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『ケアリング 倫理と道徳の教育――女性の観点から』

Noddings, Nel, 1984 Caring - A Feminine Approach to Ethics & Moral Education, University of California Press.
=19970520 立山 善康・林 泰成・清水 重樹・宮崎 宏志・新 茂之 訳『ケアリング 倫理と道徳の教育――女性の観点から』,晃洋書房


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■Noddings, Nel, 1984 Caring - A Feminine Approach to Ethics & Moral Education, University of California Press. =19970520 立山 善康・林 泰成・清水 重樹・宮崎 宏志・新 茂之 訳『ケアリング 倫理と道徳の教育――女性の観点から』,晃洋書房  ISBN-10: 4771009481  ISBN-13: 978-4771009486  4200 [amazon] [kinokuniya] ※ b

■晃洋書房のHP
http://www.koyoshobo.co.jp/backnumber/detail.php?a_isbn[0]=0948-1

■目次
日本語版への序文
序論

1 なぜケアリングにかかわるのか
    ケアリングの根本的な性質
    ケアするとはどういう意味か
    ケアする人の分析に生じる諸問題
    ケアされるひと
    美的ケアリング
    ケアリングと行い
    倫理学とケアリング

2 ケアするひと
    受け容れ
    思考と感情:転換点
    罪と勇気
    女性とケアリング
    同心円と連鎖
    ケアリングの非対称性と助け合い
    倫理的な理想と倫理的な自己
    規則と葛藤

3 ケアされるひと
    ケアするひとの態度とその影響
    ケアリングの関係に必要なケアリングの理解:対等でない出会い
    助け合い
    ケアされるひとの倫理

4 ケアリングの倫理
    自然なケアリングから倫理的なケアリングへ
    責務
    正しさと誤り
    正当化の問題
    女性と道徳性:徳
    ケアリングの不屈さ

5 理想の構築
    理想の本性
    束縛と到達可能性
    弱められた倫理的能力
    理想の養育
    理想の維持

6 理想の高まり:喜び
    わたしたちの基本的な実相と情感
    わたしたちは情動をどのように説明するべきか
    知覚と情動:情動の対象とその値ぶみ
    理由としての情動
    至高なものとしての喜び
    理知的な活動における受容力と喜び
    基本的な情感としての喜び

7 動物、植物、事物、観念に対するケアリング
    わたしたちと動物との関係
    植物へのわたしたちの関係
    事物と観念
    要約

8 道徳教育
    道徳教育とはなにか
    教師としてケアするひと
    対話
    練習
    奨励
    ケアリングのための学校の組織化


訳者あとがき
人名索引
事項索引



■引用
太字見出しは本論を参照して作成者がつけた。

ケアの意義、女性
仮説的なモラル・ジレンマ(道徳的な葛藤場面)に直面すると、女性はよく、もっと多くの情報を要求する。わたしたちがもっと知りたがるのは、思うに、実際の道徳的状況にもっとよく似た、ひとつの光景を描くためである。頭の中で、わたしたちは、登場人物に話しかけたり、その目や表情を見たり、登場人物がなにを感じているかを受けとめたりする必要がある。結局、道徳的な決定は、実際の諸状況の中で行われる。つまり、そうした決定は、幾何の問題の解答とは、まったく質の違ったものである。女性は、自分の行いに理由を与えることができ、実際に与えもするが、こうした理由は、普遍的な諸原理やその適用よりも、感情とか、必要とか、印象とか、あるいは、自分の個人的な理想の感覚とかの方を向いている。こうした「風変わりな」取り組み方の結果として、女性は、しばしば、道徳的な領域で男性に劣っている、と判断されてきたことが、理解されるであろう。(pp.3-4)

わたしは、倫理的な行動のほんとうの源泉は、人間の情感のこもった反応にあるとしたいからである。(p.4)

他のひとの実相を理解し、できるだけ入念にそのひとが感じるままを感じとることは、ケアするひとの観点からは、ケアリングの本質的な部分である。(p.25)

わたしが自然にはケアしないような人びとがいる――専心没頭が嫌悪の念をもたらし、わたしのケアリングのの手の届く範囲を越えた、多くの人びともいる。わたしは、普遍的なケアリング――すなわち、万人に対するケアリング――という考え方を拒否したいと思う。(p.29)

「気にかけることcare about」と「ケアすることcare for」
わたしたちは、だれについても「気にかける(care about)」ことはできる。つまり、わたしたちは、道でばったり出会った、どんなひとにでもケアしようとする心の準備を持ち続けてはいられる。けれども、これは、わたしたちが「ケアリング」という言葉を用いるとき、言及しているようなケアすること(caring for)[世話をしたり、面倒を見ること]とは別である。よく考えてみれば、わたしたちはこの違いが大きいとわかるし、わたしたちが可能なケアすることを、たんに口先だけの「気にかける」ことに堕落させないために、慎重に接触を限りさえするかもしれない。しかし、わたしはこの言語上の区別に固執しようとは思わない。なぜなら、そうするのはいささか不自然にも見えるからである。しかし、いま指摘しているような、本当の区別を気にとめておくべきである。一方の意味で、「ケアリング」はひとつの活動を意味するが、他方で、それはケアリングの可能性に対する言葉だけの関与をあらわしている。(p.29)

ケアの受容性
ケアリングはおおむね、反応的、応答的なものである。ことによると、それは受容的と言ったほうが、もっとうまく特徴づけられるかもしれない。ケアするひとは、ケアされるひとに耳を傾け、かれの物語ることに喜びや苦しみを感じようとして、そのひとに十分専心没頭する。ケアされるひとに対する行いは、なんであれ、専心没頭として現れる関係と、ケアされるひとを温め、慰める態度にはめ込まれる。(p.31)

美的ケアリング
わたしは「美的ケアリング」という表現を、諸事物や諸観念についてのケアリングをあらわすのに用いようと思うが、この語法は、ほんの少し後で正当化することにしよう。事物や観念についてのケアリングは、質的に異なった形のケアリングであるように見える。(p.34)

倫理的なものと美的なものとの関係
倫理的なものと美的なものとの関係を問い、倫理的なもののまさに基礎をなしているとみなされるようなケアリングが、美的なものによって、どのように増幅され、歪曲され、場合によっては減殺されるかを問うのは、わたしたちにとって、特別な問題となろう。(p.35)

たとえ芸術的な創造に特徴的な受容力が、ケアリングの受容力と類似であるとしても、重要な相違にも気づくはずであり、わたしたちは、芸術的な受容力がケアリングの受容力と(個々の人間について)相関的であると、確信しているわけでは決してない。わたしたちは、やはり、芸術的な怪物たち(ワーグナーが思い浮かぶ)や、ランの花を愛し、人間の生活を軽蔑する人たち(コナン・ドイルの小説に出てくる 「モリアティー教授」が浮かぶ)や、ナチス最高司令部の何人かのように、音楽や美術を愛しながら、人々には信じられないほど残酷な仕打ちをしたひとたちのことも知ってきた。そして、もちろん、家族や、部族や、民族に情熱的にケアしながら、敵の首を楽しんではねるひとたちのことも、よく知っている。したがって、子どもたちが、人びとを有意義にケアするために、なにについてケアすることを学ぶべきかを説明した、単純な公式を見つけようと期待してはいない。しかし、また、ケアされるひとがケアリングの関係に寄与する大きな重要性をも見出すであろう。ことによると、観念や事物の方が、今までケアしようと努めてきた、相手の人間よりも、敏感に反応するのに気づくひともいるかもしれない。(pp.36-37)<作成者注・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』の議論と関連づけられると思う>

ケアリングと共感
 ケアリングには、ケアするひとにとっては、他のひとと「共有される感情」が含まれている。この関係を「共感(empathy)」と呼ぼうと思うが、しかし、この言葉がいったいなにを意味しているかについては、よく考えてみなければならない。(p.35)

ケアリングと動機の転換
 わたしたちがケアするとき、言い換えると、これまで議論してきた仕方で他のひとを受け容れるとき、感情以上のものが存在している。つまり、動機の転換(motivational shift)もまた存在しているのである。わたしを動機づける活力は、他のひとに注ぎ込まれる。おそらくは、つねにではないにしても、そのひとの目的に向けて注ぎ込まれるであろう。わたしは、自分というものを放棄しない。別の言葉で言えば、わたしは、自分の行いを大目に見ることはできないのである。しかし、わたしは、動機づけの活力を共有している。すなわち、わたしは動機づけの活力を、他のひとにも活用できるようにするのである。(p.51)

情動と動機づけ
 ピーターズは、動機としての情動と、反応としての情動とがあると指摘するときに、正鵠を得ているようである。そのうえ、わたしは、受容的で反省的な喜び――感知されていて、行為が生じなくても完結しているような喜びがある、と提案したいと思う。(p.221)

*作成:篠木 涼
UP:20080414
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