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『先端医療革命──その技術・思想・制度』

米本 昌平 19880425 中公新書,184p.


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米本 昌平 19880425 『先端医療革命──その技術・思想・制度』,中公新書, 184p. ISBN-10: 412100874X ISBN-13: 978-4121008749500 [amazon]  ※ b

■内容(「BOOK」データベースより)
脳死判定基準、臓器移植、遺伝子交換…。現代医学の技術的進歩によって、われわれは生と死に関わる人間倫理の根本を問われている。すでに欧米では、医学を 超え、法学、神学、哲学などが加わった論議が熱く交されているにもかかわらず、日本ではこの問題への取組みは立遅れている。それはなぜか。そして文化とし ての医療を確立するために、われわれが選ばねばならぬ行動規範は何なのか。いま最もラディカルな問題を真向から論ずる。

■著者について
1946年(昭和21年)、名古屋に生れる。1972年、京都大学理学部卒業。証券会社に勤務しながら科学史研究を続け、1976年より三菱化成生命研究 所に入所、現在、主任研究員。(奥付より)

■目次
第一章 七〇年代アメリカ医療思想革命 3
 一 医療の現代化 7
  疾病構造の変化 医の倫理の変動 患者の権利 死を設計する権利
 二 ニクソンの科学政策 16
  狭まった医学のフロンティア バイオエシックスの対象
 三 アメリカ特有の政治構造 20
  法制度の柔軟性と危険性 多文化並立型社会

第二章 脳死と心臓移植 25
 一 〈死〉の定義 26
  ハーバード大学脳死基準 ユダヤ=キリスト教的価値観 日本の脳死基準 臓器移植のための倫理的ガイドライン
 ニ 和田心臓移植事件 41
 概要 批判 告発 問題点
 三 哲学・法学・医学の相互乗り入れ 49
  医者=患者の権限の平等性 心臓移植のコスト ドナー・カード メディケアの対象へ

第三章 優生社会への危険とは何か 61
 一 出生前診断と倫理 62
  遺伝病スクリーニング 鎌型血球病スクリーニングが生んだもの 羊水穿刺と中絶 理念と解釈 日本と欧米の根本的差異
 二 ナチズムの医療政策 77
  ナチズム=パラダイム 義務としての健康 現代との類似性
 三 健康強迫を超えて 84
  人間的消費としての医療 病気とつきあうということ

第四章 倫理委員会とは何か 89
 一 ガイドライン=委員会制度の確立 90
  二ユルンベルク・コード タスキギー事件 IRB制度の確立 プロフェッショナル・エシックスの言語化
 二 病院内倫理委員会の普及 101
  カレン裁判 ベビー・ドウ規制 生と死のマニュアル化?
 三 日本の倫理委員会の現状 105
  〈人体実験〉というタブー 徳島大学医学部の認識 求められる医療行為の品質管理 組合的統制社会という趨勢

第五章 胚と胎児をめぐって 117
 一 胎児の地位問題 118
  あい次ぐ規制法 五年間のモラトリアム 家族観のゆらぎ 州法による違い
 二 欧州諸国の意欲 131
  西ドイツの場合 オーストラリアのウォーラー報告 国家規制に向うイギリス
 三 胎児をどう捉えるか 138
  胎児とわれわれの関係 科学的事実と哲学的意味 DNAと人格性

第六章 先端医療の社会受容 151
 一 医の論理と法の論理 152
  医療、神学、法学 「エイズ予防法案」批判への疑問
 二 武見体制の残響 159
  専門職能集団の擁護者 武見思想が許容しなかったもの 武見以後の権力 長期武見体制によって失われたもの
 三 二つの意思決定 168
  『脳死・臓器移植に関する最終報告』 批判のあり方
 四 現代医療と文化 175
  われわれの行動規範 思想と制度の革命

あとがき 183


<以下、引用>
第一章 七〇年代アメリカ医療思想革命
P4-6
 すこしまえまで、こと医学と医療に関するかぎり、科学技術が切り拓く世界はすべて良いもの、という確信があった。それが、体外受精や臓器移植という、一 群の新しい医療技術が本格的に社会に導入される段になって、これらを真の意味での治療技術とみなすか否かという、それまではあまりされてこなかった、ひど く基本的な議論がまき起ってきた。しかしここには、もう少し深い問題が横たわっているようにみえる。つまり、もしかすると自分は、大病院の一室でチューブ やモニターだらけにされ、親しい者と最期の別れを交わすこともないまま孤独のうちに死んでいくのではないかと予感し、密かにこれに嫌悪を抱いている人たち が、この先端医療の是非論の中に同質の問題意識を感じとり、議論に参加しているのではないか、ということである。
(略)
 先端医療の社会受容という問題に、最も近くに位置するのは、バイオエシックスという学問領域であろう。ただし、数年まえ『バイオエシックス』(講談社現 代新書)という小著をあらわした者として、あらかじめお断りしておきたいことがある。それは、私はバイオエシックスの研究者ではあってもその唱導者ではな い、ということである。あの小著を書いたときの書き手の意識としては、バイオエシックスとは実に混沌とした概念であった。なぜならそれは、接近のし方に よって、遺伝子組換え実験を規制する立場であったり、医者=患者関係を哲学者が論じるところであったり、先端医療の社会受容を考える学問であったり、市民 参加によって個々の医療政策に修正を加えていく運動であったりする、変幻きわまりないものであったからである。
(略)
こと医学に関しては、アメリカとの比較は、結果的に日本の医学への痛烈な批判とならざるをえないようなのである。
 最近、私がますます確信を深めていることは、日本の医学界は、七〇年代のアメリカが体験してきた医療をめぐる思想の革命的とも言うべき大転換を過小評価 している、ということである。患者の自己決定権、インフォームド・コンセント(充分な情報を与えられたうえでの患者の承諾)、自然死(natural death)、バイオエシックスなどという考え方はすべて、この時期のアメリカで確立されたものであり、みな共鳴関係にある。

P7-8
 ところで、この疾病構造の変化は、実は文明がある発展段階を超すとかならず体験することになる、より基本的な変動を、医療の側から光をあててみているゆ えの特徴である可能性がたかい。つまり、順位は別として、ガン・心臓血管病・卒中が、死因の一位、二位、三位を占めるようになった国をもって、先進国と呼 んでまずまちがいないのである。そしてそのような国は、とっくに多産多死から少産少死へと移っており、自動的に老人大国である。しかもそのような国は、脱 工業化社会であり、消費社会、情報化社会、ソフト化社会……を実現させている。そのような社会は、資本財のレベルでみれば、基幹産業がつねに操業短縮を 行っている、供給力過剰の社会である。そのためつねに消費を掘り起していなければならず、それゆえにこそソフト部門がどんどん肥大していく。しかも、八○ 年代に入ってはっきりしてきたことは、食糧もまた世界的には供給力過剰であることである。
 これまでの老人大国論の多くは、非生産人口である老人の比率が増えれば経済活力が低下する、という危機意識を前提にしていた。しかし、このような供給力 過剰社会は消費先導型社会である。そしてこの事実に立脚するかぎり、老人人口の増大は経済的にみて必ずしもマイナス要因ではないのである。老人大国論に関 連してよく論じられるのは、肥大する医療費とその配分という医療経済的な問題である。しかし、老人大国=脱工業化社会=生産力過剰社会=消費先導型社会、 という現代文明の基本メカニズムが未解明であるかぎり、やがてくる老人大国への対策として、いまのうちから医療費削減に力を入れるべきだ、とする論理には アプリオリに乗るわけにはいかない。ほんらい医療は、最も人間的な消費であるはずだからである。

P10
 かりにこの時点で、治療方針の決定権を患者側に手渡してしまうとすると、患者は、受ける医療の内容を自ら設計し選択することになる。この性格をもう少し 徹底させると、患者側が発注者となり、医療の側が受注者になる。医療の現代化と潜在的には不可分であるこのような思考枠の変化を、いちはやく明確にし、苦 闘しながらもこれを全面的に医療の基本思想の中に組み込み、これに対応した制度を創り出そうと努力したのが七〇年代のアメリカであった。それは医者=患者 関係を包んでいた政治的空間の組換えであり、もはや明らかに革命であった。

p20
 欧米の倫理学者からみると、日本で先端医療の倫理問題の名のもとに語られているもののほとんどは技術的解説であり、倫理は「倫理的な検討が不可欠であ る」という結びの常套文句としてしか存在しないことになる。欧米の文脈の中での倫理とは、何らかの倫理体系に照し合せて事柄の是非善悪を論理的に詰めるこ とである。この倫理体系は、多くの人にとってはキリスト教信仰であり、倫理学者にとってはキリスト教との緊張関係の中から生れ、共生関係を続けてきた倫理 学の体系である。

P24
 このような七〇年代アメリカにおける動向と、現在の日本とを比べてみれば、その違いは決定的である。体外受精を行おうとしている産婦人科医が、不妊患者 を救うためという善意から出発していることは、いちおうは認めてもよい。しかし、日本の医学界を一つのものとしてみると、七〇年代のアメリカがヘトヘトに なってとり組んできた倫理問題に正面から出あうのを回避しながら、先端医療のうちで研究者にとって興味をそそる部分、つまり体外受精と臓器移植だけを、患 者という弱者の要望におもねりながらつまみ食いしている図柄が浮かび上がってくる。しかしこの構図をもってただちに、アメリカがいかにすばらしく、日本が どれほど遅れているかという議論に進むのはいま少し思い止ってみたい。日本という国に住むことを運命づけられているわれわれが、いまどこにおり、これから どうすべきかを見定めるためにも、じっくり日本とアメリカとを比較してみたうえで論をすすめても遅くはない、と思うからである。


第二章 脳死と心臓移植
p32-33
 ここで繰り返し強調しておきたいのは、欧米でこの種の議論を行っている人たちの視野には、ユダヤ=キリスト教的諸価値という、世界的にみれば一部地域の 世界観しか頭に入ってこないことである。これまでに、脳死と宗教との関係を論じた論文で宗教とみなされているものが、さきの西欧三大宗教でしかないことを 示す証拠はいくらでも挙げることができる。世界三大宗教の一つであるイスラム教が遺体解剖を許さないために、サウジアラビアでは、生体腎移植がほそぼそと 行われているにすぎず、金持は欧米に死体腎移植を受けにいっている事実(Transplantation Proceeding, Vol. 18, Suppl. 2, 10, 1986)。あるいは、日本の仏教が、人間の死や肉体に関する体系的論理化を行わず、かえってこれを凡庸な屁理屈とする傾向が強く、ユダヤ=キリスト教が 社会的に担っているような、体系的でかつ論理的な判断規範を提示するという役割は引き受けられないこと、などにはいっさい言及しない。これまでのこの種の 論考をあえて否定的に評価してみると、それらは、文化人類学的には無学できわめて不充分なものであ.つたということになる。つまり、ユダヤ=キリスト教圏 以外の文化に生きる人間が、脳死や臓器移植に直面した場合の研究については、まだ何も手がつけられていない、と言ってよいのである。
 逆の言い方をすれば、医学を含めた近代科学とユダヤ=キリスト教的諸価値とは、今日に至るまでの長い歴史をとおして、濃厚な共生関係を続けてきているの である。医学を含めた自然科学の体系、西欧における死生観・身体観を含む広義の世界観、ユダヤ=キリスト教の教義体系、の三つは、これまでの歴史の中で相 互に影響しあい調整をしつづけてきた。その意味で、現代医学が西欧文明の出自である以上、現在の脳死論や臓器移植の議論の基本構造が、.ユダヤ=キリスト 教の教義と整合的であるのは当然のこととも言いうるのである。

p35-36
 もう一点言及しておきたいのは、八七年十月に日本学術会議が公表した、『脳死に関する見解──医療技術と人間の生命特別委員会報告』に関してである。そ のエッセンスとみなしてよい、「全脳の機能が不可逆的に喪失した状態と定義される脳死は、医学的にみて個体の死を意味する」という一文に対してどこからも 異論が出なかったことである。これまでの議論に沿って言えば、人間の死が何たるかを決めるのは医学の領分ではない。それは、文化的、哲学的、宗教的な意味 づけとして外側から与えられるものである。医学が科学であることを自認するかぎり科学的価値中立性を守りきらなければならない。ここで医学がすべきこと は、〈死と信じられているもの〉を確認するための生理学的指標を操作主義的に定義し、これを観測することで〈死と信じられているもの〉の到来の客観性を保 証する役回りに徹することである。要するに、これまでの死の三兆候説(呼吸停止、心拍停止、瞳孔散大)も、文字どおり死の兆候なのであり、死そのものの定 義ではない。この意味において、〈脳死は医学的には死である〉というのは本来空文である。唯一意味をもつとすれば、〈医学的〉という言葉自体が〈欧米的な 哲学的世界を共有する〉という強制力と特権をもつことを承諾したときである。なぜなら欧米世界では、脳死概念と哲学的諸価値とのすり合わせが済んでいるか らである。しかしそれはとりも直さず、いやしくも〈知識人の国会〉である日本学術会議が、暗黙のうちに、医学的という言葉を権威主義に用いたことでもある のである。
 脳死は医学的には死である、という主張を信じているらしい人が案外多いので、執拗に論じておく。脳死を人の死と認めることは、人間存在もしくは人格(正 確には後述する人格性personhood)を脳という一器官に投影し、同一視することを意味する。いちおうこれは認めることにしよう。しかしここにある のは、人格がどこにあるかという、人格の局在性追求の姿勢である。だが一方で、現在の脳死論は全脳の機能停止を強調する。つまり全脳死論とは、人格の脳局 在説であると同時に全脳分散説でもある。一見、当然のことのようにみえるが、これは、現実には実行可能な脳内部に向けての人格の局在性の追求は停止するこ とを意味する。これは明らかに、脳幹のみで生きている重い植物状態にある人間を生者とみなすための広義の政治的配慮であり、このかぎりにおいて脳死概念は 暫定的かつ便宜的なものなのである。

P48-49
和田心臓移植事件のあと、日本のある医学者は、「外国の心臓移植は、患者の死という医学的な疑問から反省期にはいった。一例だけの日本では、メスをにぎっ た和田教授に対する人道上の疑惑から反省期がスタートした」(『朝日新聞』七〇年九月三日付)とつぶやいたが、その反省期の内容はまるで違っていた。アメ リカでは、学会や政府がガイドライン作りに乗り出し、臓器移植一般を実験的医療と位置づけ、人体実験の制度と手続きの網をかけはじめた。インフォームド・ コンセントをとることがとくに強調されるようになり、結果的にこれが医療行為一般にも浸透してゆくことになった。そして、これを監視するための組織であ る、倫理委員会のネットワークもしだいに完成していった(第四章参照)。
 これに対して和田心臓移植は、日本の医学界をただ萎縮させただけに終わった。医学界のゴッドファーザー武見太郎日本医師会会長は、厚生省医道審議会で和 田心臓移植を問題にして以降、〈臓器移植は医療として邪道〉とする内科医的意見を口にするようになった。六八年に勃発した大学紛争も、大学医学部の萎縮に 拍車をかけた。七〇年代を通して日本の大学医学部は何も変わらず、何も変えようとしなかった。そして八○年代、先端医療がつぎつぎと実用化され始めると、 日本の医学界は、何が欠けているかを自覚しないまま、おずおずとさまざまなアドバルーンを上げ始めているのである。

P54
 この言葉は、ドナー・カードが運転免許証と同じ大きさに作られている事情を、あからさまに物語っている。つまり、頻繁な臓器移植手術は、多数の事故死 者、とくに大量の交通事故と銃火器の事故という、きわめて先進国的な社会的危険と背中合わせではじめて成立する、変則的な医療なのであり、当然のことなが ら、このような医療は、事故死者の数を超えては拡大しえない。そして実際、八六年にはアメリカにおける心臓移植件数は一五〇〇件を超え、またたくまに上限 に達してしまった。

p55
アメリカの年間交通事故死者は、四万二〇〇〇人にのぼる。これに対して日本の場合は九〇〇〇人であり、もともと臓器の物理的供給源は小さい。これをもっ て、移植には不適な社会というのは明らかに本末転倒であり、日本がそれだけ安全な社会であることの証拠なのである。

P58-59
 こうした、場合によっては非難の対象ともなりうる促進要因があるアメリカと、国民皆保険が確立し、まがりなりにも平等な医療が保証されている日本の臓器 移植件数を並べて、「だから日本は遅れている」とか「日本には愛他精神がない」とする言説が当をえていないのは明らかであろう。もし、心臓移植をアメリカ なみに近づけようとするのであれば、(かりに東京や大阪などにおける、監察医による心臓停止後の死亡診断書作成の問題が解決できたとして)つぎのような光 景を甘んじて受容しなければならない。ある若者がオートバイ事故で脳死状態におちいった。突然の事故で、若者の両親は集中治療室のかたわらで混乱の極みに ある。その両親に向かって、脳死状態になったことを告げ、そのうえで、世の中の流れはこうだからと心臓摘出についての同意をとりつけることになる。これだ けの精神的負担を日本の社会が引きうける覚悟ができたうえではじめて、臓器移植は通常の治療技術となりうるのである。


第三章 優生社会への危険とは何か
p66-67
<国家鎌型血球病コントロール法(1972)とそれに続く鎌型血球病スクリーニング法(1974)について>
 こういう場合、陥りやすい誤りは、まったくの善意からとはいえ、感染症の時代に国や自治体に認められていた強権と同じようなものを発動することを、当然 のものと確信してしまうことである。たとえばいま、わが国の伝染病予防法によって定められている、十一種の法定伝染病の名前をすべて挙げられる人はまずい まい。しかし、不幸にして海外からの帰国者がこのような病気にかかっていることがわかれば、本人の意思とは関係なく、ただちに強制的に隔離病棟に入れられ てしまう。国民の生命財産を守るという論理で、この分野はかつては医療警察の領域であった。この場合、国家が罪を犯していない人を拘束できるとされる理屈 は、その感染力が強くしかも他人に感染させる期間が短いために社会防衛との衡量から、感染者の自由を一時的に制限できる、というものである。慢性疾患の時 代になったいま、そしてまたエイズ対策で混乱を招かないためにも、病気のコントロールと予防の意味を再吟味しておく必要がある。

p70-71
これに対する七〇年代アメリカの結論は、中絶はやはり倫理的には容認できないが、胎児に重篤な先天異常がみつかった場合、これはいたし方ない、というもの であった。このような見解は、七〇年代に中絶自由化を実現させた先進諸国に共通のものであり、そのためこれらの国の中絶法には、中絶できる理由として、胎 児に重篤な先天異常がみつかった場合という、いわゆる胎児条項が入っている。
 さまざまな異論が出ながらも、こうした結論に落ち着いた要因は二つ考えられる。一つは医学的理由、とくに七〇年代における技術の発達である。羊水穿刺 は、当初これによる流産率の高さが問題にされたのだが、七九年にNIH(米国立衛生研究所)は、その安全性と正確さという点でこの技術が実用技術としても 確立したことを認めた。そしてこの検査の適用範囲の目安を、「妊婦が三五歳以上であること(三〇代末以降の出産は染色体異常の危険がややたかまる)、すで に染色体異常の子供がいるか、夫婦もしくは近親者に染色体異常の人間がいること、夫婦のどちらかが遺伝病遺伝子をもっている可能性があること」とした。ま た、七〇年代のDNA研究が進展し、研究対象の中心がウイルスや大腸菌から高等動物に移ってきたことによって、胎児診断が可能な遺伝病の目録は急増してい る。とくに、七六年の国家遺伝病法で、鎌型血球病・血友病・地中海性貧血・テイ=ザクス病・ハンチントン舞踏病の研究に優先権が認められたため、遺伝子治 療という名目で、これらの遺伝病に関するDNA研究が飛躍的に進んだ。そして、アメリカをはじめとする先進諸国の基本姿勢は、ここから生れた技術を先天異 常に対する予防手段として積極的に用いようというものである。

p71-73
 もう一点、視野に入れておかなければならないのは、広義の哲学的要因である。先天異常への大規模な予防手段の導入に対しては、当然のことながら、優生学 的社会への懸念や障害者の事前抹殺であるという反対意見も根強く存在した。しかしそれがさまざまな異論の一つとしてしか機能しなかった根底には、要約する と、二つの哲学が横たわっているようにみえる。心身二元論と、世俗的(secular)・現世中心的世界観である。
 歴史的にみると、欧米精神世界は、ナチズムのような遺伝決定論的人間観を否定する回路を、心身二元論への回帰に求めたようにみえる。たとえば、一九五〇 年にユネスコがおこなった「人種に関する声明」である。ここで、「肉体的形質と精神的特質との関連を示す客観的証拠は一切ない」という表現で人種の平等性 を主張した。この根底には、時代錯誤となるがゆえに明示できなかった伝統的な心身二元論がある。しかし、こうして伝統的な生命観を思いおこすことによっ て、欧米における障害者問題は、差別の質が陽性になったようにみえる。つまり、肉体的特徴や欠陥が人格とは全く別物であることが改めて強調された(この点 で「黒人やヒスパニックがおおぜいおって……」という八六年の中曾根発言はきわめて異様に映る)半面、精神の入れ物である肉体についての改良や事前選別に は、むしろ積極的になりえたのではないか、と思われる。
 そしてとりわけアメリカの論調は、現世主義的世界観が強いようにみえる。ニクソン時代の政策をみても、こうして先天異常の予防に力を入れる一方で、いっ たんこの世に生れてきた障害者に対しては、法律によって平等性を確保しようとしている。

p74-77
原則として中絶は認められないが胎児に異常がみつかった場合は例外と認めうるという欧米諸国と、・中絶一般は必要悪として認めるが選択的中絶を嫌う日本と は、価値基準が完全に交差する。そして、諸外国が中絶に対する日本の態度を非合理的だと非難するところは、この点なのである。生理学的にみても、人間では かなり頻繁に流産、それも生理の遅れという程度の自覚しかない初期流産の割合が多く、これらの過程で異常胚の選別が行われているため、選択的中絶をもって 不自然だとする非難は当らない、とする見解をとる研究者もいる。
 わが国の場合でも調べてみると、羊水穿刺を容認するとする意見は意外と多い(たとえば、白井泰子『重篤な障害をもって生れてきた新生児の生命権に関する 基礎的研究』)。しかし、──この点が、日本の医学界は先端医療のうち自分たちの興味をそそる部分だけをつまみ食いしている、と私が考える理由なのだが一 医学界はこれを、社会が考えなけれぽならない重大問題として今日まで提示してこなかった。これはなぜであろうか。
 たぶん、その答えは、羊水穿刺による胎児診断を公的な次元で鼓舞することは優生学的社会への重大な第一歩であり、このような技術は障害者の事前抹殺の思 想を含んでおり、障害者は生れてきてはならないという考えを広めることになる、という障害者の立場からの反対論がきわめて強いからであろう。ここで優生学 とはなにかについては論じないが、国際比較の視点からすると、このような論理が日本の社会を圧倒しているのは、やはり妙な感じがする。少しでも詳しい医学 者がアメリカの実情を体系的に伝えることで、胎児診断の組織的導入がそのまま優生学的社会につながるとは限らないという点については、実物をもって示せた はずだからである。ここには、障害者差別につながるという論法自体にはどこか疑問を感じながらも、この見解を受け入れ胎児診断に関わる諸問題そのものを回 避してしまおうとする深層心理がある、と言わざるをえない。
 しかし、障害者の人たちがこのような切実な訴えを繰り返すのは、本当に殺意を感じているからでもあろう。それは外側の社会からだけではなく、もっとも親 しいはずの親からもいく度か無理心中の殺気を感じてきたからであろう。事実、日本ではサリドマイド児の死産率が異様にたかいのである(イギリスでの生存率 が八○%であるのに対して、日本のそれは二五%)。たぶん、われわれは、障害とは何かという哲学的問題を論じてこなさ過ぎたのであり、障害者は不幸である という、とんでもない思い上がりをまだ共有したままでいるのだと思う。
 視点をかえると、選択的中絶に対するこのような反対論を受容してしまう社会の側も、あるいは自分たちの社会は、その懸念通り残酷な社会ではないかと、密 かに思っているのかもしれない。だからこそ、胎児診断を表だって認めてしまうことが、直感的に、決定的な歯止めをはずしてしまうことと感じられ、この問題 をないこととすることで、心理的な面からの安全装置を構築しているのかもしれない。確かに、キリスト教やイスラム教社会のように言語化され体系化された規 範をもたない日本の社会にこそ、こういう直感的歯止めは必要であり、諸外国からは非合理とみえるこのような態度は、われわれの社会の知恵かもしれないので ある。ただ、問題があるとすれば、わが国の医学界がこれについて公開の場で議論をしてこなかったため、医療現場における適用条件やカウンセリングが全く不 統一であるという点であろう。
 しかし、以上のような考察で、胎児診断に対するわが国における拒絶が説明しきれたとは思えない。たとえば、心臓奇形などを起しやすい風疹がはやっただけ で産科が一杯になるという現実、また、アメリカではあらゆる遺伝病スクリーニングが同時に論じられたのに、日本ではことの良し悪しは別として、まともな議 論がほとんどないまま新生児スクリーニングだけは非常によく普及したという事実がある。これは、中絶は目をつぶってやってしまうものであり、前世と現世の 中間に浮かんでいる胎児の状態を強引に覗きこんで、それを根拠に中絶することのほうを、むしろしてはならないことと、われわれの社会が信じていることの証 拠ではないのだろうか。

p78-79
このナチズム=パラダイム論こそ、ナチズムという猛毒を扱うための概念装置である。つまりこれこそ、その全体としての悪意を常に喚起し、ナチズムは悪い面 もあったが良い面も多々あったという解釈を許さないための〈毒物取り扱い装置〉と私は考えるのであるが、ここでは詳論しない。ただ、一言だけつけ加えてお けば、パラダイムという科学史上の概念を適用することによって、ナチズムの科学至上主義的な面を強調できるという点である。そしてその科学至上主義の核 は、物理学ではなく、生物学至上主義であった。

p81-82
 ここまで述べてくればもう明らかだと思うのだが、現代社会とナチズムとの類似性は、その優生政策よりは、超医療管理体制のほうなのである。つまり、医療 の現代化が完了した社会はすべて、好むと好まざるとに関わらず制度的にナチズムに似てきてしまうのであり、それは具体的には、出生から死に至るまでの人生 の要所要所でさまざまなチェックを受け、予防的健康管理を受ける社会のことなのである。

p84
 ナチズムを論ずるとき、われわれが視野に入れるべきは一九三〇年代と現在との類似性と同時に、その異質性、とくに経済の水準とその意味である。

P85-86
 先進国がそろって医療費削減に向かっているいま、わが国の国民皆保険制度が、あらゆる人間に平等な医療サービスを提供するという目的ばかりではなく、わ れわれの心の安寧を保つためにも、どれほど理想的なものであるか、再確認したほうがよい。日本の場合、医療費は名実ともに公共財でありうるのであり、それ ゆえにこそ医療資源の最適配分の問題もなお理念的な次元に留まりうるのであって、一人数千万円の医療費の国庫負担を妥当と思うか、という設問を立てなくて 済んでいるのである。これを不経済と言わせたいのなら、人跡もまばらな山奥に林道を造りすぎて自然破壊に輪をかけることのほうを問題にすべきであろう。か りに、わが国で人工透析装置が急速に普及した理由が純医学的なものではなかったとしても、その結果、限られた装置で透析を受ける人間の順番をどう決めるか という、きつい選択をせずにすむようになった。見方を変えれば、われわれは、深刻な倫理問題に直面することを嫌い、そこに金を投入してしまうことで心の落 ち着きを得るような、そういう心理構造をもっているらしいのである。個々の医療の経済効率を問題にせざるをえないアメリカ流のバイオエシックスを、必ずし も自明のものと受け取る必要はないのである。

p86-88
 ナチ体験との対比でもう一つ言えば、健康への強迫という貧者の発想から、病気を楽しんでしまう意識へとイデオロギーの転換を企てるべきだ、ということで ある。慢性疾患の時代は、それ自体、個人の生活にとっても社会体制としても、医療化(medicalization)への契機を強くもっている。これが避 けられないこととすれば、健康強迫にかられたナチス式の超医療管理国家への道をころがり落ちるか、別の道をたどるかは、病気や障害への態度いかんにかかっ ている。それは経済水準とは別個の、哲学的態度によることになる。そしてその哲学内容こそ、現代医療を飼いならすのか、われわれの側が現代医療の管理の対 象になってしまうか、の境目ではないのか。
 われわれは、どのみちどこかに障害があらわれながら老人になる。つまり、何らかの障害をもつ人こそ、これをいかに克服し、精神的安定を保つかについての 人生の先達と考えるべきである。かつて、われわれの社会も非常に残酷であった。柳田国男の『遠野物語』に、子が奇形であったために川に捨てにいく話があ る。このように捨てられた異形の子供たちの世界が河童だというのだ。「上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。確なる証とてはなけれ ど、身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌わしければ棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、 ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという」(第五六話)
 しかし一方で、われわれは、七福人の福禄寿や"福助"(江戸時代に長寿で死んだ実在の人物で、身長二尺、大頭の小人で、これが幸いして恵まれた生涯を 送ったことからこの姿を模して縁起人形とした)の思想をもっている。異形の体は、それゆえに差別の対象となることが多々あったが、しかしこれは、奇なるが ゆえに、めったにない福の兆しであり、聖なるものであり、障害を引き受けて生きる智者である、という考え方である。老いへの恐怖は、若さを保持することに のみ異様に価値を置き、〈老成〉という言葉をもたない世界の観念である可能性がたかい。愚痴を言いつつも病気にうんちくを傾け、病気を楽しんでしまう世 界、これこそ、われわれが昔から慣れ親しんできた懐かしい社会だったのではないのか。あの竹林の七賢は、持病談義のあい間に哲学を論じていたに違いない。 中国料理でいう医食同源とは、生活することと医療が同じであることであり、健康と病気の境目が判然としない東洋医学はこのような文脈のなかで語られたので はないか。こう思いめぐらせてくると、なにかしらつきものが落ちたように、これまでの健康強迫にかられた議論が、貧しかった時代の発想のうえの論議でしか なかった、と観念できるのである。
 じじばばだらけの社会、こんなヒューマンな社会はない。じじばば社会、早くこい。


第四章 倫理委員会とは何か
p90
 一九七四年七月、アメリカ連邦議会は、国家研究規制法(National Research Act)を可決した。これは、科学研究における人体実験の被験者の保護を目的とした初めての法律であり、内容的には、各研究機関にIRBの設置を義務づけ たものである。しかし今日からみると、これによって、被験者の人権擁護の名の下に、それまで不可侵と信じられていた研究の自由という聖域に、国家による法 規制のくさびが打ち込まれた、重要事件であったことになる。

P97
 一般にガイドラインによる規制は、@ガイドラインそれ自体、Aこれを作成し適宜見直しを行う中央委員会、B個々の実験計画をガイドラインに当てはめて審 議する各研究機関の委員会(local committee)、の三つの要素からなっている。いまこれを〈ガイドライン=委員会体制〉と呼ぶことにするが、この体制は、人体実験規制の政策形成の 中で形造られてきた、七〇年代のアメリカ社会の制度的発明と言ってよい。

p104-105
 さらに、この事件にたたみかけるように、八三年三月に発表された大統領倫理委員会報告(全十六分冊)の一冊、『生命維持装置の停止の決定』が、ドウ事件 類似のケースが生じた場合には病院内審査委員会を設けることを勧めていたため、これ以降アメリカでは、終末医療や出生における限界的ケースについては、病 院内倫理委員会に助言を求める方式が急速に普及した。
最近では、"生死に関わることを近親者と担当医だけで決めるのはアナクロニズム"という発言がでるまでになってきており、こと生死に関わる判断については “個人の倫理から委員会の倫理へ”という傾向が鮮明になってきている。
 生と死のマニュアル化?
 これをもう少し一般化して言えば、一個の人格としての自由意思によるものと信じられてきた倫理的判断を、いわば"社会化"することであり、これは、七〇 年代初めの権限の平準化と並ぶ、医療思想の重大な変化と考えるべきであろう。ある面で、これは確かに"進歩"ではあるが、しかし、必ずしも好ましいことば かりではない。治療方針決定の場が、ベッドサイドからカンファレンス・ルームに移ることで、現場の緊張感が希薄になり、皮肉にも、限界的なケースを多く学 んだ“バイオエシックス”の専門家ほど、本来悩むべき場で悩まず、やすやすと優等生的な答えを出しすぎる、という声すら出るまでになっている。これは、あ る意味で、生や死への対処のマニュアル化への批判であり、医療現場における原理の専制(tyranny of principle)という表現すら出はじめている。
 またこれを政治学的にみると、医療における限界的問題の構造を論理的に詰めていった果てにみえてきたのは、人命の保護という法律の形をとった国家として の究極目的〔スイッチを切れば殺人罪〕と、個人の権利〔過剰な延命治療の拒否〕との衡量ということである。法による強制でもなく、かといって個人の裁量の 全面的な容認でもない、ガイドラインと委員会による間接的規制は、その妥協の産物と言ってよい。

p105-106
まずもって諸外国とわが国とが決定的に異なるのは〈人体実験〉というものに対する態度である。この違いの発端の一つは、第二次世界大戦中に行われた不法な 人体実験に対する姿勢の違いにまでさかのぼる。たとえばドイツでは、先端医療の倫理問題の発生に合わせるように、ナチス医学に対する大規模な実証研究と再 度の反省が始まっている。この転換点は、八○年にドイツ医学会が、それまでのタブーを破ってナチス医学を正面から取り組み、大シンポジウムを開いたことで ある。これ以降、西ドイツにおけるナチス医学の研究は、質量ともに水準が一気にぬりかえられた。ところが日本の場合は、アメリカが旧七三一部隊の人体実験 を戦争犯罪として不問としたことも重なり、いまだに医学研究においては人体実験という言葉すら嫌う傾向が強い。このような事情も、日本ではIRB制度がな お未発達であることの遠因の一つである。

p107-108
 ともかく、こうしてわが国は、これら凄惨な行為を直視し、ニュルンベルク・コードの意味を考え、深く反省する契機を奪われてきている。その上、八〇年以 降ドイツ医学界がナチス医学を冷静に分析しようと試みたり、あるいはアメリカがタスキギー事件をきっかけにIRB制度の確立に努力するような、反省への自 発的な意欲を、わが国は欠いているように見える。このことは、本来は医学研究のいずれかの段階で不可避のはずの人体実験(human experimentation)を、わが国の医学界が、あたかもやってはならないことのような文脈で語り、この言葉自体を嫌悪することに反映していると 見てよい。そしてこれらの事情がおり重なって、医の倫理の問題への取組みを、恐ろしく不得手にしているのだと思われる。

P111
なるほど日本においても、体外受精に関する産婦人科学会のガイドライン、日本移植学会のガイドライン、日本医師会生命倫理懇談会の見解など、一見、ガイド ライン相当のものは存在する。しかし現実には、いずれもが本来のガイドラインとしての実効性を保証されえないのは、いずれもが名実ともに"医学界全体の権 威と責任において"社会に向けて提示されたものではないからであろう。

P112-113
日本の医師には強大な権限が与えられている。だが、それだけのものを社会から委嘱された職能団体に見合った、〈生産物〉に対する品質保証のための努力が必 要であるという意識におそろしく乏しい。医療における権限は個々の医師、とりわけ医学部においては主任教授に集中している。学会は、お互いの体面を保つ場 ではあっても、自分たちの行為の内容を律し縛るようなガイドラインはきわめて決めにくく、できたとしても、ひどく常識的で一般的なものに落ち着きやすい。 そして、この職能集団としての統御能力と求心力の無さが、ガイドラインの設定とそれを実施に移す場合の致命的な障害となっている。歴史はもとには戻らな い。日本の医療は、その“生産物”である医療行為の品質管理が行われる体制へと変わらなければならない。医学界全体によって認知されたガイドラインが定ま り、その遵守を職能団体の責任において保証する監視体制、すなわちガイドライン=委員会体制が、是が非でも整えられなければならないのである。
 さらには、他先進国では普通のことになっている、職能団体の責任において治療行為一般の品質管理を行う方向へ進むべきであろう。たとえば、病院で行われ ている、無作為に取り出したカルテの検討会議(monitoring conference)、摘出された臓器や組織標本を検討する組織委員会(tissue committee)、手術を行うか否かの判断の際に別の医師に意見を求めること(second opinion)。このようなシステムもまたアメリカで発達した。その背景には、頻繁な医事訴訟への対処のためという一面や、不必要な医療を抑えるという 意図もあるのだが、しかし、その基本にあるのは職能団体としての品質管理への強い意志である。
 医師は、いま進行中の社会変動や政治的変化に鈍感すぎると思う。個人に権威が体現され、体面を重んずるわが国の医学界は、医師が別の医師によってチェッ クを受けることを、最初は耐え難いことと感じるかも知れない。しかしこの程度の血なら流してでも自ら変ろうとしないかぎり、職能団体としての自律性は、外 から崩されていくだろう。国鉄やコメが置かれている状態をその十年前の誰が想像しただろう。ある日突然、一片の通達や医療臨調のようなものによって、外か ら強引に変えられてしまうシナリオは充分にある。

P114
 私の言いたいことは単純である。アメリカなみに臓器移植をと言うのであれば、アメリカなみの品質管理体制を整えよ、ということに尽きる。それに、医療行 為の品質管理を求める要因は、他にもいくつか出てきている。たとえば、医療の現代化によって医者=患者関係は一対一対応ではなくなり、チーム化する。その ため複数の医師、看護婦、検査技師、薬剤師、心理療法士などが一つの治療に関わるようになるからである。アメリカではもうかなり以前から、医師に特権的な 地位を与えるような呼び方はやめ、医療従事者(medical practitionor)という包括的な表現を使い始めている。もう一つ、実は意外に大きな要因は、医療のコンピュータ化である。これまでは、保険点数 や請求書計算の領域でコンピュータ化が進んできたのだが、これは必然的に診療記録の保管、膨大な医学データの処理、医療情報の検索へと向かう。これは、プ ロフェッションとしての経験の共有という方向性をより促進する装置でもある。ところが、異った専門領域の間での用語の統一性や整合性がなかったり、個々の 医師の記録のつけ方や思想がバラバラであるために、この分野でのコンピュータ化は遅々としている。最新のコンピュータ・システムを導入したのに、これがほ とんど機能していない機関が現実に存在するのである。


第五章 胚と胎児をめぐって
P134-136
<西ドイツのベンダ報告(1985)、胚保護法審議草案(1986)について>
世界的にみると、人間のクローンやキメラ作成の試みの危険性をかくも切迫したものとして受けとる例は稀であり、ましてや実刑を定めた法案までを作ってしま う例は他にはない。このような試みの危険性については、たとえばほぼ同じころ発表された欧州会議や生物医科学専門家会議(CAHBI)の報告をみても、生 殖技術に関連して注意しなければならない問題の一つとしてわずかに言及するのが普通である。この胚保護法案から受ける異様な暗さは、この種の問題に対する ドイツの真摯な取り組みという称賛を通りこして、その背後に、そのような試みすら切迫したものと観念してしまうドイツ特有の精神的履歴、すなわちナチ体験 があるのではないか、と考えざるをえないものである。

p138
 こうして、胚研究の規制問題にかぎってみても、通常の先進国では、政府の依頼にもとづいて、医学界とその関連領域の専門家が包括報告を積み上げ、その中 から基本方針を絞り込んでゆく政策決定法が常態化しつつある。ところが日本だけは、包括的な議論も、独自の委員会報告も、機能的監視組織をも育てあげない ままの、異様な空白状態になおある。この見方に対しては、あるいは、わが国でも産婦人科学会が八二年八月にガイドラインを発表しているではないか、とする 反論があがるかもしれない。だがこれは、当該学会が定めた、最低限の指針でしかない。この問題に関して、わが国に本当に欠けているものは何か、という点に ついては、つぎの最終章で論じようと思う。しかし、こうして国際比較の文脈のなかで読み直してみると、この短い産婦人科学会のガイドラインの中にすら、い くつか問題が含まれているのがわかる。たとえば「(体外受精の)被実施者は、合法的に結婚している夫婦とし、非配偶者間では行わないこと」という一文は、 もはや他先進国では全く通用しない。一般に現在の諸外国の公文書や勧告丈では、法的に夫婦であるか否かを問わない〈カップル〉という表現しか用いない。こ の日本のガイドラインの表現から透けて見えることをあえて言えば、ともかくまず無難なかたちの自主規制枠を設けて実績を作ってしまおうとする意図と、そし てこの目的のためには、学会自身が古臭い社会規範の守護者として登場する選択肢を躊躇なく選んでしまう、卑屈な精神なのである。

P149-150
当面、解読の対象となっている遺伝子は、フェニールケトン尿症、鎌型血球病、血友病、筋ジストロフィーなどに関連する遺伝子が多い。この研究が進めば、当 然、胎児診断の感度が上がり、診断によってクロとでた場合の中絶問題がでてくる。つまり、どの部分のDNAから解読するのかという優先順位をつける作業の 中に、すでに治療のためにという目的意識が入っているがゆえに、研究者は、研究そのものだけではなく、このプロジェクトが潜在的にかかえる倫理問題に無関 心でいてよいはずはない。
 それに、かつてあれほど問題になった、人格性とDNAとの関係という問題はどうなったのであろう。もしかりに、DNAには人間性のかなりの部分が投影さ れているとする旧来の見解に立つのであれば、DNAの解読は重大なプライバシーの侵害につながることになる。反対に、人間のDNAの解読は、かつて禁じら れていた人体の解剖と同じという思想にたつのであれば、このプロジェクトは哲学的危機をもたらさないばかりか、遺伝子治療は単なる人体の部品交換と同じ意 味になり、その基本問題の大半が消滅してしまうことになりかねない。そしてこれはたちまちのうちに遺伝子治療から〈遺伝子強化〉や〈遺伝子整形〉へとずれ 込み、病気と健康の概念の再定義問題を引き起す可能性がある。この問題は、旧来の良識にとってはかなりやっかいである。なぜなら、これまで良心的知識人が もっていた、人間の遺伝決定論を批判し、人権を擁護するという規範が解体させられてしまうようにみえるからである。つまり、DNA決定論を批判し、人格の 発生学的後成説に立つと、それゆえに人間の遺伝的改良に関して寛容である立場に連なり、逆に、倫理的・政治的配慮からDNAの防護を力説すると、DNA一 元論やDNA決定論というフェティシズムに転落してしまう危険がみえてくるからである。


第六章 先端医療の社会受容
P151
 では、この日本に住むわれわれは、先端医療とその社会受容の問題をどうとらえたらよいのだろう。この問題を考えるとき、七〇年代初頭のアメリカで、医療 を中心とした三つの専門職能集団の間、すなわち医療と神学、医療と法律の境界で融合反応が起ったことは、繰り返し強調しておいたほうがよいだろう。

P159-160
 比較医療政策史の観点からいっても、四半世紀(一九五七―八二年)にわたる間、武見太郎が日本医師会長の座にあったことの意味は、たぶんアメリカ保健教 育福祉省長官数人分の重みがある。この意味で、武見太郎の業績の客観的評価はぜひともしなければならないことの一つである。武見の最大の業績の一つは、世 界に冠たる国民皆保険制度を確立させたことであろう。逆に負の業績の一つは、医療のことは医師にしかわからないという“医療の専門性の不可侵”という強烈 な意識を社会にうえつけたことである。これによって、実質上、医療の問題を医学部卒以外の人間が取り組むことが排除されてきた。

P164
 実は、これは重大な問題を含んでいる。日本の医学と医療は、技術的には確実に最先進諸国と同列の水準にある。しかし、そのような水準にある職能集団が、 当然具備しているべき組織と機能を追ってみると、ひどく矮小な対応物しか見あたらない。それは武見体制の裏返しの残響なのであり、この中でどのような制度 的発達が抑え込まれてきたのかをまず知る必要がある。逆にいえば、われわれはあまりに有能なゴッドファーザーの存在に慣れ、この孤高の権威に主要問題を決 めてもらうという、安逸な道をとり続けてきたのである。体外受精にしろ臓器移植にしろ、おずおずと観測気球があがるのは、武見引退直後の八三年あたりから である。

P165-168
 制度論的にみたとき、職能集団としての日本の医学界がかかえる未発達部分は、二つある。第一は、真の意味での〈ガイドライン=委員会体制〉が機能してい ないことである。この制度のそもそもの出自は、医学者集団をコントロールしようとする社会の側からの圧力と、その自律性と独立性を維持しようとする内側か らの力との妥協の産物として発案されたものである。しかし最近になって、それは医療行為に関する自主的な品質管理(quality control)の体制であり、このような体制を保持しているからこそこれとの見合いで、職能集団としての権威と自律性を社会に向けて主張する正当性をも つ、とする解釈が広まりつつある。これは、ネオ・コーポラティズムという政治学的な解釈をとるのではなく、この制度を現代社会における一つの必然的なるも のとして認める、機能主義的立場といってよい。
 日本の医学界は、このような先進国型の、ガイドライン=委員会体制を完成させた職能集団ではない。つまり、職能集団全体の責任において医療行為のスタン ダードを討議し、ガイドラインとして決定する中央組織は存在しないし、その遵守を保証する医師の間での相互チェックの慣行はない。産業界におけるQC運動 への異様な熱気とはあまりにも対照的である。アメリカにおいて医療サービスへのアクセスの不平等といえば、所得格差に起因するものであったが、日本の場合 は、医師の裁量権が異常に大きいために、個々の医師の信念によって提供を受ける治療内容が極端にバラつく、という不平等が生じる。この、スタンダードを固 めるということは、つぎの二つの面からも重要である。第一に、医療費の抑制の下で真に必要な医療はなにかを明らかにする必要が出てきつつあること。第二 に、現在の医療は大局的には表面的な華やかさとは裏腹に、慢性疾患に対する技術的対応が上限に達してしまい、可能なことと可能ではないこととがはっきりし てきてしまっており、医療のマニュアル化が進んでいることである。これを軸に診断と治療を行えばよく、これからの医師に一番要求されるのは医療現場におけ る危機管理能力になるのかもしれない。日本の医学界の前現代性のもう一面は、職能集団それ自体として不法行為に対する自浄作用が弱いことであり、〈医療不 信〉という表現は、武見時代に増長しすぎた一部医師のイメージから生れた、屈曲したステレオタイプなのではないのか。
 第二の欠落部分は、医療のあり方そのものを研究対象とするポストがほとんどないこと、そしてそのための人材供給の態勢も無きに等しい点である。この課題 については、武見自身が一手に取り組んだのであり、医療を対象とした境界領域の研究講座を設けることなど、想像もつかない状態が長くあった。その結果、人 材の育成はなお遮断されたままにある。武見体制とは、いわば一九六〇年代型の専門家支配を固定化したものであった。
 この意味するところは深刻である。今後わが国が急速に老人大国化し、医療費が膨張してゆくのは必至である。個人生活においても社会政策の面でも〈医療 化〉(medicalization)への傾斜が必然のようにみえているとき、これを研究対象とする人材が、日本では決定的に不足しているということであ るからである。医療費の膨張は世界共通の課題であり、他先進国では野心的な社会科学者がこれに取り組んでいるのに、日本ではいまだに武見の桐喝がこだまし ているらしい。
 現時点の問題の一つは、武見体制の裏返しの結果として、医療行政の現業官庁でもあり企画官庁でもある厚生省が、同時に、医療問題に関するわが国唯一最大 のシンクタンクとなっている点である。医療問題を扱う社会科学者はしばしば、その情報収集能力の差を前に、端から厚生省に対して敗北感を抱いている場合が ある。科学社会学的な表現を用いれば、現在の厚生省は、その権威の一部の源を、専門論文読解能力(academic literacy)と専門情報の収集力のギャップで得ている可能性があり、もしそれが正しいとすると、日本の医療は、知識官僚支配 (intellecracy 〔intellectus+cracy〕)とでもいう状態になっていると考えられる。だが、いかに日本の官僚が優秀であっても、官僚である限り必然的に省 益という動機からは逃れられない。ここに本当の意味でのチェック・アンド・バランスがかかるためには、この外側、たとえばアカデミズム内部に、今後一段と 巨大な予算を飲み込んでいくはずの厚生省の政策全体を、冷静な目で継続的に研究・観察するセクションを確保することである。ともかく、医療全体のウォッ チャーの部門が一つもない現状は異常である。

P170
 これは、〈かりにアメリカなみの臓器移植を行うとしたらどの程度の問題を生じるか〉という視点から本格的な社会学的検討を試みてこなかったことの証拠で もある。もう理由は述べてきたことで明らかであるが、臓器移植に関するわが国の情報は、移植技術と一部の法的問題にかたよりすぎている。臓器移植を推進し ようとする医学者はしばしば、「アメリカでは心臓移植が八六年で千数百件行われているのに、日本は大幅に"遅れ"ている」と表現する。しかし、これは手術 件数の単純な比較であり、一種のレトリックでしかない。本当にこれを導入するというのであれば、日本という土壌に大規模な移植社会を出現させた場合、どの ような光景がくり広げられるのかについての、具体的イメージを描いてみせる必要がある。この具体的イメージが示されさえすれば、現在の漠たる不安のかなり は解消するのかもしれないのである。

P172-175
 ここには、医療問題ばかりではなく、現在の批判のあり方一般の欠陥が如実にでている。現代の困難の一つは、理想としての社会主義が完全に崩壊してしまっ たいま、もっとも弱い立場にある人間を救済する政治的イデオロギーと情熱をどこに求めるか、ということであろう。政治学の分野で常識化していることは、今 世紀前半が憎悪とデマゴギーの時代であったのに対して、とくに近年、融和と調整の時代に入ってきたことである。イデオロギーの終焉にともなう、この政治空 間の緊張緩和は、本来喜ぶべきことなのかもしれない。しかしそれは同時に、きわめて理念的な枠組を共有した戦後的言説が成立しなくなり、大状況的な枠組か ら社会現象を解釈してみせていた批判勢力としての大学が凋落し、戦後知識人が退場したことを意味する。ただその後になっても、医療のような特殊領域におい ては、なお体制と反体制という解釈図式が慣用され、攻撃的な場合には全ての医師の行為に悪意を見、退行的な場合には強度の被害者意識にかられたコメントを つけるのが常態化している。しかも救われないのは、それが全くの善意から出ていることである。
 経済の分野で、一九二九年の大恐慌が負のシナリオとして常に頭にあるように、医療の限界的問題を語るとき、ナチ体験が、決してなってはならない反面教師 として厳としてあるのは完全に正しい。しかし、八○年以降、西ドイツが、ナチス医療政策の大規摸な実証研究を開始したのに比べると、わが国のナチス認識は なお戯画化されワンパターン化されたものでしかなく、たとえば、全体主義社会、超医療管理国家、ヒットラー主義(Hitlerisums)、ユダヤ人の大 量虐殺、優生学という歴史学的概念や実態を正確に把握したうえのこととはとても思えない。むしろ、戯画化されたナチズム像との類似点を必死になって摘発 し、ファッショだ! ヒットラーだ! 危険だ! という警句を発することこそが知識人の役割だと信じきってきた。このような悪しき歴史のアナロジーは、諸 外国の歴史学的成果をフォローしてこなかったという意味で、知識人の知的怠慢の結果である。
 断っておくが、私は、優生学の擁護者ではない。むしろ問題意識は、このような実効性の極度に薄い〈科学的提案〉がなぜかくもまじめに実行されてしまった のか、というところにある。日本の場合、〈疑似優生学的問題〉と呼んでもよい、胎児診断やDNA診断技術の是非に関しては、たぶん公開の場で議論するには 心理的にきつい問題であり、医療の側が、現場での対応のガイドラインの一部として、抱え込んでほしいと思う。
 だが、ここには別の問題が残る。日本では、たとえば行政が先天異常の予防策として胎児診断の計画を推進したり、中絶を行う目的に胎児に重篤な先天異常が あると判明した場合も可能なよう法改正を試みる(胎児条項の追加)と、強烈な反対に出あう。その根拠は、そもそもこのような提案は障害者は生れてきてはな らないという思想を含んでおり、優生政策と同一であるという確信である。しかし本当は、この反対論拠は、アメリカにおける胎児診断政策や、ナチスの直接の 体験国である西ドイツの医療政策を体系的に紹介することで、簡単に覆えされてしまう。だとすると、日本の社会が、表向きこのような論理を受認しているに は、何か別の理由がなくてはならない。
 このような因子を明確にする必要があるのは、八○年代に入って、これまでに各国が作ってきた種々のガイドラインを、国際間で調整し統合しようとする動き が鮮明になってきたからである。とくに近年、先進国は二極化の方向、すなわち北米(アメリカ、カナダ、もしくはオーストラリアを入れた旧英連邦)と、欧州 会議(The Counsil of Europe)諸国の間で、各国内のさまざまな規制を統一化することを考えてきている。これが、八三年のウィリアムズバーグで開かれた先進国主脳会議で、 当時の中曾根首相が〈生命科学とこれに関わる諸技術の社会的・哲学的問題について国際的に討議する必要がある〉という提案が受け入れられた本当の理由で あった。これによって始まった「生命科学と人間の会議」は、第一回の箱根会議で総論を行った後、二回目以降、各主催国は実務的な各論を取り上げ、国際レベ ルでの具体的な調整を目ざしてきた。すなわち、八五年のフランスでは出生前診断が、八六年の西ドイツでは神経科学研究における倫理問題が、また八七年のカ ナダでは医学研究における被験者の問題が論じられ、八八年のイタリアでは人間のDNA研究についての倫理問題が取り上げられようとしている。この分野の研 究の蓄積がない日本は、一般論でしか加われないのは当然なのだが、なぜかガイドラインの統一化については常に強固に反対しており、各国の不興を買いつつあ る。技術が普遍的であるならば、基本部分はこれを制御する制度や倫理綱領も普遍性を併せもつはずであり、提唱国である日本が、この世界的合意への努力に水 をさすことは非難されてしかるべきである。

P175-177
 胎児診断を含む先端医療について、日本は明らかに拒絶的である。「日本は、日常の便益に関わるあらゆる科学技術については、驚くべき勢いで無節操なほど 受け入れ、洗練させ、製品に仕立てて他先進国に逆流すらさせているのに、なぜ先端医療に限っては、こうも拒絶的なのか」。これは、アメリカから日本の先端 医療の現状を調べにきた若い研究者が、最初にもらしたことばである。技術受容の、この著しい二極分化をどう解釈したらよいのだろう。(略)つまり、価値中 立的と主張されてきた自然科学も、文化的価値体系、とくにその核をなす生命観・死生観・身体観・家族観・セックス観などから決して自由ではありえず、この ような諸価値と密接に関係する医学や医療は、その影響をとくに強く受けているはずなのである。(略)しかし考えてみると、本来、文化とただちに正面衝突す るはずであった医学が、終始、普遍性を装い通してきたのは、医学の本性をはるかに逸脱して日本の医学が自然科学的たらんことを希求してきたこと、そしてそ れゆえ技術に偏向してきたことの証左でもある。このことは逆に、医学と医療を徹頭徹尾相対化し、文化の文脈に奪回して解釈し直すことは、現代に残された最 大の知的フロンティアであることを意識すべきであろう。

P177-178
 では、その文化的体系とはどのようなものなのであろうか。乱暴にいってしまえば、日本の場合、ユダヤ=キリスト教やイスラム教文化圏のように、言語化さ れ体系化された経典のようなものとしての行動規範をもたない。われわれの行動を実際に律するものは、言説としてわれわれとは独立に在るのではなく、人びと の行動が、あるかたちに自ずと集約されてしまうようなものとして存在する(このあり方をみごとに表現しているのが橋爪大三郎氏のtogetherness の概念である:『仏教の言説戦略』勁草書房)。キリスト教のような形態の宗教をもって宗教とし、西欧的文脈における倫理をもって倫理とみなすかぎり、これ と同等の機能的対応物をわれわれは持たなかったのであり、これが、諸外国でもそうしているからという単純な発想だけで、日本で医学者と仏教者と倫理学者と を呼び集めても、そのような場からは、表面的には目立った成果があがってこなかったことの本当の理由である。
 われわれが共有している行動規範は、三重構造になっているようにみえる。その表層には、去年と今年の行動が違っているのがすぐ自覚できるような、たとえ ば流行語や若者の風俗のようなものがある。その下層には、十年、二十年の単位でゆっくり変る家族の役割やセックス・モラルなどがある。たとえば現在の高校 生のセックス・モラルとその親が高校生であったころのそれはまったく違ってきている。そしてそのさらに下層には、生や死への思いのように、世代から世代へ と受け継がれ、世紀単位の大きな時間の隔たりをもってはじめて、その変遷が意識されるような死生観や身体観や遺骸観がある。そしてそれは治療方針に関する 意思決定の場で、繰り返し出会っているはずのものなのである。
 斎藤茂男著『生命かがやく日のために』(共同通信社)は、八三年秋に、共同通信社から配信された記事の集成である。これは、重度の障害をもったダウン症 候群の新生児に治療停止の決定が下された具体例を著者が知り、これを出生の時点での選別的抹殺として、強い危機意識から書いたものである。いずれこれと本 格的に比較してみたいのが、ほぼ同時にアメリカで起った、酷似のベビー・ドウ事件である。治療方針の決定の中でも、とくに判断のむつかしい限界的ケースで は、その危機的状況によって医療を包む意味空間の特性が、増幅されるからである。

P179-181
 今日では、この意思決定機能を病院内倫理委員会が引き受ける方向にあるのだが、ここに日本の伝統的な構造を重ねてみるとどうなるか。日本の場合、妊娠・ 出産・子育てが一連の通過儀礼によって意味づけられたプロセスになっており、このそれぞれの段階で、その胎児や新生児がどう扱われるべきかが、次第に固 まっていくことになる。これに対して現代の先進国型の文脈では、ほんらい市民の規定である人権や人格を胎児の側に延長し、自然の中にこれに該当するという 意味付与ができる段差を求め、その瞬間を人間の発生とみなそうとする。この場合、〈人間〉とはあくまで自立した近代的個人であり、権利主体として意思決定 する存在である。そして、新生児のように自ら意思表示ができないものの意思については、親や後見人が代理をするという虚構をたてることになる。やはりこの 二者の違いは大きい。
 どうも、〈患者の権利論〉は、自立した個人が病気の王国の住人になったとたん、子供のように扱われることになるのにがまんできない、とする心情の反映の ようにみえる。日本の場合、事情は少し違うようにみえる。表面的には同じ過度の延命治療を拒否する行為でありながら、自己決定権によって自然死を選択する のと、〈最後のわがまま〉としてこれを周囲に認めさせるのとでは、両者はよほど異った意味空間の中で死んでゆくことになる。本人の自己決定ではなくわがま まを認めさせる人間は、周囲との間に共有された、ある〈かたち〉にものごとの進行がゆだねられることを、暗黙のうちに期待している。この場合の〈かたち〉 とは、超越論的な倫理体系と照合するという手続きをとらないものであり、われわれの文脈のなかでは〈作法〉に相当する。われわれは、この作法というやや感 覚的な意味あいをもつ、旧いと思われてきた基準をもう一度見直す必要があるようである。これを、改めて自覚的に作り上げてみることが、結果的には倫理的に も最適の解答をもとめることに近づくことになる、という予定調和的な楽観論に、いったんのってもよいのではないかと思う。そして、この〈かたち〉をさまざ まな分野から批判的に検討することが、欧米での倫理的議論に相当することになるのだと思う。
 われわれが現在の議論に漠たる不安と不満を抱いているのは、この医療を支配する意味空間のかたちをつかまえようとする理性的な努力を、まだ本当には始め ていないからなのであろう。それは医療のありさまを分析することであり、医の論理や医療構造の解明を企てることである。実は、医療構造論という表現は、は からずも独立に、大阪大学医療技術短大の長谷川利典教授と坂上正道北里大学病院長の口から出た言葉である。たぶんいま必要なのは、医療構造学もしくは〈医 の倫理学〉を研究するための組織をもつことであろう。

p181
現在のありさまはといえば、われわれは、対症療法としての現代医療は無限定に受け入れてきたのであるが、先端医療という名の現代医療が、生と死という文化 的にもっとも変りにくい部分を操作の対象にしだしたとたん、これとの間に不調和現象を生じたということになる。先端医療の出現によって引き金が引かれた、 医療における思想と制度の革命的変化に気づかないふりをしていたわれわれは、八○年代に入って、心の準備がほとんどないまま強制的に態度決定を迫られ、途 方にくれている。アメリカが〈バイオエシックス〉の名でここ二十年近く取り組んできた課題群に、われわれはこれから別のかたちでとり組み、解答を是が非で もみつけなくてはならない位置にいる。


*作成:植村 要
UP:2000 REV:2002, 20071007
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