HOME > BOOK >

『可能世界の心理』

Bruner, Jerome 1986 Possible Worlds, Actual Minds, Harvard University Press.
=19980225 田中 一彦 訳 『可能世界の心理』,みすず書房


このHP経由で購入すると寄付されます。

Bruner, Jerome 1986 Possible Worlds, Actual Minds, Harvard University Press. =19980225 田中 一彦 訳 『可能世界の心理』, みすず書房,  305p+10. 4400  ISBN-10: 4622030845  ISBN-13: 978-4622030843 [amazon][kinokuniya]

■目次


第一部 二つの自然種
1 文学的なものへのアプローチ
2 二つの思考様式
3 可能な城ども

第二部 言語と実在
4 交流的自己
5 ヴィゴツキーのインスピレーション
6 心理的実在
7 ネルソン・グッドマンの諸世界
8 思考と情動

第三部 構築された諸世界での行為
9 教育の言語
10 文化としての発達理論
結びのことば

付録 ジェイムズ・ジョイスの『土』の一読者による語り直し
原註
訳者あとがき
索引

■引用
太字見出しは作成者による
語り直し
 読者が読んだばかりのストーリーを「語り直す」とか、自分自身の人生の「できごと」について自発的にストーリーを「語る」とかするのに耳を傾けてみると、ジャンルの心理に気づく点がある。それは、コンラッドのストーリーを「語り直す」とすると、ある読者はそれを冒険談に変化させ、もう一人はそれを二心にかんする道徳的な話へと変え、三番目の読者はそれを二重身の事例研究へと変えてしまうのだ。彼ら三人がそもそも出発したテクストは、まったく同じだったのである。ジャンルとは、諸事象の構造を組織化し、それら諸事象を語ることを組織化する。その両方のための方法――すなわち、、自分がストーリーを語るために、あるいは自分が読んだり聞いたりしているストーリーを「位置づける」ために、使われる方法――のように思われる。実在のテクストのなかの何かが、読者のなかのジャンル解釈の「引き金を引き」、その解釈がこんどは、ウォルガング・イーザーの言う「仮想テクスト」(virtual text)を読者自身が作り出す、その創作を左右する。(p.8)

ブルーナーが物語にアプローチしたときの二つの流れ
この新しい仕事の山に触れはじめたとき、物語にアプローチするには二つの流儀があることに気づいたが、それは物語にかんする二つのセミナーを並行して教えていて、否応なく突きつけられた発見だった。一つはニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでのもので、心理学者たちが中心だった。もう一つはニューヨーク人文科学研究所でのもので、脚本家、詩人、作家、批評家、編集者たちがメンバーだった。どちらのセミナーも心理学的な問いに関心があり、またどちらも文学的な問いに関心があった。どちらも読者と作家とに関心をもっており、どちらもテクストに関心があった。しかし、心理学者たちのグループは「トップダウンで」取り組むのに熱心で、もう一つのグループは「ボトムアップで」取り組むのに熱心だった。(pp.13-14)

パラディグマティックないし論理‐科学的な様式
一方の様式、すなわちパラディグマティックないし論理‐科学的なそれは、記述や説明にかんする形式的な数学的体系の理念を実現しようとする。それはカテゴリー化ないしは概念化を用いて、諸カテゴリーが確立され、例証され、理念化され、たがいに関係づけられて、一つの体系を形成するという作戦を用いる。カテゴリー結合用の全装備のなかには、形式的な面では連言と選言、上位概念と下位概念、厳密含意といったような考え方、それに一般的命題を特定の文脈における陳述から抽出する諸装置がふくまれている。全体的レベルで言うと、その論理‐科学的様式(以下、これをパラディグマティックとよぶことにする)は、一般的な諸原因とそれらの立証とを扱っており、証明可能な指示的意味を確実なものにし、経験的真理を吟味するのに諸手続きを利用する。その言語は、一貫性と無矛盾性という必要条件によって規制されている。この領域は、その基礎的陳述が関係している観察可能なものによって定義されるが、そればかりでなく、論理的に生み出されうる。また観察可能なものに照らして吟味されうる、一連の可能世界によってもやはり定義される――つまり、それは原則にもとづいた諸仮説によって推進される。(pp.18-19)

物語の様式
 物語の様式の想像力に富む適用は、それとはちがって、みごとなストーリー、人の心をひきつけるドラマ、信ずるに足る(必ずしも「真実」ではないとしても)歴史的説明などをもたらす。それは人間の、ないしは人間風の意図および行為、そしてそれらの成りゆきを示す変転や帰結を問題にする。それは、時間を超越した奇跡を経験の個別例へと翻訳し、その経験を時間と場所のなかに位置づけようと骨を折る。(pp.19-20)

物語言説の三つの特徴
 もしも物語の発話行為にかんしてイーザーが正しいとすると、言説は、その読者のイマジネーションを取り込む――つまり「テクストの指示の下での意味の遂行」に読者の協力を得る――言説形式に依拠せざるをえない。つまり言説は、読者が自分自身の仮想テクストを「書く」ことを可能にしなくてはならない。(pp.40-41)
1 前提の引き金を引くこと
2 主観化subjectification
3 多重のパースペクティヴ

現実の仮定法化
イーザーが物語の発話行為ということで意味しているものを私なりに述べれば、それらは力を出し合って、現実の仮定法化(subjunctivizing reality)をなしとげる。私は「仮定法」ということばの意味を、オックスフォード英語辞典のあげる二番目の意味からとっている。すなわち、「その形式が、想像された(しかも事実ではない)行為や状態を指すために用いられ、したがって希望、命令、勧告、ないしは可能的であったり、仮定的であったり、予期的であったりするできごとをを表すのに使われる。その叙法(ラテン語のmodus subjunctivus)を指す」。したがって、仮定法で存在するということは、確固たる確実性ではなく、人間の可能性をもっぱら扱っていることにほかならない。というわけで、「成就された」ないしは「理解された」物語の発話行為は、仮定法的な世界を生み出す。仮定法化するという語を私が用いるときには、この意味でそれを使っているのだ。(p.42)

可能世界としての科学と人文学
 科学と人文学とは、両方とも、人間の心の巧みな作品として、心の異なった使用によって生み出された産物として、正当に評価されるようになってきた。ミルトンの『失楽園』の世界と、ニュートンの『プリンキピア』の世界は、人びとの心のなかに存在するだけではなく、それぞれが文化という「客観的世界」――哲学者のカール・ポッパーが世界3と呼ぶもの――に実在している。それらは両方とも、現代の様相論理学の意味で、可能諸世界の集合なのである。どちらも反証によって他方を脅かすものではないし、また、遠い昔の遺産にもとづくもの、つまり論理学者のK・J・J・ヒンティッカが可能諸世界のあいだの相続系統(heir lines)とよぶものを除けば、どちらも他方から導出されうるものではない。それにまた、この体制の下では、反証はきわめて興味深い過程となる。というのも、新しい、より有力な様相論理学では、一つの命題についてそれが真か偽かを問うのではなく、どの種類の可能世界でそれが真となるのかを問うのだから。さらに、すべての想像しうる可能世界において真であることが、仮に証明できるとすれば、その真理は、世界からというより、むしろ言語の本性から派生するものであることは、ほとんどまちがいなく確かである。「バチェラーとは、結婚していない男性である」という陳述が、すべての可能世界において真であろうという意味で。(p.75)

共通の指示
 言語はまた、われわれの主要な指示手段である。その場合、言語は、発話がなされている文脈への手がかりを使い、またその指示対象を定位する前提の引き金を引く(第2章で検討した事柄)。じっさい、指示は、話者たちの共有された前提、および共有された文脈を利用する。指示行為は、おたがいにかんする、話者の主観的領域の写像を根深く含んでいるが、その根深さを認識したのは、ガレス・エヴァンズの功績である。彼は、たとえば指示に失敗した努力さえもが、たんなる失敗ではなく、むしろ可能的指示対象への、われわれに可能な文脈を探究するようにという、相手への申し出であり誘いなのだと気づかせてくれる。この意味で、相手の注意を振り向けるという意図での何もの化への指示行為は、そのもっとも単純な場合でさえ、なんらかの形式の協議を、なんらかの解釈過程を要するのである。さらに、その指示が欠けていたり、指差しや他の直示的手段を利用しにくいような場合には、それはなおさらのことになる。共通の指示の達成とは、だれかある人との一種の連帯の達成である。そのような「間主観的」指示の子どもによる達成があまりにも容易に、あまりにも自然になされるので、そこにはまったく途方に暮れるような問いがもちあがってくる。(p.102)
→前言語的な生物学的補助装置

メタ認知
 みずからの文化的‐歴史的生活とは無関係に「自己」が存在するというのは、ありえないことである。少なくとも伝統的な哲学のテクストでは、「メタ認知」の働きによって自分自身の行為を反復する能力から自己が生まれてくると、ふつう言われている。しかし、近年現れたメタ認知にかんする有益な研究――アン・ブラウン、J・R・ヘイズ、デイヴィッド・パーキンズなど、およびその他の研究――において目立って明らかなことは、メタ認知活動(自己モニタリングと自己補正(self-correction))の分布はきわめて不均等であり、文化的背景によって変化し、さらにたぶんもっとも大事なのは、一つの技術としてうまく教えられるということである。じっさい、自分の発話を自分の意図と一致させるとか、自分の発話を対話の相手に理解できるものにするとか、そういう発話における自己補正、すなわち、「言語矯正」(linguistic repairs)にかんする有力な研究は、メタ認知の原基が満十八か月という早い時期に存在することを示唆している。(pp.108-109)

 したがって、つぎのことは確かな結論だと思われよう。すなわち、われわれの「スムーズ」で容易な交流とそれを実行する調整的自己は、他者の心の原初的認識にもとづく生物学的レディネスとして出発するとしても、その後、言語のあたえる対応の力によって強化されると同時に豊かにされ、交流の生ずるその文化によって活動のためのより詳細な地図があたえられ、そして文化のイメージや物語や諸装身具にその歴史が含まれているかぎりで、結局はその文化の歴史の反映となるのである。(p.109)

ズーキアーとペピートンの実験
セールスマン70人と図書館司書30人の素描から無作為に一枚とりだして、それがそれがセールスマンか図書館司書か聞く。被験者には、その前にオリエンテーションを行なう。

 ズーキアーとペピートンは、被験者にあたえる、喚起的な文脈の量を操作することによって、一方ないし他方へと被験者がいかに傾くかを明らかにする。彼らは、二つの方向のうち片方へ被験者が向かう刺激として、教示するオリエンテーションを二つ使った。すなわち、個人の行為を集団的規範に関連させた「一般的命題に関係する……“科学的”オリエンテーション」と「一人の人にかんする筋の通った物語ないしは“事件史”を構築すること」によって「個人の事例の理解に関係する……“臨床的”オリエンテーション」である。科学的様式の影響を受けた人びとは、ベイズの確率に従って判断する。臨床的物語を構築する気になった人びとは、事実上ベイズの規則を無視する。(p.144)

認知革命
 それから一九五〇年代の末に、今日認知革命と呼ばれるものが訪れた。ハーバート・サイモンやジョージ・ミラーのような心理学者と、ノアム・チョムスキーのような言語学者たちは、被験者の顕在的で客観的な反応ではなく、被験者が知ること、彼らがどのように知識を得てそれを使うか、これに専心したのである。重点は、遂行(人びとのしたこと)から知力(人びとの知っていたこと)へと移った。そしてこのことは必然的に、知識が心のなかでいかに表象されるかという問いを導いた。(pp.151-152)

グッドマンの相対主義と所与
グッドマンによると、われわれは、絶対的だったりあらゆる推論に先立ったりする何かあるものから出発するのではなく、その代わりに世界の創造をみちびくような種類の構築から出発する。しかもこれらの構築は、条件(stipulation)として、一定の前提を当然のこととみなす共通の特徴をもっている。「所与」のもの、あるいはわれわれの構築の出発点で仮定されているものとは、外界の基礎的な実在でもアプリオリのものでもない。つまり、われわれがある一定の目的のために所与とみなしたものは、必ず世界のもう一つ別の構築されたヴァージョンなのだ。以前に構築されたどんな世界のヴァージョンであれ、その後の構築にとっては所与とみなされうる。したがって事実上世界制作は、諸世界と、すでにでき上がっている世界の諸ヴァージョンとの、変形を必要とする。(p.156)



*作成者:篠木 涼
UP: 20080527 REV:20081107, 1115,20090725
Bruner, Jerome  ◇心・情動・感性  ◇ナラティヴ・物語  ◇身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)