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『労働者作曲家 荒木栄の歌と生涯』

神谷 国善 19851025 新日本出版社,245p.

last update: 20130614


■神谷 国善 19851025 『労働者作曲家 荒木栄の歌と生涯』,新日本出版社,245p.

■目次


まえがき
序章 有明けの海の底深く(1924~52)
第一章 音楽を大衆のものに(1953~56)
第二章 誰のため どのように(1957~58)
第三章 日本共産党の隊列へ(1959)
第四章 もえろ三池の火の柱(1960)
第五章 統一そこに勝利あり(1961)
第六章 この勝利ひびけとどろけ(1962)
第七章 不死鳥の詩
終章 あなたの歌は今日も日本の土と空に
<附>荒木栄作品年譜
あとがき


■引用



■序章 有明けの海の底深く(1924~52)

「荒木栄について語ること、それは「合理化反対闘争の頂点」とされた三池闘争について語ることであり、これをつつんで国民的規模で展開された安保闘争の教訓を明らかにすることであり、そして関西の経済団体で“あれが入ってきよったらあきまへんで”といわれたうたごえ運動について語ることにほかなりません。」(2)

「荒木栄の父安太郎は、閘門と呼ばれたこの水門の万人であった。1924年(大正13年)10月15日、閘門社宅で男三人、女五人の八人兄弟の末の男の子として生まれ育った栄は、よく水門の所に遊びに行っては、有明けの海を赤く染めて沈んでゆく夕陽を眺めることの好きな多感な少年であったという。」(12)

「後年、栄は“炭坑ばやし”(50年)をはじめとして“新さくら音頭”(55年)“団結おどり”(60年)“春まつり音頭”(62年)など、いわゆる音頭物を数多く創作しているが、これは一つには、栄が生まれた閘門社宅には、日清戦争のころ、石炭の船積み作業に雇い入れられた与論島出身者が多く移り住み、郷土色豊かな歌や踊りのあふれる環境のなかで育ったという生い立ちが考えられる。それに母スガは、娘時代から村で三日三晩つづいたハンヤ舞に加わり、手踊りの名手とうたわれた人。」(14-15)

「荒木栄が第二の人生を歩み始めた1947年は、戦後の民主主義的高揚の最初の時期でもあった。労働者、農民をはじめ国民諸階層と各戦線にわたって、産別会議、日農をはじめ民主的組織が生まれ、民主政治に大きく道をひらく民主戦線結成の動きが主権在民の新憲法の制定(46年11月)と相まって盛り上がった。47年2月1日に向けて賃上げ、首切り反対などの経済要求と結びついて吉田内閣打倒をかかげた一大ゼネストが、国鉄、全逓をふくむ官公労働者を中心に組織されつつあった。」(22-23)

「さらに人びとの心を明るく大きく勇気づけたものに、文連(日本民主主義文化連盟)が結成と同時に産別などと公募を呼びかけてできた新労働歌「世界につなげ花の輪に」(箕作秋吉曲)「晴れた五月」(関忠亮曲)のNHKラジオ放送や職場自立楽団などによる普及があった。メーデー歌をマスコミがとりあげて普及するなど今日では夢のような話だが、当時いかに国民の中に、日本の民主的復興の願いとエネルギーが充満していたかを物語っている。
 45年12月の「歌声よ、おこれ」の宮本百合子のよびかけは、文学運動の枠をこえてひろがり、映画、美術、演劇、音楽など文化各ジャンルにわたって、戦前のプロレタリア文化運動の遺産をひきついだ反戦、平和をテーマとした作品がぞくぞくと生み出され、それらが今日の民主的文化運動の原点となったのである。」(23)

「栄は、結婚する少し舞え、三池製作所混声合唱団を組織していた。また、大牟田市職場混声合唱団にも、三池製煉所(現在三井金属)で働いていた妹の桃枝とともに参加している。」(24)

「何ごとによらず几帳面な性格だった栄が、多くの労働者が階級的自覚にめざめつつあったこの時期に、一種の足踏み状態にあったということは、栄の属する三池炭坑労組(46年結成)で、47年以降、社会民主主義向坂派による労働組合主義的統制が始まったこと、大牟田市全体が三井財閥が支配する企業城下町で、真に自主的自覚的な文化活動をすすめるうえでさまざまな障害があったことなども見逃せない。」(25)

「朝鮮侵略の基地として「銃後」を固めた平和と民主主義にたいする重大な攻撃の前に三池の各職場をはじめ大牟田市の文化団体は大打撃をうけた。サークルの中心メンバーはほとんど解雇された。[…]会社の上司から一時は職員にと嘱望されていた程信頼されていた栄はパージはまぬかれたが、職場の婦人労働者のほとんどが希望退職の名目で退社させられ、混声合唱団は解散のやむなきに至った。」(28)

「栄が“炭坑ばやし”に歌ったその石炭が、朝鮮戦争でどのような役割を果たすのか、そして先進的な労働者が、意識的な生産サボや輸送拒否闘争を闘っていることもすでに知らされていた。通信教育まで申し込んで、音楽学習にとりくんでみたものの満ち足りぬ日々。栄は、地域青年団の中でコーラスを指導し、歌やダンスなど栄なりのうたごえ運動に取りくんでいった。“地底建設のうた”に、炭坑労働者の真の生きがいある生活を築くことを願った栄の心には、明治の初年から、もぐら太郎といわれて汗と血を流しつづけた親兄弟の仲間たちの「地底からの叫び」が海鳴りのように、絶えずひびいていたに違いない。」(29)

「53年6月、石川県内灘試射場設置反対や群馬県妙義演習地反対など、全国で高まりつつあった米軍基地撤去のたたかいに呼応し、51年9月、サンフランシスコでのアメリカとの単独「平和」条約締結に反対する愛国の運動でもあった。」(31)
● 愛国と反米
「去る6月25日から26日にかけ九州北部は記録的な集中豪雨に見舞われた。[…]共産党、社会党など50団体が福岡県民主団体水害対策協議会を結成し、救援運動を組織した。この運動の中から今日の民医連運動がスタートし、全学連からも東大、早大などの学生が現地に支援に入り、労農同盟を軸とした階級闘争の姿を実地で学んだものも多い。」(34)

“民族独立行動隊の歌”(山岸一章作詞、岡田和夫作曲)
「三池鉱山本社まえのピケ隊を激励するうたごえに共鳴し、この歌が全員によって歌われる有様に感動した栄は「よし俺も、第二の“民独の歌”をつくろう」と深く決意したという。」(35)
「全くこの歌は、レッド・パージ後の職場に、党を再建してゆくうえですばらしい力を発揮した。新しく入党した同士を迎えてこの歌をいっしょに口ずさんでいると、全国の鉄路にそって愛国者の隊列が広がり、その足音が高まってゆく様が真実感じられた。それは新しい時代の到来をつげる息吹きであり日本のうたごえ運動の九州における最初の一撃でもあった。」(37)
●三池鉱山、「民族独立行動隊の歌」、レッドパージ後の党再建

「1954年は、日本の平和運動にとって画期的な年となった。それは3月1日、アメリカのビキニ環礁水爆実験による第五福竜丸の被災にたいし国民の抗議の声が全国でわき起ったことである。広島、長崎についで二度目、しかも戦争が終わった平和の時代に、世界最初の水爆犠牲者となったことへの日本国民の不安と怒りはさらに大きく高まった。東京杉並にはじまった“三度許すまじ原爆を”の署名運動は“原爆を許すまじ”(浅田石二詞・木下航二曲)とともに、またたく間に全国に広がり、これと前後して作られた各地の原水爆反対の歌、長崎の“あの子”(永井隆詞・木野普見雄曲)広島の“甦える広島”(三宅辰美詞・林光曲)大阪の“水爆犠牲者を忘れるな”(関西合唱団詞曲)などの歌がうたわれた。
 それとともに、朝鮮戦争後はじまった職場の合理化、首切りに反対する労働者のたたかい――近江絹糸の“紡績女工はもう泣かないよ”、日鋼室蘭の“俺は労働者だ”など、各産業別のうたごえが大きく職場からわきおこったのである。
 これまでは、どちらかといえば、ロシア民謡や外国の歌曲、あるいは日本の民謡や専門家の作曲が中心ではじまったうたごえ運動が、この間の大きな成長と変化をとげ、大衆みずからが、生活や闘い、平和への願いをうたにし、広めるという、世界にも類例がない、国民的音楽運動のスタートを切ったのである。」(40−41)
「うたごえは運動の全国的組織、日本のうたごえ実行委員会を確率したのである。「うたごえは平和の力」のスローガンのもと「うたは闘いとともに」「一人の仲間が一人の仲間を」を合い言葉に「平和で健康な歌を全国民のものとすること」を目的として。それは戦時中、軍歌でぬりつぶされた若ものたちの新たな青春の始まりだった。そして、職場を不当に追われたものにとっては、職場の友と再び手をたずさえて、ともに闘いに立ち上がってゆくノロシでもあった。」(42)
●原水禁運動、レッドパージ、合理化反対などの運動を通じた「うたごえ」の定着と発展

「1950年にアメリカ財団の出費による国際文化自由会議の窓口として、国際文化交換教会(会長・藤山愛一郎)や、日本芸能文化センター(芸文)など、日本国内の組織と工作を受けもつ団体があいついでつくられていた。さらに、音楽モデル県(例・群馬県)があらわれ、うたごえや労音(民主的音楽鑑賞組織)などの大衆的運動に対抗する対策が強化され、一時は、「自民党のうたごえ学校」などというものまであらわれ」(50)
●日米両政府による文化政策と冷戦

「「歌は、多くの人びとの気持ちになってつくるとき、生きたものが生まれる」と常常考えていた」(52 ※1956年10月20日『荒木栄創作曲集』の中の荒木栄のことば<はじめに>から)

「そこでは人びとが、あけもどろ(朝あけ)の色のように赤い沖縄人民党の旗のもとに結集して、祖国復帰のたたかいに起ち上りつつあった。
 全九州合唱団会議(全九合)のこの沖縄のたたかいの支援のよびかけをうけとった全司法福岡高裁支部では“沖縄を返せ”をつくって、1956年9月、大分県体育館で開かれた第4回九州のうたごえに参加。この時初めて沖縄から琉球舞踊をもって招待に応じた沖縄代表を激励した。そして、北川剛先生(合唱団白樺指揮者)を審査委員長とする創作コンクールで大衆投票の結果、この曲が、荒木栄の“新さくら音頭”、九州青年合唱団の“藤野さんと輝ちゃんに”を抜いて第一位に選ばれたのである。「曲想が暗すぎる」「イタリア映画『自転車泥棒』の主題曲のようだ」といった声もあったが、次第に職場に広がり、沖縄への関心を高めていった。全九合事務局に福岡県平和委員会の堤康弘氏から、次の申し入れがあったのは、それから間もなくのことであった。

 「この歌が、もう少しなんとかならないか。実は、県平和委として来年早々に沖縄行進を計画している。いま、東京の砂川では、強制測量に反対するピケ隊が、4千名の警官に退治して“赤とんぼ”を歌ってたたかっているそうだ。これに呼応して九州から沖縄返還を訴える行進団を組織したいが、この中で歌える沖縄行進の歌をつくっていただきたい」

 事務局では、栄あてにさっそく手紙を書き“沖縄を返せ”の歌を行進曲風に改作してほしいと依頼した。
 この要請に栄がこたえ、一週間後に福岡に姿をあらわしたとき、同じ“沖縄を返せ”の歌は、見事な行進曲に変貌をとげていた。栄は、楽譜にそえて次のメモを書きつけている。

 原曲は短調で、悲壮にうたいあげたところに、詩とのアンバランスがあったのではないかと思われます。原曲のイメージをもとに改作したこの曲も、決してよいものになったとは思いませんが、民族のいかりをたたきこむつもりで歌っていただければ、力強いものになると思います。
 ※躍動する部分と、レガート(滑らか)の部分の使いわけを、上手にきれいにうたってください。

 12月、日本のうたごえ祭典に、九州代表がこの歌をもって参加したあと、沖縄では、那覇市長に人民党瀬長亀次郎書記長が当選。そして翌57年1月、はじめて、鹿児島から東京へ1,500キロ、最初の日本縦断の沖縄行進は、当初の予想をこえて大きな反響を全国に呼び起こした。日本国民の目が、ようやくひめゆりの島に向けられ始めたのである。しかし、活動家の渡航は、米軍によってチェックされ、直接の交流はまだ容易ではなかった。
 このころ、古波蔵保吉(のち那覇市議)らは、沖縄うたごえセンターをつくり、「あかつきの大合唱」の運動を組織していた。」(54−55)

■第二章 誰のため どのように(1957~58)

「ほとんどの鉱山にうたごえサークルが生まれ、九炭労サ協を結成、国鉄とならんで、九州のうたごえ運動の中心をなした。」(59)

大牟田センター合唱団、機関誌『あしおと』

「三池城下町の大牟田にあって、三鉱労組組合員の目からみる失対労務者は、まともな職をもたぬ乞食のような存在に近かった。栄には、母がよく“乞食”を家にあげてメシを食わせていた記憶がある。しかし、全日自労に組織された仲間たちこそまさに組織労働者であった。彼らは、あけっぴろげで、何でもあけすけに語り合う。しかし、その中に、人間としての誇りと働く者の権利にたいする自覚がどっかとすわっていて、栄は人間の魂にふれる喜びにしんからひたることができたのである。これは“民族独立行動隊の歌”の衝撃が単なる音楽ではなく“人間の魂”との触れ合いだった栄にとって、自労の人たちとの出会いは、“第二の衝撃”ともいえるものだった。」(76−77)

「この年の夏、栄は共産党への入党をすすめられたが、[…]「党員になると大衆との接触、活動の幅がせまくなる。アカだということになると、運動がしにくくなる」といって手こずらせてきた。その頃日本共産党は、まだ「50年分裂」から団結を回復していない時期であった。
 だが55年7月の六全協で統一への第一歩を踏み出した党は58年7月、第七回大会をひらいて統一を回復した。」(84)
●共産党入党依頼への拒否。その後、入党。


■第四章 もえろ三池の火の柱(1960)

・「がんばろう」
「この歌の最後に突き出すこぶしが、三池・安保をたたかう連帯の合図となり、ホッパー包囲の十万人のこぶし、国会を包囲の二十万のこぶし、そして岸内閣を倒してアイクを追いかえした怒りのこぶしとなった。」(123)

「三池・安保闘争の中で果たしたうたごえ行動隊の役割は、次の二点に要約されよう。
 第一に、うたごえ運動が三池・安保闘争をつうじて大きな役割を果たし、その中で社会的存在として認められるようになったこと。[…]医療班とならんで、うたごえ行動隊はピケ小屋や社宅でひっぱりだこであった。これは単に慰問や激励にとどまらず、団結の力、闘いの武器になったことを示しており、この後「闘いのあるところ必ずうたごえあり」の状況をつくり出した。
 第二は、うたごえ運動自身がこのたたかいと結びついて、本来の運動の目的にそって運動を大きく前進させ、この中でたくさんの活動家を生み出したということ。」(133)

■第六章 この勝利ひびけとどろけ(1962)

「もともと九州合唱団の奄美公演の源泉をたどると、奄美民謡の研究家でもあった、鹿児島労音事務局長の遠藤峻が、映サ合唱団を組織して、奄美民謡“八月おどり”や“浜千鳥”などを紹介し、“返せ沖縄”(鹿児島職場合同合唱団詞・曲)の創作曲を広めるなど、早くから鹿児島のうたごえがとりくんできた活動のうえにあった。今回の公演がめざしたのは、奄美からさらに南に向かった沖縄であったが、なんどパスポートの申請をしてもうたごえ活動家とわかると米軍の許可がおりない。せめて奄美までというのが私たちの願いであった。」(169−170)
「九州合唱団による奄美公演は、’61日本のうたごえ祭典後ひらかれたうたごえ総会での決議「一、安保破棄のうたごえを更に高め、日本を平和のとりでに築こう――安保破棄の国民の闘いを中心に、合理化に反対する労働者の闘い、基地反対の運動の中で、うたごえが大きな役割を果たしてきたことを確認します。平和のうたごえをさらに高めましょう」の具体的実践の一つであったが、この間にも、板付基地拡張反対のたたかいが拡がりつつあった。」(170−171)
●1962年奄美公演、「返せ沖縄」、沖縄渡航拒否、板付基地拡張反対闘争


■終章 あなたの歌は今日も日本の土と空に

「党葬には共産党をはじめ社会党、労働組合、民主団体など四百名の人たちが参加し、生前の業績をたたえ、かれの遺業をひきつぐ決意を捧げた。日本共産党中央委員会野坂参三議長(当時)をはじめ数々の弔電、そのなかには沖縄人民党の「“沖縄を返せ”の偉大な作曲家の死をいたむ」という弔電もあった。」(213)

「最後に、この荒木栄物語をおえるに当り、「今更めて、この沖縄できっと将来、革新県政を奪還して、いつの日か祖国復帰記念事業のひとつとして、作曲家荒木栄の名とともに“沖縄を返せ”の記念碑を必ず実現し、永久に残していくようにしたい」との決意をこめて、基地の島、沖縄から荒木栄碑の除幕式に向け寄せられた次の詩をもってエピローグとしよう。

   「あなたと ともに」―基地の島 沖縄から―
                       こはぐら ほきち

 鉄の暴風、悲惨な地上戦
 沖縄戦から40周年の この年に
 あなたの記念碑が
 建てられます
 全国の 熱い思いが 込められて
 ゆかりの地に 建てられます
 
 アメリカの極東最大の基地
 沖縄の
 たたかいの歴史を 支えたのは
 あなたの
 水々しい 豊かな
 温かい心を くぐって生れた
 「沖縄を返せ」の歌でした

 そのうたは
 異民族の支配を断ち切る
 力となって
 祖国復帰のたたかいを
 勝利に導いてくれました
 いつまでも
 わたしたちの かけがえのない財産となり
 日本のうたごえの財産となった[…]」(235−236)

■<附>荒木栄作品年譜
1924 10月15日三池炭鉱社宅で誕生
1937 高等小学校卒業、三井三池製作所養成工を経て機会組み立て職場で働く
1947 ヒサエと結婚
1952 青年団を主体としたうたごえ運動を起す
1953 第一回「九州のうたごえ」(福岡市)参加
195610 「沖縄を返せ」(全司法福岡高等支部)
1957 大牟田センター合唱団を結成
1959 共産党入党。三池製作所支部に所属。
196006 「がんばろう」(森田ヤエ子)
19621026 米の山病院で死去
1963 日本のうたごえ実行委員会「荒木栄賞」を設定

●戦争中の経験があまり語られていない

●言及されていた資料など
大牟田センター合唱団『わが母の歌――荒木栄遺作集』(死後1ヶ月あまりで制作)
1980「荒木栄を記録する会」(245)


■書評・紹介


■言及



*作成:大野 光明
UP: 20130614
沖縄 社会運動/社会運動史  ◇「マイノリティ関連文献・資料」(主に関西) 身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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