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『脳性マヒ者と生きる――大仏空の生涯』

岡村 青 19880331 三一書房,210p.


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■岡村 青 19880331 『脳性マヒ者と生きる――大仏空の生涯』,三一書房,210p. ISBN-10: 4380882179 ISBN-13: 978-4380882173 1470 [amazon] ※ cp

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■目次

序章 CPの彼方へ

第一章 「県南障害者の会」結成
第二章 深く、さらに深く
第三章 「青い芝」の芽吹き
第四章 胎動からやがて――
第五章 模索、そして転換期
第六章 途上にて
第七章 解放区「マハ・ラバ村」へ
第八章 絶望からの叫び
第九章 己の地獄を見極めよ

終章 自立への新たな出発


■引用

 「聖書の御言葉にちなんで西欧ではイースター(復活祭)といえば、ちょうど日本の正月の行事のように三日間の休日をとり、教会へ行って神聖な祈りをなささげ、そのあとで人々は街頭にくり出し陽気に祝うのが長年の習慣になっている。
 […]つぎつぎと礼拝におとずれる信者達で聖堂は厳かなうちにもどこか浮き立つような、華やいだ雰囲気が醸しだされていた。
 聖書にかかれた御言葉の一節を細いべンでしっかりと書きうつしてきたものや、あるいはそこに可憐な草花や樹木の絵を描いたり、お気に入りの色紙にまるくつつんでは、信者どおしがそのゆでタマゴ<0051<をそれぞれ交換し合い、大袈裟な身振りをまじえてほめたりけなしたりしながら、いっとき弾んだ笑い声があたりをざわめかさせていた。
 川島は、数人の信者達のなかにまじってやはりゆでタマゴのやりとりなどなしていたひとりの男性に目を止めていた。
 一メートル七十五以上はあったろうか。肩幅が広く、ニの腕の力瘤がもっくりと隆起していかにも屈強そうな体格だった。それがそのまま男の精悍さをよく表わしていた。その男を見るのは初めてではなかった。以前から顔は合わせていたし名前も「大仏空(おさらぎあきら)」と知っていた。笑うと鼻すじに小じわができ、それがまた人なつっこさを誘発させるのだが、色白でどことなく神経質そうな眼差しがイソテリゲンチャにありがちな近づき難さを大仏にも与えていたため、川島は声を掛けたくてもつい気おくれしてしまい、そのまま掛けそびれていたのである。
 大仏は信者達と輪になってさかんに談笑していた。
 空襲が日増しに激化してきた東京での生活をたたみ、母親と姉二人の四人で茨城の寒村に疎開してくると学校もそれまでの仏教系の中学から旧制土浦中学に転校した。けれどそれも授業料の滞納や単位不足がかさみ、結局三年の進級を目前にして退学を余儀なくされた。
 そのころからである、大仏が教会にたぴたび顔を出すようになったのは。まだ、土浦カトリック教会が「大国」に仮り住まいをしていた当時からだから、「土浦カトリック教会」のなかでは、大仏はいわぱ古顔の信者だった。<0052<
 クリスマスというと自分の家の裏山に生えている背たけほどのモミの木を切り、それを自転車の荷台にくくりっけてきては片道十二、三キロはゆうにある土浦の教会まではこび、はこぶだけではない、雪をかたどった白い綿やイルミネーツョンの飾りつけの段取りまで一切やってしまう。そういう気さくな一面を持ってている彼には親しみを感じる信者も少なくなく、「大仏さん、大仏さん」と結構人気者だった。信者達は熱っぼく話す大仏の、その「救世軍」のはなしに耳をかたむけていた。
 […]<0053<
山室軍平が、「救世軍が、もし果して、この書(軍令及び軍律)に書いてあるような人間を造るために存在し、また、そういう目当てをもって活動する軍隊であるならぱ、将来、日本の民衆を救うべき宗教はこれでなくてはなるまい。わたしが多年、それと知らずに探していた生命の捨てどころは救世軍をおいてほかにない」といって、身を救世軍に投じる決心なしたのは明治二十九年一月であった。
 大仏の父晃雄は救世軍の大尉として谷中村の「鉱毒事件」支援に奔走したり、あるいは廃娼運動やセツルメント運動で北海道中を駈けまわり、戦時中には政府批判が「治安維持法」の嫌疑をうけ、ニ度も留置されるという骨太な人物であった。
 その父親に、大仏はいっも頭が上がらなかった。大仏が生涯持ちつづけていた反俗の精神も反骨の思想も実はみな父晃雄が持っていた信条であり、大仏はそれを受け継いだようなものだった。
 六歳の時にロべらしのためから寺に小僧としてあずけられ、やがて得度し、それと同時に養子となって宮本から姓な大仏にかえ、天台宗の住職を勤めるまでに晃雄はなった。
それをなぜ宗旨をふえ、還俗してまでキリスト教の神学校に入り、救世軍運動に飛ぴ込んでいったのか。
 後になって、ことあるたび、それは戒律だやれ行だという仏教の旧来の慣習に反発したかったからだと晃雄はもらしていたが、良きにつけ悪しきにつけ大仏に与えた父晃雄の思想的影響には絶大なものがあった。」([51-54])

 「昭和五年八月二十七日大仏空は生まれた。僧職の身からクリスチヤソに転じて救世軍に入隊した大仏晃雄は、隊員として北海道にわたり、セッツルメント運動や布教活動に従事し、各地を転戦してまわっていた。そのため、東京府荏原郡駒沢村大字上馬の留守をひとりで守る妻のまさ乃は、空とほか二人の姉ら三人の子供をかかえ、身につけていた和裁や茶道などの芸事をほそぼそとやりながら、生活をきりもりしていた。[…]<0101<
 […]折りからの不景気時代に、解雇と賃下げで切り抜けようとはかる使用者側とこれに正面から反対ナる労働者側との争議はいたるところで頻繁に発生し、件数、参加人負ともに過去最高を記録した前年な、昭和五年はさらに大きく塗りかえようとするほどの深刻さを垣していた。
 そうしたさ中、大仏晃雄は日本人百余人を殺害し、台湾台中州霧社で起こった「霧社事件」の、台肖島原住民高砂族の反日暴動に、
 「あれは、日本の軍国主義者らが原住民を奴隷のようにこき使ったためにくらったしっべ返しなんだ」<0102<
 と、持ち前の正義感から発した、殺りくを行った元原住民に理解をしめした言動が不穏当と当局側ににらまれ、「治安維持法」の嫌疑で品川警察署に逮捕されてしまった。
 かならずしもマルクス主義者ではなかったし、彼らが唱導する階級闘争というものにも否定的ですらあった。がそれでも晃雄はロツア革命の先駆者であったレーニンには深い尊敬の念をもっところがあった。そのため、大正十四年に公布され、昭和三年に改正された(さらに昭和十六年になるちとそれが大幅に改正される)、「治安維持法」にも歯に衣きせない痛烈な批判を浴びせていた。
 国体の変革、私有財産制度の否認ちしくは拒否を日的とする結社活動および個人的行為に対する罰則を定め、これに違反したものには極刑をもってこたえる、という「治安維持法」の本当のねらいは、言論思想の自由を剣奪するとともに、共産主義者達の封じ込めを目的とする抑圧策として制定されたものであったため、人権蹂躙もここへきて極まった、国家なるものの本性がはからずも暴露された、としきりに晃雄は嘆いた。
 そして晃雄はまたも、昭和十四年五月から九月にかけ中国東北地方の、外蒙古との国境に近いハルハ河畔で起こった日ソ両軍による国境紛争「ノモンハン事件」にも、ソ連びいきから日本側の出方を批難し、特高警察に引っばられていった。
 入獄と釈放を何度も繰り返す政治犯としての確たる信念はあったものの、妻のまさ乃にまかせきりで家庭をかえりみない、生活人としての資格には欠けたところがあった。その晃雄が、三人の子供達に教えてやれるものは、<0103<
「弱い者な貶んだり差別したりしてはいけない。たとえ肌の色や髪の毛の色がちがっていても人間はみな平等だし、同じ地球に住んでいる人間同士なんだ」
 という人間としての心得であった。とくに男の大仏には、弱者の側に立つ人問として育ってくれることな願って、いつもその点を強調していた。
 父親の影響を大きく受けながら、大仏はこうした家庭環境のなかで成長していった。それだけに社会に対する目醒めかたもはやく、早熟な子であった。
 戦争準備が着々とすすめられていくにしたがって、あらゆる結社、団体が足並をそろえるように大政翼賛会に組み込まれていった。もちろん「救世軍」も例外ではなかった。いや応なしに救世国という名に改称をせまられると、制服制帽から階級章やその他の用語萌まで、日本軍にまぎらわしい点はすべて改め、肉親以上に関係の深い米欧ともすんなりと断交し、なしくずしに軍部の意向に加担していった。
 そうした救世軍の無節操ぶりに愛想なつかした晃雄は、釈放されるともとの僧籍に復帰し、喧騒とした都会から離れて茨城県内各地の寺院をまわり、寺守りなどなしてレた。一時期逗留していた石岡の浄光寺から地元の人に乞われ、志筑の閑居山願成寺に住職として赴くようになったのは太平洋戦争も敗色がいよいよ濃くなってきた、昭和十九年の暮れちかくであった。」([101-104])

 「疎開してくるとすぐに大仏空はそれまで通っていた仏教系の学校から地元の土浦中学に転入したが、終戦直後の混乱状態が校内にもおよび、満足な授業などのぞめなかった。虚脱感と無気力がただようなかで授業料の滞納分だけが毎月かさみ、結局大仏は中途で土浦中学を退学してしまった。
 晃雄が閑居山の観光化を推しすすめている仕事を脇で手伝ったり、コネを得て社会党代議士の私設一秘書を受け持つようになったりもしたが、そうした仕事に大仏はいまひとつ満足しきれないものがあったから、長続きもしなかった。かといってきまった職業を身につけ、それで得た金で生業を立てていく、世問並という生活にも憧れは持てなかった。どこへもやり場のない、煩悶とした心をたえず抱えながら土木作業員やら荷役人夫をして稼いだいくばくかの金をふところに入れ、閑居山に出入りしていた上田を誘っては石司あたりの安宿を泊まりあるくことで憂さを晴らすしかなかった。」([109])

 「長年再興にかたむけた晃雄の執念は、閑居山が石岡史蹟巡りのなかに組まれ、「茨城百景」のひとつに加えられたことで実った。
 業績は業績として晃雄がやってきた一連の仕事をそれなりに評価はしていた。しかし、それは晃雄を一個の男として見た場合の評価であって、子から親を見る、というものではない。大仏は、そういう視点に立っと、どうしても父親の生き方には批判的にならざるを得なかった。上田あたりにいわせると、「それは少し点が辛いよ」ということになるのだろうが、父親を見るとき、大仏は辛辣だった。<0115<
 […]
 「髪や肌の色で人を差別してはいけない。弱い者にはいつでも手を差し延べられる人間になれ」
 父親の晃雄はいっもそういっていた。
 しかし、同じ差し延べかたにしても父親のは宗教者にありがちな啓蒙のかたちをとっている。いつの場合でも上から下へのやりかただ。そのうえ、差別や区別をするなといってはいても、付き合う相手は主としてインテリゲンチャや比較的富裕な者たちが多かった。
 無意識とはいえ、いや無意識だからこそそなおさらに大仏は許せなかった、父親のもっている選民怠識とそれに乗っかったエリート意識とが。
 大仏が、父親に抱いた不信感は、つのるにつれて近親憎悪に変貌していった。
 権勢や時流におもねることを良しとできない反骨精神も、あるいは人脈や財力をたのみとしない反権力指向も、もとはといえぱ父親の兄雄が教えてくれたものであった。しかし、父親と同じ轍は踏むまい、とそれだけは腹に据えていた。でなければ、<みずからを立たしめる地平とはいったいどこにあるのか>、それを問い糺し、模索しながら辿ってきた日々の意昧がうしなわれてしまう。放浪に明け暮れた日々も、農民のなかに分け入り、ひたすらオルグ活動に情熱を傾注した日々も、探しもとめていたものはただ、自分が立つ地平だけだった。」([117])

 19631002晃雄逝去

 「「悪人正機説」の確信

 <善人なおもて往生を遂ぐ。況んや悪人をや。しかる世を、世の人つねにいわく、「悪人なお往生す。いかに況んや善人なや」この条一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の趣意に背けり。そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力を頼む心欠けたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心を翻して他力を頼みたてまっれば、真実報土の往生を遂やるなり>
 大仏は「これは親鷲上人の説いた「悪人正機説である」といってひとりひとりに読ませ、それを夕食後に討論をくり返し、住人の「思想と自覚」を深めていった。
 大仏の思想性、価値観、世界観はそのままマハ・ラバ思想となり、障害者の血と肉とに化していつた。マハ・ラパ思想をひとことでいえぱ、社会の常識や通念を打破する異端の思想、絶望の思想といってよい。
 《悪人とは何ぞ、とまず親鸞上人は疑問を呈した。その結果、悪人とは往生の正因をもつ煩悩具足の人問、つまり日夜汗して働く勤労人民とみなした。ついで彼は往生とは何ぞと、教義の根幹にふれ<0188<る部分を敢えて問うた。往生とは往きて生まれる、すなわち安らかになる、解放されるということに気づいた。解放されるべき正因をもつ悪人こそ極楽往生できると主張した。
 彼の論理は、死後の奇跡や僥倖を諭した当時の宗教界にあって、それらに真っ向うから対立する生への宗教だった。あるがままの人間実在を正面から見据えた宗教だった。それが異端の宗教といわれる所以なのだ。
 善しとする行いをすれぱ善い結果があり、幸せにもなれると信じ、疑ぐってみる者などだれもいない。社会に役立つ人物たれと題命に動き、せっせと金を蓄え、よき家を築く。それが善きものの見本であり、今日の中流意譲を生んだ上台ともなっている。
 親鸞上人は「歎異抄」のなかでその偽善性をことごとくあばいてみせてくれた。悪人こそ人間の根本、本質なのだといって。
 悪人を罪人、穢多、長史、障害者の言葉に置きかえてみるがいい。障害者が置かれている位置、与えられている立場がそれでわかるはずだ。善人意識を与えることによって生まれる倒錯した幸福感。そしてそれを土台に戎り立つ国家・社会とは、九羽のうちから一羽のニワトリをスケープゴートとしてつつき出さなければ自からの優位性が保たれないのだ。逆にいえば、一羽がいるからこそ残り九羽の安寧と秩序が保たれる、というわけだ。
目己を凝視し、自己を内省し、自己に絶望し、そこから自己を主張ずればいい。叫ぶがいい。叫びは大いなるものほどいい。自己の本質がわからぬものになぜ敵の本質が見抜けようか。自分が脳性麻<189<痺者であると自覚してこそ、己れの煩悩の奥底にうごめく地獄を見極めてこそ、差別する者、貶む者の本質が判る。
 とするならば、何を嘆くことがあろう。脳性麻瘁者は脳性麻痺者に徹し、健全なる国家・社会、建全なる人間を問い返し、告発するがいい。脳性麻痺者というあるがままの、人間実在の姿をまずさらけ出すことからすべての変革ははじまるのだ》」([188-190])

■書評・紹介・言及


*作成:長谷川 唯
UP: 20090729 REV:20130516
青い芝の会  ◇脳性マヒ (Cerebral Palsy / CP)  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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