>HOME >DATABASE Chion, Michel 1985 Le son au cinema ※ =1993 川竹英克・Josiane PINON訳,勁草書房 ※ Chion, Michel 1985 Le son au cinema ※=1993 川竹英克・Josiane PINON訳,勁草書房 ※ * ■引用 つまり、もっとも優れた映画のなかのある種のものものは、“音が付いている”というより、“音が付けられている”のだ−悪い意味で音が付けられているとい うのではない。そうした映画は、撮影の時に切り取られた現実の断片を伝えるのではない。現実を一種の回転するプリズムを通して観察しているのだ。ただし、 このプリズムは、現実を分解し再構成はしても、そこでばらばらになった要素を完全に一致させ復元することはない。(p.10) 無声映画においては、画面から出たものは失効し、私たちの思い出や推測にすぎなくなったものだし、とりわけ、物や人物は、それが現われる前に存在すること は極めて困難であり、ただ台詞と場面との関連の中にしかその可能性はなかった。(p.12) ノエル・バーチは、こうした初期の映画のいくつかは線的な叙述法ではなく空間的に読み取るべき絵の連続体の形をとっていることを示した。(p13) 古典的な映画においては、オーバーラップの原理(ショットの変化に対して音を前もって聞かせ、あるいは引き延ばし、モンタージュに生気と連続性を与える) とともに、切り返しショットの使用が、空間、時間の両面で音の遠心的な用法を作り出している。フレームの外の音が、そのショットに他の場所へ向かう力を引 き起こす。その音の答えになるものへの呼びかけ、つまり、その音を視覚的に補うものとして、そのショットの反対側に存在すると思われるものへの呼びかけを 引き起こす。そしてさらに、このフレーム外の音は、次のショット、あるいは同一ショットの続きが約束する答えを期待させることで、未来へ向かう力をも引き 起こす。(p.14) また、世界やその諸現象に対するこの奇妙な視線はフレーミングの問題である。フレーミングは、視線の方向を、画面を、アクションの範囲を限定する。場面に 巻き込まれ、音におもちゃにされる人物たちを見て、観客たちは面白がるが、観客自体もその戯れに巻き込まれているのであり、見損なうという危険にさらされ ているのだ。観客もまたそれなりに場面の中にいる。(p.20) [無声映画において]しかし、目の前の出来事が時間とともに音を立てず展開するのは目新しかった。(p.23) これほどまでに洗練されなくとも、無声映画は音を表現するいくつかの方法をすでに完成させていた。もっとも常套的だったのは、音源―鐘、動物、楽器など― の大写しの映像を周期的に繰り返し、“インサート”して見せることだった。(p.23) もっと別の方法は―後にトーキー映画がしばしばこの方法に敬意を表わすことになる(デルヴォーの『プレでの約束』、タルコフスキーの『惑星ソラリス』、ベ ルイマンの『沈黙』)―振動し始めるものを見せることだった。(p.24) なぜなら、観客はそれを見ながら、夢想し自分の心のなかに役者たちの声を聞き、夢想しながら映画が暗示しえたあらゆる音を自ずと聞いていたからだ(ただ し、映画に実演で効果音が付けられた時は、しばしばその音の断続的で常套的な翻訳の形を取った)。知覚には無意識的な連係があり、それを振りほどくことは そんなに簡単ではない。つまり無声映画は、暗示的に聞こえる音を使って音付けをしていたということなのだ。 だから、トーキー映画とともに現実の音がスクリーンに加わった時も―それはちょうど、パーティには欠かせないと思われていた客が遅れてやってきたようなも のだが―それなしでも事はうまく運んでいたことに人は気付いた。もっと悪いことに、招かれざる客として迎えられたこのみじめな現実音は、その無駄な繰り返 しとして非難された。 しかし、何に対して無駄な繰り返しなのか。映像に対してではないことは確かだ(映像と音という本質的実質的にこれほど相違するもの同士が、どこで折り合い を付けるというのだろう)。それは夢想される音に対してなのだ。現実の音に先行する分身、個人の想像力にしたがって無限の可塑性をもち、心の中で再生され る夢想の音に対して無駄な繰り返しなのだ。 現実の音が闖入者と見なされ、粗雑で過度なリアリズムから発するものと見なされるのは、この内在的な音に対してだ。(p.25) それどころか、科学的実験によっても確かめられたことだが、耳で捉える音の位置づけは視覚的な位置づけに強く影響を受け、眼球の運動を伴い、いずれにして も目の見える人々の場合、この音の位置づけは自律的なプロセスからは程遠いのだ。(p.28) とりあえず次のことを銘記しておこう。映画における音には、普通、“自立した”音源はなく、純粋に音響的基準からその音源を特定することはできない。つま り、映画においては音場それ自体という概念には疑問の余地があろう。(p.28) それゆえここでは、映像、そしてそれが指示するものに応じて音は位置づけられ、再編成されるという観点を忘れないようにしておこう。(p.29) 映画における音場という概念は、映像が示すものにことごとく依存しているし、当然のこととして、本来、この“場”となるはずの自立した空間での音の特定と はまったく異なっている。別の言い方をすれば、映画には自立した音場は存在せず、映像が実際の、そして想像上の広がりをもたらすと同時に、音はその広がり から絶えず溢れ出し、またそれを侵犯する−そしてこの二重の運動の中で映画の音は生きているのだ。(p.30) だから、映画において音の場は、映像と物語に相対してしか存在しない。(p.31) 私たちもこれらの普通に用いられる語を使うことにするが、その場合、もっと判明でいっそう限定された意味を与えることにする。ここではそれぞれ次のように 呼ぶことにしよう。 −フレーム外の音。画面の中ではその音源は同時には見えないが演じられている場面と同一の時間にあり、画面が示す空間に隣接する空間にあることには変わり がないと想像される音のみを指す。 −オフの音、画面で示される場面とは別の時間そして/あるいは空間にある不可視の音源に発する音のみを指す。(具体例略) “イン”の音については通常の定義を維持することにしよう。この結果、三つの場合が生じることになる。“視覚化された”音の場合が一つと、前著『映画の 声』で用いた用語を使えば“音だけが聞こえる”場合が二つある。 これらの区分をするのは、もっぱら音と映像の関係、間隔を調べるためであり、空間内の音それ自体や様相などはいささかも問題とはならない。(p.33) トーキー映画の初期、扉はその重要な対象の一つであった。扉が閉まった時、外の音は、ただ弱められるだけいいのか、それとも完全に消すべきなのか。扉が閉 まれば外の音が消えるか弱まり、開けば思い出したように外の音が闖入するというこの新たな扉の効果が執拗に演出されたのは、まさにスタンバーグ(『嘆きの 天使』)やフリッツ・ラング(『マブゼ博士の遺言』)の時代だ。(p.36) だから、音の共存、闖入、区分が問題となる。すでに見た三つの境界線が、映画次第で、ある時は壁になり、ある時はそれを越えることがドラマとなる扉とな り、またある時は反対に、一種の柵や格子、点線となる。そして、ある映画、ある作家は、それぞれの方法で、この三つの音の場を区分し、これらの場の間をめ ぐる音の法を定め、このことがもっとも力強く明確に示される場面において、その映画、その作家の美学や主題そのものが要約される。(p.37) 別の言い方をすれば、マイクとカメラを「客観的に」同一の視点に位置づけようとするかぎり、視覚と聴覚の二つのメッセージの調和を図ることは不可能だとい うことだ。(p.68) 音がおのずからの特性を発揮する時は、むしろ、その音が「(映像と)同時に起き」視覚化されているのが普通だ。(p.69) リアルな音が到来したことで、時間は線的に展開し、常に先に進むべきものとして固定され硬直化する傾向を持つ。もはや一つの演技を同時に様々な面に分解し たり、オペラのようにそこで演技を停止させたりすることは不可能になる。(声、足音、リアルな背景音など)映像と同時に起こる音が、これからは時間の流れ の正確で逆行不可能な記録と同義となるだろうし、時間の流れも、今度は、数えられ、測られ、分割されることになる。(p.74) 要するに、音は普通は時間の中で方向付けられている。(p.76) 反対に、映画の映像(たとえば視線のクロース・アップ)には時間的な方向付けがないことが大いにありうる。その映像が別のショットにつなげられても、音が なければ、それらの映像の間の時間的なつながりを想像させるわけではない。そこでは、連続性と同時性を区分させるものはないとも言える。(p.76) すでに指摘したように、サウンド・トラックが一つだけの通常の映画では、見る者の頭脳が音の位置付けの本質的部分を担うし、実際それは見事に行なわれる。 スピーカーがスクリーンの背後あるいは脇(テレビの受像器など)にある場合であろうと、それぞれの観客のそばに個別のスピーカーが設置されている場合(ド ライブイン・シアター)であろうと、さらには、ヘッドホーンの場合(飛行機内で上映)であろうと、極めて強力な錯覚のメカニズムが働いて、そこで聞こえる 音は、本来その空間では完全に分離されている映像と一つになり、スクリーンに、あるいはスクリーン内の身体や物体にしっかりと結びつく。それらの音は、ス クリーンの広がりや存在しないその奥行きから来るような錯覚をもたらすだけではなく、俳優がスクリーンを所狭しと動きまわる時、その声も動き回るかのよう な印象を与えるのだ。 しかし、想像に任されているこうした音の移動や位置付けが、サウンド・トラックや個別のスピーカーの数を増やすことで「現実的」なものになると、もはやこ うはいかなくなる。このことは例の映画の法則、つまり、知覚の面でより「リアル」になればその分、信憑性の限界、あるいは英語で言われるところの「不信の 意図的な留保(the voluntary suspension of disbelief)」の限界に近づくということを例示するものだ。(pp.77−78) なぜなら、アメリカの技術者たちは、ずっと前から、これら「つなぎ」の不可避なジレンマという厄介な問題をプラグマティックに解決してきたように見えるか らだ(ばらばらで、不安定で、バランスを失い混乱をきたすが、それでもリアルな音の空間化を追求するか、それとも本当らしくないが、いっそう安定し連続す る音を追求するか)。彼らはこの二者択一の後者、本当らしくないないがいっそう安定し、連続する音を選択する。だから、音の空間的な論理に触れないため に、確かに彼らは様々な方法に訴える。こらの方法はドルビー・ステレオによる多くの映画が採用しているもので、すばやいモンタージュや、複数の台詞、場面 を圧倒する音楽、あらゆる方向から聞こえる効果音が詰め込まれた「サウンド・トラック」の密度や運動性によって、そこに含まれる音のつなぎの不一致を極め て効果的に隠蔽するものだ。そのうえ、こうした映画においては、特に声に関して、場面内のショットの切り替えのたびにあまりに目立ち、あまりに大きく中心 からずれ、「コマ飛ばし」を引き起こすことにもなるその空間的な特定は放棄されているかのように見える。だから、周縁的な効果音や局所的な効果を別にすれ ば、音はずっと画面の中心に戻ってきているようだ。 リアリズムの立場からすれば、こうした妥協は調整は嘆かわしいことだろうが、この空間的な音のリアリティという、これまで全く問われることのなかった(移 動する物や人物に音を付ける場合、中心でじっとしたままの音の使用が容認されてきた)問題が、トーキー映画の当初から問われていたら、トーキー映画の言語 は存在しなかっただろうし、無声映画からの古い方法をその新たな文法に「適用すること」も不可能だっただろう。一八〇度の切り返しショットなどを禁じた映 像モンタージュの古典文法においては、こうしたトリックがあるし、古典的な映画がその上にできたものであることは周知のことだ。(pp.82-83) ドルビー・ステレオを使った最近の多くの映画では、ナレーションのオフの声やフレーム外の声があまりうまく機能していないのは事実である。その理由は簡単 だ。音を配置するためにある三つか四つのトラックのうち、実際にはただ一つのトラックにそれらの声を位置付けることに固執するからだ。だから、その声は、 本来のどこでもない場所にあって、スクリーン全体に存在することがもはやできなくなってしまうのだ。(p.84) 要するに、ここでわれわれが「リアリズム」(つまり現実の忠実かつ完璧な再現)と呼ぶものと、「リアルな効果」(観る者が見せられたものに強く引きつけら れること)の間の根本的な不一致にまで遡って考える必要があるのだ。 写真映像に関してすでに昔から知られていることは、「リアリズム」が「リアルな効果」を得るもっとも確実な方法ではないということだ。(p.88) すでに見たように、実際は、音の空間的なリアリズムをあまりに推し進めると、フレーム内フレーム外をめぐる物や人物の移動に関して三次元の正確な座標が再 現し、その結果、その「真実」の原理そのものに抵触し、あまりに具象的であるがゆえに映画の基本的な約束事を再検討せざるを得なくなる。つまり、スクリー ンの枠(先に述べた舞台裏効果によって偏狭なものに見えてしまう)と、モンタージュ(「空間的な音のつなぎ」によってその論理が揺らいでしまう)というき ほんてきな約束事を再検討せざるを得なくなるのだ。(p.89) イタリアのネオ「リアリズム」映画の発展のきっかけには非現実音、つまり、アフレコの音の使用があったということほど、生の音(つまり、撮影と同時に録音 された音)の問題を明確に、また皮肉に見せる例は、歴史的に見てまずない。アフレコがあったからこそ、無防備都市ローマであろうと撮影ができたのだし、街 で見つけた素人や外国の役者を使うこともできたのだ。(p90) 反対に、外であれ内であれ、ヌーヴェル・バーグとともに一般化した実際の場面を使う撮影は、生の音そのもの録音を困難にした。その結果、一般にアフレコが 用いられることになる。また、経済的理由、文化的理由、あるいは政治的理由、美的理由、(「本物」のセットへの趣味)など理由は様々だが、この世紀末の 今、世界で作られる映画の大部分はアフレコのものであり、生の音を使ったものは少数派であって、そのながれを食い止めようとする人々のものになってしまっ た。(p.91) 生の音で問題になるのが何かは言うまでもない。映画とそれに託された真実の関係にほかならない。しかし、この関係の公準にいささか議論の余地のあることさ えある人々には理解できない。彼らにとっては、撮影され録音されたものの無二の瞬間こそ真実であり、俳優の唇が動くのが見えるまさにその時に出た声こそ真 実なのだ。 確かに、映画の音という場合、普通それは声を暗に指している。撮影の生の音というと、まず念頭に置かれるのは生録りされた俳優たちの声のことだ。そこで 同時に録音される背景の音に注意が向けられることは、それよりずっと少なく、撮影時にそれらの音がフィルターをかけられたり消されたりすることもよくあ る。何しろ、それらの音は「録音」の障害となりかねないからだ。録音とは実際には声を録ることなのだ。だから、当然のことながら、後でモンタージュやミキ シングの段階で背景の音を付け加える場合も、効果音でそれを再構成するにしても、「音だけ」別に録音するにしても、あるいは「サウンド・ライブラリー」を 使うにしても、その作業はずっと大雑把だ。(pp.91-92) 新リュミエール主義の実験から次のような法則が得られる。同時的に起こる音と映像の組合せというのは、それが少なければそれだけ劇的要素が減るし、物語も ないままに全景ショットで真正面から人のいる光景をずっと見ているのと、その分「生の」音と映像はお互いしっくりいかないのがはっきりしてくる。そして、 映画にできることは、気をそらせたり、感動させたり、得心させたりする様々なものを使ってこの基本的な不一致に蓋をするか、タチのように、アフレコを逆手 にとって、それがしっくりいかないことを白日のもとで存分に見せることしかない。それは、その手段の欠陥ゆえではなく、すでに声と身体について別の形で述 べたように、ほとんどトーキー映画やサウンド映画それ自体の限界なのだ。(p95) 一九〇一年、レオン・ゴーモンが出した映像と音の同調システムの特許申請を次に抜粋する。「本来、シネマトグラフの速度、つまり一秒間に送り出される映像 のコマ数は、絶対的なものではない。というのも、われわれの目は、その速度のいずれに耐えうるし、それに違和感を感じないからだ。一方、耳の方は、蓄音機 がわずかに速度を変えることも受けつけない。なぜなら、その結果、音の高さが変わるだけではなく、それらの互いの関係も変わるからだ。(…)発明家たちが この問題を解決するに至ったのは電気のおかげである。」(Jean-Jacques Henry, Cahiers du cinema, no. 285.による引用)(p.98) 「サウンド・トラック」という、当然のように使われている観念について改めて考えてみる場合も同じで、この観念は、使われ方もでたらめで、詳しく考察され ることはめったにない(オーモン自身はこの観念を引くにあたっては慎重にもカッコ付きで「サウンド・トラックと言われるもの」という言い方をしている)。 何しろ、パスカル・ボニツェールがいみじくも言っているように、「映画をめぐるあらゆる理論的な論争は、“どこで切るか”という問題に要約される」。 (p.106)Le Champs aveugle, Cahiers du cinema ? Gallimard ed ., p.23. 冗長さは対象に「音付けする」原理それ自体に起因するのではなく、ふつう、音が聞こえた時の受け止め方に起因する。多くの場合(信じられているより多くの 場合)、音はもっぱら音付けする対象に補足的な性格、「キャラクター」を加えるよう選び出されている。しかし―テレビや映画の音を切るという単純な実験で 明らかな―この音の役割は、その対象の側では認知されないだろうし、説話法的戦略からすると認知されてはならないだろう。(p.114) 後に見ることになるが、問題は、オリジナルであろうがなかろうが、映画に介在するあらゆる音楽を同一平面上で対等に扱うことである。なぜなら、それらの音 楽が映画で使われた時に何が起こるかが重要なのだから。それと同時に、まず明らかにしたいのは、今までにない特別な基準に従う自律的な音楽ジャンルとして の映画音楽は存在しないということだ−その証拠に、映画音楽が用いる方法は、舞台音楽や標題音楽のもっとも古く由緒正しい伝統に属するということにある。 (p.140) シネマトグラフが初めて公開されたとされる一八九五年一二月二八日、音楽はすでにそこにあった。「グラン・カフェ」の一室で一人のピアニストがリュミエー ル兄弟の作った映像に合わせて演奏した。(p.150) 最初の映画音楽史家とされるクルト・ロンドンが一九三六年に述べたところにしたがえば、それは、「映写機の騒音を消すものが何か必要だったためだ。何しろ 当時は、映写室と場内を仕切る壁などなかったのだ。この耳障りな騒音が観る楽しみの邪魔になっていた」だから、「この快適とは言えない音を中和するために 快適な音を使用した」。(p.150) 作成:篠木涼 UP:20071203 ◇BIBLIO. |