的宇宙に位置し、効率と合理的選択の言説に屈服することをかたくなに拒絶している。(: 245)
明らかに道徳的抑制は遠すぎるものにたいしては作用しない。それは人間同士の近接性とわかちがたく結びついている。社会的距離が広がるごとに非道徳的行為の実行は容易になる。(: 251)
組織への忠誠心が行為者の道徳的衝動となった場合、ほかの道徳的衝動によって支配される近接性の領域における交流の倫理性を損なうことなく、忠誠心は道徳的に卑劣な目的に転用されることがある。(: 255)
ホロコーストの教訓とはよき選択肢の存在しない状況や、よい選択肢があっても代償が高すぎる状況におかれた人のほとんどは、なにかと口実をつけながら、いとも簡単に道徳的義務の問題から逃避し(あるいは義務の遂行に失敗し)、かわりに、合理的利害と自己保存の鉄則を身につけるという点である。理性と倫理性の針が正反対を指す制度における主要な敗者は人間性である。……/ホロコーストからはこれに劣らない重要な教訓が得られる。上の教訓に含まれていたのが警告だとすれば、次の教訓は希望である。……/道徳的義務にたいする自己保存の優位はあらかじめ決定されたものでも、不可避なものでも、必然的なものでもないと第二の教訓はわれわれに告げている。自己保存優先の圧力を人は受けるかもしれないが、強制されたわけでもないから、自己保存優先の責任は圧力をかけた人物には転嫁しえない。自己保存の合理性に抗して道徳的義務を選択した人間が何人であったかは問題でなく、問題になるのはそう選択した人が存在したという事実である。悪はそれほど強力ではない。悪への抵抗は可能である。少数でも悪に抵抗した人間がいたという証拠だけで、自己保存の論理の権威は瓦解する。(: 268-269)
人類の歴史における残酷性の遍在の説明としては、正統的な道徳社会起源説より、社会を「無関心化」の装置と捉える見方の方がより説得力があると考えられる。(: 282)
*更新:樋口 也寸志
UP:20080220 REV:20090212, 1111
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