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『公害原論 合本』

宇井 純 編 198806 亜紀書房,38+275+283+270p.

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■宇井 純 198806 『公害原論 合本』,亜紀書房,38+275+283+270p. ISBN-10: 475058813X ISBN-13: 978-4750588131 \2835+税 [amazon][kinokuniya] ※ ee

◆関連書籍

□宇井 純 1971 『公害原論〈1〉』,亜紀書房,275p. ASIN: B000J9NOGE [amazon] ee
□宇井 純 1971 『公害原論〈2〉』,亜紀書房,283p. ASIN: B000J9NOGO [amazon] ee
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□宇井 純 1974 『公害原論〈補巻3〉公害自主講座運動』,亜紀書房,297p. ASIN: B000J9NOHS [amazon] ee


■宇井 純 20061210 『新装版 合本 公害原論』,亜紀書房,872p. ISBN-10: 4750506184 ISBN-13: 978-4750506180 3990 [amazon] ※ ee


出版社/著者からの内容紹介
著者情報
目次
引用
書評・紹介・言及

 

■出版社/著者からの内容紹介

◇1988年版への紹介

出版社/著者からの内容紹介
東大夜間自主講座において、著者10年の蓄積を傾けて展開された同名の講座講義録。流行の公害論議への鋭い根底的批判を熱気あふれる聴衆に訴え、討議した。講座開催の理由、公害の一般的状況、水俣病、新潟水俣病、足尾鉱毒事件の各章により構成する。

出版社からのコメント
公害に関する議論が激しかった1960年代から70年代、公害は日本だけで議論すれば良かった。しかし21世紀を迎える現在はもはや日本ばかりでなく世界的視点で考えなければならない状況となってきている。途上国がかつての日本のように経済成長をするのに伴って公害もまたかつての日本のように広がっているのである。こんな時期だからこそ、原点に立ち返って、公害とは何なのか、を考え直さなければならないのではあるまいか。
公害問題を知る上でこの本は不朽の名著と言える。

◇2006年版への紹介

出版社/著者からの内容紹介
1971年の初版刊行以来、版を重ねてきた名著がついに復刊! それまで企業寄りの技術論に終始していた風潮に警鐘を鳴らし、「公害」の社会的意味を初めて問い、現在の環境学の礎となった記念碑的作品。1970年10月から東大で始まった夜間自主講座の13回分を収載。

内容(「BOOK」データベースより)
1971年の初版刊行以来、版を重ね続けてきた名著がついに復刊!それまで企業寄りの技術論に終始していた風潮に警鐘を鳴らし、「公害」の社会的意味を初めて問い、現在の環境学の礎となった記念碑的作品。

水俣病の公式確認から50年――“環境問題”の原点がいま再び「新装版」となって登場!
1971年の初版刊行以来、版を重ねてきた名著がついに復刊! それまで企業寄りの技術論に終始していた風潮に警鐘を鳴らし、「公害」の社会的意味を初めて問い、現在の環境学の礎となった記念碑的作品。1970年10月から東大で始まった夜間自主講座の13回分を収載。

作家 柳田邦男氏推薦!
人間と社会を見るにあたって、いちばん大事なことは、「事象の重大性に気づく感性」であり、「本質を見抜く考える力」であり、「全容をとらえる思考の枠組み」である。本書は、戦後公害の原点である水俣病を出発点にして、国内と世界の重要な公害・環境破壊の具体的事件を語りつつ、同時にそれらに内在する本質的問題を解き明かしていく。国家権力の僕に堕した学問の洗脳の場である東京大学で、権力に倚りかからず、立身出世にも企業の利潤追求にも役立たない本質をとらえる学問を、時代状況と呼応させつつ“自主講座”という方法で、学生や研究者や一般市民に語り続けたこの分厚い記録は、30年以上経った今も、宇井氏の肉声が聞こえるような新鮮な響きを持っている。そこには、歳月を超えて普遍性のある、事象の本質をとらえる「感性」と「考える力」と「思考の枠組み」が語られているからだ。

■著者情報


■目次


1 一般的状況
2 水俣病
3 足尾鉱毒事件
4 大正期における公害問題
5 昭和期の公害問題
6 技術的対策
7 FAOローマ海洋汚染会議報告
8 ヨーロッパの公害
9 運動論・組織論―一学期のまとめ


■引用


はじめに
p.5
公害を出す側と受ける側に整理してみれば、これまでの東京大学における科学・技術というものは、大体出す側の科学・技術であった以上、どうしても受ける側の学問がなければなるまい、そういうことで助手会の皆さんと相談して…自主講座を開くことになりました。

p.8-9
大学というものは、…建物と予算を国から与えられて、国家有用の人材と称する役人、技術者の養成を目的にした大学は、当然、富国強兵のための技術しか教えないのは無理もないし、またわれわれ自身がそういったことを勉強するところとして東京大学を選んできたのも事実であります。ところが1966年に私がたまたまポーランドのワルシャワ大学を訪れたときに、東京でいえば銀座通りのような町の中にぽつぽつと点在する民家が教室になっている理由を、教授にたずねましたところ、ポーランドにおいて大学は占領を受けるたびにつねに抵抗のとりでであり、したがって占領軍によって大学はとりつぶされ、教授は銃殺か国外追放になるのは当り前の日常茶飯事であった。それでも何年かたつうちには、必ず勉強を目指す学生が夜ひそかに教授の私邸を訪ねて大学の講義を受け、それがだんだんに教室の形をとっていった。かつて教授が住んでいた民家が現在の大学になったのである。…東京大学がこれまでやってた…権力に条件を用意してもらって、権力のためになるような、立身出世のための学問とちょうど反対のものが存在していた、あるいはやり方によっては存在しうるということに気がついた…。

p.13
(要約:水俣病を初めとした公害現場の調査を開始(宇井 1971:12‐13)。宇井をその行動に向かわせた要因として、宇井が化学の現場にいたことから、水俣の奇病報道と工場の廃液との何らかの因果関係を理解できる立場があった(宇井 1971:13)。)

1963年には…私と桑原史成さん…の調査で、水俣病の原因は…工場廃水の中のメチル水銀であったということが、疑いなくわかったのですが、…公表するだけの勇気がありませんでした。…公表していれば、1965年の第二水俣病の発生は、…くいとめられた…かもしれない…。

p.15
私の立場は工学部の中ではかなり特殊なように見えます。つまり技術者が自分のもっている技術を…否定するというのは、異常な状態のように見えますが、逆に考えてみますと、小学生時代から技術者になることを志した人間が、…現在技術の仕事をしている…。現在の工学部教育のもっている欠陥、あるいは盲点というものは、私の考えの上にも必然的に表れてくるであろうし、そういったものに気がつく立場の人間としては、おそらく最適の立場にいるのではなかろうか。

I 一般的状況
公害がもっとも起こりにくい国日本

p.17
日本は公害がこれほどひどくなるはずはない…。ひどくなりそうもない要因が十分にそろっている。
p.17-8
第一の要因 海に囲まれた国――夜陰にまぎれてたれ流しをして、陸上につんでおかなくもすむ。

p.18
第二の要因 潮の干満――これは当たり前のようですが、決して当たり前ではない。…バルチック海とか黒海とかまったく潮の満ち干のない海は…世界中にあります。

p.19-20
第三の要因 大きい降雨量、短い滞留時間――日本は雨で洗われる国…川に流せば確実に10日足らずで海へもっていってくれる。…後は知らん顔してたら、黒潮にのって、どっかへもっていってくれる。

p.20
第四の要因 風の存在――日本では10日間風が吹かないという日はまずない。とくに冬の激しい季節風などは毎日のように吹いて大気汚染を吹きはらってくれます。

p.21
社会問題としての公害が深刻にならないはずの最大の条件は社会的条件であります。

p.21-2
第五の要因 国境をもたない――国際河川をもたないということが、公害問題においていかに有利か、…日本に水源があって南北朝鮮を通って中国かソ連あたりで海へ出る川があったと仮定したら、おそらく日本の高度成長は猛烈な反撃を近隣諸国から受けたでしょうし、逆に日本が下流にあったとしたら、日本はまたたとえば鮭の遡上とか、いったことでゴタゴタを起こしていたはずです。日本の場合にはそういった経験をもたないだけ、いわば公害が社会問題になる可能性は少なかった…。

公害先進国の判定理由
p.22
実際には世界で最もひどく公害がおこっているのは皆さんよくご存知のとおりです。…水の汚染が原因となって人間の命にかかわった病気が世界で起こっているのは、…日本が最初であります。

高度経済成長は公害を前提とする
p.25
第一に公害の無視による高度成長(コスト低下・過少投資)――しばしば公害が高度成長のひずみである、あるいは結果であるとおう表現がなされております。私の知る限りでは公害というものは高度成長のひずみだとか結果とかいう生やさしいものではな〔い〕…日本の経済学者はこれまで高度成長の要因としていろんなことをあげています。低賃金と保護貿易が高度成長の要因であった…私はもう一つ…第三の柱として公害の無視、あるいはタレ流しの許容があった、すなわち公害問題というのは日本の資本主義の構造的なものである

政治と企業の密着
p.33-4
第二…行政と企業とが互いに助け合って、公害を激化していきます。足尾の場合についていえば、政府は徹底した運動の弾圧、たたきつぶし、買収をやっています。

p.35
中立であるべき政府なり、大学なりというものは、こういうふうに企業と密着した立場をとっています。…しかし中立の立場からこれだけ保護されている日本の資本主義が高度成長しなかったら、やはりどこかおかしいというか、よほど無能な経営者であります。

人権思想の弱さ
p.36
公害問題というのは差別の一形態であります。…公害の被害者というものは差別されます。
公害によって病気になることで貧乏になる。貧乏になることで差別されます。
水俣の一任派の患者が何故あの屈辱的な補償調停案をのんだかというと、あれは差別から脱出するための唯一の合理的な選択です。今まではなまじ会社から見舞金を貰っていたために分限者扱いにされ、随分辛い目にあったのを、今度は国民全体が見ている前で、不足とはいいながらも死者に対する補償なり、生存者の見舞金なりを、国が決めてくれる、あるいは国が選んだ権威者が決めてくれる。それを現在の差別から逃れ得る唯一の方法として目の前にあるときにつかまない…とすれば、それはむしろ非合理的な選択である。

p.37
対馬にイタイイタイ病が存在するかという議論について、…イタイイタイ病の患者が家族にいる、あるいは部落にいるなんてことになったら嫁にも行けん、就職も出来ん、そんないい加減なことを、よそから来た学者が言いふらしては困るという連判状が部落のなかを、会社の労働組合員も手伝って作られまして、小林純さんとか、萩野先生のところにも届けられた事実があります。

p.37-8
差別をされている人間にとって、どこが気に喰わないか、どこが文句があるということはなかなか例をあげて話せるものではありません。差別というものは全生活的なものでありまして、たまたまその一つか二つの事象をとりあげて、たとえば、給料が違うとか、仕事を余計やるというふうなことを取り上げてみたところで、それは必ず有力な証拠をもって反論されるのです。差別されている人間が卒業、就職できないとか、結婚ができないとか苦情を言ってみたところで、必ず就職の機会は均等であるという統計が存在します。差別されている奴だってちゃんと結婚しているではないかという実例が存在します。言葉で語り、数字で表現するときには、そういった全生活的な差別の全体が消えてしまって常に部分しか残らないものです。公害もそういうものです。

p.39
被害者は、体の総体で受けている。しかし加害者はその中から部分化された指標だけしか受け取ることは出来ない。…そういう元来次元が違う被害者の認識と加害者の認識とを同列において両方の中をとるということは元来不可能なことなのです。…この不可能なことをやる学識経験者が無数にいます。…認識の次元が違うということはもちろん知らなかったとするならばわれわれの怠慢であり、またそういうもので判断するならば、われわれは公害の被害者を差別していることになります。

p.39
差別の中身はどういうものだ、と人に聞かれてこれぐらい話にくいものはない。出来る唯一の答えはお前と俺の場所を入れ替えようということしか出来ない。俺が差別されるからお前は差別されろ、ということしか言えない、同じことが公害の場合にもいえるのです。

p.39-41
宮本憲一さんが指摘した、日本の自治体合併はこの百年間に(自治体の数が)27分の1に減少するところまで来ているという指摘です。これは確か『社会資本論』に書いてあったかと思います。…自治体の数が27分の1になったということは、もちろん山奥の村のように合併しようにもできないところもあるのでるから、大体30ないし50の自治体が明治の初期に自然村として存在したものが、現在1つの市町村になっていると考えてよい。…それまで500人で一人の村長を選んだものが、5万人で市長を選ぶ、それだけわれわれの決定権というものは合併されて、水でうすめられてゆきます。

p.42-5
公害の反対を封ずるための町村合併は政策としてちゃんと出てくるのです。これは足尾来、富士にいたるまでしばしば繰り返されます。すなわち自治体の合併を許すほど、われわれの一人一人の自治権力意識というのは弱体であった。…原則として自治権の強いところでは公害は出しにくいのです。だから…日本で、…自治権力の弱体が公害をひどくした要因である。

p.50
住民が俺は被害を受けているんだ、公害だ、というものをここでは公害としてこれを取りあげる。

p.63
テーラーシステム[…]部分労働をつなぎ合わせていくようなかたちにしますと、能率は上がりますがまちがいは多くなります。[…]効率をあげる思想が公害の元ではなかろうかと最近感じはじめてきました

p.64
もっとも経済的な排水処理は海に捨てることであります。たしかにこれは経済的にはちがいありません。無限大の水のなかに薄まって必ず分析にかからなくなるから、そうしたら無いものとみなしてよろしい。それができない場合だけは、しょうがないからなにか処理を考えなさい、というのがいま教えられている。すくなくとも先月までは講義で教えられていた技術です。

p.65-7
しかし、[…]薄めて見えなくなったら、無くなったのだという[…]仮説[…]はいままでに何度か現実に否定され、もうこれに頼ることはできないという提案がなされたことがあります。
ミドリガキ[…]銅や亜鉛[…]ビキニの水爆実験にともなう原爆マグロ[…]放射能が魚の肉に蓄積[…]水俣病[…]水銀[…] DDT[…]水鳥[…]濃縮の倍率は10万倍[…]水鳥の卵は百万倍の濃縮が起こっていることがわかっています。

U水俣病

p.73-4
新日本窒素つまり現在チッソ株式会社の水俣工場というのは、日本の化学工業にとって[…]のもっとも正統な工場、と言うだけの値打のある工場でした。これはチッソの技術的な発展の基地として、それからまた儲けを他の工場に投資するための基地としても、水俣工場がかつて一時期、野口コンツェルンあるいは日膣コンツェルンといわれた時期から、中軸となっていた主力工場であります。

p.74
1906年(明治39年)に東大の電気工学を出た野口遵(すすむ)―私たちはそのまま野口遵(じゅん)と呼んでいますが、―という技術者が鹿児島県の大口という所に小さな発電所を一つ建てました。この発電所の目的はその近くにある大口金山、それから牛尾金山に電気を送ることでした。

日本の鉱山の歴史の上で、電気の導入というものは非常に大切な一つの新しい転機を表しています。鉱山がなぜそれ以上採算がとれなくなるかという問題は、古くからどうやって水をくみ上げるか、という労働の問題でほとんど決まっています。[…]坑内にたまる水を[…]絶えずくみ上げなければ切羽は水に埋まって人間は溺れてしまうのですから、鉱山というものは水との闘いが大部分だったのです。

そこへ蒸気機関が入り、さらに電気が入ってまいりますと、電機はどんな深い穴の奥でも電線で自由に運ぶことができます。[…]電気の導入で鉱山の掘削技術というものは大きく進歩しました。

p.75
1908年(明治42年)、この電力がだいぶ余ることが分かりましたので、日本カーバイト商会という余った電力を使ってカーバイトを作る工場が建設されました。

この工場の建設に当って、はじめ[…]野口遵はいまの水俣より四里ほど南の出水(いずみ)のあたり−これは鹿児島県です。―に工場を建てようと考えたそうです。ここはいい港があるし、それから金山から近いので電線を引っぱる金もあまりかからない。

p.75-6
ところがこの話を聞いた水俣の有力者たちが、野口の泊まっている旅館に押しかけて、水俣の方がずっと条件がよろしい、もし水俣の方へくればいろいろ工場の有利なような準備をしよう、たとえば米ノ津[出水]にくらべて水俣まで電線を引っぱるのに四里ほど電柱が余計に要るというけれど、その電柱と電線を引っぱる費用は地元が負担しよう、それから水俣は幕末の頃には塩田法による塩の製造でかなり賑わっていた漁村なんですが、専売法で塩が誰にでも勝手につくれなくなるととたんにさびれてしまう、その塩田の土地が余っているから、これもタダ同然の費用であげよう。港がないというけれども、実は水俣に港を作る位は地元でもできる、ともかく工場をこっちへもって来てくれ、というひざづめ談判を[…]いまから60年前にやったことになります。

p.76
これは非常に当りました。[…]人口一万そこそこだったのが、この工場誘致によってどんどん町は発展しまして、戦争の末期ですでに人口三万を越えています。最高の1955年から60年頃には五万という立派な市になっております。

1908年にはカーバイドの工場が水俣にできました。[…]カーバイドはどういう用途に売れたかといいますと、漁業用のアセチレン・ランプだったというのも皮肉な話です。

しかしアセチレン・ランプで使うカーバイドの量はたかが知れています。ですからその当時肥料として新しい用途を開拓するために、石灰窒素の製造を1909年[…]に始めます。

p.77-8
石灰窒素はさっぱり売れない、そこでこれに水蒸気をかけましてアンモニアにしまして、硫酸に吸わせて硫安にする、変成硫安で切り抜けようと考えました。[…]当時としては最もモダンな肥料を作ったのですが、この時この日本カーバイド商会、のちの日本窒素は経営が楽だったとはいえません。

p.78
1912年には電気鉄道を引くためにこの水力発電をそっくり当時の鉄道院、いまでいえば運輸省ですが、あるいは国鉄に相当するものになりますか、それが接収しようという話が出てきます。[…]結局[…]水力発電と日本カーバイト商会の工場もろとも鉄道院に買収される破目になります。

p.78-9
1915年に至って工場を買い戻します。そしてセメントの生産もはじめます。1915年といいますと、第一次大戦の前夜、だんだん景気がよくなりまして、こんどは作ったらなんでも売れるという時期がきます。[…]でもこの儲かった時期というのはそれほど長くありません。たかだか数年でして、そのあとこんどはゆりもどしの不況がきます。

p.79
戦後になりますと、[…]いくつかの新しいアンモニア合成の方法が考案されます。その一つ、イタリーのカザレーの方法を野口がたまたま見まして、まだ実験室の中で半工業化程度の小さな装置が動いていたときに、思いきってその技術をまるごと買い取ります。

p.79-80
カルシウムシアナミドに水蒸気を何段にもかけてやる古い方法ではなくて、いきなり空気中の窒素と、水を電解して作った水素とこからアンモニアを作る方法に切りかえます。

p.80
始めは延岡のいまの旭化成の工場に小さな装置が作られますが、大体うまくいきそうだという見当がつきますので、ただちに水俣に延岡の三倍という大きな設備を作って工業生産にのりだします。

このカザレー・アンモニア導入の頃からチッソ的技術開発というものがだんだん定着してまいります。1926年、水俣工場にこのアンモニア合成が入る。それからのちに旭化成になった延岡工場の方は、これを空気酸化して硝酸を作ります。これはご存知のように綿火薬やピクリン酸や、火薬の原料です。

p.80-1
1932年にはこんどはこのカーバイドを原料としまして、ここから出てくるアセチレンを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える。このアセトアルデヒドを酸化してさらに酢酸を作ります。

p.81
この技術は橋本彦七という技術者の手で確立します。[…]のちに水俣病が出てきたときの市長が同じ人[…]です。

塩化ビニール樹脂を、すでに1940年に水俣工場で生産しています。[…]塩化ビニールはアセチレンと塩酸からごく簡単にできまして、これも触媒に水銀をつかいます。

p.82
1952年に至って、アセトアルデヒトを原料としまして、これを二つつなげてブチルアルデヒドを作り、ブチルアルデヒドを二つつなげてオクチルアルデヒドを作るというふうに[…]かなり手間のかかる方法ですけれども、これから炭素が八つあるアルコールを作ります。これがオクチルアルコールですが、これをフタル酸と化合させますと、塩化ビニールの可塑剤、DOP、軟質の塩化ビニールフィルムあるいはレザーなどを作りますときに、絶対に必要な原料として[…]水俣工場で作ることになります。これももちろん日本で初めてです。

p.82-3
私はちょうど1956年から59年まで塩化ビニールの商売をしてたもんですから、[…]そのころは塩化ビニール樹脂は大変不況でして、作ってもさっぱり売れない。私は日本ゼオンにいて売る方をやっていたのですけど、こちらはいっこうに売れないのですが、チッソの塩化ビニール樹脂だけは飛ぶように売れていきます。それはチッソだけしか作っていない可塑剤を抱き合わせにしまして[…]市場を完全に独占していた時期があります。大体1960年頃まで、チッソのDOP独占は続きます。このへんがおそらく水俣工場のもっとも栄えた絶頂の時期だろうと思われます。

p.83
この時期に水俣の人口も5万に達します。[…]水俣工場のおかげで市になったようなものでありますし、典型的な企業都市です。[…]それで戦後の多選市長、たしかこの当時に再選された市長が橋者彦七さん、つまりこの酢酸の合成に成功した技術者です。

p.84
水俣市には三分の一位の農林業、三分の一くらいの製造業、そして三分の一位の第三次産業というふうに、1957、8年頃の水俣市の人口構成というものは、その時期の日本の産業人口構成ときれいに重なります。

p.84-5
水俣市で工員に採用されるということは、小学校あるいは高等小学校の成績一番ないし二番の生徒の特権であり、しかも採用されてから多くの場合は、仮採用として社員の身の回りの世話をするボーイを一年間勤め、[…]そこで成績のいい者がやっと工員になった、という話を飯田清悦郎さんがこの前現地で調べてこられました。たしかにそういうことがあり得た町です。

p.85
水俣病の患者というのは、実は水俣市ではじめてまっこうから会社と利害が対立した最初の集団だろうと思います。ですから水俣の地域社会に生きていかなければならない患者にとって、たとえ補償がどのように不十分で低額のものであっても、それを受け入れなければ地域社会で生きていく道がなくなる。

十何年の間、お前のところでは病人出してよかった、蔵が立つだろう、というふうな差別を受けてきた患者としては1970年の患者補償というものは、厚生大臣の見ている前で、全国民の見ている前で、大権威、大学者たちが出してくれた補償ですから、こんどは胸を張って堂々と貰えるものであり、またそれを受け入れることが合理的な選択である、というのもある程度皆さんにもおわかりいただけると思います。

p.86
水俣病については、いつから始まったかということは、実はわかりません。一応、公式の患者は1953年に発病したのが第一号だということになっていますが、現在、生きている人の中にも、おれはその前からおかしかったという人が何人かいます。それからそれ以前にたしかに同じような死にざまだったという話もあります。

現在の水俣病をめぐる行政がこれ以上患者をふやさないという方針のもとに行われている限り、とくにこの53年以前の患者は絶対に認めないという態度を、現在、熊本県および水俣市の認定委員会がとっていますから、公式には同年に第一号の患者が出たということになります。[…]その前からもあったであろうということは、われわれにも当然予想はつきますが、ここではそこについての判断は控えて、先に進むことにしましょう。

p.86-7
1956年5月に、チッソの水俣工場付属病院に4名の患者がひき続いて運び込まれ、そのひどい症状に気がついた当時の院長細川博士が、これは新しい病気ではないかという疑いをもちます。それからはじめて組織的な水俣病の研究が始まります。[…]この病気の経過をずっといままで調べてまいりますと、いつもいちばん大切な所に必ずいた人でした。

p.87
この当時、細川博士を中心として地元の医師会、市役所、保険所、私立病院などで、奇病対策委員会という組織ができます。[…]それからわずか二ヶ月位の間に、患者の発生している区域、家族関係、年齢、なにを食べているか、似たような病気の系統はなかったか、遺伝は考えられるか、ということを全部調べ上げてしまいました。大体8月の末頃にはこれを伝染病ではなくて、どうやら中毒がいちばんくさいというところまでいきます。

p.87-8
細川先生[…]は、風土病の研究をやって[…]かなりまとまったいい論文を残しておられます。そういった土地の病気についての調査をやった直後であったということが、この水俣病が明らかに新しい病気であるという判断をするのに役立ったそうです。

p.88
1956年の夏の間に、もう疫学的な研究は一通りでき上がり、それからどういう風な症状がこの病気の特徴かと云うことも、細川博士を中心として全部書き出されています。この初期に調べられた症状、たとえばそれは視野狭窄といってだんだんまわりの方から見えなくなってくる、竹筒の中から外をのぞくように視野のまん中だけがかろうじて見える。それから運動失調ですね、手足が自由に動かない、そしてシビレ感がある。これがどの患者にも共通な症状であるというところまでわかりました。そしてそれがいまでも診断に使われているほど正確な記録である。

p.88-9
そこで9月頃には大体これは食中毒であり、原因は魚らしいという見当がつきましてので、現地ではそれ以上つっこんで調べる手がかりもない、熊本大学の研究班の協力を得て、熊本大学に研究の中心は移ります。

p.89
実はこの時代から、大体工場排水位しかあやしいものはないではない、という見当は誰にもついていたのですが、水俣ではあまりにそれは重大なおそれおおい発言ですから、口には出せなかったのです。そこで研究も地元では続けられない。ある程度距離のある熊本の方がすすみやすかろうということで、地元のお医者さんたちも、非常にあっさりと患者を熊本大学へひき渡してしまいました。

しかし、[…]工場の排水口の近くで魚もどんどん死にますし、誰の眼も自然に工場にむいてきます。

p.90
水俣病で死んだ患者、あるいは動物実験で死んだネコ、水俣病の魚、貝、そういうものを分析してみますと、水やドロもそうですが、いろんな毒物がたくさん出てきます。マンガン、セレン、タリウム、ヒ素、銅、鉛というふうに当時の文献には書いてありますが、なにを計ってもたくさんあるので、いったいどれが本当の毒なのかわからなくなってしまったというのが当時の状況です。

p.90-1
しかも、どれもこれも毒なもので、一応神経がやられそうなものばっかり、出てくるんですね。[…]いろいろ研究していっこうに結果が出ない、熊本大学にとってはもっとも辛かった時期なんですが、[…]56年から59年の春まで、プラスの結果がなにも出ない研究を三年近くやっているんですね。おそらく各研究室とも大体2、3百万の金をそういう研究に使っているはずです。いまわれわれもそうですけど、医学部なんかでプラスの結果の出ない研究に、2、3百万もほうりこんだら、とたんに借金でつぶれてしまいますが、この時期はたまたま医学部の学位号が旧制から新制に切り変る時期だったんです。

p.93
この時期にそれぞれの研究室で[講座制によって]頑固に自説を守った[守れた]おかげで、いろいろな原因の中から、一つ一つ真の原因でないものは消されていったということは、認めなければなりません。

p.95
研究の方はこんなふうにして、さっぱり進まなかったのでありますが、漁民の方はどうなったかといいますと、もちろん魚があぶないということになって、[…]誰も魚なんか買わなくなります。そこで水俣湾一帯、大体この辺の魚を食ったやつがやられたというところを、漁獲禁止にしようという陳情が出てきます。ところが漁獲を禁止しますと、その分を補償しなければならないことに県庁のお役人が気がつきまして、結局、漁獲禁止は今日にいたるまで一度もなされなかったのです。正式の法律なり条例なりによる水俣海域の漁獲禁止は、ついになされていません。

p.95-6
はっきり漁獲禁止をして補償したのは世界中でスウェーデンだけです。[…]ともかく法的に禁止をしますと、それに見合う補償をしなければなりません。むしろ財政的理由から禁止はされないのが、国際的な風潮であります。

p.96-7
原因物質について全然手がかりもないままに、二年以上は経過してのですが、たまたまイギリスのマックアルパインという医者が、58年の春に熊本を訪れまして、水俣病の患者を診察しますと、[…]有機水銀の中毒と、非常によく似ているということに気がつきます。[…]その年の秋になって『ランセット』という有名な通俗的な医学雑誌がありますが、世界中で読まれているイギリスで発行されている雑誌に、マックアルパインのごく短い論文というか、むしろ日本旅行の報告みたいなものがのりまして、その中に水俣病はこういう病気で、原因はまだよくわかっていないが、いままで文献で見る水銀の中毒に似ている、という記事がのります。

p.97
大体この頃から熊本大学の中でも何人かの先生方が水銀を疑い始めたことは事実です。[…]そこで59年の春位から、[…]頑固に自説をゆずらなかったどの研究室も、もうこれ以上やっても絶対自分のいままで守ってきた原因物質は、水俣病と関係ないらしいということは、大体みんなどこでも同じようにわかっていましたので、病理学の武内教授の、これは水銀ではなかろうかという提案にしたがって、いっせいに水銀の研究がはじまります。1959年の春とは、こうして有機水銀中毒の証拠がつぎつぎと集まった時期、これが7月にはじめて発表されるものです。

p.98
公害には四つの段階があるらしい。それは起承転結である[…]公害というものが発見され、あるいは被害が出る。それに対して原因の究明、因果関係の研究(第一段目)というものが始まりまして、原因がわかる。これが第二段目とします。そうしますと原因がわかっただけで決して公害は解決しない。第三段目に必ず反論が出てまいります。

p.98-9
この反論は、公害を出している側から出ることもある。あるいは、第三者と称する学識経験者から出される場合もあります。いずれにせよ反論は必ず出てまいります。そうして第四段は中和の段階であって、どれが正しいのかさっぱりわからなくなってしまう。これが公害の四段階であります。この順序が昔から漢詩で使われております起承転結の原則と似ておりますので、起承転結の第一法則と私は言っております。ただ結できちんと締らないところが公害の特徴であります。

p.99
これを水俣病にあてはめてみますと、起にあたりますのが、病気の発見の1956年から59年まで、原因追及の過程が起であります。

有機水銀が発見された1959年は、これはそれに続く承の段階であります。そして59年の秋から60年にかけて、転の段階に入ります。すなわち反論の展開です。この反論は全般に質より量であります。[…]中には非常にインチキなものも出てまいります。[…]ときどきはかなり科学的にみえる反論もございます。

1959年には、工場側から四回の反論が発表されています。[…]要するに水俣病と水銀とは関係がないという言い分を何遍もくり返しのべたものです。

p.100
質より量ですから見当違いの反論であっても、ともかく熊本大学にケチをつければよいといった類のものも出てまいります。[…]化けの皮がはがれるかどうかは、実は反論にとってはどうでもいいことでありまして、ある一時期をなるほどいろいろな意見があるものだ、というふうに思わせればそれでいいのであります。

p.104-5
次の年[1960年]に経済企画庁のなかに水俣病研究連絡協議会という学識経験者、それから各省の役人を集めた協議会ができます。[…]そこで出てきた結果はすべて秘密にされました。[…]都立大の半谷教授は、大変重大な発見をこのさいしております。海水の中の水銀濃度をそのまま測りますと、よその土地とたいして差はない。ところが一遍これを酸で分解して、有機物を全部こわして無機物にしてしまいますと、出てくる水銀濃度も一ケタ位多くなる。[…]おそらく有機水銀が流れているらしい、という結果が出てきますが、[…]もしこの時期にこれをもっと進めていたら、向上から有機水銀が直接出ていたことがわかったはずです。

p.106-7
第三者と称して発言している人はいったい本当はなになのだろうか、という疑問を私たち公害の被害者はごく自然にもってまいります。[…]日本の公害は差別問題であって第三者は存在しない、その構造を調べる手がかりになったのが、この水俣病における反論の展開のしかたであります。[…]第三者は加害者の側に立っています。

p.107
起承転結の原則=第一原則を水俣の場合にあてはめて、というより逆に私は水俣のこの経過から第一原則を引き出してきたのですが、第二原則、第三者は存在しないという原則も同時に浮かんできました。

p.107-8
1959年の7月[…]熊本大学が[…]科学研究費の研究発表会で、はじめてこの有機水銀説を非公開の席ではあったのですけれども、公表しました。[…]7月中には、世論は騒然となる[…]工場側は[…]自分たちで調べているけれども、水銀と水俣病は関係ない、だから補償に応ずるいわれはない、しかし、[…]不漁だといっているから、少しは見舞金を払ってやろう、というふうな態度で、結局、会社側の代表を会場に閉じ込めて、唐辛子を七輪でいぶして一晩中苦しめるとか、不法監禁で漁民がひっぱられそうになるとか、おきまりの小ぜり合いと、それからある段階で地元の有力者の斡旋が出てまいります。

p.108-9
市会議員、あるいは市長といった地元有力者が間に立ちまして、八月中に漁民の補償要求に対して斡旋が成立します。3,500万円の補償金が会社から水俣の漁業協同組合に支払われますが、これははじめ数億という被害を申し立てていたのが、値切られ値切られて、3,500万円、このときの経過から私が第三原則として、相乗平均の原則というものを出してきました。[…]両方を掛けて平方根に開く、相乗平均のあたりに落ち着く。[…]片方がゼロだといっておれば、どんな要求でも全部ゼロになります。

p.110
公害の被害に関しては、[…]最後に相乗平均でばっさり決まるのですから、科学的な根拠をもった補償金なんていうものは、公害にはあり得ないのです。

p.111-2
[1959年]9月から11月にかけて、[…]水俣病の典型的な特徴が、水俣市内だけではなくて、[…]広い範囲に広がってきますと、[…]不知火海の漁民が連合して工場と交渉いたします。工場はやはり同じようににべもなくこれをはねつけます。たまたま11月2日に国会議員の視察団が水俣を訪れますので、それに集団陳情に出た漁民はその帰り道、工場に乱入して気勢をあげます。これが有名な11月2日の不知火海漁民乱入事件。[…]大きな事件として普通の市民が水俣病という名前を知った

p.112
このときにも知事が間にたちまして、県会議員がそれを助け、結局25億円の損害があったと主張していた漁民の側は、最後に1億円で補償に手を打ちます。[…]一年以上魚が売れなくと、その後ほとんど収穫がなかった不知火海の漁民にとって、長い交渉と乱入の代償が[…]いまわれわれが手にする一万円位[…]一日何万円かの水揚げがある場合でも、金銭にして補償する場合には、たかだか一回の打切り補償が数千円といったケタのものです。

p.118-9
患者の補償金となると、[…]県知事および県庁のお役人が、知恵をしぼって考えついたことは、人間を労働力のかたまりとして評価すれば、労災、[…]そういったような補償が参考になる。しかも水俣病の因果関係については触れないという前提で、[…]見舞金補償、---これは会社の方が、「貧乏な隣人が病気をしているときに、可哀そうだから見舞金を持っていってやります」という有名な言葉を吐きましたが、---死者に対して30万円、生存者の成人に年金10万円、未成年者に対してはじめ一万円だったのですが、後に値上げして三万円、成人に達したときには5万円の年金を支払う。[…]子供については、成人に達してもどうせ片輪者であるから5万円、という思想で決めたこの調停の立案者というものは、これはやはり最後まで責任を負うべきにあります。

p.119
見舞金調停の[…]第四条は、「甲[工場方]は将来水俣病が甲の工場排水に起因しないことが決定した場合においては[…]その月を以って見舞金の交付は打切るものとする」。

p.120
第五条、「乙[患者]は[…]将来水俣病が甲の工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わないものとする」。これは[…]永久示談協定です。[…]法的に有効かどうかということになりますと、大いに疑問があります。[…]実はチッソ水俣工場自ら、大正14年頃から何年間か、漁業補償をやるたびに、「将来二度と払わないぞ」という証文を入れては、また交渉されてはしぶしぶ払うというふうに、たしか三遍位書き換えております。

p.121
この見舞金補償の場合には、「水俣病と工場排水との関係はわからない」という前提の上で結ばれた、つまり「企業責任は不問に帰する」という前提で結ばれたところが特徴であります。このときに不問に帰されたから、10年後、こんなに公害がひどくなったのではなかろうか。

p.123
62年に入って、入鹿山教授が[…]偶然、酢酸工場の解媒の廃液を見つけました。[…]それを分析してみますと、メチル水銀が[…]出ます。[…]しかもその結晶を作って、猫に食わせると、水俣病が出てきます。明らかに、工場廃液そのもので水俣病が起こるということをつきとめて、入鹿山教授は日本衛生学会誌や衛生学会などで発表します。

p.125-6
1959年の春から、細川博士はごく素直な疑問としまして、工場排水によって水俣病は起こるのか起こらんのか、その問題だけを調べてみたいという点から出発しまして、各工場の排水を順々に猫に飲ませる実験を始めます。そして59年の10月、ついに酢酸工場の廃水で一匹の猫が狂います。これが有名な400号の猫の実験といわれています。[…]400号の猫の実験についての記録は秘密にされた

p.127
工場側は[…]「将来水俣病が工場排水が原因であったとわかっても、これ以上払わない。もし水俣病と工場排水が関係なかったら即時打切る」という契約をこの実験のあとに結んでいます。ですから、これはどう見ても、自分の方に責任があるということを知りながら、シラを切ったという例であろうと考えます。

p.129
細川博士は[…]60年の夏からもう一遍、工場排水による猫の飼育実験を再開します。そして62年の春には、[…]工場廃水の中からメチル水銀を検出し、その廃水でも、結晶として出したメチル水銀化合物でも、どっちでも水俣病がきれいに起こるということをつきとめる。これは62年の2月ごろです。

p.130
1965年に至って、新潟に第二の水俣病が発生しました。[…]ある医学部の講師が、学生に対して、水俣病を悲惨な公害病の一例として講義していたそうです。学生も口ぐちに「どうも先生の話にぴったり合う患者をこの前見たが」というふうなことを言いまして、その先生も患者を看ました。自分の講義している水俣病と、あんまりそっくりなんで、不思議に思ったんですが、まさかそれが水俣病であると診断するだけの材料は少ない。[…]64年の11月か12月です。

p.131
東京大学から椿忠雄という助教授が、新潟大学へ教授として転勤する[…]椿助教授はその頃までに、東京で水俣病の患者を一、二例看たことがあるのと、それからメチル水銀を原料とする水虫の薬の塗り過ぎで、水俣病そっくりの症状になって死んだ例が二例ほどある、この死にぎわまで診察した経験がありまして、そのメチル水銀中毒と新潟の奇病が非常に似ていることにびっくりしまして、それから髪の毛の水銀や、血中の水銀などを測り始めました。これが65年の1月です。

p.131
5月の末に初めて、学界で水俣病かもしれない、不思議な病気の一例、というのを椿教授が発表します。

p.131-2
患者が[…]大学へ送り込まれることに気がついた[…]沼垂診療所という小さな診療所のお医者さんが[…]「少し調べてみろ」という依頼を『赤旗』の通信員に出しまして、[…]通信員は[…]大学へ行き主治医の先生に会って「どうも水俣病ではなかろうか」というふうなことを[…]言ったそうです。

p.132
大学の先生方は、『赤旗』にスクープが行ったということになると、これは一大事ですから、[…]新聞発表に踏み切ります。[…]ところが、[…]えこひいきなくやったつもりが、放送が落ちる、通信社が落ちる。それから、中央紙のサンケイが出ていないですね。[…]特落ちというやつです。

p.133-4
特ダネ落ちがあったために新聞記者がみんな必死で競争やりまして、記者会見のときには、患者6名ぐらい、死んだのは2人かそこら、というふうな話だったのが、患者12、3名、死んだのは5人いる、というあたりまで、すぐに一週間位で調べが行き届きました。[…]この記者会見[…]があったのが、6月の12日です。

p.137-8
県の衛生部長に北野さんという人がいたのですが、[…]データはできるだけ新聞記者にも話す。厚生省から「あいつは、どうもみんな秘密の話までバラしてしまう」という文句が出ても、なおかつ、県ではできるだけ新聞記者に話し、新聞記者の協力を得た、これを通してきた。

p.140
新潟市の郊外といいますと、少し農民運動の歴史を知っている人なら、すぐに、木ア村という名前がピンと来ます。浅沼稲次郎や三宅正一や名だたる社会主義者が戦前そこで育ちました。その運動で育った、日本最大の小作争議の起こった土地です。この小作争議の後、こんどは東大のセツルメントや社会医学研究会のお医者さんが中心となりまして、労働者・農民の医療運動というのが始まりました。無産者医療運動として、戦前、これも有名な運動です。この木ア村争議で先頭に立った人たちの子孫が、いまの水俣病の患者の中にもいました。

もう一つの流れは、戦後1946年(sic)に、ストライキなんて[…]やるより資本家をたたき出しちゃった方がいいじゃないか、という闘争が全国にひろがった時代があります。労働者の生産管理闘争です。工場占拠し、生産管理をする。原料は自分たちで金を出して買う。製品の売り上げは自分たちのふところに入れる。これをもっとも徹底してやったのが、東洋合成という新潟にあった[…]工場です。

p.141
もちろん、そいつが成功しては、資本家みんなあがったりですから、たしかマッカーサー命令かなんかで叩きつぶしたんですね、生産管理は違法であるという形で。現在でも生産管理というのは、やれば必ず法律に引っかかるようになっています。しかし、[…]資本家はいらないというのは、実に明快な主張でして、[…]だから、ストライキなんてのは、[…]生ぬるい手段だから法的に認められていて、生産管理はもっときびしい手段だからこそ、法的に禁止されているというふうに、現在受け取っています。

この生産管理闘争を日本でいちばん長くやってのけたのが、東洋合成労組ですが、東洋合成は結局最後に全資本家、全権力の攻撃を受けてつぶれるのです。最後にいささか金が余ります。[…]労働者のために使おうではないか、ということになって、小さな[…]建物一軒買うことになって、これを勤労者医療協会に寄付します。これが沼垂診療所です。それkら、当時の組合幹部のうち、行き場がなかった人がそこに住みつきまして、診療所事務局長になります。これが後に民水対の事務局長になった小林つとむさんです。

p.141-2
この小林さんが中心になりまして、民医連の組織を中心に、患者同盟だとか、あるいは看護婦の会だとか集まって支援組織、患者を支援する民水対、---民主団体水俣病対策会議というのを略しまして、民水対といっておりますが、―――という支援組織をつくります。

p.142
それから患者に働きかけて、[…]20数名の患者がしぶしぶながら、[…]共産党がついているんじゃ、ということで二の足を踏んだ人もずいぶんいるんですが、―――結局、患者の会をつくります。

それから、県や市役所、町役場に、「生活保護ぐらいよこせ」という陳情に出かけます。民水対の方は日頃から[…]慣れていますから、これと患者が組みますと、実際、役所にとっては、始末に負えないんです。それで、[…]生活保護が適用されたり、それから生業資金と申しまして「当分、返さなくていいよ」という金が貸付られたり、あるいは診療費を無料にする。[…]というふうな形で、[…]患者の援護が成立していきます。[…]患者の援護だけは、水俣にくらべて新潟の方は若干進んでいました。

p.142-3
北野衛生部長、県の衛生部長のところへ交渉に行くと、「なにか、条例か法律かさがしてみたら、そういうときに役立つものがないか」と部下に命令します。そうすると[…]みんな知恵を出してきます。[…]結局、衛生部長の北野さんが、そういうふうにして、[…]いわば、県がリードするような形で対策が進みます。

p.143-7
[65年6月頃]厚生省は[…]研究班を任命した[…]ようやく67年の4月になって、[…]報告が[…]出てきます。初め、「原因は、昭和電工の工場廃水であると断定する」と結びの一行にあったのを、当時の環境衛生局長の舘林という男は[…]頼んで「診断する」というふうに書きかえてやっと妥協した。

p.147-9
ここで、たらい回しの手口が出てきます。つまり、一つのグループで不利な結論が出れば、それを解散しまして、食品衛生調査会の中に、こんどは、この出てきた報告を検討する会というのをつくります。[…]この食品衛生調査会は、[…]結局、「長期汚染は工場廃水が原因だったらしい、短期汚染があったかもしれない」という文章ですね、「その短期汚染は工場を閉めるときの不手際か、それとも、地震のときの農薬の流出か、どっちかが考えられるが、地震のときの農薬流出はこれを否定する有力な証拠がある。工場を閉めるときの不手際は調べてみたけれども、わからなかった。短期汚染の有無についてはわからない」という、ずい分あいまいな[…]報告を出している。67年の8月にこの報告を出します。

p.149
こんどは、科学技術庁が[…]特別調整費という年度のはじめに予算を組んでいなかったような問題について、研究費をそこから出すというので、[…]現地を調査した結果に対して、通産省が見解なるものを発表します。「地震農薬説は根拠がある」というふうな見解。[…]それと、原因研究とは元来対置し得ない。[…]68年の9月26日に有名な政府見解となって発表されます。

p.149-50
三家族が67年の6月に民事訴訟を提起します。[…]この患者たちは、[…]裁判やることに踏み切ってから、その年の暮れに、富山のイタイイタイ病の患者を訪れています。

p.151
68年の1月に、新潟の患者はこんどは水俣へ出かけます。[…]この患者を迎え入れるために、大急ぎで水俣病対策市民会議が発足します。それから、日頃は絶対に人前に出てこない患者が、何十名も、歩ける人はほとんど、水俣駅を集まってきて、私たちを迎え入れました。

p.151-2
やっぱり、いちばんこれを気にしたのは、会社側です。[…]68年の3月に、一方的に、患者に向かって5割近い年金の値上げを通告します。[…]患者同士が連帯すれば、こういうふうに向うがちぢみ上がるんだということを、実例をもって示してくれるぐらい鮮やかです。

p.153
ここまでの話の参考書をいくつかあげておきます。

本として一番完成したものは、石牟礼さんの『苦界浄土』

熊本大学で出しました『水俣病』という研究報告。表紙が赤いので、いわゆる赤本といわれているやつです。[…]なかは医学論文でして、しかも成功した例しか書いてありませんからあまりおすすめできません。

医学をやっている人が水俣病を勉強しようとするんだったら、やはり熊本医学会誌の原典の方をあたるべきだろうと思います。そこには成功した論文もあれば、失敗した論文もある。失敗した実験を成功だと書いてある論文もある。そういうことから、はじめて研究の実情を知ることができる。

p.154
手がるな本としては『公害の政治学』

私たちのペンネームだった富田八部編『水俣病』[…]なんでもかんでも集めたといっていい資料集です。これは熊本の告発する会が運動のためにとりあえず印刷した[…]新聞記事やなんかを、さがせるものは全部つっこんだというものがこれです。これはかつて『月刊合化』に連載されたものを、熊本の告発する会が裁判の必要上、そのぬき刷りを集めて印刷したという形でつくられた資料です。

p.155
水俣の市民会議と熊本の告発する会が中心になってつくった、住民運動によって書かれた報告があります。『水俣病にたいする企業の責任―――チッソの不法行為』という報告です。これはおそらく日本の公害反対住民運動[…]の書いたリポートとしては、最高のものの一つになると思います。[…]チッソという会社がどのような性格をもって[…]必然的になぜ水俣病を出したかということが、私の『公害の政治学』などよりは数段はっきりと深くつっこんで書かれています。[…]これは参考書としておそらくもっとも決定的な本だろうと思います。

p.166
われわれがチッソの一株券を買って株主総会で発言をしようとする提案が[1970年]8月から9月に入って具体化してまいりました。この一株運動という考え方の土台には、実は、今まで私たちが気付かなかった問題がいつくかあります。

一つは発言の場であります。[…]ここでは裁判と違って、弁護士まかせで、法廷には経営者が出ないというやり方ではすまない株主総会という、商法の一番基本になっている討論の場所があります。

サリドマイドの裁判がなぜ西ドイツで、会社側が百億円の和解を申し出る程弱気になったかというのは、西ドイツの法律ですとその主の裁判には必ず経営者が被告の席に座っていなければならない。[…]その間最高経営者が法廷に釘づけになる不利がある。[…]そこで一年あまりですが、法廷交渉の後に会社側が自分の不利を悟って示談を申し入れた、それが一億マルク渡すからこの辺で何とか示談にしてもらえないかという申出です。

p.167
報復の原理、そういったことについては法廷の中では語りようがないのです。

p.168
森永のヒ素ミルクの中毒の時に[…]これ以上会社を追求したら会社がつぶれてしまうという会社側の言い分に対して、被害者の一人はこう言ったそうです。「つぶれるんだったら私たちに経営を渡してください。絶対にヒ素の入らないミルクを作って、共同組合であれ、ほかのやり方であれ、ともかくそれで利益を上げて患者を養っていくから、経営をこっちに渡しなさい。」そう言ったそうです。

チッソがもうこれ以上とても付き合い切れないというのなら、チッソの経営を患者に渡しなさい。そうすればわれわれは水俣病を出さないでなにがしかの利益を上げて、そしてそこで患者と一緒に水俣の町で食っていく。そういうことをやろうとすればできないこともない。もちろんチッソがそういう条件を飲むはずもありませんけれども、しかし理念としてはそれはあり得る。

p.171
一株運動について  後藤孝典弁護士

水俣病の闘争で、今、一株運動ということが提起されて、全国的に告発する会を通して運動が進んでおります。8月の初期に提起されまして以来、約二ヶ月足らずの間に全国で5,000名の方がたが、チッソの一株券を持って、11月末の大坂で開かれる[…]株主総会へ出席しようとしているわけです。

p.173
この一株運動、一株を持つ人間は、デモンストレーションとして一株を持つわけではないし、田門ストレーションとして総会へ押しかけるわけではない。あるいは客観的に見ればそのような意味が付与されることはあるでしょうかれども、根幹においては、自分が敵であるチッソの前に直接に自分を置こうということだと思うわけです。

株はすでにそれを買ってしまえば、株主にとっては会社に対して何の義務を負うこともありません。手に入れるのはただ権利だけです。会社は一株主であれ、一万株、百万株の株主と違った取扱いをすることはできない。商法上の株主平等の大原則によって、そのような取扱いをすることはできない。[…]私たちは会社に向かってものを言う権利を取得します。

p.174
チッソという会社は1億5、644万株という株を発行しています。[…]そのうちの一枚ですね。ppm株≠ニいうんだそうです。

p.175
名義書替請求書をこれが終った後で用意しておきます。一株200円で買っていただきたい。[…]200円のうちだいたい80円ぐらいのものは最終的には、患者さん方の援助資金である苦界浄土基金に入れます。[…]これを持っていただくことによってあなた方はチッソの株主となります。今年(1970年)の11月の株主総会にはもう間に合いませんけれども、来年(1971年)の5月の株主総会には私たちはまた出掛けて行こうと思っています。その時に一緒に出掛けて行こうではありませんか。

p.175-6
総会において私たちはおどろおどろしきビンを抱えて、江頭社長に向かってですね、「このビンの中味を飲んでみろ」ということを是非とも言いたい。

p.176
その総会を私たち民衆のお祭りの場所に変えてしまいたい。お祭りは本来、民衆のものです。そのお祭りに集まることによって私たちはお互いに、お互いの、私たちの、いわば仲間がそこにいることを確認できると思うのです。一緒に闘う人間がそこにいることを確認できるだろう。その総会を通じての、言ってみれば株主総会祭りを通じての、相互の、この水俣病に対する闘うお互いを確かめ合うことによって、更なる次の闘争へと前進していきたいと思うのです。


■書評・紹介・言及




*作成:森下 直紀
UP:20081031 REV:20090406, 20100403, 0906
水俣・水俣病  ◇身体×世界:関連書籍 2005-  ◇BOOK
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