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『生命の神聖性説批判』

Kuhse, Helga 1987 The Sanctity-of-Life Doctorine in Medicine : A Critique, Oxford Univ. Press. 230p.
=20060610 飯田 亘之・石川 悦久・小野谷 加奈恵・片桐 茂博・水野俊誠 訳 東信堂,346p.


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Kuhse, Helga 1987 The Sanctity-of-Life Doctorine in Medicine : A Critique, Oxford Univ. Press. 230p.=20060610 飯田 亘之・石川 悦久・小野谷 加奈恵・片桐 茂博・水野俊誠 訳,『生命の神聖性説批判』,東信堂,346p. ISBN-10: 4887136811 ISBN-13: 978-4887136816 4830 [amazon][kinokuniya]

◆内容(「BOOK」データベースより)
こんにち、安楽死・尊厳死をめぐって、法律・医学・倫理学等の各分野から、あらためて問い直しがなされている。本書は、安楽死・尊厳死論の名著であり、その生命の「質」からのアプローチは、われわれに新しい視野をひらいてくれる。

◆内容(「MARC」データベースより)
今日、安楽死・尊厳死をめぐって、法律・医学・倫理学等の各分野から、あらためて問い直しがなされている。生命の「質」からのアプローチと、「生命」への新たな問いかけ。

◆東新堂のHPより
 http://www.toshindo-pub.com/SeimeinoSinseisetsu.htm
 「「生命」への新たな問いかけ
 こんにち、安楽死・尊厳死をめぐって、法律・医学・倫理学等の各分野から、あらためて問い直しがなされている。本書は、安楽死・尊厳死論の名著であり、その生命の「質」からのアプローチは、われわれに新しい視野をひらいてくれる。」

■目次

第1章 「生命の神聖性」教説と倫理的整合性
第2章 死を引き起こすことと生命をながらえさせないこと
第3章 生命を意図的に終わらせることと二重結果の原理
第4章 通常でない生命――通常でない手段でなくて
第5章 結論――「生命の神聖性」から「生命の質」へ

■引用

第1章 「生命の神聖性」教説と倫理的整合性
第2章 死を引き起こすことと生命をながらえさせないこと
第3章 生命を意図的に終わらせることと二重結果の原理
第4章 通常でない生命――通常でない手段でなくて
第5章 結論――「生命の神聖性」から「生命の質」へ

  *下線は、訳書では傍点

第1章 「生命の神聖性」教説と倫理的整合性

 1序論
 「「生命神聖性」観(sanctity-of-life view)を支持する人は、一般に、利用できる限りの治療法を用いて延命可能なすべての患者を延命すべきだとは考えていない。むしろ「生命の神聖性」教説の支持者が典型的に示唆していることは、行為者が患者を死ぬにまかせることが正当な場合があるということである。言い換えれば、彼らは私が先に条件付き「生命の神聖性」観と呼んだものを支持しているのである。」(Kuhse[1987=2006:7])

 2人の生命の不可侵性とその等しい価値
 「生命の神聖性」原理(SLP)
 「SLP:意図的に患者を殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長あるいは短縮に関する決定を下すに当たりその質あるいは種類を考慮に入れることは絶対に禁止される。」(Kuhse[1987=2006:16])

 3生命を奪うことはなぜ悪いのか
 「人の生命は神聖である、あるいは(無限に)価値があるが故に、それを奪うことは悪であるという答えは、一見もっともらしいが、同語反復に近いので納得のいくものではないだろう。その答えは、単に、生命を奪うことによって失われるものに価値があると断言しているのに過ぎない。人の生命を奪うことがなぜ悪であるかに関するいっそうもっともな答えは、こうであろう。すなわち、人の生命は非常に特別な種類の生命であるが故に、それを奪うことは悪である。このように、生命を奪うことが悪であるのは、の生命には絶対的な価値があるということが事実だとして、その事実のせいである。
 しかしまた、この答えは、人の生命に特別な意義を与えるのは何かと問うことができるが故に、納得のいくものではない。ここで、人の生命が神聖なのは、それが羽根のない二足動物の形態をとるからだとか、あるいは、それがホモ・サピエンスに属すると認定できるからだとか答えても、十分ではないだろう。言い換えれば、人の生命を奪うことが悪いということが、「種差別主義(speciesism)」(5章でさらに十分に論じられる観念)として知られるようになったもの――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解――に基づくものであってはならない。
 あるいは、その答えは、人は理性的に目的を持つ道徳的存在者であり、希望、野心、選好、人生の目的、理想等う持つが故に、人の生命は神聖性を持つということになるかもしれない。ここで述べた特徴は、どのような倫理学生を支持するかによって異なるだろうが、明らかなことは、<0019<このアプローチを採用すれば、人の生命は、人の生命であるが故に、神聖性を持つと言っているわけではなく、むしろ、理性的であること、選好を満足させること、理想を抱くことなどが神聖性を持つといっているということである。」(Kuhse[1987=2006:19-20])

 4 歴史に関する余談

 5 汝、殺すなから、されど強いて生きさせせんとするにおよばず
 「延命できる生命のすべてをそうしなければならないというわけではないと考える「生命の神聖性」原理の支持者は、私が条件付き「生命の神聖性」原理(qSLP)と呼んだものを支持している。
  qSLP:患者を意図的に殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長か短縮に関する決定にその質あるいは種類を考慮を入れること、これらは絶対的に禁止される。しかし、死なないように処置するのを差し控えることを時として許される。
 内的整合性を保つためには、このqSLPは、死なないように処置するのを差し控えることが生命を意図的に終ららせる事例に該当しないか、あるいは、少なくとも必ずしもその事例に該当するとは限らないということを前提しなければならない。さらに、いかなる人の生命であれそれ<0031<を意図的に終らせることに対する絶対的禁止は、予見された死を結果としてもたらす作為や不作為のうち許容できるものと許容できないものとを区別するために採用された原理が、「生命の質」を考慮に入れてはならないということを含意している。
 2、3、4章で、私は、これらの諸前提が間違っているということを論証する。第一に、私は、qSLPの支持者の実践的判断が典型的に「生命の質」を考慮に入れているということを示すつもりである。第二に、死を引き起こすことが禁止されている事例と許されている事例とを、――qSLPの支持者たちが我々に区別してもらいたいと思っているような仕方で――区別できるようにする、意図に関する首尾一貫した理論がない以上、我々は死なないように処置するのを差し控える事例すべてを、生命を意図的に終わらせる事例と見なさねばならないと私は論じる。もしこれが正しいならば、qSLPは、不整合の故に放棄されねばならない――というのは、それは生命を意図的に終わらせることを禁じると同時に容認しているからである。」(Kuhse[1987=2006:31-32])

 6 整合性と倫理学

第4章 通常でない生命――通常でない手段でなくて

 1序論
 「これからみるように、ラムジーやヴィーチのような思想家でさえ、患者の生命がいつも維持されるべきだとは思っていない。このことから次のような問題が生ずる。すなわち、すべての人の生命は等しい<0221<価値を持つという教義は、何人かの、わずかに何人かの患者に対しては、容易に利用可能な生命維持手段を差し控えることが時に許されるという見解と整合的でありうるだろう。私はできるとは思わない。」(Kuhse[1987=2006:221-222])
 2通常の手段がどのようにして通常でなくなるか
 3「通常の手段」/「通常でない手段」という区別の新たな再定式化

第5章 結論――「生命の神聖性」から「生命の質」へ

 1序論
 「「生命の神聖性」原理の支持者は、「生命の質」を考慮に入れて生命を意図的に終わらせることが道徳的に正しい場合があるかもしれないという考え方を、反感を覚えさせる堕落したものであると見なしている。しかし、これまでの章における私の議論が明らかにしてきたように、死なないように処置することを差し控えることが、常に生命を意図的に終わらせる事例に該当するのみならず、延命のための手段の中止や不使用が延命以外には患者に利益をもたらさないだろうという暗黙の主張あるいは公然たる主張によって正当化される場合は、必ず条件付き「生命の神聖<0258<性」原理も「生命の質」の基準に基づいているものである。」(Kuhse[1987=2006:258-259])
 2擁護できない実践上の帰結
 3「生命の質」に基づく方法の概要
  1)人の生命の何が特別か 275
 「他の生物の生命に対してではなく、あるいは、他の生物の生命に対してと同じ程度にではなく、人の生命に対して価値を付与しているのは何であるのか。2つの答えが考えられる。第一の答えは、人の生命が神聖であるのは、単にそれがの生命であるから、つまりそれがホモ・サピエンス種の成員の生命だからというものである。第二の答えは、<0275<人の生命に特別な価値があるのは、人が具体的な希望、野心、人生の目的、理想などを持ち自己意識を備え、理性的で自律的で、目的を持った道徳的存在者であるからだというものである。大まかに言えば、ヒトがジョゼフ・フレッチャーの言う意味で「人間的」だからというものである。」(Kuhse[1987=2006:275-276])

■書評・言及

◆石川 悦久・江黒 忠彦 1994 「紹介『医学における生命の尊厳教説――批判』」,飯田編[1994:118-126]*
 *千葉大学教養部倫理学教室 編 19940331 『プラクティカルエシックス研究』,千葉大学教養部倫理学教室,292p.

◆品川 哲彦 20060825 「書評:ヘルガ・クーゼ『生命の神聖性説批判』,『週刊読書人』2651
 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/shohyo060825

◆品川 哲彦 20061228 「ヘルガ・クーゼ『生命の神聖説批判』へのコメント」,京都生命倫理研究会
 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/comment%20on%20Kuhse061226.pdf

◆立岩 真也 20070525 「死の決定について・5」(医療と社会ブックガイド・71)
 『看護教育』48-05(2007-05):456-457(医学書院)[了:20070402]

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版

◆立岩 真也・有馬 斉 2012/10/31 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 [amazon][kinokuniya] ※ et. et-2012.

◆立岩 真也 2009 『唯の生』,筑摩書房

◆立岩 真也 2022/12/20 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books
 序章★04
 第1章★03 「日本語に訳された本が三冊(シンガーとの共編書を加えると四冊)ある。一冊は編書で『尊厳死を選んだ人びと』(Kuhse ed.[1994=1996])。次に訳されたのが『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(Kuhse[1997=2000])。訳書として三冊目になる『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])の発行は二〇〇六年。ただこの本はもとは一九八七年に刊行された本である。なぜこの本の訳が二十年経って、と思わないでもないが、楽に読めるのはありがたいことではある。そして、この人(たち)の言っていることは、数十年、基本的には変わらないから、この本でもおおむね間に合う。それは主張が一貫しているということでもあり――私にはその一貫した熱情がどこから供給されているのか正直わかりかねるところがあるのだが――それもよいことなのかもしれない。
 その本の奥付・カバーから拾うと、「ピーター・シンガーと共に国際生命倫理学雑誌『バイオエシックス』の編集に長く携わった。モナシュ大学(オーストラリア)ヒューマンバイオエシックスセンター前所長。」「彼女の哲学者としての業績は、本訳書に集約されると考えられる。」
 シンガーとの共著論文に例えば「重度の障害をもった新生児はみな生きるべきなのか?」(Kuhse & Singer[2002])。シンガーとの共編書に『人命の脱神聖化』(Kuhse & Singer eds.[1998])。」


UP:20070330 REV:0402, 20130128, 20221230
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