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『生きられた家――経験と象徴』

多木 浩二 19840305 青土社,235p.


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■多木 浩二 19840305 『生きられた家――経験と象徴』,青土社,235p. ASIN: B000J74DOS \1600 [amazon]

■出版社の内容紹介
空間のアルケオロジー
〈家〉を、住むだけの〈容器〉としてではなく、人間的な時間や空間が織り込まれた複合する〈テキスト〉として捉え、そこに輻輳する人類の思想と想像力を掘り起こす。〈家〉という場に投影された社会・文化の多義性と、人間存在の混沌を見極めるスリリングな現象学――。

■出版社の著者紹介
多木浩二(たき・こうじ)
1928年、神戸市生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。美術・建築・デザイン・写真などの広汎な領域に、表象学・記号論による鮮やかなアプロ−チで斬新な批評活動を展開。主なる著書:『眼の隠喩』『欲望の修辞学』『シジフォスの笑い』『戦争論』他。

■目次
1 生きられた家
 生きられる空間
 建てることと住むこと
 かつて、家は……
 家と巣の比較
 隠喩としての家
2 空間の織り目
 空間の発生
 仮象としての物
 場所の連鎖
 おもてとうら
3 住みつくかたち
 ことばと空間
 空間の図式
 内部からの生成
 時間テキストのなかの空間
 家の境界あるいはコスモロジー
4 欲動と記号
 家と無意識
 感覚的な世界
 光と闇
 物と記号
 小さな次元
 ブリコラージュ
5 象徴とパラドックス
 痕跡の宇宙
 かくされた図像
 アーキタイプ
 象徴の両義性
 常識の世界
 まがいものの役割
6 時間と記憶
 時間のさまざまな位相
 記憶と空間
 時間のない家
エピローグ 小さな劇場
参照文献一覧
あとがき

■引用

「つまり映画は時間的に(いわば線型に)展開する表現であるが、それについていきながら、私たちは映画にも次第に「空間的」な非線型的テキストが生成していることを感じとっている。その「空間」は観客の心の内部に生じるイメージにすぎないのだろうか。それは映画そのものの形式ではないが、映画が見られるとき(読まれるとき)に生成するひとつのテキストと理解すべきであろう。と同時に私たちが映画を見終ると、もはや時間の流れは存在せず、このようなテキストが、意味の空間のようにひろがり、私たちはそのなかに包みこまれている。もちろんこの空間は成立<82<からいって時間と切りはなされはしないが、そのことを考慮にいれてもなお空間化されたテキストが知覚されうるのである。プロットも、それぞれのショットも、人物の変装、身振り、出来事の生じる場所などがもつ図像学的な意味と絡みあっているが、それらの図像の意味も、このような空間的なテキストとの関係のなかで読みとられているのである。」(pp.81-82)

「生きられた家は、空間という次元だけでは語れないテキストである。もしそこに空間を織る糸があるにしても、この糸自体が時間のなかでゆっくり固まってきた集団の記憶であろう。家を語るには時間という概念を必要とする。家は時間のかたちである。かつてある文化が共通のタイプの家をつくってきたことは、集団に自らを認識する手がかりをあたえ、個人が文化に加わるひとつの暗黙のきっかけであった。集団の記憶とはそんな意味である。」(p.191)

「これら<202<は、私は知らなくても、いろいろ調べていけば意味がわかるかもしれない。建築史家はしばしばそういう方法で、現在の役割からは説明のつかない物の起源を解読していくものだ。これは比喩的にいえば家の無意識を、あらわれている物を鍵にして探っていくようなことではないか。名づけようもなく、直接読み解くこともできず、またそこになぜあるかもわからぬ来歴を家が記憶しているといってもよかろう。
 このような意味で家はまさに多様な時間の結果である。家そのものが記憶である。それは私だけでなく、私の先祖たちの痕跡であり、さらに、家族をこえて家をつぎつぎに進化させてきた人類の時間の痕跡が重なっている。厳密にいえば、さきに区別したように家の記憶のなかにも人類学的時間に属する歴史と家族に属する歴史とを区別しなければならないだろう。いずれにしろ記憶ということばを用いるのは、現在を過去との関係で問いなおすことを意味している。そしてこの関係は家を多重に織られたテキストに変えていくのである。」(pp.201-202)

「長い世代にわたって生きられた家ほど、家族の歴史についての記憶が充満している。西洋の十七、八世紀の貴族の館やブルジョアジーのサロンには、夥しい数の肖像画がかかっていた。これらの肖像画はたいていその館の所有者と家族、及びかれらの父祖のものである。墓のなかではすっかり朽ち果てているであろう人びとをうつしだす「時間の鏡」であり、館の住み手は、これらの肖像つまり自らの家族の歴史によって、自分を認識し他人に対する存在(身分)として自分を把握しえたのである。かつては、このような過去把握が、住み手にとって住むこと、生存することの意味の発見にほかならなかった。だからかつての家は、記憶つまり時間の象徴にみちていたのである。鏡はほとんど肖像画と同じような意味を空間化する仕掛けであり、時計も実際の時を刻む以上に時間の象徴さらには家父長制度の象徴としてあらわれた。それはブルジョワの家の中心にあったあの背の高い時計が、グランド・ファーザー・クロックと擬人化してよばれていたことを思い出せば充分である。」(p.204)

■書評・紹介

■言及



*作成:山本 晋輔 
UP:20090814 REV:
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