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『大地に伏す――精神障害者の求道記』

菅原ぺて呂 19880320 柏樹社,239p.

last update:20130713

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■菅原ぺて呂 19880320 『大地に伏す――精神障害者の求道記』,柏樹社,239p. ISBN-10: 4826301928 ISBN-13: 978-4826301923 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ m.

■引用

 「大地に伏す

 ある日のことです。当時、光の家での入浴は、光の家に大きな浴場があって、寮生、職貝共に、週二回でしたか、三回でしたか、曜日が決められて入っておりましたが、比較的入浴の好きな私は、この光の家での入浴日とは別に、日中の仕事が終わると、夕方からよく一人で街の銭湯に出かけ、お風呂に入りに行っておりました。
 そんなある日のこと、いつものように、タオルと石ケンをもって街に出ました。光の家のそばには富士電機製造(株)の東京工場があります。その広い敷地の北側の多摩平団地のはずれに、T湯という銭湯がありました。そこがいっも入浴に行くお風呂屋さんです。その日も、道々”いったい自分は精神病者なんだろうか”と、相変わらず堂々めぐりと知りながら、どうにも仕様のない思いの中で、考えに考えを重ねていたようでした。帰り道に、富士電機の東側の塀ぞいを歩いている頃は、もうすっかりと日は碁れてしまいました。街灯の少ないこの辺りは、人の通ることも少ない場所です。塀の尽きたところで右に曲ると、富士電機の正門の方に行くのですが、大通りになるこの辺りはも、やはりこの時間となると、真暗でほとんど人通りもなくなっています。うつむき加減にずっと歩いてきたのですが、突然でした。”私は精神病者なんだ””そうだ、精神病者である。今、それを肯う。これを認めよう。いや、認めなければならない”という思いが、全身な貫いたのです。<0233<しかも、この思いを、宇宙を覆う神さまの御前で、ひれ伏すような息いで受け取ったのでした。
 事実、このとき、富士電機の塀ぞいの暗い夜道にしゃがみ込んてしまいました。涙はとめどもなくほとばしり出てきます。”私は精神病者なんだ。そうだ、それを認めよう”。このことを、何度も自分に言い聞かせるようにして確認しました。幸い周囲には誰もいませんでした。この異様な状況に、不審な眼を向ける者が誰一人いなかったことは、本当に感謝でした。一人、しゃがみ込んて泣きました。
 しかし、このときです。実に不思議なことが起きました。天が開けるようにして、暗間の天空から声があったのです。「わが言にきけ、わが言にきけ」と言うではありませんか。確かな音声です。私は夢中になって、じっとこの言葉に耳をすましました。疑うことのできない音声です。本当に全身を傾けるようにして、この言葉に聞き入りました。そうしますと、この「わが言にきけ」の声は、何度も何度も反復されながら、次第に遠く天空に消えていったのでナ。
 ふたたび、光の家への帰路の夜道に立ちました。しかし、実に不思議な思いに満たされていましした。「私は精神病者である」という自認と、「わが言にきけ」の呼びかけが、互いに呼応して、言い知れぬ平安に満たされていきました。
 ”そうだ、私は精神病者であってよいのだ。そしてさらに、もしこの世に真の健康があるとすれば、それはただ、主においてのみあるのだ。私たちは、ただその言葉に聞けばよいのだ。真の健康<0234<とは、この言葉に聞くことにおいてのみある”。これは、この日の夜道にはっぎりと示された一大事実でした。
 あの声が、いわゆる幻聴であったのかどうか、私には分かりません。ただ、しかしこのようにして示されたこの内容だけは、今後どのような事態になっても徴動だもしないであろうと思います。
 この日以後、私の精神病者としての道は決定されたと言ってよいと思います。この日以後、少なくとも私自身が精神病者であるのかどうか、どうか、という点についてだけは、もう迷うことがなくなったことは確かです。そして、私の場合、私が使うこの精神病者という言葉の意味内容も、もしかすると、いわゆる精神病理学的な意味での精神病者を指しているのではないかちしれませんが、しかし、少なくとも私がこの言葉を使うとき、自分の異常体験を踏まえて、自分の存在を内側から見た私自身を指しています。
 やはり、一度精神医療の対象となった私自身が、この精神病者という言葉の中に包み込まれていることは確かです。そして、今の私が、社会的にみて、あるいは医学的にみて、精神病者であるのかどうかを越えて、私は、神さまの前に一人の精神病者であることを肯わざるをえません。ただ、もし、このように言うことが許されますならば、イエスさまという聖なるお方の御生命をいただていることにおいて、真の健康が、すでにわがものとして与えられているということです。これは、どこまでも私自身が健康であるというのではなくて、病んている存在そのものが、すでに聖なるお<0235<方の御生命の中に贖われて、生かされているということなのです。病者の真に癒される希望は、ただ、この主の御生命においてのみある、ということを知らされたのです。
 この後、さまざまのことに出会いました。ほぼ十年後には、純然たる病者、病歴者が連絡し合うことによって、全国的な連絡機関である「友の会(精神障害者)」も生まれました。この友の会は、全国で百数十万人といわれる精神障害者全体からみれば、本当に一握りの少数者の連なりです。しかし、友の会が生まれてからこの十年余の間に、世の心ある人たちの認めるところとなりまして、友の会の編集による『鉄格子の中から』と『精神障害者解放への歩み』という二冊の本も出版されました。これらの根底にあるものの一つに、自らを精神病者と認めることによって始まった歩みのあったことは確かでしょう。少なくとも、私の場合、パウロが自らを罪人のかしら(テモテへの第一の手紙一・一五)と言わざるを得なかったと同じような思い(このように言うことをお許しください)をもって、自らを精神病者として肯わざるなえないのです。パウロの言う「罪人」と私にみえる「精神病者」とが、オーバーラップしているのです。
 そして、この精神病者も、パウロと共に、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ人への手紙・七・二四、二五)と言いうる感謝に満たされています。」(本文末尾)


UP:20130804 REV:
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