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『福祉の経済学──財と潜在能力』

Sen, Amartya K. 1985 Commodities and Capabilities, North-Holland, 130p.
= 19880122 鈴村 興太郎訳, 岩波書店, 145+31p.


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Sen, Amartya K. 1985 Commodities and Capabilities, North-Holland, 130p. = 19880122 鈴村 興太郎訳, 『福祉の経済学──財と潜在能力』, 岩波書店, 145+31p.  ISBN-10: 4000020048 /2310円 [amazon]

■内容(「BOOK」データベースより)
本書の主な目的は、厚生経済学の基礎、とりわけ個人の福祉と好機の評価に関して、相互に関連した一郡の命題を提出することにある。本書の焦点は、主に福祉一般の評価、とりわけ生活水準の評価に合わせられている。

■目次
日本語版への新しいてびき
第1章 私益、福祉、好機
第2章 財とその利用
第3章 効用、欲望、幸福
第4章 機能と福祉
第5章 評価と序列
第6章 情報と解釈
第7章 福祉と好機
補論A 若干の国際比較
補論B インドにおける福祉と性的偏見
訳者あとがき

■紹介・引用
 本書の焦点は、主に福祉一般の評価、とりわけ生活水準の評価に合わせられている。その批判的な部分は、厚生や生活水準の指針として「実質所得」の通常の評価を用いることは不適切であることを論じ、 また個人の福祉と優位を判定するために効用水準(すなわち選択や幸福あるいは欲望充足の程度)を用いるありきたりの倫理的アプローチには、限界があることを論じることにあてられている。…
 本書のもっと積極的な側面として、私は福祉への新しいアプローチの展開に努めた。ひとがその達成に成功するさまざまな「機能」(すなわちひとがなしうること、あるいはなりうるもの)と、 ひとがこれらの機能を達成する「潜在能力」に関心を集中するこのアプローチの起源は、アダム・スミスとカール・マルクス、さらに遡ればアリストテレスにまで辿れるものである。 このアプローチは、福祉を、ひとが享受する財貨(すなわち富裕)とも、快楽ないし欲望充足(すなわち効用)とも区別された意味において、ひとの存在のよさの指標と考えようと試みる。 基本的なレベルにおいて、ひとが実際に達成しうる価値ある活動や生活状況に即してひとの生き方の質を判定することは、不可避だからである。
 ひとの機能は多岐にわたるから、さまざまな機能を相対的に評価するという問題が生じることは当然である。しかし、福祉の計測にあたっては、 このような評価作業を避けて通るわけにはいかない。福祉の計測は、結局のところひとの存在と生活の質の評価である他はないからである。…
 実のところ、評価することは福祉の判断の不可欠な一部なのであって、潜在能力アプローチは、この問題に明示的に焦点を合わせたものに他ならない。 そのうえで本書は、福祉の判断に際する評価の適切な対象は、ひとが実現することができる存在や行為であることを主張している。 いうまでもなく、評価は内省的な活動である。…評価、なかんずく機能の評価に明示的に関心を集中することにより、 本書が提唱する福祉へのアプローチは、われわれの無批判的な(なんらかの形式の効用に反映される)感情や、 われわれの(実質所得に反映される)富裕の市場評価よりも、われわれの思想や内省に優先度を与えるのである。…
 福祉の主観的指標として効用がもつ限界は、明瞭に区別されるべき二つの異なる理由から生じるものだということも、恐らくここで指摘しておくべきだろう。 第一に、幸福であるとか欲望をもつということは主観的特性であって、われわれの客観的な有様(たとえば、どれほど長生きできるか、病気にかかっているか、コミュニティの生活にどの程度参加できるか)を無視したり、 それとかけ離れたりすることが十分にありうる。第二の限界は、主観的概念としてみても、効用は主観的評価ではなく感情にかかわる概念だという事実から生じるものである。 ひとの評価もまた主観的ではあるが、それは内省と判断に基づくものであって、その点においてひとが享受する幸福とも彼/彼女がもつ欲望とも異なっている。 評価に関する主観的見解を採用して、ひとの福祉を判断するために結局のところ最も重要な基礎はそのひと自身の主観的評価であるということを承認したとしても、 だからといってわれわれは効用に後戻りするわけではない。効用は、単に主観的であるのみではなく、主観的な評価ですらないからである。
 これとは対照的に、「潜在能力アプローチ」は機能の客観的特徴に注目し、しかもこれらの機能を、感情にではなく評価に基づいて判断する。 ひとびとの評価が、究極的にはかれら自身によってなされ、その意味において主観性の残滓をもつとしても、その要素はなお評価と内省に基づいている。 この点は、特に強調に値する。なぜならば、効用に基礎をおく判断を擁護するひとびとは、効用の基礎を離れることは必然的にパターナリズムとなり、 ひと自らの判断の否定を意味せざるをえないと、しばしば主張しているからである。実のところ、全く正反対の主張こそ正しい。 効用に基礎をおく判断は、ひと自らの評価になんら直接的な重要性をも認めずただ感情のみを考慮するのに対して、 「潜在能力アプローチ」は、ひとびとがその人生において達成したいものに関してひとが自ら下す(内省的・批判的な)評価に基礎をおいているからである。

 …ひとの潜在能力集合は、ひとがそこから選択を行いうる機能の組合わせの集合として形式的に表現されている。 それは、ひとが福祉を実現する自由度(別の箇所で私が「福祉的自由」と名付けたもの)を表現するものに他ならない。 もし仮に、自由が手段としてのみ評価されるのであれば、潜在能力アプローチによる福祉の評価は、 その折々の潜在能力集合から選ばれた機能の組、すなわちひとが実現する機能の組の評価となんら異ならないものとなるだろう。 しかし、ひとの福祉にとって自由がなんらかの内在的な価値をもつと考えられる場合には、潜在能力集合の評価は そこから選ばれた要素の評価とは必ずしも一致しない。問題の本質は、手段としての役割を越えて、すなわち自由がどのような実現形態をもつかを越えて、 われわれが自由に価値を認めるか否かにある。
 潜在能力集合Kから私が選ぶ機能の組がxであるとき、xを除く全ての機能の組が選択不可能となり、しかもxだけは依然として選択可能である場合に、 私の福祉は一定に留まるだろうか。もし解答が常にイエスであるならば、「潜在能力アプローチ」は現実に選択された機能の組の評価に帰着してしまう。 一方、解答がそれほど自明のものではなく、(xは終始選択可能ではあっても)選択の余地が失われた結果としてひとの福祉が低下することがありうるならば、 福祉の評価に際して、潜在能力集合Kの評価と選択された機能の組の評価との間には相違があることになる。…
 基礎理論としても、実践的適用のための計測方法としても、「潜在能力アプローチ」をさらに完全に展開するためには多くの問題点の一層大々的な研究が必要である。 …本書の補論において、私はこのアプローチの実際的な適用例をいくつか示しておいた。いうまでもなく、これらの例はかなり初等的なものにすぎない。 「潜在能力アプローチ」がさらに展開されるに伴って、もっと複雑な問題に直面せざるをえなくなることは確かである。 しかし、これらの補論は、機能する潜在能力に関心を集中する「潜在能力アプローチ」が、 富裕(および「実質所得」)や効用(および知的数量のみ)に関心を寄せるアプローチとは、 このような初等的レベルにおいてさえ全く異なった結論に導きうるものだということを示している。 本書が書かれてから、「潜在能力アプローチ」のさまざまな側面を展開する多くの貢献がなされ、 極めて多くの興味深い論点が議論され見事に解明されてきている。
 本書の本文末尾に記したように、この小著は「出発点に過ぎない」ものである。 他の研究者たちにより、この線に沿う分析の重要性と射程距離を拡張する作業が、 私のなしえたことを遥かに越えて推進されてきたという事実によって私は大いに勇気づけられている。 もちろん前途はまだ遠い。 (「日本語版への新しいてびき」より抜粋)



■潜在能力アプローチへの言及(立岩 真也氏による整理)
◆“(選択によって最も選好しているものを手に入れることができるという)道具的価値にとどまらず、センにとって複数の選択肢から選べる能力そのものも価値をもつ。 そしてこの価値は潜在能力(生き方の幅)の中での選択肢の範囲に反映される。したがって、選択は人々にとって非道具的価値(選択の「論証的」かつ「象徴的」な価値)を有するというスキャンロン(Scanlon 1988)の議論とセンの立場は似ている。 人の潜在能力への関心と達成された機能ベクトルとの違いを示すために、断食中の裕福な人と食物を買う金のない飢えた貧しい人を比べてみよう。 この二人は栄養状態の点では同じレベルにあるが、前者の潜在能力は後者より大きい。ここで重要なのは潜在能力の違いである。” (Roemer[1996=2001]『分配的正義の理論──経済学と倫理学の対話』, 木鐸社, pp.219-220.)
Cf.) Scanlon, T.  1988 "The Significance of Choice," in S. McMurrin [ed.], The Tanner Lectures on Human Values Vol. 8, University of Utah Press.
◆“センは、権利剥奪状況に対する反作用として形成されるような「安価な嗜好」をもつ人々に関心を向けている。 安価な嗜好をもつ人々には、当人が受けとる資格があると予想するよりも多くの手当がなされることになるかもしれないけれども、 機能に焦点をあてることは彼らを公正に扱うことに大いに役立つであろう。” (Roemer[1996=2001:220])
◆“分配的正義にとって重要となる優位の尺度の中に、人のおかれた状態を示す何らかの客観的尺度を考慮に入れるべきであるのは確かであろう。 というのは、純粋な主観的尺度だけでは「飼い慣らされた主婦」の問題を解決できそうもないからである。 こうした見通しの下では、センの機能概念がもっとも期待できると思われる。ただし5章で述べたように、 センとは違って「幸福」のような主観的な特徴をもつものを機能に含めない方がよいと私は考えている” (Roemer[1996=2001:355])
◆“身障者の例では、身体を動かして移動する能力が関連しているのも一つだが、その他にもたとえば、栄養補給の必要量を摂取する能力、 衣服を身にまとい雨風をしのぐための手段を入手する資力、さらに共同体の社会生活に参加する機能といった能力を含めることができる。” (田中紗織「障害と道徳──身体環境への配慮」
◆“自由の能動的な行使は人間の生活の質やよき生の達成のために当然価値あるものであろう。明らかにこの考察は、 赤ちゃんのケース(あるいは知的障害者[原語ではmentally disabled]のケース)には直接関連性を持たないであろう。 そのような人々は、分別ある選択の自由を行使する立場にはいない。” (田中紗織「障害と道徳──身体環境への配慮」
◆“改めて考えなければならないのは以下の点である。第一にセンが自由という要素を重視したのは、個々人の福祉(well-being)の構成要素として 重要であると考えたからであり、その重要性は、選択する能力に制限のある児童や障害者であっても変わりはないという点である。 そして第二に、仮に選択する能力に制限がないとしても、その選択行為や結果に対する責任を完全に個人の単独事項と見なすことはできない のではないかという点である。たとえば、尊厳死、堕胎、臓器提供といった問題について、現代社会は個人の単独事項として全面的な自由を 認めていない。…(中略)…もし選択を単に個々人の単独行為と見るのではなく、決定の過程に関わる他者の存在性を前提とした、 相互関係性の中の行為として捉え直すことができれば、その結果に対する帰責性の問題も、そこに応じて再考されなければならないだろう。 こうした検討を通して、センの提起した「潜在能力」アプローチをさらに深化させ、児童・障害者・老人も含めて多様な環境・個体条件にある個を、 同一のアプローチで理解することが可能になれば、社会福祉における自由・平等・公正といった問題を検討する際に、有力な視点−人間観に なりうると考える。” (田中紗織「障害と道徳──身体環境への配慮」
◆“たとえ、結果的に個人の福祉が増大したとしても、それが外生的に与えられたものであるならば、彼の福祉的自由が改善されたことにはならない。 自己の福祉を実現するための機能(functioning)が向上し、自らの意思的選択によって自己の機能を達成する機会、 すなわち、潜在能力(capability)の豊かさが増したとき、初めて、福祉的自由が改善されたことになる。
 例えば、生来、両腕のない人に対する社会的施策として、いま、二つの方法を考えよう。(a)ホームヘルパーを派遣し、食事や排泄など身の回りの 世話をする。(b)日常生活を営むに有効な性能のよい義手を支給する。いずれの方法も、栄養の摂取や排泄が滞りなく行われるという帰結に 関しては変わらない。ところが、本人自身が「栄養を摂取する」、「排泄をする」という機能を獲得すること、その結果、本人の意思と力によって 帰結を実現することを可能にする点において優れているのは、(b)である。二つの方法は、福祉的自由の観点からは異なる効果を有するものと 解釈される。” (後藤 玲子 2002 『正義の経済哲学──ロールズとセン』, 東洋経済新報社.)



*作成:坂本 徳仁
UP:20080715
BOOK  ◇経済学
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