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『死刑――その虚構と不条理』

菊田 幸一 19880915 三一書房,260p.


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■菊田 幸一 19880915 『死刑――その虚構と不条理』,三一書房,260p. ISBN-10:438088225X ISBN-13:978-4380882258 \1896 [amazon][kinokuniya] c0132, c0134→19990226 『新版 死刑――その虚構と不条理』,明石書店,329p. ISBN-10:4750311162 ISBN-13: \2940 [amazon][kinokuniya] c0132, c0134

■〔新版〕内容(「BOOK」データベースより)
本書は死刑のもつ「虚構と不条理」を視点に論じてきた。初版いらいのその後の10年にわたる死刑廃止運動における、さらなる「虚構と不条理」をここに補筆し、崩れつつある死刑制度の最後のだめ押しの役割を本書に願うものである。

■〔新版〕内容(「MARC」データベースより)
死刑には人間としての感情のかけらもない。人間のもつ名誉や尊厳を完全に払拭した死があるのみである。死刑の実態をあばき、その虚構と不条理について語る。三一書房 88年刊の新版。〈ソフトカバー〉

■目次〔旧版〕
1 抑止力とならない死刑
2 世論は死刑を支持しているか
3 処刑を待つ死刑囚
4 死刑執行の実態
5 死刑執行人の人権
6 教誨師と死刑囚
7 法的根拠に疑問のある死刑執行
8 死刑は日本国憲法に違反する
9 死刑と無期には限界がない
10 「意思」「責任」と死刑
付 わたくしの死刑廃止論

■目次〔新版〕
1 抑止力とならない死刑
2 世論は死刑を支持しているか
3 被害者感情をどう考えるか
4 処刑を待つ死刑囚
5 死刑執行の実態
6 死刑執行人の人権
7 教誨師と死刑囚
8 法的根拠に疑問のある死刑執行
9 死刑は日本国憲法に違反する
10 死刑と無期には限界がない
11 「意思」「責任」と死刑
12 死刑囚処遇と国際準則
13 死刑の代替性を提唱する
付 永山則夫の処刑を超えて

■引用(特に断っていない場合は、旧版からの引用)

「わが国でも武家時代の死刑の執行は武士にやらせないで非人谷の者という、特殊の階級層があてられていた」(p102)
→(補足:櫻井悟史)事実誤認である。少なくとも、江戸時代の公事方御定書では、士族が下手人、死罪、獄門、切腹、斬罪の執行を担うよう定められており、「非人」は磔、火罪の執行だけ担っていた。
(参考)
布施弥平治, 1983, 『修訂 日本死刑史』, 巌南堂書店
財団法人刑務協会編, [1943]1974, 『日本近世行刑史稿 上・下』, 矯正協会

「こんにちでは、死刑執行場のある拘置所や刑務所に勤務している刑務官であれば順番が回ってくる(刑場付設の拘置所、刑務所は全国に七か所ある。東京、名古屋、大阪、広島、福岡の拘置所と仙台、札幌の刑務所である)。伝聞ではあるが、刑務官にあらかじめ執行を命ずるのは、当人がいやがるので執行の間際まで指名しないのだといわれている。前日に知らせるとみんな休んでしまうかもしれない。しかし、実際には執行日が決まれば、所員らは処刑される者の身長を基礎に綱の長さをととのえたり、床の点検をしたりしなければならないから、少なくとも前日までに指名されていなければならないだろう。ここに勤める刑務官は死刑囚監房を担当し、いつかは死刑の執行にかかわらなくてはならない。
 司法記者として長年にわたり行刑の実状を記録してきた沢田東洋男はその著『囚獄の門』(五三ページ)で矯正職員の「私は昔から、死刑がいやで、その執行に立ち会ったことがありません。執行予>102>定を知ったり、その予感がしたら出張するか、自宅で寝ていますよ」という言葉を紹介しており、沢田はこれが矯正職員のホンネだといっている。
 しかし、こんにち、このような勝手が許されるとはおもえない。命令に従わなければ馘首にならないまでも勝手な行動を非難されることはいうまでもない。正義と称する陰湿な衝動のために執行人とならなくてはならない。ここに公務員としての死刑執行人の人権の問題がある」(pp.102-103)

「死刑の執行を担当した者には、いぜんは酒一升であったといわれるが、こんにちでは死刑執行手当という「特殊勤務手当」が支給される。曰く「死刑執行手当は、刑務所または拘置所に所属する副看守長、看守部長または看守である職員が死刑を執行する作業に従事したときに、作業一回につき五人以内に限って支給する」。手当の額は「作業一回につき千円とする」とある(昭和三五年・人事院規則特殊勤務手当第一〇条)。現在の手当は一回につき五千八百円。残業手当のようにその月の俸給に加算されるのではなく、即日払いである」(p103)
→〔新版〕「死刑の執行を担当した者には、以前は酒一升であったといわれるが、こんにちでは死刑執行手当という「特殊勤務手当」が支給される。曰く「死刑執行手当は、刑務所または拘置所に所属する副看守長、看守部長または看守である職員が死刑を執行する作業に従事したときに、作業一回につき五人以内に限って支給する」。手当の額は「作業一回につき千円とする」とある(昭和三五年・人事院規則特殊勤務手当第一〇条)。現在の手当は従事職員一人一回につき二万円、一回につき一〇人以内に限り支給される(九八年一月一三日の衆議院法務委員会における保坂展人議員の質問に対する政府答弁)。残業手当のようにその月の俸給に加算されるのではなく、即日払いである」(p113)
→(補足:櫻井悟史)「一回につき一〇人以内に限り支給される」は、誤りである。また、「副看守長、看守部長または看守である職員」とあるが、現在の人事院規則に看守は含まれていない。
◆特殊勤務手当
 制定:昭和35年6月9日号外人事院規則9―30
 最終改正:平成19年10月1日人事院規則9―30―63
(死刑執行手当)
第十条 死刑執行手当は、刑務所又は拘置所に所属する副看守長以下の階級にある職員が死刑を執行する作業又は死刑の執行を直接補助する作業に従事したときは、それぞれの作業一回につき五人以内に限つて支給する。
2 前項の手当の額は、作業一回につき二万円とする。ただし、同一人の手当の額は、一日につき二万円を超えることができない。

「たしかに執行人は裁判所の命令に従うだけのことであろうけれども、個人として家族の父親であり、一人の人間である。どういう感覚でこの仕事をすればよいのか。
 とくに戦後の行刑において“教育行刑の理念”を耳にタコができるほど、たたき込まれている刑務官たちである。その行刑の現場の第一線にいる刑務官たちが、ロープをにぎる殺し屋にならなければならない。職務とはいえ血の流れている人間である。「自分が執行するとき、ロボットになれたらと思った」と刑務官はいう。こんにちの行刑は被害者に代わってする復讐機関でないことについては異論はなかろう。ところが、死刑という野蛮な行為を刑務官に実行させている。「死刑ノ執行ハ監獄内ノ刑場ニ於テ之ヲ為ス」(監獄法七一条)は削除すべきである。もとより監獄外において刑務官以外の者が執行したところで死刑の問題が解決するわけではないが、刑務所が死刑を執行する任に当たる当然の根拠はすでに存しない。
 このような見解はすでに明治期に主張されている。京都監獄の木名瀬礼助はつぎのごとく主張している(中略)>106>
 裁判官は国民感情を理由に、あるいは量刑相場を根拠に法にもとづく名のもとに死刑を宣告するが、自らその執行をするわけではない。刑務官という月給で雇われているサラリーマンが執行させられる。単なる一公務員が法律にもとづいているとはいえ、人を殺すという大きな仕事をしなければならない。死刑執行人たる刑務職員の人権問題から死刑を問いつめねばならない」(pp.106-107)
→〔新版:変更点太字〕「たしかに執行人は裁判所の命令に従うだけのことであろうけれども、個人として家族の父親であり、一人の人間である。どういう感覚でこの仕事をすればよいのか。
 とくに戦後の行刑において“教育行刑の理念”を耳にタコができるほど、たたき込まれている刑務官たちである。その行刑の現場の第一線にいる刑務官たちが、ロープをにぎる殺し屋にならなければならない。職務とはいえ血の流れている人間である。「自分が執行するとき、ロボットになれたらと思った」と刑務官はいう。こんにちの行刑は被害者に代わってする復讐機関でないことについては異論はなかろう。死刑という野蛮な行為を刑務官に実行させている。ところが「死刑ノ執行ハ監獄内ノ刑場ニ於テ之ヲ為ス」(監獄法七一条)とあるが刑務官に実行させるとは書いていない。日本の死刑執行は根拠法規なくして刑務官に執行させている。もとより監獄外において刑務官以外の者が執行したところで死刑の問題が解決するわけではないが、刑務が死刑を執行する任に当たる当然の根拠は存しない」(p116)

〔新版:6-(2)わが国の死刑執行人 『看守職務規程』に付された脚注1〕「従来の「看守職務規程」(明治四二年監甲一五三四ノ一)第四五条は、「看守上官ノ指揮ヲ承ケ死刑ノ執行ニ従事スヘシ」とあったが、現在の刑務官職務規程」(平成三年法務省矯保訓第六八九号)では第四条(3)(職務心得)「職務上の危険及び責任を回避しないこと」とある。同意義である」(p117)

「それでなくとも、死刑執行人が妻の懐妊を知ったとき喜びよりも不安とおそろしさが先に立つといわれる。生まれてくる子供が手や指も、それぞれ五本ずつ、目も鼻も口も、不自由なくついているかどうかを思い苦しむ。少しでも欠けた子供が生まれると死刑執行が因果として結びつけられることもある」(p108)

「死刑執行人がもし精神に異常をきたさないためには、自らの行為を合理化しなければならない。自ら死刑執行人であることを認めない気持ちをもつほかない。ただ法による執行を助けているだけであり、本当の死刑執行人は、極刑をつづけている限り、国民であり、個々の人間がこれを自分の良心の問題とする必要はないのだ、と考えることができる者のみが平常心でおられるのである。
 さもなければ自らを鬼とするほかない。免田栄は同僚だった二人の死刑囚が同時に処刑された当日のことをつぎのように語っている。
 「彼が刑場にたって三〇分もたたないうちに、特舎の入口から、『おい、次を出せ』と補佐官の呼ぶ声が聞えた。日頃から役人の権威をかさに着て、収容者を馬鹿にしている男だから、いいかねないことだと思った。これを聞いた本人が憤激し『いかに悪党でも最後の死にぎわぐらいは気持ちよく去らせてくれると思った』と親しい者に告げて去った」(免田栄『獄中記』一〇六ページ)。>110>
 このような鬼と化した刑務官に同情すべきなのか。問題はそれほど単純ではない。死刑が恥辱でなく誇りであるならば、それに関与した人たちは英雄である。しかし執行人の名は、きわめて用心深く、あらゆるものから守られている。執行人という名は全身をゾッとさせ、血を凍らすからである。死刑そのものが恥辱であることを知っているからである」(pp.110-111)

「死刑執行人の苦悩を問題とするとき、一つの議論は、それを望まなければその職業を選ばなければよいということである。しかし、だれしも自ら希望してその職業を選んだわけではない。一八世紀の>112>職業的死刑執行人も、当時のおそろしい条件下での工場労働に強制されたと同じく、この種の職業も経済的理由が強制させていたことは十分にうなずけることであるし、こんにちでは情状は若干異なっていようが、刑務官になることが死刑執行人となることに結びつくとはおそらく多くの者は考えていないであろう。死刑執行自体がこんにちではたびたびあるものではないのだから、この点は当然のことといえる。しかし、刑務官になった以上はだれかは必ずこの立場に立たざるを得なくなるのであるし、立会人ともなればその数は相当数にふくれあがる」(pp.112-113)

「検察官は求刑相場から死刑を求刑し、裁判官は量刑相場と自らの裁量で死刑を言渡し、執行官たる刑務官は法にもとづく命令に従ったまでだと、自らの殺人行為を合理化する。しかし、人間としてこの合理化には限界がある。だからといって、死刑を宣告した裁判官に執行させろという議論も現実的でない。最後のサインを送る法務大臣はどうか。法務大臣こそ、一人の人間が、どんな経路で殺人を犯し、現在どのような人間であるかを知ることもなく、過去の反省と、被害者の冥福と悔悟の生活を送っている人間を事務当局の指示により機械的に執行指揮書に書名することで人の生命に期限がつけられる。多くの場合において法務大臣は在任期日がなくなる日の最後の仕事として署名する。それは法務大臣としての職務に忠実であっただけであって、死刑そのものに直接のかかわりはない、として>116>自らを合理化しているのであろう。それでは死刑執行という権力による殺人の直接の担当者は、いったいだれなのか。
 カミュは「死刑は一つの殺人で、犯された殺人の算術的な埋め合わせであろう。だが死刑には単なる死のほかにつけ加わるものがある。法規によって、これから殺人を行なうぞという公的で周知の予牒がつけ加えられ、最後にそれ自体が、単なる死よりもはるかに恐ろしい精神的苦痛のもとになる組織がプラスされている」。だから死刑は殺人のなかでも、もっとも計画的な殺人であるといっている。
 その担い手とされているのが死刑執行人である。しかし、川村克己(カミュ『ギロチン』の翻訳者)の「もはやわれわれは『罪なき共犯者』ではなく、自ら手を下さずとも、死刑執行人であることに変りない」(『社会改良』一、三号)との言葉を厳粛に受け止めねばならない。われわれが死刑制度の存置を認めていることは、法務大臣の署名を支えていることであり、われわれ一人一人が死刑執行人なのだ」(pp.116-117)

「(三)死刑廃止運動の近況
 犯罪と非行に関する全国協議会(JCCD)は、昭和五〇年七月、当時のわが国における死刑廃止論の重鎮であって故・小川太郎(亜細亜大学教授)を会長とし、正木亮が展開していた死刑廃止運動のあとをうけて発足した。爾来、こんにちに至るまで機関誌『JCCD』(季刊)の発行と刑罰改良に関する活動を展開してきた。かつて、わたくしは正木亮に「死刑廃止運動には、一人の英雄が必要なのではなくて、多くの人の力の結集にある」と問いただしたことがある。当時はむろん正木亮は季刊『社会改良』を刊行し、中島健三や笠信太郎らと死刑廃止を唱えており、力の結集に努めていたことは認められたが、いかんせん正木個人の名声に終始しがちのように若年のわたくしにはおもわれた。
 JCCDは、幅ひろ人々の結集を求めて地味ながらこんにちまで活動をつづけてきた。そしてこ>254>んにちでは、わたくしの知る限りでもJCCDのほかに、少なくとも七、八の死刑廃止のための団体がわが国において運動を展開している。昭和六〇年一〇月に開かれたJCCD第一〇回大会においては「死刑――新展開を求めて」とのタイトルのもとに、これらのうちのいくつかの団体や政党などからのパネリストを招いてシンポジウムを開いた。その意図するところは、死刑廃止運動の諸団体が結集してさらに運動を拡大・前進させることにあった。それは、免田事件をはじめとする、いくつかの冤罪事件をまのあたりにみての当然の動きであったといえる。
 ところが、こんにちに至るまで諸団体の連けいは必ずしも具体的な展開をしていたのではない。しかしようやくにして新しい出発を始めつつある。
 それは本年(昭和六三年)六月一一日、JCCDをはじめ各種団体と個人が参加して「死刑執行停止連絡会議」を発足させたことである。
 この会議の発足に先だち代表世話人としての筆者と弁護士・倉田哲治(免田事件主任弁護人として著名)、丸山友岐子(死刑をなくす女の会)らと連名で呼びかけの文書を発送した。
 その文面では、昨年から本年にかけての死刑判決の多さに異常を感じること、免田、財田川、松山事件など冤罪による無罪が確定したあとで安易な「死刑判決」が選択されていることに驚きを禁じえない。一方では、世界的には、この十年間にほぼ毎年一か国の割合で死刑が廃止されて、現在では六六か国(事実上の廃止国を含む)になること、このような状況のなかでわが国が死刑についてなんら議論をすることなく、この制度を維持していることは、恥ずべきことではないか、死刑廃止はただちに無理でも国民的規模で、この制度の是非について論議をつくすあいだ、一定期間、確定死刑囚の死>255>刑の執行を停止するよう、国会に働きかけたい、そのため、
 一、われわれは、ひろく各界からの署名を集め、国会に死刑執行停止を請願する。
 ニ、議員立法として「死刑執行停止法案」を超党派で上程するよう国会議員に働きかける。
 当日までに、右の呼びかけに六百人余りの賛同人からの返書がよせられた。そのなかには、むろん著名な作家や憲法学者もみられたが、主婦などからのカンパも寄せられた。とくに筆者が感銘したのはキリスト教や仏教の宗教関係者が多数賛同を寄せられ、この働きかけの力強い支えになったことである。
 ところで死刑に関する憲法論議については、戦後にいち早く違憲論を展開した木村亀二いらい憲法学者による論理的進展をみていない。また刑法学者は法制審議会における結論として死刑存続を決めているが、責任主義原則から死刑存置がどのように結びつくのか論理的展開は回避している。刑法論の帰結ではなく、きわめて政治的判断である。
 最高裁の合憲論も形態論をもち出すまでもなく、こんにち通用するものとはおもわれない。
 さらに戦前戦後を通じ、宗教家がわが国の死刑廃止運動に際し顕著な働きを示したという記録は残念ながら存在しない。しかし宗教の立場から死刑に反対することは当然の道理である。
 ここに「死刑執行停止会議」の国民的規模での働きかけの基盤として、これら学者・思想家による死刑論のあらたな展開が期待される。
 ところで、死刑即時廃止の立場からすれば「一定期間の執行停止」は一歩後退の感を免れない。しかし、よりいっそうひろい国民的運動の盛りあがりのなかで、とりあえず「執行停止」を手中にし、>256>死刑への関心を深めつつ永久的な死刑廃止を実現しようとするものであって、あえて着実な手段を選択したものである。それだけに、この運動には失敗は許されない。もし失敗することがあれば、わが国の死刑廃止は当面絶望的であることを覚悟しなければならない。それだけに単なる一般大衆運動にとどまるものでなく、思想的・論理的基盤にたっての展開が要請されているものとかんがえる」(pp.254-257)

「一九八七年九月、本稿の大方のを仕上げ、出版社に原稿を送った後」(p258)

■書評・紹介

■言及



*作成:櫻井 悟史 
UP:20080909 REV:
死刑  ◇「死刑執行人」  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
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