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『内なる目――意識の進化論』

Humphrey, Nicholoas  1986 The Inner Eye, London: Faber and Faber.
=20060120 ニコラス・ハンフリー著 垂水 雄二 訳『内なる目――意識の進化論』,紀伊国屋


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■Humphrey, Nicholoas  1986 The Inner Eye, London: Faber and Faber. =19931110 ニコラス・ハンフリー著 垂水 雄二 訳『内なる目――意識の進化論』,紀伊国屋, 224p.  ISBN-10: 4314006048 ISBN-13: 978-4314006040 [amazon][kinokuniya] 

■目次
はじめに
1 見かけの背後にあるもの
2 天性の心理学者
3 機会の中の幽霊
4 内なる目
5 そこに誰かいるの?
6 感情教育
7 寝ながら読む本
8 他人の夢
9 私たちはどこに行くのか
10 エピローグ
参考文献
訳者あとがき



■引用
太字小見出しは作成者による・〔〕内は作成者の挿入
本書の問い
私たちはこう問わなければならない。すなわち、心は何のためにあるのか?なぜ心はほかの形ではこういう形で進化してきたのか?そのそも心はなぜ、ずっと変わらないままにとどまらずに、進化したのか?(p.40)

1971年 ルワンダ・ヴィルンガ火山斜面に生息するマウンテンゴリラの研究
〔ゴリラの〕生活はきわめて単純に思えた。食べ物はふんだんにあり、簡単に集められる――どこにあるかを知っていさえすれば。捕食者に襲われるという本当の危険はなかった――敵を避ける方法を知ってさえすれば。ここには一つの逆説がある。それも単なる心理学的な逆説ではなく、生物学的な、進化的な逆説だ。ダーウィンの理論は、自然界には理由のないものはほとんど何も存在しないことを示唆している。しかしここには、この通則の例外があるように思えた。つまりゴリラは必要とする以上の脳の力をもっていたのだ。(p.44)

物質的な世界に順応するのに必要というよりも社会的に生き延びるために必要とされる知能
 人間に似た最初の類人猿の特徴は、後ろ脚で立って歩けることだとか、多様な草を食べ消化できることだとか、あるいは手の親指を他の指にくっつけられることだとか言われている。確かにこれらはすべて重要である。しかし、グリン・アイザックが初期の社会生活についてなしつつあった発見を知れば知るほど、ますます私は、答えは別のところにあると確信するようになった。問題は親指と他の指ではなく、人間と人間なのだ。人間に似た類人猿の真の特徴は、周囲の類人猿を、人間と同じやり方で操作し、自らに関係づける能力であろう。(p.52)

盲視の発見
 ブラインドサイトとは、見ることができるという事実を知らないで見ること、つまり無意識の視覚である。意識した心にはまったく見えない事柄を見るのである。一九七四年にD・Bというイニシアルで呼ばれる一人の患者が、ロンドンの国立病院でヴァイスクランツ教授とその同僚による診察を受けた。D・Bは直前に後頭部の腫瘍を除去する手術をうけたばかりだった――この手術は脳の右半球の一次視覚野を完全に除去することを意味した。以前の臨床研究から予想されたと通り、この損傷の影響として、D・Bは視野の左側が見えなくなった。(p.70)

意識と知覚
意識は、知覚にとって不可欠ではないと思われる。動物だけではなく人間も、意識なしに活動することができるのであり、そのことは、途方もなく幅広い可能性を切り開く。なぜなら、もし私たちが、付随するいかなる感覚をも意識することなしに知覚することができるのなら、どうして、自分の思いを意識することなく考え、自分の意図を意識することなく行動できないはずが、あるいは、自分が存在する感じをどんな現実の感覚としてももつことなしに自分でありつづけることさえできないはずがあるだろうか。(p.72)

「内なる目」としての意識
 もし私たちが、この二つを純粋に行動のレヴェルで比較すれば、意識を持たない動物と意識を持つ動物は、ほとんどの点で区別ができないだろう。両方の動物ともきわめて知能が高いことがありうるし、両方とも情動的行動、気分、情熱などを示すこともあるだろう。しかし、意識を持たない動物にとって、その行動は、脳が実質的に自動操縦されているかのようにたまたま生じるだけのものであるのに対して、意識をもつ動物にとっては、あらゆる知的動作には、それに関与する思考過程の自覚が伴ない、あらゆる知覚にはそれに付随する感覚が、あらゆる情動には感情がともなうだろう。(pp.84-85)

 まず第一に、それは個々人が自らの心を読むことにかけて、ほとんど文字どおりの意味での出足の良さをもつことを意味するだろう。<中略>しかし実践的にはそれが意味するものははるかに大きい。自分の行動についての説明は、他人の行動を説明するための基盤をも形成するからだ。私たちは実際に他人がどのような状態にあるかを想像することができる。なぜなら、私たちはそれが自分たちにとってどのように感じられるものであるかを知っているからだ。(p.85)

デイヴィッド・プレマックによるチンパンジー・サラの「心の理論」実験
 プレマックは、その人物のジレンマについて考えられる解決策を示す一連の写真をサラに与えた。すなわち、檻の鍵、蓄音機につなぐ接続コード、その他である。そしてプレマックはサラに、それぞれのビデオの問題に合った写真を選ばせる機会を与えた(サラはこの手順に、別の状況においてではあるが、すでに慣れていた)。彼の報告によれば、サラは実際に正しい解決策を選んだという――ただし、トラブルに陥っているのが、サラの好きな人である場合だけだった!(p.96)

 サラに関する研究は、私の知るかぎり、この問題と直接のかかわりをもつ唯一の実験であり、今のところ、チンパンジー以外の種では誰も試みてはいない。だが、意識に関するもう少し説得力の弱いテストなら、あらゆる範囲のさまざまな動物で行われている。それは、「鏡テスト」で、動物が「自己」の感覚をもっているかどうかを見るために、ゴードン・ギャラップが考案したものである。
 生後十八ヶ月の人間の幼児は、鏡の前に置かれると、きまって「自己に向けた行動」を示す。そして、たとえば、もし鏡の中の顔の額に赤い斑点があるのを見つければ、自分の頭についたその印を指で触りはじめる。(pp.97-98)
自分に注意を向ける動物…チンパンジー、オランウータン、ベルーガ(シロイルカ)

感情移入
 感情移入とは、他人と同じように感じることを意味する。それは、単にもう一人の人間の心理状態をある距離をおいて想像するのではなく、たった今、自分と同じ人格が感じていることを体験することである――誰かが悲嘆にくれているのを見て、両の目から涙がこぼれそうになる。他人の笑い声を聞いて自分も一緒にほほ笑んでいるのに気がつく。私たちはいまだに誰でも、時々そういうことが起こるが、そういう感情移入的な反応が最も明白かつ顕著なのは、幼い子供のときである。先日私は二歳の少女が、庭から姉さんがひどくみじめな様子で走り込んでくるのを眺めているのを見た。その幼い少女の顔はくしゃくしゃで次の瞬間には泣き出していた。(p.114)


 この分野につちえ論じている初期の思想家の何人かにとっては、これは目新しいニュースではないだろう。モンテーニュは、病気の他人を見るだけで気分が悪くなってしまうと述べている。ニーチェは、「観相学的な」模倣が生涯を通じて決定的な役割を果たすと信じていた。

   他人を理解する、つまり他人の感情を自分の中で模倣するためには、われわれは……それが他人に及ぼし、演じた効果にならって、彼の目、声、態度が表しているものを自分の体で模倣することによって、その感情をつくりだす。われわれは他人の感情を理解するという技を高度な完成段階にまで練り上げてきており、他人がいるところで、われわれは、つねにこの技を、ほとんど思わず知らずのうちに実践しているのである。〔ニーチェの引用〕

しかしそれは、それが果たす役割を誇張している。たとえば、レービンの絵を眺めているとき、事実の問題として私は、自分が感情移入的なやり方で反応しているとは思わないし(実際には、自分で勝手に不安、驚き、その他を感じている)、ましてや、さまざまに異なる顔のすべてを模倣しているわけでもない。しかしこれはおそらく、私があなたと同じように、もはやそうする必要がないからであろう。何年かの実践の後、私たちは、ニーチェが語っているような模倣的な動きを介することなしに適切な概念を呼び出すことができるようになる。にもかかわらず、大人と区別されるものとしての子供にとって、感情移入は、心理学的な理解の遂行を助けるための基本的な手だてである。(p.117)

遊び
あらゆる種類の遊び――グラウンドにおける乱闘から鶏小屋の裏でのきわめて強烈な秘密の空想ゲームまで――に共通の要素がもしあるとすれば、それはきっと、次のことだろう。すなわち、遊びは現実の生物的ないし社会的な結果を危険にさらすことなしに、起こりうる感情ないしアイデンティティを体験することだ。カット!お茶の時間、家へ帰る時間だ。そして現実世界では何ひとつ変わってはおらず、唯一違うのはたぶん、その子供が、それまでとはまったく違う人間になっていることだ。彼は、人間であることがどのような感じのものであるかについての内的な知識を、ほんの少しばかり先へ拡張させたのである。遊びは子供が、もっぱら自分自身の力で一種の「感情教育」を受ける方法であり、感受性をもち、社会的に熟練した人間としての発達にとって、これ以上に重要なものではない。(pp.125-126)


 私たち人類が睡眠におけるこの局面を利用して、生物学的に独特な、他のどんな動物も行わない、あるいはする必要のない、きわめて特別な何事かを経験のレベルで行ってきたということを、あらゆる事実は指し示している。もちろん、その何事かが何であるのかについては多くの理論が出されている。けれども、生物学的な適応的機能を探った理論家はほとんどおらず、唯一人デイヴィッド。ファウルケスだけが、そのような機能を、天性の心理学者が人間としての個人的な体験を極限まで拡張する必要性に求める寸前のところまで行っている。(p.137)

「制度化された幻想」(書物、芝居、音楽、絵画、映画など)の経験
 けれども、個人的な詳細や筋書きに関するヒントだけでは、当然のことながら、私たち聴衆を積極的にかかわらせるのに十分ではない。要求されているのは、私たち自身が何らかの形で必要とされていると信じなければならないことだ――それだからこそ、私たちの怖れ、嫉妬、あるいは怒りが多少の効用をもちうる。(pp.164-165)

 だが、効果の大部分はさらになお、提示の仕方にかかわっている。何らかの形で、親密さの感覚がほのめかされねばならない。私たちが彼らを知っているということだけでなく、(もし彼らが知りさえすれば!)彼らも私たちを知っているという感覚である。これを生み出す最も明白かつ効果的な仕掛けは、その登場人物と親密な人間以外は誰も知りえない思いや出来事を私たちに内密に教えることだ。(p.165)

 映画と夢の類似性はしばしば言及されてきた。とりわけ、映画は親密さの幻影をつくりだす独特の力をもっている。書物や舞台では、親密さはそのために努力しなければならず、聴衆からの一定の自主的な協力を必要とする。しかしスクリーン上では、それは自由に取りだせるものとしてある。クローズ・アップ、視点を固定する遠近法、ナレーションによる解説などの使用によって、映画を実際に私たち自身の一人称の夢に恐ろしいほど似せさせることができる。その中に、私たちは精神的だけでなく、肉体的にも巻き込まれるのである。(p.166)

実生活におけるドラマ
王室の赤ん坊の誕生に忠実な臣下たちが感じる喜び、あるいは子供を探す警察の捜索の結果に対する不安は、本物の感情であり、おそらく本当の意味で教育的なものであろう。同じように、ボータ[南ア連邦の将軍・初代首相]の兵士に撃ち殺された黒人の子供を見たときの恐怖、あるいは浮気をした亭主をした振る舞い方に対する怒り、あるいはカサブランカでの性転換手術に対する関心もそうだ。(p.168)
→「文化的に規定された幻想の体制」の問題

 他人の内的世界は外からの目では見ることができない。誰か他人の心に到達するには、私たちの側の想像力の働きを必要とする。私たちは天性の心理学者として、他人がどう感じるかを「嗅ぎ分け」、もし自分が彼らの立場だったらどう感じるだろうかを基盤にしてそれを構築しなければならない。人類が得意なのは(あるいはそうあるべきなのは)他人をタイプの異なる自分たちの同類として想像するこの能力である。しかし、私たちの他者理解がこの想像力による再構成という仲介的なはたらきを必要とするまさにその事実が、誤りの余地をつくりだす。なぜなら、他者への洞察は潜在的に、人類に対する必然ではなく、オプション(選択できるもの)となるからである。そして人間はそれを拒否することもある。(p.181)



*作成者:篠木 涼
UP:20080525 REV:20081107, 1115
心・情動・感性  ◇科学技術と社会・所有・国際競争・国家戦略・…身体×世界:関連書籍 2005-BOOK
 
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