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『サバルタンは語ることができるか』

Spivak, Gayatri C. 1988 Can the Subaltern Speak? C. Nelson & L. Grossberg (eds.), Marxism and the Interpretation of Culture,University of Illinois Press.pp271-313
=199812 上村 忠男 訳,みすず書房,145p.


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Spivak, Gayatri C. 1988 Can the Subaltern Speak?C. Nelson & L. Grossberg (eds.), Marxism and the Interpretation of Culture,University of Illinois Press.pp271-313 =199812 上村 忠男 訳 『サバルタンは語ることができるか』,みすず書房,145p. ISBN-10: 4622050315 ISBN-13: 978-4622050315 2415 〔amazon〕 ※ b

■内容(「BOOK」データベースより)
フェミニズムとポストコロニアルの問題圏の交差点に定位しつつ、サバルタンの女性と知識人のあり方をめぐって展開される目眩く筆致。従属的地位にあるサバルタンの女性について、知識人は語ることができるのか、フーコーやドゥルーズを批判しながら、一方でインドの寡婦殉死の慣習を詳細に検討した、現代思想の到達地平。


■言及

◆鈴木智之, 20020215, 「訳注」Frank, Arthur W., 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press(=20020215, 鈴木智之訳『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』ゆみる出版).
(pp253-254)
 (*1)脱植民地主義、G・Ch・スピヴァック
 宗主国に対する政治的独立を果たした後においても、その地に生きる人々の生活の過程にはさまざまな形で植民地支配の「負の遺産」が残される。「植民地支配を脱した社会」の人々が、その社会経済的な組織において、文化において、あるいは知の編成においてなおも被り続ける「排除」や「周辺化」や「抑圧」のメカニズムを問い直し、解放のための闘争を継続しようとする知的・政治的運動が「脱植民地主義」である。その運動は、多様な形態をとりながら、いずれも西洋・近代の知識人が立脚する知的前提への根源的な反省を要求する。
 そうした脱植民地主義的な知の運動の一角を形成するものとして、「サバルタン研究」がある。「サバルタンSubaltern」とは、「従属的・副次的(存在)」あるいは「下層の人びと」を指す言葉であり、「植民地主義が不可避的に組み込まれた支配がつくりあげ再生産する社会的諸関係において『従属的・副次的』であり『下層』であることを刻印された人びと」(崎山政毅『サバルタンと歴史」14頁)に向けて用いられる。「サバルタン研究」は、198O年代初頭にインドの歴史家ラジナット・グーハらを中心に研究グループが組織されたところから、歴史記述への方法論的な反省の運動として台頭してくる。崎山によれば、「脱植民地化の歴史過程を、宗主国の歴史に還元する植民地主義史観や、エリートに表象される分割不可能な国民的自己同一性を主体においた物語として描いてきた国民主義史観への批判が、サバルタン研究の歴史記述を追究する起点となっている」(16頁)のであった。すなわちそれは、他者あるいはエリートの視点から、単一の国民的主体を前提として書かれてきた歴史に異議を申し立て、それまで「声」を奪われてきた「民衆」の視点から歴史を記述し直そうとするものである。
 ここでフランクが引用するスピヴァックの発言は、この「サバルタン研究」に対する共感と批判の相半ばするところから発せられているものである。一方でスピヴァックは、「サバルタン研究」が「インドの植民地の歴史編集の発達史を農民暴動の視点から書き直しているものとして」「最も意欲的な脱構築的歴史編集の例」であると評価する(G・Ch・スピヴァック、清水・崎山訳、『ポスト植民地主義の思想』、彩流社、1992年、233頁)。しかし彼女は、サバルタン研究が、「サバルタン」を、自らを被抑圧者として認識し、その歴史を語りうる主体として構築してしまうことに対して批判の目を向ける。(フーコーやドゥルーズの発言を批判の俎上に乗せながら)スピヴァックは、彼ら知識人が、「被抑圧者たちは(…)、もし機会を与えられたならば(…)、そしてもし連合のポリティクスをつうじてのプロレタリアとの連帯の途上で(…)、かれらの置かれている状態を語り知ることができる」という前提に立ってしまっていることを指摘し、「サバルタンは語ることができるのか」(G・Ch・スピヴァック、上村忠男訳、『サバルタンは語ることができるのか』、みすず書房、1998年、36頁)という問いを投げかける。もちろんこれは、サバルタンは語りえない、という叙述命題を導くものではなく、知識人が「植民地的主体を他者として構成してしまう」(同30頁)ことに含まれる「認識の暴力」を再度問いただそうとするものである。
 スピヴァックが「サバルタン研究」に対して放った問いは、本書の議論にとっても重要な意味を持っている。近代医療による身体の植民地化に抗して、「病む者」を「自己の物語を語る主体」として呼びだそうとするフランクの立論は、その内側から「病者は語ることができるのか」という問いを突きつけられることになる。むろんフランクはその問いの所在に対して十分に自覚的であり、そうであればこそ「混沌の語り」という逆説的な概念を導入しているように思われる。

◆飯田祐子, 20010220, 「文学とジェンダー分析」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房:85-107.
(pp98-101)
 そうした方向性を確認したうえで、視点を移して、主体のレベルを扱うことに話を進めるのは、ジェンダー・システムを抽象的なレベルに限定して抽出する分析では扱えない問題もあるからだ。
 一つは、構造化されたジェンダー・システムの亀裂や矛盾である。一つの分析で何もかもを扱うことは不可能である。先の場合は、矛盾や亀裂がありながらも、ジェンダーについての意味が構造化され生産されていく過程を描くことに目的がある。ジェンダーという記号が、いかに強烈な効果を意味生産において果たすかということを指摘することは、重要である。しかしそれゆえに、一方では、システムの綻びを積極的に抽出する作業とはなりにくい。ジェンダー・システムの強固さを強調することにもなり、それを変化させる方向については、提示が難しいともいえる。
 カテゴリー分析のみでは扱えないもう一つの問題は、残らなかった声の抽出である。ジェンダー・システムが十全に機能すれば、〈女〉の声は残らない。ある段階で残らなかったこの声を、さらに無視し続けることは、当然現在において同じ構造を再生産することに加担することになりかねない。残らなかった声を、拾い出す作業は、その意味で必要であり続けている。さらには、カテゴリー化すらされない存在というものがあるはずだ。カテゴリー化されたもののみでシステムは説明される。しかし、その分析によって排除されてしまう問題にどのように対応するかという別の問題が、そこには残っている。
 この二つの限定性の外に出るために、ジュディス・バトラーとガヤトリ・スピヴァックの議論を参照しよう。
 はじめに、ジュディス・バトラーの議論(Butler[1990])を参照したい。前章まで、カテゴリーのレベルと主体のレベルを分離して考えてきたが、カテゴリーがカテゴリーとして流通するためには、それを使う主体が不可欠である。使われない言葉は言葉にはならず、単なる音になってしまうからである。カテゴリーは主体から離れて、抽象的に存在しているわけではない。と同時に、主体は、言葉から超越して存在し得るわけでもない。言葉は使う前からあるのであって(ただし、起源が特定しうるわけでは、もちろんない)、主体に可能なのは引用なのであり、しかも言葉の効果を制御しきることは不可能であるからだ。カテゴリーのレベルと主体のレベルは、理論的に分節する必要があるのであって、判然と分離できるわけではない。さて、バトラーは、こうした言葉と主体の行為遂行的な関係を明確にするために、主体という語を、行為体という語に置き換える。行為遂行性が重要なのは、言葉が常に正確に反復・模倣されるとは限らないというということを意味するからだ。バトラーは、この反復という行為に孕まれる可変力に光を当てる。「抽象的に言えば、言語とは、理解可能性をたえず作りだすと同時に、理解可能性に異を唱えることも可能な、開かれた記号体系なのである」(Butler[1990=1999:254])から、「起源なき模倣」(Butler[1990=1999:243])や「撹乱的な反復」(Butler[1990=1999:256])が、起こりうるのである。前節までの枠組みでは、可変性は、ジェンダー・システムの歴史的な変化の過程を描き出すことによって普遍性を否定することで、論理的に示されていたが、バトラーは、言葉と主体(行為体)の、決して安定することのない複雑な関係を浮かび上がらせながら、ジェンダー・システムが根本的に孕む可変性を明らかにし、主体(行為体)の可変力に光を当てるのである。
 スピヴァックの議論(Spivak[1988])からは、より積極的に、残らなかった声を扱う方法を学びたい。スピヴァックもまた、歴史的に構築された意味に対する介入主義的な「書き直し」(Spivak[1988=1998:113-116])として、サバルタン女性の行為に光をあてる。そのうえで、スピヴァックは、「サバルタンは語ることができない」(Spivak[1988=1998:116])という。主体のレベルにおける可変力は、何かの属性に限定して発生するものではない。しかし、過去を素材に分析を試みる場合、明らかに残らなかった声に可変力を認めるのには、無理がある。あたかもそれに力があったかのように語ることは、システムの強固さを倭小化することになる。さらには、語らなかった声を、代弁し、搾取することにすらなる。スピヴァックの議論からは残らなかった声を扱うことについて、重要な示唆を得ることができる。語ることができなかった声を扱うときに、重要なのは、それを記述する私たちの現場に対する判断である。まずは、その一つの選びうる方法として、失敗を失敗として扱うことを学びたい。システムの強固さを無視せず、しかもその声について触れることを可能にするからだ。語り得ない主体(行為体)という枠組みを設けることによってはじめて、説明することのできる問題がある。

◆中島浩籌, 20020720, 「人と人とのかかわりをどのように考えるか」小沢牧子編『子どもの〈心の危機〉はほんとうか?』教育開発研究所:240-253.
(pp243-244)
 フーコー、ドゥルーズの表象についての考えをさらに鋭く展開していったのが、アメリカ在住のインドの思想家G・C・スピヴァクである。
 もし、他人の代わりに語ることが問題だとするならば、その人自身に話させればよい。その人の話をじっくり聴けばよいのだという意見が当然でてくる。フーコー、ドゥルーズの対話でも、抑圧された人々は自分のことはよく知っているのだから、知識人が代弁し、方向性を示す必要などない、といったニュァンスの発言がみられる。そうであるとすれば、被抑圧者は自分のことや状況をよく知っているのだから、知識人は何もする必要はなく、被抑圧者の話を聴けばよいということになる。
 これに対し、スピヴァクは、どんな人であっても表象的システムから逃れられないと指摘する。そして「抑圧された人々は自分のことを自由に語ることができる」とするのはあまりにユートピア的だと指摘する B 。
 抑圧された人々が自分自身の言葉で話そうとしてもなかなかむずかしい。その「自分の言葉」というものさえ専門的な用語やマスメディアの用語、さらには自分の周囲の人々の関心から大きく影響を受けるのである。心理治療に疑問を持ち、自分の言葉で自分の経験を見ていこうとしている人でも、どうしても精神分析やカウンセリングの用語で自分を見ていってしまう、トラウマやアダルト・チルドレンといった言葉をつい使ってしまう、そう述懐する人も少なくない。
 そして誰かに聴いてもらっているときはなおさら、自分の話にじっくり耳を傾ける人の関心に大きく引きずられてしまうのだ。なんの影響もなしに自分の言葉で自分の経験を自由に語るという場面を設定することは、まさにユートピア的といえるだろう。
 ロジャーズ派のカウンセリングはこれにあたる。指示を出さずに「クライエント」が語ることをただひたすら聴いていく。そうすれば、クライエントは自分のことをきちんと見つめていくようになるというのだ。しかし、この過程でも「クライエント」の語りは自由ではない。クライエントのため for を思ってひたすら傾聴しているカウンセラーの関心に影響を受けざるをえないのだ。
 そこで、スピヴァクは耳を傾ける listen to でもなく、代わりに語る speak でもない関係を求めていくべきだと主張する C 。そのためには、今まで学んできた表象的・専門的知を忘れていかなければならないという。自分たちのなかにしみ込んでいる表象的知を問題化していかないかぎり、「 〜 のために」でもなく耳を傾けるのでもない関係は築いていくことはできないというのである。
 スピヴァクの理論展開は複雑なのでこれ以上追っていくのはやめておく。しかし「 listen to でも speak forでもない関係を」という言葉は、「かかわり」を考えるうえで非常に重要な指摘だと思う。

B G・C・スピヴァク著 / 上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』 1998 年、みすず書房、および、上村忠男、太田良信、本橋哲也「スピヴァクあるいは発話の場のポリティクス」、『現代思想』 1999 年7月号を参照。
C G・C・スピヴァク著 / 上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』 1999 年、みすず書房、74 頁。

◆草柳千早, 20040820, 『「曖昧な生きづらさ」と社会――クレイム申し立ての社会学』世界思想社.
(pp227-228)
 当初の構築主義的社会問題研究において、社会問題は「クレイム申し立て」として捉えられていたことを思い出そう。そこでは、「問題」は、可視的な「クレイム申し立て」によって定義され、まさしくその活動を通して「存在」するものであった。そうした「社会問題活動」を図とするならば、その活動が見られない「通常の」ルーティーンの日常は、いわば地であり、没「問題」的な背景をなすものであった。そうした日常の領域は、人びとにとって没「問題」的であると同時に、研究者にとってもさしあたり没「問題」的なのであった。しかしいまや、日常世界はあらゆる局面において潜在的に「問題」的となる。「社会問題活動」が活性化している状況は、「問題のない状況」に対する「問題のある状況」なのではなく、「問題」の不可視化されている状況に対する、「問題」の顕在化している状況である。われわれは、「クレイム」が周縁化され何ら「問題」はないものとしてやり過ごされている、没「問題」的な状況を自明のものと受け取るべきでない。そこでは何が行われているのか。誰も文句を言わない状況であればあるほど、「クレイム」の周縁化と不可視化の徹底した状況かもしれない。それを見ないことは、単に見ないという消極的な実践ではなく、意味をめぐる闘争における政治的な達成の過程を不問の前提として見落とす恐れがあり、そればかりか、「クレイム」の周縁化に加担する、ということにさえなるだ〈25〉ろう。
(p238)
 (*25)スピヴァクがサバルタンの女性について述べたように、「それを無視するということは、それ自体、ひとつのそうとは認識されていない政治的な所作なのである」(Spivak 1988 : 訳74)。

◆橋本摂子, 20060331, 「空白の正義――「他者」をめぐる政治と倫理の不/可能性について」佐藤俊樹・友枝敏雄編『言説分析の可能性――社会学的方法の迷宮から』東信堂:123-152.
(p145)
 声を奪った後に声のない者/聞くことができない者として、感傷とともに見出し、そこで思考停止してしまうこと。そして声なき者の声をその不可能性のただ中で繰り返し表象/再現前し、正解のないまま考えつづけること。この二つの峻別は難しく、時折、似通ってみえることもある。しかし両者の決定的な違いは、政治と倫理が接続される仕方にある。前者において倫理は、単に政治的行為による帰結の不当性を補償するアリバイであり、両者は相補性のうちにその差異を消滅させる。しかし後者において、倫理は政治へのアンチテーゼであり、政治的にあることそのものへの問いかけとなる。そこでは他者からの言葉は解けない謎であり、倫理によって強いられる反芻のうちにのみ、政治の可能性がひらかれる。たとえばスピヴァクの「サバルタンは語ることができない」(Spivak, 1988)という言明は、政治―倫理の共謀による二重の排除に対する警告であり、その後の取り消しは解釈を終結させることへの逡巡ではなかっただろうか(*10)。
(p150)
 (*10)スピヴァクの論文「サバルタンは語ることができるか」(Spivak ibid)における“The subaltern cannot speak”(p.308)は、その後の改訂版において削除されている(Spivark, 1999)。なお、この変更については邦訳者による解説がある(上村、一九九九)。

Spivak, G. C., 1988, "Can the Subaltern Speak?," C. Nelson and L. Grossberg eds., Marxism and the Interpretation of Culture, Urbana and Chicago: University of Illinois Press, 271-‐313. = 一九九八年、上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』みすず書房。
Spivak, G.C., 1999,A Critique of Postcolonial Reason, Cambridge and London: Harvard University Press. (= 二〇〇三年、上村忠男・本橋哲也訳『ポストコロニアル理性批判』月曜社。
上村忠男、一九九九年「得策でなかった結語?」『現代思想』Vol.27‐8:190‐193'青土社。


*作成:植村 要 追加者:
UP:20080511 REV:
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