『身体の政治技術』
栗原 彬・今 防人・杉山 光信・山本 哲士 編 19860520 新評論, 叢書社会と社会学3, 301p.
■栗原 彬・今 防人・杉山 光信・山本 哲士 編 19860520 『身体の政治技術』新評論, 叢書社会と社会学3, 301p. \2940 [kinokuniya] b02 ka01 yt04 bp01 en01
■内容
■目次
「対談 奴隷の自由と身体の政治技術」 pp.7-42
竹内敏晴+栗原彬 杉山光信(司会)
T部
「どうしたらスポーツマンになれるか――スポーツへの社会学的アプローチ――」 pp.44-78
P.ブルデュー (訳)田原 音和
Pierre Bourdieu, 1980 "Comment peut-on e^tre sportif?", dans Questions de sociologie, Edhitions de Minuit.
=1993 Richard Nice trans, "How Can One Be a Sportsman?", Sociology in Question, SAGE Publications, pp.117-131, ISBN-10: 0803983379 ISBN-13: 978-0803983373.
「身体の社会的知覚」 pp.79-92
P.ブルデュー (訳)桑田 禮彰
Pierre Bourdieu, 1977 "Remarques Provisoires sur la Perceprion sociale du corps", Actes de la recherche en sciences sociales, no 14-avril.
「スポーツと暴力」 pp.93-130
H.エイアス (訳)桑田 禮彰
Norbert Elias, 1976 《Sport et violence》, Actes de la recherche en sciences sociales, no 6-avril.
U部
「政治文化としてのプロ野球」 pp.132-159
三橋 修
「現代における武術の意味」 pp.160-184
甲野 善紀
「プロレスのフレーム分析」 pp.185-211
L.A.トンプソン
V部
「現代医療と身体」 pp.214-235
中村 篤彦
「ポルノグラフィーと身体、そしてオナニスムの仕掛け――フーコー『性の歴史』とからめて――」 pp.236-253
金塚 貞文
「フランケンシュタインとドラキュラ――恐怖の弁証法――」 pp.254-280
F.モレッティ (訳)今 防人・下田 裕介
Franco Moretti, 1983 "Dialectic of Fear", Signs Taken for Wonders, Verso.
「「電車」を通して感情をとり戻したK君のプレイセラピー」 pp.281-301
西村 悟
■引用
身体〔「容姿」など身体の物理的形状ばかりでなく「身のこなし」も含まれる:引用者注〕は言語として機能する。私たちがこの言語を話すのではなく、この言語が私たちを話す。(Bouridue 1977=1986:80)
たしかにこの言語は、いわば自然的な身分証明書(つまり生まれついての「性格」が書き込まれた身分証明書)のように思える。しかし実は、この言語は、そもそも社会的な身分証明書であって、それが自然化されたもの〔「自然化されたもの」に傍点あり:引用者注〕なのだ(たとえば、「生まれついての」品のなさとか気品というふうに)。そして、この社会的な身分証明書は、そのように自然化されることによって、正当と認められるものになるわけである。実際、ことあらためて注意するまでもなく、外観上最も自然な状態にある身体――つまり体格、身長、体重等といった目にみえる形状を持つ身体――は、社会的生産物〔「社会的生産物」に傍点あり:引用者注〕である。すなわち身体的特徴の分布の仕方は、階級によって異なる。労働条件が悪ければ、身体が変形し、病気になり、手足を切断することもあろう。また、食べ物の習慣というものは、ほとんど生まれつきとみえる趣味――つまり身体染みついたもの〔「身体に染みついたもの」に「ハビトゥス」とルビ打ちあり:引用者注〕――の次元であって、そうした習慣を生み出した社会的条件が変わっても、そう簡単になくなるものではない。(Bourdieu 1977=1986:80)
これ〔びくびくした態度:引用者注〕に対し、くつろいだ態度は、〔「私(の存在)」や「私の身体」を:引用者注〕対象化しようと迫ってくる他人のまなざしに対するある種の無関心である。この無関心は、他人のまなざしが持っている権力を中和化する。くつろいだ態度をとるためには自信〔「自信」に傍点あり:引用者注〕がなければならない。それは、他人による対象化を逆に対象化すること、他人に横取りされたものを取りもどすこと、自分の身体をとらえるための規範を自分で提出すること、こうしたことを確実に実行できるんだ、という自信である。(Bourdieu 1977=1986:84)
魅力とかカリスマ〔「魅力」「カリスマ」に傍点あり:引用者注〕とかいわれるものは、実は、「ある行為者の真理を握っている他の行為者(孤立した個人の場合もあるし、大集団の場合もある)の権力を、その行為者自身が横取りする際に持つ権力」のことである。それは、自分の身体と存在について自分自身がつくった表象を、客観的で集合的な表象として、押しつける権力である。愛とか信頼とかという形で、対象化という一般的権力を他人に放棄させ〔「対象化という一般的権力を他人に放棄させ」に傍点あり:引用者注〕、対象となるはずだった人物――つまり自分――にその権力を委任させるような権力、といってもいい。(Bourdieu 1977=1986:84-85)
■書評・紹介
■言及
*作成:野口 陽平