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『神経学とともにあゆんだ道 第一集〜第三集』

椿 忠雄 19881020 私家版・非売品(編集協力:医学書院),177p.+343p.+212p.

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last update:20180705

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■椿 忠雄 19881020 『神経学とともにあゆんだ道 第一集〜第三集』,私家版・非売品(編集協力:医学書院),177p.+343p.+212p.

 第一集、一九八〇年、椿が新潟大学退官にあたって製作し(印刷・製本は新潟市の文明堂)、関係者に配ったもの。

 第一集
  序文
  はじめに
  略歴
  神経学とともにあゆんだ道(一)
  恩師のおもかげ
  新潟大学学生諸君へ
  水俣病に関係して
  SMON
  畏友井沢清君
  神経学関係誌の編集ノートから
  補遺
  あとがき

■引用

■第一集

  序文
  はじめに
  略歴
  神経学とともにあゆんだ道(一)
  恩師のおもかげ
  新潟大学学生諸君へ
  水俣病に関係して

◆椿 19710928 「判決を前にして」,『読売新聞』1971-9-28→椿[1988(1):67-70]

 「私は原告の勝利を確信しているが、これはあくまでも患者の幸福に連なるものであってほしいと思う。そんなことはないと思うが、公害闘争が前面に出て、患者が忘れられることがあっては、余りにも患者が気の毒である。
 もとより、このような公害が許されるはずはなく、公害に対する戦いは今後ますます強力に推し進めなければならない。国や地方自治体の行政面や、有毒物質を流す企業の責任は当然であるが、公害闘争が行政や企業にのみ向けられていてよいであろうか。私は、すべての人が公害を自分の責任として考えなければならないと思う。国民の一人一人が、自分自身が何か公害をつくっていないかを反省すべきではなかろうか。
 私は、このまま公害が進めば、人類が破滅するのではないかと不安を感ずる一人である。それならば、この裁判で争われていることは、公害の中のごく小部分。公害との戦いは、今後ますます拡大していかなければならないと思う。」(ここで終わり)(椿[19710928→1988(1):69-70]])

◆椿 19710928 「新潟水俣病判決を迎えて」,『新潟日報』1971-9-28→椿[1988(1):71-73]

 「今回の判決を前にして、私はこの判決が被災者たちの幸福に連なるものであってほしいと思う。公害との戦いがあまりに前景に出て、被災者たちの幸福が忘れられないように、私どもも注意しなければならないし、また県民の皆さまもそのような気持ちでこの判決をみつめていただきたいと思うのである。このことが、長い間この病気と患者なみてきた私の率直な感想である。
 公害の根はあまりに深い。現在のような環境破壊を続けていけば、人類は減亡するであろう。しかしこれは、一企業の責任か否かの裁判とはあまりにも次元の違う事柄である。公害に対する戦いは、すぺての人が自分自身、環境破壊に対してなんらかの役割りをしていないかどうかを、反省することから始めなければならないのではなかろうか。 人はよく、公害に対する行政の姿勢をいう。行政機関の責任が重大なことはもちろんであるが、私はなにか責任転嫁のような気がする。この事件においても、厚生省のだれがどういった△072 とか、どうしたとか、ということがしばしば重大事件のように報ぜられてきた。しかし、それは枝葉末節である。われわれがもっとも反省すべき点は、水俣病が発生してから第二の水俣病を発生させたことである。行政や企業の責任は当然であるが、当時第二の水俣病が発生する危険性を指摘する学者はほとんどいなかったし、また、いまでこそ公害を取り上げてさわいでいるマスコミも、当時はこの点に対しては無関心であった。」(椿[19710928→1988(1):72-73]])

◆椿 197112 「水俣病と新潟水俣病」,『Creata』1971-12→椿[1988(1):74-76]

 「そのような附随的な新潟水俣病であったが、それがまた本家の水俣病に大きな影響を及ぱすに至った。昭和三十五年に新患者の発生も終り、世間の耳目もこれから離れつつあった時、新しい新潟水俣病は大きな波瀾をまきおこした。昭和四十三年に至り政府の統一見解が出されたが、新潟水俣病がおこらなかったらば、このような見解も出されなかったであろうし、また被害者が裁判所へ提訴するという事態もおこらなかったであろう。また、これと並んで水俣病の実態というものが新たな問題として起った。事件発生後数年しか経過していない新潟においてさえ、我々が当初考えていなかったいくつかの事実が明らかになりつつあるのであるから、歴史の古い水俣において更に色々の事態が起ることは想像に難くない。最近このような問題から過去の研究に対し批判が行なわれようとしているが、それは真面目な研究者に対し酷ではなかろうか。後になって明らかになった事実をもとにして初期の研究を批判するのが不当なことは誰でもわかるのであるが、社会問題となると仲々やっかいなことになるのである。元来、他人△075 を批判することは容易であるが、批判されないような研究を自分で行なうことは至難の業である。勿論正当な批判は率直に受け入れなけれぱならないが、批判者も充分の節度な持つべきであると思うのである。
 水俣病は今後何年間の間に、新知見や色々の問題が出てくるであろう。それが科学の進歩というものである。これを過去の歩みに照して批判の目を向けるよりも、前向きに考えるべきである。すなわち、世界に類をみないニつの特異な事件を経験した我々は、この事を徹底的に科学的に解明し、全世界における水銀の人体への影響を防がねばならないのである。
 私は最初に「一応の終り」と述べたが、水銀の人体への影響の研究は終りがないのである。これを行なうことが我々の義務であり、義務を怠ったことに対する批判は酷しく責められくも致し方ないと思っている。
   (Creata 昭和四六・一ニ)」」(ここで終わり)(椿[19710928→1988(1):69-70])

  SMON
  畏友井沢清君
  神経学関係誌の編集ノートから
  補遺
  あとがき

■第二集

 第一章 遙かなる日々の追憶
 第二章 病む人の隣人として
 第三章 神経学とともに歩んだ道(二)

 第一章 遙かなる日々の追憶
 第二章 病む人の隣人として

◆19811001 「「生命の尊厳」をめぐって」、『教会婦人』(全国教会婦人会連合会)→椿[1988(2):137-146]

 「――公害をなくすために、私たち一人一人は、どうすればよいでしょうか。
〇多くの人は、自分は公害の被害者ではあるが、加害者ではないと考えているのではないでしょうか。私は、すぺての人が自分はある程度公害をつくっているのではないかと、反省しなければならないと思います。
 私は新潟にいた頃は、大学へ自転車で通っていました。その頃、新潟水俣病という問題がおこって、証人として裁判所に行ったことがあります。その日もやはり自転車で行ったんでず。ところが公害反対の弁護士さんたちは、自動車でのりつけていました。あの頃の自動車は、排気ガスが今よりひどかったですから、公害反対を旗じるしにしている人が、あんなことでいいのかと思いました。
 こんな例もあります。私は中央公害対策審議会の委員をやっていますが、その席上で、ある人が環境庁に対して、大気汚染間題で盛んに格好のよいことをまくし立てていたのですが、その人が始めから終りまでたばこを吸っているんです。私は近くに坐っていて大変不愉快でした。あれではだめですね。
 また、農薬公害を盛んに攻撃する都会人がありますが、農薬のなかった頃の農民が、どのような労力をつかい、どのような苦労をしてきたかを考えたことがあるのでしょう。△145
 私は公害をなくすためには、一人一人がエゴを捨て、他人のためを考えることから始めなければならないと思っています。
 ――今日は、本当にありがとうございました。」

◆19871005 「新訂版『筋肉はどこへ行った』に寄せて」→椿[1988(2):179-181]
 ※執筆は四月一七日と記されている。
川合 亮三 197503 『筋肉はどこへ行った』,刊々堂出版
◇―――― 19871005 『新訂版 筋肉はどこへ行った』,静山社,201p.,1000 ※

 第三章 神経学とともに歩んだ道(二)

■第三集

 まえがき
 神経学とともにあゆんだ道(二)
 米国より東大冲中内科第八研究室へ
 患者さんへ
  川口武久氏へ
  菅原和子さんへ 19850614
  ……
 看護専門学校の教え子へ
 神経学の友へ
 妻へのてがみ
 あとがき

■書評・紹介・言及

◆立岩 真也 2018/08/01 「七〇年体制へ・下――連載・148」,『現代思想』46-(2018-08):-

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP: 20180701 REV:20180705
椿 忠雄  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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