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『バイオエシックス』

米本 昌平 19850120 講談社,226p. 


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米本 昌平 19850120 『バイオエシックス』,講談社,226p. ISBN:4061457594 ISBN-13: 978-4061457591 [amazon] be ms

■出版社/著者からの内容紹介
遺伝子操作によるインターフェロンやインシュリンの製造、人工授精や細胞融合による家畜や穀類の改良、不妊に悩む夫婦に福音をもたらした体外受精技術バイオテクノロジーは、バラ色の未来を与えてくれるかに見えた。しかし、実験の安全性は大丈夫か、ナチスを想起させる。クローンにつながるのでは、との不安をはじめ、不必要な遺伝的操作介入を受けずに生まれてくる権利=DNA不可侵の権利までも叫ばれるようになった。本書は、生物医療や生物技術がどのように進展し、どのような問題を抱えているかを説きつつ、われわれの社会が最も心安まる形での受容の道をさぐる。

■著者紹介
1946年、愛知県生まれ。1966年、京都大学理学部入学、72年卒業の大学紛争世代。証券会社に勤務しながら科学史を独学。76年より、三菱化成生命科学研究所・社会生命科学研究室に所属、現在に至る。専攻は、科学史・科学論。京都大学学士山岳会会員。京都大学ブータン学術調査隊の一員としてブータンを踏査。共著に『パラダイム再考』──ミネルヴァ書房、『進化論も進化する』──リブロポート、『時間と進化』──東京大学出版会──他がある。

■目次

プロローグ 8

第一章 科学・科学者・ジャーナリズム 13
 1‐科学者集団14
  論文生産と科学啓蒙/許されない専門用語/楽観論に傾く未来予測
 2‐生物技術(バイオテクノロジー)の報道から 21
  サイエンティフィック・リテラシー/成立していない緊張関係/なぜ達成できないかを書く/本物の科学ジャーナリズムとは/"哺乳類で初のクローン"/拡大解釈の誤り/原論文からかけはなれた記事/疑わしい実験

第二章 バイオテクノロジーの行方 37
 1‐コーエン=ボイヤー論文 38
  世界を震撼させた特許/種や属の壁を超えて/バーグのアピール/広がる不安の種/安全データによる反論/生命像のパラダイム転換/消極的禁止から積極的規制へ/ガイドラインの矛盾と変質/論争の最終局面/支持されたゴッツマン案/私企業規制のケネディ法案/ケンブリッジ市の場合/アメリカ的敵対関係/日本的体質/翻訳にすぎない監視体制/日米の市民運動
 2‐バイオテクノロジーの期待と限界 72
  大腸菌とファージの生物学/商業化の限界/困難な"夢の作物"/組換え技術がもたらした効果/ベンチャー・ビジネスの戦略/神話の没落/各国の期待/野外放出実験/リフキンの訴訟
 3‐生物兵器の開発 91
  条約成立の背景/ウラルの炭疽病/国防総省のプロジェクト/軍事に連動する基礎研究

第三章 遺伝子治療の光と影 99
 1‐バイオエシックス入門 100
  バイオエシックスとは/価値観と人権概念の明確化/宗教を念頭においた議論/アメリカの統治構造/法律作りに熱心な社会/イコール・タイム運動/患者の自己決定権
 2‐遺伝病スクリーニング論争 110
  フェニルケトン尿症/ニクソンの保健政策/鎌型血球病と差別的法律/スクリーニング法の進展/保因者の疎外感
 3‐マーチン・クライン事件 123
  初の遺伝子治療の試み/なぜ血液の遺伝病だったのか/妥当な的の絞り方/クラインの治療手法/人体実験以前のおとぎ話
 4‐スーパーマウスの実験 133
  顕微注入法の考案/アリバイ論文とセンセーショナリズム/"つけ足り"が見出しに
 5‐遺伝子操作と人権 139
  実用化うすい遺伝子治療/"DNAの不可侵"/好意的な宗教界/ブタに人間のDNAを注入
 6‐胎児診断 148
  ジーン・マッピング/スクリーニングと職種/ハンチントン舞踏病/善意がウラ目に

第四章 拡大する体外受精操作 157
 1‐実用化への足どり 158
  体外受精の原理/ルイーズの誕生/エドワーズの予言/五年間のモラトリアム
 2‐体外受精の問題点 169
  高価な費用/余った胚をどうするか/凍結卵の相続権/受精卵移植と代理母/養子縁組の代替手段/ウォーノック勧告/強い心理的抵抗/学会の世論対策/実名報道の波紋

第五章 臓器移植と脳死 187
 1‐腎移植と臓器提供 188
  急増する腎移植/臓器不足の悩み/"腎臓売りたし"
 2‐脳死と日本人の感情 196
  死の判定規準/"他人の体の中で生かせてもらっている"/なじめない肉体機械論/インフォームド・コンセント
 3‐胎児診断による中絶 205
  選択的中絶の是非/障害者差別論/優生学につながる不安

エピローグ 212
  先端科学と文化規範の対立/議論を避ける日本社会/箱根会議/バイオエシックスの必要性

 資料T 欧州会議第三三回定例会議 219
 資料U ウォーノック委員会勧告 222


■引用

プロローグ
(pp8-9)
 生物技術(バイオテクノロジー)や医療技術の社会的受容全体を包括的に考えてみようとする態度は、この日本ではまだ乏しい。
 実は、それをこの小さな本であえてやってしまおうというのである。
 しかし、こんな大問題に簡単に答えが出せるわけはないから、ここでは、いくつかのテーマに焦点を絞って、問題を整理する立場に徹しようと思う。それはつまるところ、われわれがいまどんな状況にあるかをはっきりさせることであり、これを効果的に行なうためにも、二つの方法を意識的に採用してみたいと思う。
 一つは、重要と思われる少数の論文についてはできるかぎり原文にあたること、そして、さまざまな意味で日本の対極にあると思われるアメリカの現状を詳しくみること。この二つの方法によって、日本の現状を相対化してみれば、あるいは、現在判断がむずかしいと思われている問題群の解答への道筋がほの見えてくるかもしれない、と密かに思っているからである。
(pp10-12)
 ヒトのインシュリンを遺伝子組換えによって大腸菌に作らせ、治療薬として用いようというのがこのねらいである。もしこの新聞記事どおりだとすると、遅くとも八六年には遺伝子組換え法による商品第一号が日本にも登場することになる。
 ところで、この遺伝子組換え法によるヒト・インシュリンの製造とはどういうことなのだろうか。かりに、この本を手にしているあなたが、ふとこう思ったとする。どうしたらいいのだろう……。
 とりあえず本を捜してみよう。大きな書店にいけば"バイオテクノロジー"というコーナーがあり、この種の解説書はたくさん並んでいる。そのなかから適当なものを一冊買い求めればよいし、要点が知りたいだけなのなら、立ち読みでもおよその筋はつかめてしまうだろう。
 しかし、である。たとえば、人工的にインシュリンを作らされるようになった大腸菌はずっと生き続けるのだろうか。インシュリンはどこにたまって、どうやって集められるのだろう。この場合の生産効率とはどんなことなんだろう……。
 あなたの頭にこんな疑問がわいたとする。さてどうしたらいいのだろう。ここでもう一度書店の書棚をにらんでみよう。すると、あなたは生物技術(バイオテクノロジー)関係の本がこれだけぎっしり並んでいながら、その説明の仕方が信じられないほど一様であることを発見し、愕然とするに違いない。しかもいまあなたがとりつかれた、紋切り型の説明からは少しはずれた、しかし、しごくもっともな疑問に答えてくれるものは皆無なのである。(略)
 最新の生物技術や医療技術と社会との関係を考えるにあたって、このような現状認識、つまり、われわれは一見、洪水のような科学情報にみまわれながら、本当にほしい情報は何一つ与えられないという現実を見すえるところからまず出発したいと思う。
 心から知りたいことが思うように知りえないという社会は、見ようによってはきわめて非人間的な社会であり、われわれは、情報中毒の中の情報渇望というひどく矛盾した状態に押し込められているのである。


第一章 科学・科学者・ジャーナリズム
(pp14-15)
 問題をもっとはっきりさせるため、本題に入る前にいま少し踏みとどまって、科学・ジャーナリズム・市民という三極構造を考え、それぞれの性格分析をやや詳しく行なっておこう。そうすると、ちょうどこの順番で、より多くの問題をはらんでいることが明らかになってくるのである。
 最近わが国でも、遺伝子組換え実験の安全性や脳死の問題をめぐって、科学者や専門医と市民とが意見を交わす場が成立するようになった。これ自体は大変な進歩ではある。しかしこの結果、科学者とか専門家とか呼ばれる人たちに関して少なくとも二つの面が露呈することになった。
 その一つは、こういう場にみずから進んで出てくる少数の専門家の善意と意欲は認めるとしても、現在の彼らには、自分たちが行なっている研究の実態を一般の人たちにわかりやすく説明する能力におそろしく乏しい。こう言って悪ければ、これまで必要がなかったためこういう能力をほとんど磨かないままできたこと。
 第二に、現在の科学研究の多くがはっきりとした社会的還元は予想されないのに研究費の大半を公的資金に仰いでいる以上、科学者は本質的に自分たちの研究を一般に向かって売り込まなければならない立場にあることがはっきり出てしまうことである。だからここから、尊大で卑屈というあの科学者独特の雰囲気も生まれてくる。
(pp16-18)
 このように、現代の科学研究は、専門領域という、外部との情報交換のない内向きに閉じた輪の中で、それ自体の自律運動によって進められ、その結果として論文が生み出されていく。こんな環境の中で遺伝子組換えが実験手法としてしだいに確立していき、ある日突然マスコミを通じて世間の注目を浴びることになる。(略)
 そうなると今度は、専門領域以外のさまざまな立場の人間、とりわけ一般の人たちから、科学者は、実験の安全性や優生操作への危惧に関しての解答を求められるようになる。この外側からの質問に答えることは、科学者が考えているよりははるかに困難なことなのであり、それが証拠に、善意で市民との対話集会に出て行った科学者はへとへとに疲れ、ときには市民に敵意すら抱いて実験室にもどってくることになる。(略)
 一般の人たちが望んでいることは、結局、遺伝子組換え実験とは具体的にはどのようなものであり、科学者自身、研究の危険性をどの程度の腹づもりのものとして実験を組み立てているかを、本人の口から確認しておきたいのである。(略)
 要求されている事の本質はこのようなことであるにもかかわらず、科学者の一般に向けての発言は、結局は、専門用語の羅列に終始してきた。(略)
 彼らは、自分たちと同じように一般の人たちにとっても、論文に書いてあることこそが最も重要だと錯覚し、やさしくするということはこれを適当に薄めることだと勘違いしている。そして科学者の側が、よき研究者はよき教育者でありよき啓蒙家である、などという前時代的な錯覚に陥ったままでいる場合には、いっそう悲劇的である。これだけ説明してやってもわからないのは、彼らの頭が悪いからであると一方的に断定してしまいかねないからである。
(pp18-20)
 第二にはっきりしたことは、科学者は自分の研究分野の応用面やその行く末については、徹頭徹尾、楽観論しか吐かないことである。逆にいえば、科学者は、みずからの学問に内在する論理的困難や実用化にいたるまでの過程に立ちはだかる技術的障壁についでは、それが本質的なものであればあるほど、言及するのを避けようとする。
 これは科学者の生理に近いものになっている。だから、なるほど科学の成果にはある種の客観性があるのだが、科学についての科学者の発言もが同等の客観性が保証されているとは限らないのである。(略)
 見ようによっては無責任きわまりないこのような未来予測がとがめられないのは、科学技術によるバラ色の未来社会を描くことはよいことである、とする強固なイデオロギーをわれわれが、たぶん前世紀以来共有しているからであろう。
 科学者は互いに批判し合うものだと一般には信じられているが、それは彼らの生産物である専門論文に対して、ある視角からのみ行なわれるのにすぎない。だから科学者が描いてみせてきた未来像と、現実の研究の進捗状態が乖離しすぎたとき、誰かがこれを補正しなくてはならない。
 個別専門分野に内在する論理的矛盾や、実用化までの技術的障壁に関する情報が外に伝わりにくい以上、第三の人間が公平な立場から、科学の表の顔とその楽屋裏を同時に語る作業を引き受けねばならない。そもそも科学者と一般市民との対話も、あらかじめ科学の本当の姿を、理解可能な言葉で一般の人間に伝えておいてくれるチャンネルがあってこそ、はじめて成立する。この役割は本来なら科学ジャーナリズムが引きうけるべきはずのものである。
(pp21-25)
 一般の人間にとっては、最新の科学情報を得るのは、もっぱらマスコミを通してであり、情報の保存性という点で、なんといっても新聞の影響力が圧倒的である。実際、研究成果に対する一般の人たちの第一印象は、ほとんど新聞によって決定づけられてしまうと言ってしまってよい。(略)
 もう一度いうが、問題の一つは、いったん新聞で科学の新しい動きに触れ、もっと詳しく知りたいと思っても、一般の人間には方策がないことである。(略)新聞記事以上の内容を知りたいと思っても『ネイチャー』や『サイエンス』などの外国語の原論文を読む以外に道がないことが多い。(略)かりに多大の犠牲を払ってその論文のコピーを手に入れたとしても、むろん普通の人間には何が書いてあるかわからない。学術文献の読解能力(サイエンティフィック・リテラシー)という障壁の前にただ立ちつくすだけということになる。(略)
 だが本当はこれよりずっと重大なことは、現在の新聞と科学との間には、いわゆるジャーナリズムという言葉が本来もつ、対象との緊張関係が成立していないことである。これは政治の場合と比べてみるとはっきりする。
 たとえば新聞が、政党のスポークスマンの発言内容をそのまま記事にしたのではまるで党機関誌のようなものになってしまう。新聞社は多数の政治部記者をかかえ、あらゆるルートで情報を集め、分析、批判を行ない、その上で記事を書く。
 ところがこと相手が科学となると、この分析能力が突然ゼロに等しくなり、批判的に見るための距離感までも失ってしまう。科学者の発言を鵜のみにするばかりで、その発言の背後にまで回り込んで論評を加えることはまずない。
 これは、新聞社が振り向けている人間の量だけを比較すれば、過大な要求にみえるかもしれない。
 しかし問題は一次データの量にあるのではない。対象をいったんつき放し、批判分析を加えたうえで記事にするという立場に意識的に立つか、科学ジャーナリズム=科学啓蒙という旧来からの路線を走り続けるかは、本当は決意の問題である。(略)
 だが、現実問題として、研究が独占的に科学者によって担われている以上、科学者と敵対関係にあっては取材がしにくくなるし、第一、科学者の発言の背後に回り込むためには科学者と少なくとも同等の知識が必要であり、実際は不可能である、というのが大多数の見解であろう。
 しかし答えは否である。本質的に科学者は科学を売り込まなければならないものという性格を理解し、彼らが実験材料としているもの―たとえば大腸菌―の本性をいくばくか知ったうえで、科学者に向かって素朴な質問を発し続けていけば、今まで見えていなかったものが見えてくるはずである。そしてたぶんそれが一般の人たちも必要としていた情報に違いないのである。
 別の言い方をすれば、科学のすばらしい成果と同等に、あることがなぜ達成しえないかを人に読ませるように書ける人間を育てるべきである。(略)
 さらに願わくば、本物の科学ジャーナリズムならば、実験の学問的意義や実験計画の妥当性までをも批評の対象とするところまで踏み込んでもらいたいし、いっそう批判的な目を磨いて、分子生物学の表面的な華やかさの底で進行しつつある精神的沈滞をも指摘するようなものであってほしい。
(pp26-27)
 もともと新聞は、研究成果の正確な要約を伝えるための媒体ではない。新聞は、内容の正確さと同時に速報性、時事性、話題性、一言で言えばニュース性という、かなりあいまいなものを取捨の規準としており、この要請は時として科学的厳密さと対立する。
 しかも、かりに新聞の科学部の記者が、科学者がみて正確な記事を書いても、担当デスクや整理部(記事の採否を決定し、紙面の割つけを行ない、見出しをつける)など何段階も他人の手が加わるため、全体の印象がどうしてもオーバーなものになっていく。ここには新聞としての社会的監視機能も含まれているから、人体実験や高等動物の遺伝的操作などに対しては慎重論に傾くが、科学一般については過大評価になりやすいことになる。
 科学者はしばしば「マスコミにいくら説明しても正確な記事を書かない」と不信をあらわにする。これは彼らが新聞の機構をよく知らないで、科学的事実を正確に伝えるための媒体(科学的な事実はおうおうにしてつまらない)だと思い込んでいるのが一因であろう。それに、取材にきた記者の顔色を見ていても、それが好意的に書かれるか批判の対象とされるかは記事になってみるまではわからないという、新聞社全体としての爬虫類的反応にも責任の一端はあろう。


第二章 バイオテクノロジーの行方
(pp72-73)
 物事の両面が伝わっていないという点では、遺伝子組換え技術の応用面での議論の方が問題をはらんでいるかもしれない。いうまでもなく遺伝子組換えは分子生物学研究の直接の成果である。ということは、分子生物学の基本的性格にこの技術も縛られるということである。つまり分子生物学は"大腸菌とファージの生物学"と揶揄されることがあるように、その大成功は、遺伝現象の解明に最も有利と考えられた大腸菌と、それに感染する特殊なウイルス(T系ファージ)に世界中の研究者が対象を絞り込み、これを猛烈な勢いで攻略した成果である。
 基礎生物学の研究戦略は、実験の再現性(それは遺伝的にきわめて均一であることが不可欠になる)という方法論的な要請からも徹底した一点豪華主義になりやすい。高等生物の場合でも、それはキイロショウジョウバエであったり、アフリカツメガエルであったりする。
 たしかに酵母や枯草菌ででも遺伝子組換えは可能だが、そこで用いるプラスミドや試薬は、大腸菌系の転用として開発されたものが多く、操作の自由度という点では大腸菌系にいまだ及ぶべくもない。
 商業化の場面でも当面は、分子生物学が研究対象として偶然選んだ、応用という面ではいくつかの欠点をもった大腸菌をだましだまし使うより他に道はない。だからこそ、バイオテクノロジーの次の戦略として必ず、用途に応じた新しい組換え生物系の開発が力説されるのである。
 基礎研究は一点豪華主義、応用研究はローラー作戦と言ってよい。
 この技術の潜在的可能性はすばらしく高く、さまざまな応用が指摘されてはいるが、その一部を除けば、十年前と同じく、実用化の一つ一つのタイム・スケジュールが明らかにされているわけではない。
 応用面を考える場合、有用物質の生産、有用生物の育種、遺伝子治療の三つに大別すると便利である。
(pp78-79)
 現在われわれが手にしている技術は、遺伝子組換えという言葉から受けるイメージよりはるかに周辺的な技術なのである。
 では遺伝子組換えがもたらした効果とは何だろう。
 その一つは、この技術がバイオテクノロジーの代表として脚光をあびた結果、世界的なレベルでこの分野への研究投資を刺激し、その水準を押しあげたことである。長期的にみれば、省資源、省エネルギー、リサイクルが効き、クリーンであるという点で、バイオテクノロジーへの傾斜は必然的なものであり、遺伝子組換えは、それへ向けての効果的な引き金になったと言ってよい。
 第二に、この技術によって直接恩恵をこうむったのは基礎研究である。大腸菌に外来のDNAを増幅させることができるようになったために、DNAレベルの研究、とくに八○年代に入って高等動物の遺伝子発現の機構の解明が大いに進んだ。さらに、大腸菌に増幅させたDNAを体細胞や受精卵に注入させることによって、高等動物を改造したり、遺伝病治療の可能性も考えうるようになったのである。
(pp79-81)
 遺伝子組換え技術の出現によって、基礎研究と産業化が直結して区別がなくなったとよくいわれる。これも事実なのだが、一方でこれはベンチャー・ビジネスが仕掛けた営業戦略上のイメージ作りであり、世界中がこれにのせられたという面もないわけではない。ともかく、欧米だけで百五十社といわれるベンチャー・ビジネスの性格は適確におさえておいた方がよい。
 その先駆はシータス社で、本業は効率のよい工業用微生物を開発して大手企業に売ることであり、細胞融合や突然変異株のスクリーニング(選別)で高い技術をもっている。ところが後発である有名なジェネンテク社の内容をみると、売上げの八十パーセントは医薬品メーカーなどからの委託研究であり、残りが特許の貸与料その他である。だから同社が自社技術を高く売るためには、それが革新的なものだというイメージを与えた方がよいわけである。これは企業として当然の発想であろう。
 そこでこの会社がとった作戦は、一流誌『ネイチャー』に遺伝子組換えの基本論文を投稿すると同時に、マスコミを通じてその企業化を発表することであった。ねらいは世界的なレベルで当たった。
 だが、若手社長スワンソンの本当の腕の見せどころは、八○年十月十四日の店頭市場への株式の公開だった。公開と同時に百十万株の公募増資を行なった。最初、引受業務を行なった証券会社は一株二十五ドルと決めた(八一年春に公開したシータス社は二十三ドルであった)が、好人気を察したスワンソンは、急遽三十五ドルに引き上げた。それがその日のうちに八十九ドルの超高値をつけたのである。この結果同社に三千八百五十万ドルの大金がころがり込むと同時に、株主に莫大な評価益をもたらしたのである。
 この背景には、七九年四月に新規公開の手続きが簡素化され、上場規準が緩められた結果、さまざまなハイテクノロジー企業の上場ブームがあったことも見逃せない。
 しかし、同社株式公開後の株価を見てほしい。八十九ドルのバカ高値をつけたのは最初の一日だけで、その後人気は衰える一方となった。
(pp97-98
 国防総省は、病気の予防と防衛の目的で遺伝子組換え関連の研究を拡大する方針で、これに関連する八五年度の予算請求額は、四十パーセント増の四千二百八十万ドルとなった。八四年八月三十一日号『サイエンス』には三ヵ所に全ページ広告を載せ、国防総省が進めている感染症、寄生虫病、低分子毒の研究に応募するよう大々的に呼びかけている。
 核兵器の開発競争のときと同じ論法で、遺伝子組換え技術の可能性を過大に強調することによって、ソ連の脅威をいいたてて国防総省の予算を増やすよりは、危険な生物兵器、たとえば毒性が飛躍的に強化されたインフルエンザ・ウイルスの開発の可能性を指摘して、軍事研究に歯止めをかけることの方が、科学者の行動としては倫理的であることは明らかである。
 ただし、遺伝子組換えと生物兵器という問題の現実は、予算をNIHからもらっても、また国防総省からもらってもおかしくないようなワクチン研究が圧倒的に多くを占めだしているということである。これはある電子部品を国防総省が買い上げれば軍事物資となり、市販のテレビに組み込まれれば非軍事物資となるというのと同じ、技術一般の問題になってしまったことを意味する。
 その意味で基礎研究は、少し視角を変えればすべて軍事研究に連動してしまうのであり、むしろ、このような問題がいまのところほとんど生じていない、日本の基礎科学研究の置かれている状態の方が特殊だと考えるべきであろう。
 だが、長い目で見れば生物兵器研究に変革がもたらされる可能性はたしかにあるし、条約に盛り込まれていない作物の病害虫を兵器として使用する場合も考えておかなければならない。


第三章 遺伝子治療の光と影
(pp100-102)
 規制と研究の自由、科学研究に対する市民の参加・監視の問題、産業化された場合の社会的影響、生態学的影響、進化に直接介入することの是非、遺伝子治療に関わる倫理的問題、優生学的社会への危惧……。そしてこれらの議論を、より広い視点から括る言葉としてバイオエシックスという表現がある時期から用いられるようになった。
 バイオエシックスとは、ギリシャ語の生命(ピオス)と倫理(エチケー)を組み合せて作った言葉である。これを最も早く使ったのは、七一年のファン・レンセラー・ポッターの『バイオエシックス』という本だが、そこでは、この有限の地球で人間がいかに生き延びてゆくかを論じる立場として用いられており、今日とは力点の置き方がかなり異なっている。
 最近では日本においてもバイオエシックスという言葉をしばしば耳にするようになり、実際、この領域での議論や研究は増加の一途にあるのだが、その像はなお判然としない。
 ある人にとってそれは、遺伝子組換え実験を監視することであり、別の人にとっては、最新の医療技術に対する態度決定のことであり、場合によっては高邁な生命論を展開することだったりする。
 バイオエシックスの適当な訳語はないのだが、生命倫理などという日本語に置き換えてみると、いかにも深遠な生命哲学のような雰囲気が漂ってくるし、実際に、この種のどちらかというとお門違いの需要は予想外に多いのである。
 しかし、この分野の研究に目を通してみてすぐ気がつくことは、その圧倒的に多くがアメリカでなされており、しかもわれわれにとってどこかしら違和感が残るものが多いということである。(略)
 アメリカのジョージタウン大学のケネディ研究所が、七八年に出版した記念碑的著作『バイオエシックス百科辞典』(全四巻)の前文によると、バイオエシックスとは、生命科学と医療における人間の行為を倫理原則の見地から検討する体系的研究、と定義している。
 もう少し言葉を使えば、これまでの医の倫理がもっぱら医師と患者の問題を扱ってきたのに対して、バイオエシックスは、医師以外の医療関係者を含めた広義の医療体系の問題、治療には直接関係しない生物医学・行動科学の基礎研究、環境問題、人口問題、人間以外の生物のとり扱い、などをも含み、これらを、倫理・宗教・文化・法律・哲学など複数の専門領域から考察する総合学問、ということになる。
 しかし、その考察の対象は、おのずと最新の科学によって引き起こされる倫理的問題に集中しており、主として、生物技術の安全性と規制の問題、最先端医療における倫理問題、そして医療における個人の主権の問題、の三つが精力的に研究されている。
(p110)
 さて、今日にいたるバイオエシックスの議論の直接の前史と考えてよいものの一つに、遺伝病スクリーニング(集団検査)の論争史がある。
 遺伝病のチェックは、多くの人が最も警戒する優生政策と密接に関係してくるため、これまでもいく度か激しい議論が重ねられてきた。どこでこのチェックをかけるかで三つのタイプのスクリーニングに分けられる。出生直後に行なう新生児スクリーニング、普通の人に行なう遺伝病遺伝子保因者のスクリーニング、胎児の段階で行なう胎児診断としてのスクリーニングの三つである。
 このうち最も早く実用化されたのは、フェニルケトン尿症の新生児スクリーニングである。
(pp124-127)
 八○年代に入ると、遺伝子治療も決して夢ではないかのような雰囲気を呈してきた。われわれ日本人には、この言葉は、生命の根源を操作する陰鬱なものに響くが、欧米でこの言葉が語られるときは、積極的な、病苦を根本から治す好ましいもの、というニュアンスがある。
 そして遺伝子治療の試みは思いもかけず早くに行なわれた。マーチン・クライン事件である。
 八○年十月八日付の『ロサンゼルス・タイムス』紙は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のマーチン・クライン教授が、地中海貧血症の中でもとくに重いベータ・ゼロ・サラセミアの患者二人に対して遺伝子治療を行なったと報じた。これ以前に、遺伝子治療と言えるのは、七〇年代前半にアメリカのS・ロジャーズが、高アルギニン血症の新生児に、アルギニン分解酵素を活性化することが知られていたショープ・パピローマ・ウイルスを注射したことがあるくらいのものであった。ただしこの結果についての報告はない。
 クラインの行為に対しては、あまりに軽率であったという非難があいつぎ、またNIHもその後の調査で不当なものであったと結論づけ、八一年五月には、以後、研究費助成は行なわないことに決めた。日本のマスコミではこの事件は否定的な文脈でしか報道されなかったが、遺伝子治療に関わる重要問題をいくつか内包しており、ここで詳しく振り返っておくだけの価値がある。
  なぜ血液の遺伝病だったのか
 第一におさえておくべきことは、彼がねらいを定めたのが、七六年の国家遺伝病法で指定された地中海性貧血症の中でも重いベータ・ゼロ・サラセミアであり、ヘモグロビン異常であったことである。
 遺伝子治療の研究にとって基本的な障壁は、基礎研究に必須の、独立し確立された実験系が存在しないため、直接臨床の場で試みられなくてはならないことである。要するにぶっつけ本番以外になく、だからこそ、どの程度まで条件が整えば、科学的にも安全で道徳的にも妥当な人体実験といえるかが、たいへん議論の多いところなのである。
 かりに遺伝子治療を行なうとしても、受精卵や初期胚を対象とする(つまりいったん胚を体外に出す)か、出生後では、処置した細胞が増殖してくれるものでないと治療効果はなきに等しい。そのため、これまでに判明している遺伝病の多くを占める代謝異常よりは、常に細胞分裂によって再生産が行なわれている血液の遺伝病に目が向けられることになる。
 人間の血液細胞は、ほぼ一週間で全部置き換わっている。しかも、ヘモグロビンを構成するグロビン遺伝子の発現機構は、高等動物の遺伝子発現の中で最もよく研究され、詳細がわかっている対象なのである。(略)
 研究が広範に行なわれるためには対象とする材料が容易に入手できなければならず、均一で大量の素材が手に入れることができる血液の構成分子は好都合なのである。つまり、材料の入手しやすさという面でも、基礎研究は一点豪華主義になりやすいのである。
(p128)
 クラインは、最も解明が進んでいるという意味では、科学的に妥当な的の絞り方をしたのであり、ヘモグロビン異常が遺伝子治療の対象に最も近いという状況は、今なお変わっていないのである。
(p132)
「患者は二人とも知的な人間で、治療効果は非常に小さいことも十分伝えてある」とクラインがいくら弁明しても(つまり後で触れるアメリカ流のインフォームド・コンセントをちゃんととりつけたと言っても)、実験のずさんさを正当化することにはいささかもならない。
 にもかかわらず、彼にはなお最後のよりどころがあった。それは、死期が迫った不治の病の人間に対しては、「たとえ万に一つの可能性でもあらゆる救済手段が試みられるべきであり、そのために場合によってはルール違反もやむをえないという信念である。
 彼の行為を心からの善意とみるか、世界最初の遺伝子治療をねらった名誉欲とみるかは大きな開きがあるが、少なくともこのような確信犯であるかぎり、そのルール違反をいくら責めても本人にはほとんど効果はないし、今後類似の事件はいくらでも出てくるであろう。
(pp135-137)
 この一年以上あと、これとほとんど同じ実験操作をベータ・グロビンでではなく、成長ホルモン遺伝子を用いて行なわれたのが、いわゆる"スーパーマウス"の実験である。
 日本の各新聞は第一面を大幅に割き、大々的にこれを報道した。この責任の一端は、論文を掲載した当の学術誌『ネイチャー』にもある。"巨大(ギガンティック)マウス)というキャッチフレーズまでつけて、センセーショナリズムを煽ったからである。
 しかし、八二年十二月十六日号に載った論文で報告していることは、注入した別種のネズミの成長ホルモン遺伝子の読み始め部分(プロモーター)が効率のよいものに細工してあったことと、それが成長ホルモンであったために、生まれてきた仔二十一匹中七匹の姿形が大きくなったこと以外、すでに行なわれたマイクロ・インジェクション実験と比べてとくに新しいところはない。
 はからずもここでも、マスコミの報道基準が、学術的重要さではなく、話題性、ニュース性にあることが再確認されてしまった。むしろ問題にすべきは、俗受けする実験結果よりは、この論文の論理展開の粗雑さの方かもしれない。読後感としては、この実験のさまざまな小細工は、ワグナーとホッペの実験を遺伝子を変えてやってみたという、「やってみました論文」であることをカモフラージュしようとしている臭いがプンプンするのである。
 この実験でなぜ成長ホルモンが選ばれたかという理由は、グロビンのように生まれてきた仔の血液をとってそれが発現されているか否かを分析してみるまでもなく、もし成長ホルモンが発現すれば一見して大ぶりのマウスが生まれるだろうという、指標(マーカー)としての明瞭さのためであろう。そのためにも成長ホルモンが高効率で発現されるように細工がしてあるのであり、その結果、体重が二倍になったマウスの血液中の成長ホルモンの濃度は八百倍にまでハネ上がってしまっていた。
 がんらいホルモンは微量で効くものであり、このような操作によって何倍の大きさのマウスができるのかという問いは、すでに愚問になってしまっている。成長ホルモンというアクセルをいっぱいに踏んでも操作できるのはせいぜい体重が二倍になる程度、つまりクマのようなマウスはできなかったのであり、この実験結果からはむしろ、生物の形態形成における構造的な安定性を読みとるべきであろう。
(pp139-140)
 さて、このような研究が進む中で、八二年に、分子生物学研究のメッカであるニューヨーク州のコールド・スプリング・ハーバーに、第一級の研究者が集まり、遺伝子治療の可能性について徹底的な討議がなされた。
 参加者名簿には、この問題について考えられるおよそすべての重要人物が名前をつらねている。七〇年代の遺伝子組換え論争の中心的人物となってバルチモア、ベックウイズ、バーグ、遺伝病の専門家マックシック、ナイハン、それに核移植のイルメンゼー、遺伝子治療を強行したクラインも含まれている。クラインは会議の中でも重要な発言をしており、学界から完全に抹殺されたかのような日本の新聞報道が、誤りであることがわかる。
 ところで、この会議の一般の人間に向けての報告である「遺伝子治療(ジーン・セラピー)実像と虚像(ファクト・アンド・フィクション)』(八三年刊)を読むと、その未来はなお混沌としているようにみえる。
 現在、アメリカでは、複数の大学や研究機関のIBCとIRBに遺伝子治療の実験申請が出されており、ごく近い将来、少数の例外的な症例については実験に踏み切る可能性がきわめて高い。にもかかわらず、これとは矛盾するようだが、この会議の多くの参加者は、これが比較的早い機会に実用化される可能性は小さいとみている。だいたいの意見をまとめるとこうなる。
 遺伝子治療は倫理にもとるものではなく、研究をやめるべきではない。遺伝病の目録は年ごとに増加しており、現在ではガンや心臓病や糖尿病なども遺伝と強く関連することがわかっている。しかし、遺伝病の種類はあまりに多く、もし特定の遺伝病を遺伝子レベルで治療しようとすれば、特定少数の患者のために莫大な研究資源を投入しなければならなくなる。
 それよりはスクリーニングの種類を増やし感度を上げて、発生予防に力を入れるべきであり、医療資源をこちらに配分する方がずっと現実的である。さらに治療としては別の方法、たとえば遺伝的な血液病や免疫病患者のために、現在では死亡率が高い骨髄移植の成功率を上げることなどに努力すべきである。
 それに遺伝子治療は一部の人間には、人間の遺伝的操作を連想させるし、将来、これが実用化されたとしても、それまでに解いておかなければならない社会的問題は数多くある……。
(pp152-154)
 日本ではまだあまり知られていない問題を含んでいるのは、グルコース・6・フォスフェイト・デヒドロギナーゼ(G6PD)である。
 かつて朝鮮戦争時代にアメリカ軍は抗マラリア剤としてプリマキンを兵士に与えていたが、ある兵士がこれを飲むと赤血球が破壊されてしまった。後にこれはG6PDという酵素の欠損であることがわかった。話がこれで終われば何でもないことのようにみえるが、この結果、表面的に健康でありながら、遺伝的にある種の薬剤によって障害をうける人間がいることが判明したのである。
 すると、たとえば企業が遺伝的なスクリーニングを行ない、そのような形質が見つかった人間は、あらかじめ特定の薬剤に触れないような職種につけたり、場合によっては雇わないということが起こるかも知れない。実際、G6PD欠損者、鎌型血球病因子の保因者、アルファ・1・アンチトリプシン欠陥などの人間は、ある特殊な物質(たとえばCS2)に過剰に反応するのである。そこで連邦議会技術評価局(OTA)は、この可能性とそれに伴う倫理的問題を調査し、八三年四月にその報告書を提出した。
 それによると企業は予想外に積極的であった。全米五百社の巨大メーカーにアンケート用紙を送ったところ三百六十六社から回答があり、現在遺伝的スクリーニングを行なっているのが五社、過去十二年間に行なったことがあるのが十二社、ここ五年以内に計画しているのが十四社もあった。
 報告書はとくに重大な倫理的問題はないとしている。しかし、G6PD欠損は黒人や地中海系出身に多く、もしこれがスクリーニングの項目に入っていれば、間接的な人種差別が生じないともいえない。
 しかしもっと重大なのは、たとえば将来、発ガン遺伝子と特定の環境要因との関連が明確になった場合である。現在、発ガン遺伝子の研究が大規模に進められており、この可能性は決して小さくはない。化学工業を中心とする全製造業、鉱業、原子力関係、X線検査技師など、遺伝子スクリーニングが提案されてもおかしくない職種はおびただしい数にのぼってしまうのである。


第四章 拡大する体外受精操作
(p162)
 これと酷似しているのが、徳島大学医学部が、八一年から八三年にかけて、他病院からガンなどの理由で摘出された卵巣約六十個を譲りうけ、数十個の卵をとり出し、患者に無断で受精実験に使っていたことが、八四年三月に問題にされた例である。
 このとき日本の新聞は非難一色のコメントをつけた。しかし本当のところは、日本でも体外受精の論争が活発化する中で、卵の取り扱いや人間の生命がいつ始まるかという議論が開始され問題意識が覚醒されてきたため、これがきわめて反道徳的であると見えてきたのであろう。ただ時間的にみると、つい最近まで日本の医学界は、十年前のエドワーズの意識でしかなかったことは強く心にとめておく必要がある。
(pp169-172)
 八四年中に、世界の体外受精児は軽く一千名を突破するものとみられている。これだけ多くなると、体外受精はそもそも治療といえるのか、避妊の手段として卵管を切ったり結んだ人が再度子供をほしくなった場合も認めるのか、という出発点の議論はなくなってしまい、欧米では社会的に認知されてしまったといわざるを得ない。
 しかし問題がなくなったわけではない。一つは費用である。(略)
 しかしもっと問題なのは、余った胚のとり扱いと、凍結の場合を含めた胚の譲渡や貸腹である。多くの場合、余剰の胚のうち異常なものは観察の対象とし、あとは破棄してきた。
 その主たる根拠は、人間の場合は自然状態でも安定な妊娠にいたるまでには非常に多くの卵や胚が失われるからである。(略)
 もう一つは凍結保存を含め、精子・卵・胚の譲渡や貸腹の問題である。凍結卵(凍結胚)はもともと、余った胚を、第一回目が着床しなかったり、本人がもう一人子供を望んだときに備えておくという、エドワーズのアイディアによるものである。これは現在、イギリス・オーストラリア・アメリカで実施されている。家畜研究での経験が豊富なオーストラリアでいち早く行なわれ、八四年四月には凍結卵体外受精児が生まれている。母親の自然な生理周期に合せて解凍でき、しかも凍結胚の三十〜五十パーセントはそのまま死滅してしまい、結局良い胚だけが戻るので普通の胚より妊娠率は高いともいわれる。
(pp179-180)
 日本で最初の体外受精児が生まれたのは八三年十月十四日である。イギリスのルイーズ・ブラウンの誕生と五年以上の差があり、出生児の名前すら明らかにされていない。この差異、とくにこの五年間の遅れは、日本の医学全体の水準を意味するのではない以上、社会学的な比較研究の対象に十分値する。
 医学関係者はしばしば、この遅れは、六八年の和田心臓移植事件以来、世間の批判を恐れ医学界が慎重になりすぎたためだ、と説明する。たしかに、日本の医学界にとってこの事件は、遺伝子治療におけるクラインの事件に似た効果があった。
 しかしこの説明は半分くらいしか正しくない。十五年も前の心臓移植事件を、体外受精の遅れの理由とするのはやはり無理である。この説明の正しいのはむしろ「世間の批判を恐れて」という部分であろう。
 実際、日本の医学ほど世間の評判、とくに新聞にどう書かれるのかを気にし、世間体や世俗的名誉を重んずる分野も少ないのである。
 日本の社会にとって、ルイーズ誕生以後八二年半ばまでの体外受精児問題とは、まれにニュースの間に外電としてはさみこまれてくる「○○人目誕生」という程度のものであった。日本にも卵管閉塞患者は多数いたはずであるが、海外での本格的な実用化を理由にこれを日本でも行なうよう医学界に働きかけたという形跡は、もちろんない。アメリカのようにはっきりとしたモラトリアムがあったわけではなく、とりあえずここでは、日本には出生過程に直接介入する技術(体外受精・胎児診断・胎児治療など)には強い心理的抵抗があり、体外受精に関しても医学界自身が心の折り合いをつけるのに五年間を必要とした、と擬人的に表現しておこう。
(pp181-185)
 そして八三年三月十四日に東北大学医学部で最初の妊娠確認、十月十四日に出産となった。
 学界側によるマスコミへの対応は、当初、非常にうまくいったように見える。東北大学が「体外受精・胚移植に関する憲章」を提示し、また徳島大学が医学部以外の人間(実体は他学部の大学関係者)を含む委員会を設け討論の末、条件づきで体外受精を始めるなど、各大学が八二年夏の日本産婦人科学会の規準をより限定的に解釈する姿勢を明確にし、新聞もこれに対して好意的であった。この時点では、マスコミは、できればこの技術を忌避したいという一般の心情(試験管ベビーに反対五十八・四パーセント、八二年十一月十三日付読売新聞)を押え込んでいる形になった。
 しかし学界内部は、大学間のすさまじい先陣争いがくり広げられたのである。東北大学医学部での妊娠発表直後の毎日新聞のコラムが「学会による計画出産のにおいがする」とみごと見抜いていたとおり、まずは医学者側の世論対策の勝利であるように見えた。
 しかし、世界で何番目なのか見当もつかないほど生まれているにもかかわらず、日本最初の体外受精児誕生をめぐるマスコミの過剰な報道ぶりと、その後の実名報道をきっかけとした、大学側の情報提供拒否への方針転換は、さまざまな憶測を生み、日本特有の問題を露呈することになった。
 ところで先行していた東北大学の関係者は一時、徳島大学の倫理委員会方式を時間の無駄と考え、マスコミへの人気とりとみなした節がある。旧来の医学部特有の閉鎖的な雰囲気の中にあっては、この感覚の方が普通であったかもしれない。しかし世の中は、徳島大学関係者が「世の人びとが十分納得できる方法で意志決定するという手順が大切なのであり、すでにそういう時代になっていると思う」(『科学』八三年五月号)と察知した方向に動き出していた。
 だが一方でこの倫理委員会方式も過大に評価されすぎたきらいがある。たしかにこれは、医学界の密室性に風穴をあける一歩には違いない。しかし、このような機関を設けて討論することの裏側の目的が、医療訴訟対策のための身の保全を図るところにもあるアメリカの方式を日本に導入して、それが意図した方向に働くかはまた別の問題である。
  実名報道の波紋
 実名を報道した毎日新聞は、これを明らかにするにあたって「おことわり」を掲げ、患者のプライバシーは尊重されなければならないが、画期的な医学的達成などには実名で報道してきていること、また不妊の人たちにとって明るいニュースであり、この治療法が国民に広く受け入れられるためにも特別扱いしない方がよいと考えたからだ、としている。しかしこれが独善的な判断によるミスであったことは明らかである。
 この報道によって当事者は好奇の目にさいなまれることになった。同じ紙面に掲載された手記で、両親が、三月の妊娠確認の報道があまりにも大きくしかも倫理的問題を指摘する論議が多すぎたこと、生まれてくる子供がマスコミに騒がれるような人生を送らせたくないこと、を訴えている。日本が、七八年のルイーズ・ブラウン誕生のときのように、実名報道はもちろん、巨額な金と引換えに両親が独占的報道権をテレビや新聞に売り渡すようなタフな社会ではないことは十分わかっていたはずである。
 これ以降、体外受精という言葉のまわりに別の陰が漂いはじめ、同時に、話題にするのを慎むことになり、議論よりは黙認の方向に進んできたように見える。
 東北大学の責任者は、一見、被害者のように見えるが、むしろマスコミを利用しすぎた当然の帰着ともいえよう。今回の発表のし方には、先陣争いで勝利し世俗のスポットライトを浴びることに無上の喜びを感じる、ひどく古くさい研究者の自己顕示欲が、あからさまなかたちで、映し出されてしまった。
 体外受精などに関して広範な議論が必要だとよく指摘されるが、日本の場合、たとえば当事者である不妊患者が市民集会に出席して治療技術としての必要性を訴えるというような事態は今のところ考えにくい。だから医者が患者の代弁をせざるをえず、どうしても医学者=推進論、一般市民=慎重論という図式になりがちである。
 しかし、日本のように医師の方が患者に対して圧倒的優位にある場合にはこれを通り越して、医学者が自分たちが試みてみたい医療措置の方に患者の欲望を肥大させ誘導してしまう危険性が潜んでいる。
 日本最初の体外受精児が出産した当日、テレビに向かって読みあげられた声明文の中に、次のような一文がわざわざいれてあるような感覚に、私はこの場合の患者=医者関係に非常にひっかかるものを感じた。
「患者はわれわれの手を握って涙を流して礼を言った。」
 日本の体外受精児は、八四年末で、すでに三十人近くに達している。これが日本に本格的に受容されるか否かは、これを不自然な出産方法とする感情と、血のつながった実子を得ることのできる手段と考える立場との綱引になるだろう。しばらくは現状のような、少数のなし崩し的な受容が続くであろうが、いずれ改めて、原則を明確にすることを求められる時期がくるはずである。


第五章 臓器移植と脳死
(pp198-200)
 日本では社会通念としても法律の解釈上も、いまのところ心臓死を前提としているが、世界的には脳死も死の規準として認める方向にある。数年前から日本の病院の一部でも脳死の段階に入ったことを家族に通告する例がでてきている。現在、厚生省の「脳死に関する研究班」が医療の現場で実際に脳死というものがどう取り扱われているかの実態調査を行なっており、この上に立って脳死判定基準の再検討を行なう予定である。
 臓器移植や脳死が日本で受け入れられにくいのも、やはり社会的文化的要因が強く効いているものと考えて間違いない。日本と欧米とのこの落差を科学者、とりわけアメリカ帰りの医学者は、とかくこれを日本の遅れと見、医学界による社会への働きかけの怠慢と日本特有の非科学的感情的な反撥という表現にその原因を求めがちであった。
 しかしこの考え方の底には、科学技術は日本とアメリカの間で並行して進むはずだし、進むべきであるという前提がある。だが、そもそもこの前提が正しくない。アメリカには膨大な研究の蓄積がありながら、日本にはそれに対応する研究がほぼゼロという分野が自然科学の中にも存在する。
 人間の性反応・性行動の客観的研究、いわゆるセクソロジーである。つまり価値中立的と信じられている自然科学も、実は文化的価値体系、とくにその核心をなす、生命観・死生観・身体観・セックス観などから独立したものでありえず、先端科学が人間の誕生や死を本格的に扱い出せば出すほど、文化の古層で共有されていた感情との衝突という問題はますます尖鋭化していくだろうということなのである。
 つまり臓器移植と脳死の場合は、その論理の背後にある近代科学が立脚してきた枠組までが問題になってくる。たとえばアメリカの統一死体提供法(The Uniform Anatomical Gift Act)は文字どおり臓器を贈与(ギフト)するための法律であり、場合によっては臓器移植のことを部品補充外科とすら呼ぶ。これは西欧的な肉体機械論の反映であり、臓器は交換可能な部品となる。これに対して日本人の心の底には身体のあらゆる部分に個人の人格が宿っていると感じる傾向がある。
 子供の腎臓を脳死段階で提供した日本の母親の口から出た、「あの子が死んだと思いたくなかった、だれかの体の中で元気に暮らしていると思いたかった」という発言は、欧米の文脈では詩的で擬人主義的なものと映り、例外な表現の範疇に入る。しかし日本では、実際に移植外科医が、みずからを納得させる論理としてこれを表明しており、日本で臓器移植を進める折の鍵は案外こんなところにあるかもしれない。
(pp202-203)
 しかし、かりに脳死以降の医療措置が、アメリカ流の規範をもった医師の目からみれば、治療ではなく遺体清浄作業にみえようとも、遺体を特定の状態に保つために営々と蓄財にはげむ文化はいくらでもありうる。医療という目からみれば無益でも、文化的に無意味であることにはならない。
 われわれは、冷えきった遺体にメスを入れることすらむごいと感じる情を理で抑えて、生きているように見える死につつある肉親の体から、臓器をとり出す苦しみと、透析装置に一生縛りつけになる人の不自由やこれを支える周囲の人たちの苦労、この二つの苦しみの計量をしなくてはならない時期にきているといえよう。
(pp204-205)
 いまアメリカは、あまりにラディカルと思えるほど、インフォームド・コンセントということを徹底させようとしている。患者側に完全な医療情報を与え、患者の自由で自主的な同意の上で医療措置を行なうというものである。医者・患者関係の完全な平等を前提とするものであり、われわれもめざすべき理想ともいえる。
 ただし、このインフォームド・コンセントを含め、「アメリカの医療における内部告発すら辞さない医師どうしの相互チェック、病院や大学におけるさまざまな監視委員会制度は、一面で、頻繁な医療訴訟に対する防衛のためという性格を持つものでもある。それゆえ、アメリカの制度を到達すべき理想として日本にそのまま持ち込むのも、実はあまり現実的ではない。
 たとえばインフォームド・コンセントですら、われわれ日本人には荷が重すぎるかもしれない。病床でさまざまな選択肢を与えられ、本人や近親者が討論を交わすだけの精神力を、われわれすべてが持ちえているようにはとてもみえない。「現代医学でできることはこれまでです」と医師に決めてもらってしまった方が、ずっと納得がいく、ということは大いにありうるのである。
(pp207-211)
 これに対して日本では、胎児診断による選択的中絶は現在生きている障害者の差別につながるとする反対の声が圧倒的に大きい。このようなスクリーニングは、障害者は生まれてきてはならないという考え方を前提としており、障害者抹殺の思想だとされる。これが、優生保護法に、胎児の障害を中絶の理由とすることを明文化することに対する最も強い反対理由である。もちろんここでは第一に、アメリカの人種差別などとは異なった、日本特有の陰湿な差別のあり方が問題にされなければならない。しかし同時に、ここには日本固有の論理も重なっている。
 アメリカでの遺伝病スクリーニングの強力な反対者は障害者団体ではなく、保守的な中絶反対同盟である。つまり欧米では、選択的中絶と障害者問題はいちおう別個のものと考えられているのに対して、日本では、中絶一般は必要悪と認めるものの選択的中絶には拒否的である。
 これは、日本人は前世と現世を連続的にみ、生まれてくる以前の世界をのぞき込んでそこに人間の手を加えることは不自然だと感じる傾向が強いことを示唆している。胎児に心臓奇形などを起こす風しんがはやると、産院の窓口がいっぱいになるという事実は、前世と現世の中間に位置する胎児の状態を確認する以前に、目をつぶって中絶をやってしまうということなのであろう。
 それでもう一度、身心二元論に戻ってみる必要がある。カトリック教会は精神現象と物体の不可分を認め、人間の生命は受精の瞬間としている。しかし身心二元論に立つと、たとえば、魂の最も初原的な形態とみなしうる刺激=反応性が生じる時点を人間の始まりとする発生学者のグロブスタイン(『ニュー・サイエンティスト』八二年九月三十日号)のような意見も実際に現われてくる。はなはだしきは、何らかの理性の片鱗が確認されることという意見すら出る。
 考えてみると、ある時点で魂が吹き込まれ、脳機能の停止とともにこの世を去るとする身心二元論は、先端医療にとってなんと便利な生命観だろう。
  優生学につながる不安
 日本で遺伝病スクリーニングや胎児診断があまり正面きって論じられない一つの理由に、欧米でよく研究されている遺伝病がきわめて少ないこともあげておいてよいだろう。新生児診断の結果でみると、フェニルケトン尿症は欧米の五分の一、ガラクトース血症が三分の一である。ダウン症もやや少なく、鎌型血球病、サラセミア、テイ=ザックス病など有名な遺伝病もほぼないと言ってよい。
 だが、もっと大きな要因はこれが優生学につながるのではないか、という危惧である。選択的中絶を前提にした遺伝病スクリーニングが優生学ではないかという議論は欧米でもしばしばなされてきた。(略)
 優生学と遺伝病スクリーニングが異なる点は、優生学が遺伝子集団を重視し、個々人が遺伝病因子をもつ確率を計算して、結婚制限や断種へ誘導したのに対して、遺伝病スクリーニングは、危険性のある個人の個々の妊娠を実際に検査すること、そして発病するとわかった胎児を中絶し、他の出産を確実に保証していることである。
 似ている面は、広義の優生学が行なったのと同じように、先天異常の患者の医療費を社会的負担として経済計算にのせたことであり、欧米における最終回答は、遺伝病スクリーニングはやや白に近い灰色ということになるだろう。
 しかし、遺伝病スクリーニングに対する欧米のこのような陽性の解釈に比べて、日本人はこれに対して生理的に避けようとする傾向がある。これを優生学だ、ナチズムだ、ヒトラーだという警句を投げつけて政治的右傾化という文脈で語るときですら、この雰囲気は漂っている。それは欧米の議論よりはるかに根深いところから由来するものなのだろう。
 私は、どちらかというと、ここで言及した諸技術の負の面に、これまでの論調よりは楽観的な立場をとってきた。しかし、だからといって日本も、もっとこれを推し進めろ、と言いたいのではない。これらの諸技術に対して、人間そのものを操作するものではないかと危惧する感覚は、きわめて健全なものである。しかしこの文明が続くかぎり、世代交代も続くのであり、生死に関与するさまざまな技術への態度決定も、永遠に問われることになる。このような場で、ナチだヒトラーだという政治的警句を投げつけるだけというやり方は、そろそろ通用しなくなってきており、本当の意味で長期に耐える問題の整理に手をつけるべきだ、というのが私の立場なのである。


エピローグ
(pp212-214)
 現在の問題のあり方の一つの表現は、先端科学とわれわれの感情との衝突ということであろう。
 われわれの日常の行動規範を決めるものは、粗っぽく言うと三重の構造になっているようにみえる。毎年のように変わる風俗のようなもの。十年、二十年の単位でゆっくり変わるもの。たとえば現在の若者は親の時代とはすっかり異なった性モラルの世界に生きている。そして、生や死に対する思いのように、世代から世代へと受けつがれ、世紀単位の大きな間隔をとってはじめてその変遷が意識されるようなもの、の三つである。
 先進国として一見おなじような科学技術社会に入っていながら、日本だけが生死にかかわる技術に拒否的な一因は、ゆっくりと変わる部分を生物技術・生物医療という名の現代科学が本格的に扱い出したことによって生じた衝突現象と言ってよい。
 ここにぼんやり浮かびあがってきたのは、冥い前世と現世、現世と冥い来世を連続的にみるわれわれの精神の古層ではあるまいか。
 たとえば、われわれが、遺伝子治療や遺伝病スクリーニングや胎児治療などにどこかしらおどろおどろしいものを感じてしまうのは、意識下で、人間のDNAに前世を投影しているからなのであろう。残された問題の核心は文化人類学的なものであり、意識下の共同主観を明らかにしてしまうことである。
 われわれの漠たる不安の一部は、この暗黒部分がまだ意識化され、言語化されていない前に、科学技術の一方的な出現によって強制的に態度決定を迫られていることなのであろう。
(p215)
 だとすれば、われわれがすべきことの一つは、国際比較という方法と歴史研究によってわれわれ自身の死生観や遺体観の変遷を跡づけ、現在のそれを発見するための作業を開始することであろう。そしてわれわれ自身が本当はどのような生き方死に方を望んでいるかを探り出して明示的な形に整え、これをまっとうするために科学技術も受け入れるべきであり、結局はそれ以外の進行はありえまい。新しい技術の出現によって、まったく新しい倫理が要請されるのではないのである。
 文化の核心部分はきわめて不寛容なものであり、とくに日本でこの問題については軽々に価値観の多様化などということを口にしない方がよい。
 アメリカ社会は、多数の宗派すなわち複数の価値観・信念体系を前提とした社会であり、アメリカ民主主義の一面は、この複数の信念体系の調整問題だと言ってよい。
(pp217-218)
 たとえば、子供をもつもたないは基本的人権であるとは、日本国憲法にも一九四八年の世界人権宣言にも明文化されてはいない。婚姻の自由、家庭・プライバシーの不可侵、子弟に教育を与える権利などから二次的に導出される地位にとどまっている。
 その理由は、世界人権宣言が、ナチ体験を反面教師とし、生存権への暴力的侵害を排すことを最大の目的としているからである。
 しかし、生物技術や生物医療の発達は、子供を誰が、誰に、誰のために生むかという決定や、遺伝的操作を受けないで生まれてくる権利など、これまでの基本的人権の空隙部分を問題にしてきているのであり、それに対する具体的な試みが、欧州議会の勧告やウォーノック委員会報と考えてよいのである。
 バイオエシックスとはすぐれてアメリカ的な言葉である。しかしこれを、生物医療や生物技術をそれぞれの文化に属する人間が最も心安まる形でとり入れ、そのための最適な意志決定のあり方を創り出そうとする学問的立場だとすれば、それはわれわれがいままさに直面する課題を、かなり正確に表わしたものだと思えてくるのである。


UP:20080208 REV:20081019
作成:櫻井浩子植村 要

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