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『女性解放という思想』

江原 由美子 19851220 『女性解放という思想』勁草書房,225p.


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江原 由美子 19851220 『女性解放という思想』 勁草書房,225p. ISBN-10: 4326650583 ISBN-13: 9784326650583 [amazon][kinokuniya] ※ f03

■目次




性差別を言葉にすることの難しさ/たとえば、妊娠、出産、人工妊娠中絶の問題を扱うにしても、「その社会の生命観や医療体制の問題」を論じなくてはならず、「形式的な「性差別」という問題の立て方だけでは「女性問題」のほとんどは論じることができない」(p.62)。そのために、「「女性問題」にからみついている「性差別としての次元を切り離して考える必要がある」(pp.62-63)。


一般的な「差別」観/「現実的な利益や不利益の不平等分配」と考えられてきた。「不平等は悪いことである。なぜなら現代社会は平等な社会であるからであるというわけだ。」(p.63)
→ しかし、「現代社会には現実に利益や不利益の不平等分配は数限りなくある。能力主義にもとづく昇進や賃金格差は津々浦々にいきわたっている」。それは、社会には「正当」なものとして承認されている(p.64)。


被差別者の位置の特殊性と差別を正当化する装置/「相手に不利益を与える不当な行為がすべて差別であるわけではない」。暴力や攻撃という非日常的行為は、一般に正当化されえない「犯罪」ではあり、「差別」ではない。
→ 「不利益を被っているからではなくそのことが当該社会では「正当化」されぬからであり、同時にその「正当化」される根拠が、別の論理によってあたかも正当なものであるかの如くに通用してしまうからである」(p.64)。被差別者の置かれる位置は、「特殊」である。
→ 「多くの差別問題は、こうした「現実的」不平等を正当化する装置によってそもそもそれが不当なものであるという認識をコンセンサスとして得られにくい構造をもっている」(p.65)。


被差別者の怒り/被差別者の怒りは、「「差別」問題の枠組み自体、その根源的な正当性とその非対称性」に向けられている(p.66)。被差別者は、差別者と同等の待遇だけを求めているのではない。(「女性が望んでいるのは男性と同じ地位や成功だろう」→「女性は男性をねたんでいる」という思い込みは保存)

→ 「差別」は、財の希少性一般に基づく財の不平等配分ではない。「単なる財の平等分配の強制的確保では「差別」はなくなりはしない」
→ 日常的な「差別」的行為には、差別者の側に差別意識が必ずしも存在するわけではない。だが、意識されない「差別」も悪意や攻撃の意図をもった「差別」(これは差別と言えるか?)と同様に怒りを覚える。また、被差別者は差別者への同化を求めているわけではない。
→「「差別」は利益を求める目的的行為でもなく、病的な異常心理でもない。それは差別者も被差別者も共有する社会的規範や社会意識に根拠を持っている」(p.69)。「それゆえ「差別」を意識的・言語的水準に限定し、形式的に記述する試みが必要」である。


アルベール・エンミによる差別の定義/「差別」は、@差異の強調、A差異の価値付け、B不平等の正当化、という三用件で成立する。これに対して「反差別」言説は、@差異が存在しないと主張する、A差異が存在しても不利な評価付けを批判する、B差異、評価付けがどうであれ、不平等な待遇は不当であると批判する。だが、この三つはときに錯綜し差別の批判を困難にしている。たとえば、応募要項に年齢や学歴、資格等の詳細が明記されている場合に(@ABを満たす)、これを差別とは言わないことになっているように、この要件を満たせばすべて「差別」という主張は、現在できない。


「反差別」言説の混乱/「「不平等」を「不平等」として認識させるためには、論理的に、差別者と被差別者が同一カテゴリーであるということを根拠とせざるをえない」(p.71)。すると、@差異に言及せざるをえなくなり、@にはAが含まれているので、Aにも言及せざるをえなくなり、事実判断には、すでに評価枠組みが先行している(「男女には能力差がある」には、「女性の能力は男性より価値が低い」が先行)。@ABはまざっており、反「差別」論はすべて差異を語る。ABを問題にするには、@差異はないと言わなければならない。しかし、これは肯定されるべき差異(女性の身体的差異)も合わせて否定してしまうことになる。


肯定的な差異と否定的な差異の区別/「差異の内容に詳しくたちいり、分節して論じようとする志向が生じてくる。否定すべき差異と肯定すべき差異を区別し、前者については偏見や現実的諸条件を変革することでなくしていき、後者に関してはむしろ積極的に受容していこうとする志向である」(p.72)。

→ @身体的・自然的な差異(障害者、女性、老人など)、A社会的・文化的に構成された差異(財産、教育、労働条件の不平等から導かれた能力や意欲)、B支配的集団の偏見としての差異と区分して、@は肯定して、ABを変革しようとする。

⇒「だがそうであろうか。いったい、実在的な「差異」は「差別」の根拠なのだろうか。実在的な「差異」などあるのであろうか」(p.74)。実際の「差別」現象においては、被差別者はその属性や属性が問題にされず、単に外見的な「標識」においてこれらが認知され「排除」されているのである(p.75)。


差異を区別する「反差別」言説の問題
@問題枠組みを見つけ損ねる/「「差別の論理」の立てる「差異」の不当性は、それが自然的・身体的次元に「差異」を限定していないためなのではない」。「問題枠組み」、「問題構図自体」が「反差別」言説の困難さを生み出している(p.75)。
A被差別者の分断を生み出す/「被差別者の「反差別」言説間の対立・矛盾は……、「差別」を「差別」として被差別者が問題設定するときに「強いられる」論理的要請なのである」(76)。不平等を批判しようとすると、被差別者は差別者と同じカテゴリーであると言うことになり、当事者間に分断の線が引かれる(女性が男並になる。 ⇒ 子を産み育てる女性+子を産み育てない女性)。
B差別者が重視する「差異」に依拠してしまう/「「差別」における特定の「差異」の定式化は特定の社会・文化的条件に伴う、特定の評価的枠組みを前提として立てられている」(pp.76-78)。

⇒ 「差別問題のもつ本質的な非対称性」/「そもそも、なぜ被差別者だけが、おのれの属性に対して、身体的次元の属性なのか、社会的・文化的に構成された次元の属性なのか、それとも偏見なのか、等々を区別だてることを要求されねばならないのか。」(p.79)「なぜ被差別者がおのれの属性を吟味する必要があるのか。それは被差別者のしかけた論理であり、それに答える義務は被差別者にはない」(p.80)。必要なのは、「先の議論とまさに逆に「差異」の実体的な把握や感性や、解放イメージの問題ではなく、まさに「差別の論理」の形式的記述、その巧妙なしかけ自体の記述となるだろう。「差異の否定」という論理を直接に解放イメージといった社会構想の問題に結びつけることではなく、逆にこの二つの主張の間には直接的な結びつきはないと指摘することであろう」(p.81)。


「差別の論理」とその特殊性/「「差別の論理」はあたかも「差別」問題を解く鍵が「差異」をめぐる認識の是非にあるように問題をしくむ。被差別者は「反差別」の主張のために、当該社会に一般化している特定の差別者―被差別者の「差異」の認識を否定しようとする。そしてそのために、差別者側がそうした「誤った」認識を主張することを、差別者が持つ特定の利益心理や意図によって説明づけることに追い込まれる」(p.83)。

→ 「一般に、差別を単なる「現実的」不平等や「現実と異なる」偏見として論じることは「差別」の本質的非対称を明らかにしない。単に他者に対して「不利益」を与えたり「偏見」を抱いたりすることは、それ自体としては相互行為において相互的に生じうることであり、それは「差別」現象の特殊性を明確にしない。差別とは本質的に非対称的である」(p.84)。

→ 「差別」とは本質的に「排除」行為である。「差別」意識とは単なる「偏見」なのではなく、「排除」行為に結びついた「偏見」なのである。「排除」とはそもそも当該社会の「正当」な成員として認識しないということを意味する。それゆえ「差別」は差別者の側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する「不当な」行為に対して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである」(p.84)。

→ 「差異の指摘やその評価づけは、「差別」を強化し維持するかもしれないが、「差別」がなされねばならぬことを説明する根拠とはなっていない。ところがそのことは通常、被差別者からは論じられぬままである。被差別者は「差異」の存在の有無について「応えねばならぬ」ように問題を立てられてしまっているからである。だが実際、「差異」があるか否かという問いは二重拘束的な問いである。女性に対して、「女性は男と同じであるか、男とちがうか」という問いの二者択一をせまることは、どちらを答えても「不利益」を予想せざるをえないゆえに本質的に不当な問いなのである」(p.85)。差別者の無徴性と被差別者の有徴性。

→ 「差別」は「差異」を必要としない。「もし、あらゆる「差別」が「差別の論理」の説くごとく、「能力」や「身体的条件」などの「差異」に根拠づけられるとするならば、「能力」や「身体的条件」だけで別処遇が可能であるから、差別者―被差別者のカテゴリー化は不用であるはずであろう」(p.86)。「「能力」や「身体的条件」等の測定は実のところ非常に困難であり明示的でないのに対し、「性別」や「障害の有無」は明示化させられているので、それを「能力」や「身体的条件」の指標とする方が簡単なのである」(p.87)。

→ 「差別」には、差別者を優位、被差別者を劣位におく評価つけの軸と、被差別者を「排除」する軸があるが、後者の方がより本質的である。「「差別」は社会の中心的な組織形成のための、組織論的必要から生み出されたのであろう」(p.88)。

→ 被差別者は告発により、差別者の意図や偏見を探してしまうと、その意図があるか否かを立証する過程にまきこまれる。また、告発により差別の不当さを訴えようとすると、差異の否定を導くことになる。

■書評・紹介

■言及


*作成:高橋 慎一
UP: 20080420 REV:20080926
フェミニズム (feminism)/家族/性…身体×世界:関連書籍 1980'BOOK
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