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Rachels, James 1986 The End of Life : Euthanasia and Morality, Oxford University Press
=199102 加茂直樹監訳,晃洋書房,389p



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Rachels, James 1986 The End of Life : Euthanasia and Morality, Oxford University Press=199102 加茂直樹監訳,『生命の終わり――安楽死と道徳』,晃洋書房,389p. ISBN-10: 4771005060 ISBN-13: 978-4771005068 2800 [amazon] ※ b d01 et

■内容(「BOOK」データベースより)
レイチェルズは、積極的安楽死と消極的安楽死の区別を否定する、きわめてラディカルな結論を導き出す。植物状態患者、苦痛にあえぐ末期患者などのケースを含めた安楽死問題に、われわれはどのように対処すべきだろうか。倫理学理論の根底的見直し。

■目次

第1章 西洋の伝統
第2章 生命の尊厳
第3章 死と悪
第4章 「無実の人間」
第5章 自殺と安楽死
第6章 不適切な区別の暴露
第7章 積極的安楽死と消極的安楽死
第8章 殺すことと死なせることに関するなお一層の省察
第9章 安楽死の道徳性
第10章 安楽死の合法化

■引用

 「われわれが生まれながら属している多くの集団について、それらがどういうものであるかは明確にできるが、こういった集団の一員であることが道徳的に重要性を持つということは(控えめに言っても)明らかなことではない。例えば、われわれの人種[「人種」に傍点]に属している者にたいして特別な考慮を払うことは正当化されると提案されたとしよう。そういう提案にたいしては、拒否するのが正しいであろう。しかし、それはなぜなのか。それにたいしては、他の人種に属する者もわれわれと同じように理性的で、自律的で、内面的に豊かな心理生活を営むのであり、したがって、彼らを同等の配慮を払って扱うべきと言われるであろう。ところが、ノージック主義者によれば、こういった考え方はただ「ケンタウルス座の主星の住人」がわれわれとの関係において位置づけられるように、われわれを他の人種との関係において位置づけるにすぎない。つまり、われわれはその住人たちが持たない特別な関係をわれわれと同じ人種の一員にたいしては持っているのだから、その住人たちにはそうすべき理由がないにしても、われわれが同じ人種の者を特別に扱うことは正当なことであろう。だが、こういった考え方が人種に関しては拒否されるなら、種に関してもそれを受け入れなければならない正当な理由はないと私には思われる。(問題は、ノージックが人種差別主義者であるということではない。実際、彼はそうではない。問題なのは、種に基づく差別を正当化しようとするときに、もしそれが認められるなら、人種差別をも正当化するような議論を不注意にも彼が行ったということなのである。」(Rachels[1986=1991:140-141])

 この書は、第1章で、功利主義の立場からキリスト教の伝統において認められてこなかった安楽死が容認されるべきだと述べた後、第2章で生命の価値を生命が私にとって持っている価値だとし、第3章で死は死んでいく人にとって悪である(「なぜなら、死はその人の人生の可能性を失わせ、能力や才能を開発する機会を奪い、また欲求とか希望、抱負を挫折させ、さらに人生のそれぞれの部分を無意味なものにし、人生全体を不完全なものにするからである」(Rachels[1986=1991:110])と述べる(注06の引用も参照のこと)。上記した部分は、ベビー・ジェイン・ドゥー(Baby Jane Doe)のケース(後述)を例にとって、「無実」であること(そしてヒトであること)によって生命に価値を与えることはできないのだと主張する第4章の中にある。この他にレイチェルズが安楽死について論じているものとしてRachels[1975=1988]があり、これに対する反論としてBeauchamp[1978=1988]がある。

 「生活が複雑であればあるほど、殺すことはけしからぬことである…。複雑であることが重要であるのは、精神的に複雑な生き物が死ぬときには、死はなぜ悪であるのかについてずっと多くのことを言うことができるからである。例えば、一人の若い女性が亡くなるとしよう。それが悪であるのは、子供を育てることも、小説を仕上げることも、フランス語を習うことも、左傾書体の文字を直すことも、さらにはオックスムファムのためにしたいと思っていたことも、すべてができなくなるからである。彼女の能力は開発されないままに終わり、望みは果たされない。こういったことは、複雑でない動物にたいしては到底言えないことであろう。彼女の死は、死を残念に思う一層多くの理由があるから、それだけ悪いことなのである。…
 …精神的に欠陥のある人の生命は、一般的には正常な人間の生命よりも単純なものであろう。…そこでこういった考え方によれば、強制された選択の状況、つまり知恵遅れの人の死か、それとも正常な人の死かのどちらかを選ばなければならない場合には、正常な人間の生命を守る理由があるということになる。」(Rachels[1986=1991:106-108]、「一層多くの理由」「どちらかを選ばなければならない」に傍点)
 レイチェルズによれば、これは「それほどラディカルではない見解」であり、よりラディカルな含意は「知恵遅れの人の生命よりも動物の生命の方を優先されることになる」というものである。以上が第3章の末尾の記述であり、続く第4章で「人間であることには何か道徳的に特別な理由があるという思想――私はこの思想は廃棄すべきだと思っているのだが」が問題にされる(Rachels[1986=1991:109])。
 このように、本章第3節、注06で検討した記述に接続されていく。

 "-the more complex the life, the more objectionable the killing. . . . Complexity matters because, when a mentally complex being dies, much more can be said about why its death was a bad thing. A young woman dies: it is bad because she will not get to raise her children, finish her novel, learn French, improve her backhand, or do what she wanted for Oxfam; her talents will remain undeveloped, her aspirations unfulfilled. Not nearly so much of this kind could be said about a less sophisticated being. Her death is worse because there are more reasons for regretting it. Thus, if we had to choose between the death of a human and the death of a dog, there is reason to choose in favour of the human. . ./. . . in most cases the life of a 'normal' human is to be preferred to the life of a mentally retarded human. . . It implies only a comparison that might come into play in a theoretical situation of 'forced choice'. The life of a mentally defective human will typically be simpler than the life of a normal human, in the same way that the life of a non-human animal is simpler; and so this idea would dictate that, in a situation of forced choice-if you must choose between the death of the retarded person and the death of the normal person-there is reason to choose in favour of the normal person." (Rachels 1986:57-58)

「人間であることには何か道徳的に特別な理由があるという思想――私はこの思想は廃棄すべきだと思っているのだが」(Rachels [1986=1991:109]

 "there is something morally special about being human -an idea that I believe should be rejected--. . ." (Rachels 1986:59)

 ベビー・ジェイン・ドゥー(Baby Jane Doe)のケース(1983年10月、ニューヨークに生まれた女の子、レイチェルズによれば「脊椎披裂、脳水腫、および――これが最も重度の障害だと思われるが――小頭症等の複数の障害を合わせもっていた」(Rachels[1986=1991:111])、両親は手術を拒否、看護婦が弁護士に救援を求め、弁護士が訴訟を起こす、第1審で勝利、第2審・第3審では他人の子どもの手術を要求するのは法廷を侮辱する行為として罰金刑を受ける、これと別に政府は医療記録の提出を要求する訴訟を起こす、州第1〜3審、連邦第1〜2審で敗訴、連邦最高裁に控訴中、両親は手術に合意、手術、政府は控訴を取り下げた)について、レイチェルズの「結論は、次のようなものである。…彼女は1)人間であり、2)無実であり、3)生きており、ずっと世話をすればおそらく20歳まで生きることができるであろう。さらに彼女は4)生を営んでいないし、これからも決して営むことはないであろう。このうち最初の3つの事実は、1つずつであろうが全部一緒であろうが、彼女の「生命」に何らかの価値を与えるのに十分なものではない。そして四番目のことは、道徳的に重要な意味での「生命」が彼女には決してないだろうということを意味している。そこで残念なことだが、道徳的観点からすると、われわれが関心を持つべきものは何もないということになる。」(Rachels[1986=1991:144-145])他にSinger ; Kuhse[1984]、Kuhse ; Singer[1985]、秋葉[1987:289ー293]。

 「◆07 「例えば、われわれの人種に属している者にたいして特別な考慮を払うことは正当化されると提案されたとしよう。そういう提案にたいしては、拒否するのが正しいであろう。しかし、それはなぜなのか。それにたいしては、他の人種に属する者もわれわれと同じように理性的で、自律的で、内面的に豊かな心理生活を営むのであり、したがって、彼らを同等の配慮を払って扱うべきと言われるであろう。ところが、ノージック主義者によれば、こういった考え方はただ「ケンタウルス座の主星の住人」がわれわれとの関係において位置づけられるように、われわれを他の人種との関係において位置づけるにすぎない。つまり、われわれはその住人たちが持たない特別な関係をわれわれと同じ人種の一員にたいしては持っているのだから、その住人たちにはそうすべき理由がないにしても、われわれが同じ人種の者を特別に扱うことは正当なことであろう。だが、こういった考え方が人種に関しては拒否されるなら、種に関してもそれを受け入れなければならない正当な理由はないと私には思われる。(問題は、ノージックが人種差別主義者であるということではない。実際、彼はそうではない。問題なのは、種に基づく差別を正当化しようとするときに、もしそれが認められるなら、人種差別をも正当化するような議論を不注意にも彼が行ったということなのである。)」(Rachels[1986=1991:140-141])
 レイチェルズのこの書は、第1章で、功利主義の立場からキリスト教の伝統において認められてこなかった安楽死が容認されるべきだと述べた後、第2章で生命の価値を生命が私にとって持っている価値だとし、第3章で死は死んでいく人にとって悪である(「なぜなら、死はその人の人生の可能性を失わせ、能力や才能を開発する機会を奪い、また欲求とか希望、抱負を挫折させ、さらに人生のそれぞれの部分を無意味なものにし、人生全体を不完全なものにするからである」(Rachels[1986=1991:110])と述べる(注09の引用も参照のこと)。右記した部分は、ベビー・ジェイン・ドゥーのケース(注06)を例にとって、「無実」であること(そしてヒトであること)によって生命に価値を与えることはできないのだと主張する文章の中にある。この他にレイチェルズが安楽死について論じている論文としてRachels[1975=1988]があり、これに対する反論としてBeauchamp[1978=1988]がある。」(以上,立岩[1997]第5章注07)

 "Suppose it were suggested that we are justified in having special regard for members of our own race? That suggestion would rightly be rejected; but why? To resist the suggestion, it might be said that members of other races are rational, autonomous, and have rich internal psychological lives, as we do; therefore they should be treated with equal regard. But the Nozickian reply is that this only places us with respect to them as a 'denizen of Alpha Centauri' would be placed with respect to us. Since we have a special relation to members of our own race, which those denizens do not have, it may be reasonable for us to give them special treatment, even if the Alpha Centaurians have no reason to do so. If this way of thinking is to be rejected with respect to race, I see no good reason to accept it with respect to species. (The point is not that Nozick is a racist. He is not. The point is that, in attempting to justify discrimination based on species, he has inadvertently produced an argument which, if accepted, would justify racist discrimination as well.)" (Rachels 1986:75-76)

「なぜなら,死はその人の人生の可能性を失わせ,能力や才能を開発する機会を奪い,また欲求とか希望,抱負を挫折させ,されに人生のそれぞれの部分を無意味なものにし,人生全体を不完全なものにするからである」(Rachel [1986=1991:110])

 "Death is an evil for the person who dies because it forecloses possibilities for his or her life; because it eliminates the chance for developing abilities and talents; because it frustrates desires, hopes, and aspirations; and because it leaves parts of lives pointless and whole lives incomplete." (Rachels 1986:59)
 以上,立岩『私的所有論』からの引用。

■言及

◆立岩 真也 1997/09/05『私的所有論』,勁草書房,465+66p.,6300
◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表


UP:20071115(ファイル移動) REV:
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