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『ぼけない方法教えます』

早川 一光 1985 現代出版,238p.


早川 一光 19850301 『ぼけない方法教えます』,現代出版,238p. ISBN-10: 4875972180 ISBN-13: 978-4875972181 1000 [amazon][kinokuniya] ※

■引用

「▽218 狛犬
 「私の会った人」と問われて、天の原ふりさけ見れば、白雲もいいきはばかるような高く貴い人でなくて富土のすそ野のようにながながとひろがった在野の人たちばかりである。 この人たちはふりあおがれないかわりに、のびのびした自由があり、ふだん着の人間のにおいがした。
 「おいでやす三寸」ということばが生き生きとひびく西陣のなか、訪れる人の対応も惜しんで一寸、二寸とただ下を向いて織りつづる西陣のろじの中に、私はふと、この人に会った。
 山本こまさん、八十二歳のおばあさんだった。二十数年前のこと。小川通り、千家七近く、ひときわ低い格子戸が小さくひそと開いていた。そこに、これまたねこ▽291 背の小さなおばあさんが、いっも古い長火鉢(ばち)のそばに座っていた。
 おばあさんは、いついってもひとりであった。二間(ふたま)しかないひとりぐらしのおばあさんの家は、いつもきれいに掃除がきとどいていた。どうしておばあさんがひとりなのか、私は聞きただそうとも思わなかった。そんな湿っぱさは少しも感じさせなかったからだ。
 私は、せっせと往診かばんを自転車につんで、おばあさんの家に通った。おばあさんせは心臓が悪くて、歩けなかったからだ。おばあさんは医療保護な受けていた。
 「おばああさん、どーえ、きょうは。気分えーか」
 「ええ、おかげさんで」
 おばあさんは、いなかの神社の狛犬(こまいぬ)のような鼻に、しわを寄せて笑つた。ある日、往診した私におばあさんが之「センセ、病院たてなさるそうやな」と言った。
 「うん」「みんなが、お金出しおうてなさるそうやなな」「うん」「わても、少し出さしてもらいまっさかい。なんぼほど、セソセ、出したら」「おばあさん、無理せんでええ」
 ▽220 「そんでも、お世話になってまっさかい」「そうやなあ。おぱあさんひとりやさかいなあ。これくらいか」
 私はおずおずと指二本出した。二百円でええ、と心で言うた。おばあさんの狛犬の鼻が笑った。
 「センセ、そんなもんで病院たちますかいな、アホな」
 あさって用意しとくさかい、ついでに取りにおいでやすと言わhれて、ぜんぜん忘れ、ていた。
 往診にいった日、長火鉢の上に古新聞が丸めておいてあった。「これお使いやす」「なんや、これ」となにげなく開くと、二十万円が入っていた。
 「おばさん、どなんしたんや、これ」といえば、「わてはひとりぐらし。いつ死ぬかわかりまへん。ひとりで死んでたら、ご近所に迷惑をかけます。その時の葬式代。お使いやす」と。
 「うーん」と考えこんで、私は、「よしや、もらうで」と言った。
 こう言い切った時から、私は西陣を離れられなくなった。

 ▽221 市民的自由
 昭和二十五年。戦争は終わっても、深い傷跡は京都にも残った。住むに家なく焼け出された人たちが、戦災をあやうくのがれた京都の町にあふれていた。六畳のひとまに六人の親子が、だんごのようになってねていた。
 生まれたばかりの赤ん坊が、上の子の寝がえりの下になってつぶれて死んでいたこともあった。
 こうした中にも、雑草のように西陣には、機音(はたおと)がろじの奥からきこえて来た。枯れたと思っても、春になるとどこからともなく芽を出す野草に似ていた。踏まれても踏まれても出てきて、花を咲かすタンポポのような西陣である。
 この西陣の人たちには、健康保険がなかった。病気になっても気やすく医者にかかれなかった。この人たちは、”自分の体は自分で守ろう””自分たちの生活は自分たち▽221 で守ろう”と、五円、十円とお金を集めて古い西陣織の工場の一角に小さな診療所をつくった。自前の診療所であった。それはまた、庶民の自衛の知恵でもあった。
 そこに私たち青年医師が呼ばれて参加した。素手の医療であった。素足の医療でもあった。この素足、素手の医療と看護をじっと見守って下さった先輩たちがいた。その一人に、松田道雄先生がいた。
 松田先生は、すでに戦前からこどちの結核にとりくんでおられ、こどもの結核は親の結核によることを早くから指摘され、家族内感染の危険から、こどもをどう守るかを苦慮なさっていた。
 赤ん坊のB・C・G接種を市民運動として提唱されて久しい。疫学的発想でなくて、住民運動、社会運動としての結核から赤ん坊を守る医療活動は、例によって当時の官権から見張られ、弾圧されつづけたことは、想像にかたくない。
 私は戦後の西陣の自衛の住民運動を通じて、松田先生との出会いをいただいたが、考えれば必然と言えようか。後日、先生の父上と、私の父とが旧知の仲だと聞いてそのご縁に驚いている。
 ▽223 その小さな汚い診療所に松田先生が、毎週おとずれて、私たち若い医師に陶部X線写真の撮影と読影を手ほどきしてくださるようになった。診療所は貧乏であったので、先生なお迎えにあがることもできず、先生は歩いておいでになっていた。もちろん謝礼も出せなかった。しかし、正確な時間にキチンとおいでになって、ずぼらな私たふをろうばいさせた。
 療所内では手狭になったので、診療所の家主さんの応接室をお借りして勉強会をつづけたが、応接室とは名ばかり。ソファの布はやぶれ、スプリングがとび出して先生のしりをつっっく。家主のねこが数匹あばれて寝まそべるので、ねこのノミにかこまれて、我われは体をかきかき講義に耳をかたむけた。
 当時、我われには入手困難であった外国文献な、先生のすばらしい語学力で翻訳、解説してくださったことが、昨日のように思える。
 この学習会は、夜の診察が終わってから始まり、時に夜中の一時、二時におよんだ,ことが多かった。今の堀川病院の副院長さんたちは、この当時の松田教室の卒業者である。

 ▽224 医の主体性の道

 西陣の人びとと共に歩こうとする青年医師団を、温かく守ってくださる先生が、またいた。先の堀川病院院長竹沢徳敬(のりひろ)先生である。
 昭和二十年。八月のせみしぐれの中で、乾ききった敗戦を迎えた。私たち学生は、一瞬、バックボーンを失って立ちくらみした。自由のうれしさと、個の発見の喜びとともに、奔放に走るものと、大学内の民主化運動に走るものと分かれた。私は虚無からようやく脱して、民主主義とは何かを考え始めていた。
 戦後第一の学生運動の波は、大学民主化の運動であった。学長公選、教授会公開をせまって、私たち学生は動いた。しかし、大学の運営管理は、閉じた二枚貝のように固くしまって、なかなか開かれなかった。激しい交渉が行われた。
 とうとう学生の一部が非公開の教授会になだれ込んで座った。この事件を境に、座▽225 りこんだ学生数人が、放学処分になった。長い法廷閉争となった。この寺、教授会の中で、「公開すべきだ」と主張する教授がいた。
 これが竹沢徳敬先生だった。耳鼻科の教授であった。
 この民主化運動の中で、私は先生と出会った。背の異様に高い、鼻のまた高い外国人のような先生であった。先生は敬けんなクリスチャンであるが、事、弱いもの、疎外されて苦しむ者を守ることに関しては、一歩も引かなかった。
 放学された学生を抱え、復学運動を起こすとともに、教授会でその処分の非を主張してやまなかった。そして、ついに学生を支持する医区局員とともに、教授の休職処分を受けられた。
 先生は、耳鼻科医院な開業して戦後の医師会運動へ。私は、西陣の人びととともに住民参加の診療所へ、分かれて進んだ。この分かれ道は、実は先の方で一本になっていた。
 先生は、戦後の国民皆保険に従って、医師の医療における徹底した主体性を主張された。医師こそ、医療の主体である。と同時に、医師に高いモラルを持つようせまっ▽226 た。医師会立病院、看護教育、休日夜間診療の必要性を医師会運動として主張されたが、当時、その理解はなかなか困難であったようだ。
 私たちは医療の主体性は患者にあり、住民にあり、と主張した。先生は、この運動を温かく見守り、援助してくださった貴重な存在である。
 やがて、私たちの要請をうけて、ニつ返事で院長を引きうけてくださった。
 耳鼻科の診察室で、「先生、病気は何でしょうか」と聞く患者さんに、「君、病名を聞いてどうするんかね」と思わず返事をし、「センセ、今度いつきたらよろしいか」と問われ、「たかったら、たらいいよ」と答える。
 患者さんから苦情をきく私が、あわてて、患者さんに「あんた、耳が悪かったから、せきそこなったんだよ。院長先生は、”たかったら、たらいいよ”と言われたんだよ」と、冷や汗をふいて、説明する。「そうだ。ぼくになかなかできないよ。ぼくにできんことを君たちがやっているから、応援に来てるんだよ」と、先生は言う。」


UP:20140806 REV:
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