『患者のカルテに見た自分』
中沢 正夫 19861018 『患者のカルテに見た自分』,情報センター出版局,238p.
■中沢 正夫 19861018 『患者のカルテに見た自分』,情報センター出版局,238p. ISBN-10: 4795805520 ISBN-13: 978-4795805521 1300 [amazon]/[kinokuniya] ※ m.
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内容(「BOOK」データベースより)
ときに心の患者の残していく横顔と後ろ姿には、“診断”を受けつけない謎が潜んでいることがある。その謎は、しばしば私たち自身の不思議さと現代という時代の不可解さを鮮やかに描き出す。カルテには書き切れなかった「病」の紡いだ心の物語が、走馬燈のように語り出す。本書が、私たち自身のカルテの入口、幸か不幸か、余白の地図の羅針盤である。 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
■目次
第1章 不可解だから、心
第2章 現代、という波乗り
第3章 病の、人模様
第4章 私自身のための精神療法
■引用
自分の知らない自分 236-238
「だから、狂気から正気への道は一直線ではない。ジャンプさせてもいけない。正気へもどる恐怖をすこしでもやわらげるため、本能的にさまざまな "防御機構" が働く。子供っぽくなったり、おどけたり、ひねくれたりする人がいる。一時、赤ちゃんがえり(退行)して恐怖からのがれようとするのである。また、空想の世界を創り、そこへ浸りこむ人もいる。なかには「妄想」「空想」「現実」の三つの世界を出たり入ったりしながら、時間をかけて正気の世界ヘランディングする人もいる。
その人に見合った "正気" への着陸のさせ方――これこそ治療者のウデの見せどころなのである。うまく軟着陸させぬと、激突して死んでしまうか、もう一度狂気の世界ヘ飛び去ってしまう。そして、正気に戻った人は、例外なくはげしい疲弊と虚脱状態に見舞われるのである。
女史の場合どうだったのだろうか。自分の恋人が幻とわかり、恋人と築いてきた世界が霧散しそうになると、女史は本当の恋をするのである。それも自分の主治医(男性)に恋愛するのであ<0236<る。かつてのハンサムな主治医に手紙を書き、電話をかけ、時に訪問するのである。もしかしたら主治医に恋をすることによってのみ、妄想の世界から脱け出せたのかもしれない。このことから女史の妄想をとり、正気の世界ヘ軟着陸させるには、妄想上の婚約者以上に素敵な男性、現実の恋人にめぐり会うことが必要であることがわかっていた。だが、それはむずかしいことであった。歴代の主治医が女史の治療で悩みつづけていた点はここであった。
女史が死ぬ二日前、主治医は診察を受けにきた女史の手から婚約指輪が消えているのに気づいている。二週間ほど前より妄想の世界が萎みはじめていたので、あれ!と思ったそうである。だが、それ以上には考えが及ばなかったという。女史はいつもの通りコロコロと笑っていたからである。
指輪を外したことが妄想の消失だったのか、今度の主治医への恋愛感情のはじまりだったのか、今は知るすべもない。女史の「狂気」と「正気」の危なっかしい綱わたりを熟知していながら及ばなかったことに悔いが大きい。私たちは、女史の病気はたしかに治したといえるかもしれない。しかし、女史を救うことはできなかったのである。
狂気の創造性ということがある。 "天才と気ちがいは紙一重" とは思わぬが、 "狂気と才気は紙一重" と思う。病気の重いときすばらしい感覚の絵を描いていた人が、治ると実に平凡な絵しか描けなくなることが多い。そんなとき、ふと "治さねばよかったのかな?" と思ってしまう。<0237<
同様に、女史など、妄想をとらぬほうが幸せで長生きできたのかもしれないと思う。そう主張する人も少なくない。
しかし、病気を治すことが私たちの仕事である。ほとんどの場合、病気を治すことが人を治すことにつながる。女史のように病気を治すと人を治せないという現象があったとしても、それは本来二律背反ではなく、精神医学の未熟さにあると思いたい。
とはいうものの、女史の死のような例に会うと、無力感が体の中を吹きぬける。
だから、このごろ完全に "正気" にもどさぬよう、一部空想や正気とも狂気ともつかぬ混とんとした部分を残したかたちに治すのがいいのでは、と考えている。そのほうが救いが大きいのである。もしかしたら、それが精神科医のサジ加減というものかもしれない。
考えてみれば私たちもまた、どこか "狂気" をひっつけて生きているほうが楽であるし、夢がある。 "狂" という言葉がきついなら、 "ズレ" でも、 "マニア" でも、 "酔" でも、 "ハレ" でもよい。正常さを保つために、そういった非日常性が生きるために必要なのであろう。それが「ヒト」という不可思議な生き物の「常態」なのかもしれない。これから、そういった「しかけ」をますます必要とする社会になりそうである。」(中沢[236-238])