私は水俣に調査に行ったときに、旅館で「先生、お荷物を直しておきました」と言われて、すぐには意味がわかりませんでしたが、「元の場所に戻しておく」と「秩序ある状態に整理する」の二つの意味が込められた日常の言い同しだったのです。そのような「直り」として「治り」を捉え返すことで、医療現場が病院という特殊な場だけでなぐ社会全体に広がっていき、また「治癒」のイメージも変わっていきます。
石川憲彦は、「直り」からさらに一歩踏み込んで「居直り」とも言っていますが、私は最近、「居座る(sit-in)」ことを提言しています。デモをやらないにしても、せめて座り込め。居座ったらどうだ。私たちの原点は、一九六〇年六月一五日に国会構内に突っ込んだことです。社会党や共産党の議員団は、「(間接)民主主義を守れ」と言って、大一なを襷を掛けて議員会館の玄関などに並び手を振り陳情書を受け取る整然たるデモをよしとしました。言い得て妙、<0276<「お焼香デモ」です。議事堂はおろか議事堂構内まで神聖なところとされ、人々がゆえなく入るような場所じゃない。試みれば固める機動隊とぷつかって死者が出るだろう。そんな「民主主義」があるか、冗談じゃないと言って、若気の至りでもありますが、突っ込んだのです。やはり、死者が出ました。樺美智子です。
べトナム戦争の頃、座り込むのではなくて寝そべって死んだふりをする「ダイ−イン(die-in)」が流行りました。「シット−イン」は、派手なパフオーマンスをするわけではなく、守りの姿勢ではあります。バリケードに閉じこもるのも、「グリーフ・ケア(grief care)でずっとそばにいることも「シット−イン」です。医療の極め付けは、「そこに居ること」だと思っています。言葉をかけなくてもいい、黙ってそこにいればいいのです。医者が「治療と化す」(to become himself the treatment)〔ウォルシュ・マクダーモットが古来からの医戒として引用。『セシル内科学 第16版』原著一九ハニ年。小坂樹徳、高久史麿監訳、医学書院サウンダース、一九八五年、第一巻、xxxiii頁、参照〕という表現がありますが、医者が末期の患者のそばに、手を握ることもなくただ座りつづけることです。それはグリーフ・ケアの極意でもあります。石川憲彦の言う「居直り」も、「居」に「シット−イン」が含まれています。
そのように「居直り」の境地に達した石川憲彦から見ると、古典医学は「ごまかし」であり、予防医学は「まっさつ」であり、リハビリテーションは「ぺてん」であり、教育は「せんのう」であるということになります。『治療という幻想』の第二章は「てんかん――古典医学(ごまかし)的治療」、第三章は「先天異常――予防医学(まっさつ)的治療
」、第四章は「脳性麻痩――リハビリテーション(べてん)的治療」、第五章は、「言語――教育(せんのう)的治療」ルいうタイトルがつけられています。
石川憲彦は、東大医学部で青医連運動に加わったあと、東大病院精神科病棟のいわゆる「赤レンガ闘争」を行わいます。精神科は、軍医療の影響を直接的に受けている分野です。軍医療では、いろいろな実験ができますし、人類のためという大義名分もあります。また、敵は人問ではなく、モノか邪な存在という思想があります。この軍医療の発想で、精神病者にロボトミー、前頭葉一部切除手術が行なわれたのです。暴れまくる精神病患者もこれでおとなしく<0277<なりますが、それは「廃人」にしたと言ってもいい。露骨な「優生学」の立場からこのロボトミーをアメリカはすさまじい勢いでやりましたが、日本では戦後も東大が行なっていました。」(最首[2013:276-278])