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『迷彩の道標――評伝/日本の精神医療』

秋元 波留夫 19850523 NOVA出版,290p.


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秋元 波留夫  19850523 『迷彩の道標――評伝/日本の精神医療』,NOVA出版,290p. ISBN-10: 4930914191 ISBN-13: 978-4930914194 \2940 [amazon][kinokuniya] ※ m. ut1968.

■内容

■目次 ■引用

分裂病研究の先駆者(林 道倫)

 人の晩年とは一生のどの時期を指すのか。人が為すべきことを成しとげてただ死を待つだけの文字通りの余世を意味するなら、そのような晩年は林には存在しなかった。彼は死に至るまで自己貫徹の壮絶な闘いをやめることがなかったからである。私は彼における晩年を、昭和四十四年から死が訪れた昭和四十八年までの数年間に限定する。この時期、外面的には研究所及び病院の運営が危機に陥り、林はその能力の限界と責任者としての鼎の軽重を問われたのだろうが、しかし、私は彼の精神が生涯において最も自由闊達に飛翔した時期だったと思う。
 病院の経営がようやく安定し、林の指導のもとに研究所の整備にかかろうとしていた昭和四十八年八月、それまで彼を助けて病院の診察を発展させてきた医局の有力なスタッフが前後して病院を去ることなったが、その後任を得ることができない、という不測の事態が起こった。昭和四十四年は東大安田講堂占拠事件が発火点となって大学紛争の火の手が全国に広がった年である。東大精神科ではこの年九月、精神科医師連合のなかの一部の者によって病棟及び研究室が占拠され、教授が教授室から追いだされてにげだすという醜態が演ぜられる始末であった。分裂病は神話である、などという馬鹿馬鹿しい幻想にとり憑かれた連中は精神疾患の生物学的研究を敵視して、攻撃を加えた。岡山でもこのような状況があったか、どうか私は知らない。しかし、林の研究所と病院を襲った危機がそれと無関係だとは思われない。
 それにしても不思議でならないのは、精神医学会の混乱の最中である昭和四十四年八月十四日、岡山で開かれた林をかこむ座談会(注26:台弘他 先覚者に聞く林道倫先生を訪ねて、精神医学一二、二二〇二−三四、1970。)で、この切迫した状況について何も話し合われていないことである。この席では、台弘(当時東京大学教授)、奥村二吉(当時岡山大学教授)、富井道雄(当時林精神医学研究所同人)の三人が聞き手で、巣鴨病院時代の思い出などなかなか面白い話ががかわされているが、さきにもちょっと書いたように、林という人間を知るのに大切なことはほとんど問われていないし、とくに、大学や学会の切実な問題については全く一言も触れられていないのはどういうわけなのか。私は丁度この頃、六月中旬、くも膜下出血で倒れたあとの治療のため虎の門病院に入院中であったが、東大精神科のことは、常に念頭をはなれなかった。私は後に病床でこの座談会の記事を読んで残念に思ったことをいま想いだす。
 昭和四十四年十月、林は医師の補充を岡山県の民主的医療機関連合会(以下民医連と略す)に依頼した。彼はかねてから民医連の立場と活動に共感していたからである。林の弟子たちから見ると、このような林のやり方は理解に苦しむ奇異な行動だったに違いない。当時のことについて弟子たちは語るのを好まないが、林が民医連に接近するのに反比例して弟子たちとの関係が疎遠になっていったように思われる。ある人は岡山の教室が林を支援しなかったから、林はやむを得ず民医連に助けを求めたというが私はそうは思わない。その理由の一つは、昭和四十五年四月、水島協同病院の紛争に対する林の行動である。この病院の診療が新左翼系医師の反乱によって困難になった時、林は民医連の要請に応えて、彼自身この病院に赴いて、患者の診療にあたるなど、あらゆる支援を惜しまなかったという。(注17:林精神医学研究所 財団法人林精神医学研究所三〇年史、近刊。)彼はこの事件によって民医連に対する信頼を一層深くしたように思われる。林が日本共産党の支持を公然と表明したのは昭和四十六年三月に行われた一斉地方選挙の時である。彼は次のような後援会長としての挨拶の言葉(注20:則武真一 地方選挙に新風を 五、一九七一。)彼はこの選挙に日本共産党から立候補した則武真一の後援会長をひきうけたのである。彼は次のような後援会長としての挨拶の言葉を書いている。
 ≪わたしは則武君をこどものときから知っている則武君は私の教え子だが、同じ教え子に故三木岡山県知事もいた。
  三木県政と、それにつづく現在の加藤県政は岡山の工業開発をすすめて、いま、公害がはげしくひろがっている。こうした自然破壊がこのままつづけば、人類は、長くはつづくまい。
 わたしは、自然を守り、人間を愛する人である則武真一君を支援したい≫
 則武は岡山県議会の首位当選を果たした。この頃から、林の体力は衰えを見せはじめたが、意気なお盛んで、教授時代からひきつづいて彼を助けてきた婦長金光千代子の話によると、大阪府選出の日本共産党代議士川上貫一の岡山での講演会で、金光とともに最前列にに坐り、彼の光った頭が人目をひいたということである。また、日本共産党岡山県委員長から入党を勧告され、「俺はもうとしだからお前入れ」ということで金光が正式に入党したと彼女自身が語っている。(pp. 277-80)

 「南雲の私あての書簡は、彼もまた林の精神的な弟子のひとりであり、その伝統を発展させる気概を抱いていることを示していると思う。
 ≪私が赴任した昭和五十一年ごろの林病院の状況はたしかにミゼラブルでしたが、その構想と方針は見事な伝統が残っていると感じました。
 第一に精神病は病である、従って病者として遇しなければならない、と看護者は ナースのみにかぎり男の看護者は一名もおりませんでした。看護には母親的な態度が必要であるとして年輩のナースが、根気よく丁寧に患者さんに対応し、抑圧的な雰囲気が全くありませんでした。患者さんは大きな顔をして病人として入院していました。
 第二に週一回全員の個人面談の形の診察廻診と称して厳格に行っていました。松沢育ちの私には重荷でしたが、病者を病者として遇するために、これも必要有効なことと判ってきました。たしかに、それまで岡山では林病院は専門家の間では批判が多かったようですが、一般には手のよく行きとどいた病院という評価を得ていたようです。
 第三に保護室は松沢の昔のそれのようにただの部屋で、すべてトイレ、食事、洗面は誘導によることが守られていました。夜勤も廊下に半畳のタタミを出してそれに坐り、必要に応じて動くという形が守られていました。食事は特に林先生の重視する所で、決して質をおとさせなかった、ということです。「患者さんは食べることが一番楽しみなのだから」と常に言われていたようです。
 医療人としての林先生を批判することは簡単だと思います。しかし、その底に流れる精神にヒューマニズムを感じるのです。私は林先生は偉大なヒューマニストだったと思っています。
 戦後ロボトミーが流行した時、脳の傷害を重ねると一貫して反対され、事実岡山では一例も手術例がありません。戦後間もない頃、岡大病院の精神科個室の暖房が止まったことに怒りを発せられ、自分の年末のボーナスをあて、暖房を確保したとのことです(金光婦長の話)。岡山大学学長をやめられた時、退職金で大学前の大通りの両側に銀杏の並木をうえられたことも有名な話です。≫(昭和六十年一月二十七日付著者あて書簡の一部)
 林が遺した研究所と病院が、彼の晩年このんで口にした「人民」のための、「人民」の側に立つ民主的医療機関として、さらにまたその医療を発展させるための研究所としてたくましく前進することが南雲ら、この施設の全職員の使命だろう。」(pp. 281-283)

*作成:三野 宏治
UP: 20091007 REV:20110715, 0803 

秋元 波留夫  ◇精神医学医療批判/反精神医学  ◇東大闘争:おもに医学部周辺  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
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