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『生あるものは皆この海に染まり』

最首 悟 19841105 新曜社,378p.


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最首 悟 19841105 『生あるものは皆この海に染まり』,新曜社,378p. ASIN: B000J71NW8 2200 [amazon] ※/杉並378

■引用

◆1970 「責任性存在としての人間」
 『思想の科学』1970年5月号→最首[19841105:29-46](「もう一つの価値について」に改題)

 「全共闘のバリケードは、内部崩壊したといわれる。日がたつにつれて、それは怠惰の砦と化し、頽廃したといわれた。しかしそれは全共闘内外を問わず、主義を問わず、生産性信仰者がいったことである。バリケード内は、何も生みださず、何もしなくてよいから、真にたのしかったのである。そしてたのしいから焦燥にみちていたのだ。
 バリケードの外で、食うだけの金は、仕方がないからかせいだ、しかしあとは何もしない、勉強などくそくらえ! という快哉を否定しようとしながら、否定できないのである。山谷のある労働者グループからでたビラに刷りこまれた「怠惰の自由を!」というスローガンも同じことを意味しているはずだ。」(p.40)

◆1980 「かけがいのない関係を求めて」
 『子どもの館』1980年5月号,福音館書店→最首[19841105:222-253]

 「慣れとは、大方は、感覚の鈍磨という、障害者にとってはまた堪えがたい意味をもっているのであるが、しかし良い、悪いの意味をこめない尺度の移行は、慣れによって生じることは事実である。大事なことは、慣れとは、関係の取り結びだということであろう。障害者本人と、あるいは障害者とかけがえのない関係を結んでいる者との関係を、取り結べたとき、障害者に対する異和感は消失するし、想像、類推の力によって、ほかの障害者への異和感を軽減させることはできるのである。そして慣れの深さによっては、差異の事実はかえってはっきりと残され、ときにはそれをあげつらうこともできるようになる。
 たとえば……」(p.234-235)

 「障害者を、仮の異常さとしてはではなく、異常さとして作品に取り上げ、仮の正常さを体現する人間が、「いのち」を媒介として、異常さを受け入れてゆく、という作品が、読むに堪えないものになるのは、異常さを受容することによって、仮の正常さが正常に転化するという安易な思いこみや、そのような思いこみこそ、現実での障害者差別を、さらに上塗りする、もっとも度しがたい要因となっているという理由ばかりによるのではない。それは、第一に「いのち」や死に意味を付与することにこそ、文学の無限の営為性があるという根本命題の転倒がおこっているからであり、第二に、人間は、真に異常なるものを受容できるかというおそれが、欠けているからである。」(p.242)

◆1980 「汝以後、思いわずらうことなかるべし」,『障害者教育ジャーナル』6(現代ジャーナリズム研究会)→最首悟[1984:80])

 「わたしは心身共に健康な子を生みたいという願いを自然なものとして肯定します。しかし、そうは思わない不自然さも、人間的自然として認める余地はないのだろうか。」(最首悟[1980→1984:80])  →立岩真也『私的所有論』第9章冒頭で引用

 「公害反対運動と、障害者運動はどこで共通の根をもちうるか…。誤解をおそれずにいえば、公害反対運動は、心身共に健康な人間像を前提にしています。五体満足でありたい、いやあったはずだという思いが、公害反対闘争を根底で支えています。これにたいして、障害者運動は、障害者は人間であることを主張する運動です。」(最首悟[1980→1984:75])  →立岩真也『私的所有論』第9章注20で引用


■紹介・言及

◆立岩 真也 2003/07/25 「最首悟の本」(医療と社会ブックガイド・30),『看護教育』44-07(2003-07):(医学書院)
 「単著の最初の本が『生あるものは皆この海に染まり』(新曜社、一九八四)。次が『明日もまた今日のごとく』(どうぶつ社、一九八八)。いずれも出版社で品切れになっているが、後者は最首塾のHPで大部分を読むことができる。品切れ・絶版になった本をHPに掲載というのはよいことだと思う。一九六七年生まれの星子さんのこと、それから彼がずっと関係してきた水俣病の人たちのこと、水俣のこと等についての文章や講演の記録が収録されている。」

◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※

 第3章「「根拠」について」3節「普遍/権利/強制」1「普遍性・距離」注11。
 「慣れとは、大方は、感覚の鈍磨という、障害者にとってはまた堪えがたい意味をもっているのであるが、しかし良い、悪いの意味をこめない尺度の移行は、慣れによって生じることは事実である。大事なことは、慣れとは、関係の取り結びだということであろう。障害者本人と、あるいは障害者とかけがえのない関係を結んでいる者との関係を、取り結べたとき、障害者に対する異和感は消失するし、想像、類推の力によって、ほかの障害者への異和感を軽減させることはできるのである。そして慣れの深さによっては、差異の事実はかえってはっきりと残され、ときにはそれをあげつらうこともできるようになる。」(最首[1980→1984:234-235])

 [1980→1984:234-235]は『生あるものは皆この海に染まり』に収録された「かけがいのない関係を求めて」、『子どもの館』(福音館書店)一九八〇年五月号。この注は以下の本文(『自由の平等』、一四一−一四二頁)の末尾に置かれている。

 「一つの間違いは、差異によって他者を規定しようとすることだ。二人の人に違いがあること、ないことは、その二人が別人であることと別のことである。似ているから同じだと考えるのはまったく危険でさえある。差異が感じられ、少しもわからないということがかろうじてわかったりすることもある一方で、同じこと、似ていること、気持ちの悪いほど似ていることに気づくこともあるだろう。しかし、そこで似ていたり同じだったりする存在は、やはり私とは別の存在であり、ときに似ていたり同じだったりすることに気づく楽しみもまたその存在が私ではないことに由来する。その人に慣れることにしても、それは摩耗することだとは限らない。属性はなくならないままときに背後に退く、あるいはそのまま前に現われているが他を見るのに邪魔にはならない。」

◆立岩 真也 2013 『造反有理――精神を巡る身体の現代史・1』(仮),青土社 ※


UP:20070401 REV:20130815
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