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『この子たちは生きている――重い障害の子と共に』

全国重症心身障害児(者)を守る会 編 198309 ぶどう社,230p.

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■全国重症心身障害児(者)を守る会 編 19830905 『この子たちは生きている――重い障害の子と共に』,ぶどう社,230p. ASIN: B000J77FI4 [amazon] ※ j01.

■目次


■引用

◆北浦雅子 1983 「この子たちは生きている」,全国重症心身障害児(者)を守る会編[1983:10-24]

 「こうして私は、ヒサ坊と主人の病気によって、生命を守るためには多くの方がたのおカとチームワークがなくては、守り切れないのだということを思い知らされました。また、病人の家族が自分のつらい感情をぶつけ、感謝の心を忘れにときには、生命を暖かく守りぬくことはできないのだということも、身をもって教えられたのです。
 このことは、重症児の親の姿勢にもいえることだと思います。最近、施設の先生に「重症児の親御さんたちは、みなさんよくがんばっておられますが、なかにはいろいろな方がいます。″うちの子は社会の子です。職員が世話をするのは当り前でしょう″などという親もいるのですよ」と聞かされたときには、私は血の気のひくような悲しみにおそわれました。たった一人のこうした親のために、すべての親が同じようにみられてしまいます。私たちのニ〇年にわたる運動も、根本からくつがえってしまいます。いいえ、それは重症児の生命を危うくしてしまうのです、と私は叫びたくなります。
 故市川房枝先生が長い問婦選運動をつづけられ、逝くなるまで、「権利の上に眠るな」といいつづけられたことを、私たちは忘れてはならないと思います。△019
 私たち守る会は、昭和五六年の国際障害者年にあたり、「親の憲章」を作成し、全国大会で採択しました。それは次のようなものです。

 親の憲章
 (生き方)
一、重症児をはじめ、弱い人ぴとをみんなで守りましょう。
一、限りなき愛をもちつづけ、ともに生きましょう。
一、障害のある子どもをかくすことなく、わずかな成長をもよろこぴ、親自身の心をみがき、健康で豊かな明るい人生をおくりましょう。
 (親のつとめ)
一、親が健康で若いときは、子どもとともに障害を克服し、親子の愛のきずなを深めましょう。
一、わが子の心配だけでなく、膚弱や老齢になった親には暖かい思いやりをもち、励まし合う親となりましょう。
一、この子の兄弟姉妹には、親がこの子のいのちを尊しとして育てた生き方を誇りとして生きるようにしましょう。
 (施設や地域社会とのつながり)
一、施設は、子どもの人生を豊かにするにめに存呑するものです。施設の職員や地域社会の人々と△020 は、互いに立場を尊重し、手をとり合って子どもを守りましょう。
一、もの言えぬ子どもに代って、正しい意見の言える親になりましょう。
 (親の運動)
一、親もボランテイア精神を忘れず、子どもに代って奉仕する心と行動を起こしましょう。そして、だれでも住みよい社会を作るよう努力しましょう。
一、親の運動に積極的に参加しましょう。親の運動は主義や主張に左右されず、純粋に子どもの生命の尊さを守っていきましょう。

 暖かい心の輪を
 守る会の発足当時は、重症児にちがこの世に生きることの価値を問われることは、親にとってはつらく、きびしいことでした。
 「そんなに障害が重ければ生きていないほうが幸せではないか」「社会のために役立つこともできず、社会復帰の困難な子どもたちを、なぜ社会が守らなければならないのか」ということばを聞く度に、私たちは「たとえどんなに障害が重くてもこの子たちは生きているのです。この生命をどうぞ守ムこちもできる限りがんぱります」と訴えつづけてきました。
 経済の高度成長期には、国の財政も豊加でした。また、当時の総理大臣も・生命尊重・を政治のテーマとして重症児対策をとりあげてくださいました。こうして、今日の重症児対策は進められてきた△021 のです。しかし現在、日本の経済は低迷し、国の財源もきびしくなってきました。豊かさのなかに過ごしに人の心も、金や物に価値を見出し、相手を傷つけてでも自分だけが自由にふるまってゆくような世相になってきたようにも思われます。私は、守る会が歩んできたニ〇年の歴史を思い出し、再ぴ重症児の生きる価値を問われる時代になってきたのではないかと不安でなりません。
 安楽死問題もいわれるようになりました。たしかに病人がきびしい状態になったとき、「いっそ天国にいったほうが楽になるのではないだろうか」と思うのは誰しも同じだと思います。しかし私は、主人があのきびしい闘病生活のなかでも常に生にむかっていたことを思い出します。病状がだいぶ進んだある日、マッサージの先生に「家に訓練用の固定された自転車が置いてあるのですが、病院でどなたか使ってくださる方がありますでしょうか」とたずねたとき、主人は目をかがやかせて首をふったのです。私は「ああ、自分で訓練してがんばるのね」といいますと、「ウン」とほほえみました。
 人問は、自分の生命があとわずかかも知れないと思うとき、決して死を選ばないのではないでしょうか。きびしい姿で生きている重症児や病人に安楽死を願う心は、あくまでも第三者のものであって、本人がそれをのぞんでいるとは思われないのです。こう語っている私自身、現在は比較的健康でおりますが、もし主人のような状態になったら、どうぞできる限り早くやすらかにしてくださいと願っています。しかし、いよいよ自分の死が真近くなったときには、もう一日生きたいと願うかも知れません。人間が生きるということは、それほど重く尊いものだと思うのです。」

◆東出明 1983 「京都守る会の歩みはじめ」,全国重症心身障害児(者)を守る会編[1983:133-138]

「京都守る会の歩みはじめ
            東出明
 昭和四〇年五月二一日、京都の重症児をかかえる親たちニ〇人が初めて寄り合ったこの日を、私たちは京都重症心身障害児(者)を守る会の創立記念日としています。当時、びわこ学園父兄会長だつた千田康夫氏が、前年に旗上げした東京の親たちに呼応したいとして、京都市内に住む私たち約六〇人に呼びかけてこられました。
 この会合には、京都市児童院長、市児童福祉審議会長、びわこ学園長なども臨席し、助言に当たられましたが一向に進みません。何しろ、見知らぬ人たちの初顔合わせなので、一同に強い警戒心や遠慮が働いたのではないかと思います。
 遅参したにめに発言が最後になった私は、「どんな悪いヤツにでも、基本的人権は保障されている。△133 私たちの子らは、世のなかの役にたつ見込みはないが、悪いことをするわけではない。なのに、生きる権利を認めようとしない国家社会に税金は払えるもんか。だから、私は金儲けに専念して脱税を計り、自らの力で白分の子を守る仕方がない」と、放言しました。
 これは、とても過激に聞こえたようで、列席者は顔を見合わせているうちに、千田さんから手渡されたのが『両親の集い』誌でした。ひもといて、その格調の高い論調に私は記驚嘆しました。「人と生命の尊厳、基本的人権の確立、さらに、自らの子のみならず、ハンディのある人すべてが幸せになりうる福祉社会の建設に向けて、私たちも努力しよう」と、主張されていたのです。
 ところで、先の私の発言の裏には、次のようないくつかの事情があったのです。
 昭和三四年ごろ、私の妻は悪性リウマチ熱に冒されました。これは非常に難しい病気で、三年間棒のように寝たきりとなり、おそらく再起は不能だろうとさえいわれましに。それが幸いよくなって、ボチボチ歩きもできるようになったのが、三八年のことです。この年は、関西で最初の重症児施設「びわこ学園」が開園した年でもあります。
 そのころ私たち夫婦は、重症の子を抱いて、京都市児童院(現児童福祉センター)を初めて訪ねました。同院は市独自の児童福祉行政機関で、そのなかに児童相談所がありました。私が別室で子どもの診断、判定を受けている間、妻はその児童相談所で福祉司と面接していました。すると福祉司は、いきなり「子どもが邪魔になってきたから、連れてきたのか」といったそうで、妻はびっくりして泣き出してしまいました。△134
 「みんなはそうして泣くけれど、いざ施設に入れてしまうと、そんなことあったかいなという顔をして、縞麗なオべべを着て子どものことを忘れて遊び歩く……」
 まことに辛らつな追い打ちでした。しかしいまにして思えば、この非難が決して当を得ていないといいきれないところに、私の深い悩みがあります。
 この三八年に、当地で初めての肢体不自由児施設「聖ヨゼフ整肢園」も発足しました。従来、脳性マヒ児の機能訓練講習に、東京・板橋の整肢療護園からときどき講師を拓いていたので、今度は、一貫した継続治療が受けられるものと期待していました。しかし講習のときもそうでしたが、ここでも重症の子はとかくお荷物あつかいされるだけでした。
 そのころ、私はある身障団体の役員をしていましたが、特殊学級の先生も交えて関係者が同園に寄り合う機会がありました。あいにくの所用のため、妻が私の代理として出席し、重症児の窮状を訴えました。ところが、「そんな役立たずの子どものために、使えるような金はない」と、一部の学校の先生を除く全員から排斥されたそうです。こうして、私は非常な怒りをうっ積するととも、従来の親の会に著しい不信を持つようになったいったのです。そんな私の気持ちを、『両親の集い』誌は見事にぬぐい去り、私を護る会運動にかかわらしめたのでしに。

 昭和四〇年九月二六日、京都守る会の最初の事業として療育相談を行ないました。場所は児童院。カウンセラーとして同院の意思や心理判定員、それに聖ヨゼフ整肢園やびわこ学園からも応援の医△135 師、ケースワーカーなどが相談に応じました。この日の四〇人は、即日会員となり、以後の月例会には一人も洩れなく出席されました。
 同年十二月ごろから、私にちは京都府・市各当局、ならぴに各議会に、対策樹立についての要望、陳情、請願を繰り返しました。しかし、そのつど「施策は国の責任だ」と、空しい回答しか戻ってきません。そこで、国への働きかけを本部の指導のもとに開始しました。しかし、これが具体化するには、それから二年が必要でした。四二年二月、国立療養所南京都病院は、ようやく重症児棟設置を決意し、私にちの協力を正式に依頼してきました。
 このころになると、結核患者が激減して療養所の統・廃合問題が提議され、重症児誘致の成否が、即療養所の存続にかかわることと、地元自治体も持ち出しがいらないことから、厚生省に向けて知事が先頭に立っての陳情合戦が繰り広げられていました。そのなかを、私たちもおくすることなく陳情にいきました。しかし担当官は「地元自治体の熱意が十分でないところに、国の施設をつくるわけにはいかない」と、見事に一蹴しました。私たちは帰京早々、府当局に厳重な折衝をするとともに、議会に陳情したり、要路に運動するなどして、ついに誘致を成功に導くことかできました。
 これに先立つ四一年五月二九日、私たちは「重症心身障害児(者)を守る京都大会」を開催しました。参会者は三百名。記念講演は、近江学園長であった糸賀一雄先生にお願いしました。先生は、「施設はその子の終着駅になってはならない。あくまで、始発駅であらねばならない」と、警世の名句を吐かれました。△136
 この大会の前後に、私たちは金三〇万円也を京都市に指定寄付しましたところ、施設建設が市長公約となり、四二年度予算に建設費六千万円を計上していただきまし。しかし、この額だけでは職員宿舎建設費用が充足できないので、広く市民から寄金を募ることになり、別箇に「施設建設協力会」を組織し、会長に京都大学名誉教授平沢興先生をいただきました。募金目標の一千万円は、当初、危ぶまれたにもかかわらず、京都市地域婦人連合会の絶大なご協力もあり、超過達成できました。
 かくして、京都市立重症児施設「麦の穂学園」(五〇床)が、同年八月、誕生しましに。さらこ、京都市立精薄児施設「醍醐和光寮」が前後して改築増床(六〇床)され、重度精薄児の対策が一段と強化されました。私たちは、当初からこの推進団体の役割を担ってきたのです。
 続いて翌四三年五月、「花明学園」(現花ノ木学園、一ニ〇床)、四四年七月には、「国立療養所南京都病院白梅病棟」(一ニ〇床)が開園して、施設対策は一応、完了したかに見えます。しかし、従来からのニ、三百名の在宅者に加えて、毎年、累積してくる養護学校卒業者の進路をめぐって、施設は、質・量ともに改善を迫られることは必至といえます。
 四三年二月、私たちはNHK厚生文化事業団から巡回療育相談車「慈善相撲号」をいただきました。私たちは本車を使って、府下全域の在宅児(者)家庭を訪問していますが、本事業によって、府当局を大いに刺激し得たことを誇りとします。ちなみに、満十五年も経過するのに、この老車は、いまだ元気に走っています。
 こうしてすべてにわにって順調にすすみ始めたかにみえた四八年前後、二、三の施設労使間で職員△137 の腰痛問題から紛争が発生しました。当然、この子らの生命にかかわるところから・私たち親は介護に参入しましたが、力およびません。このとき、全員に連日の動員をかけて急場を救っていただいたのが、発足したての「京都明るい社会づくり運動推進協議会」でした。ご恩返しをかねて私たちも本運動に参加していますが、実際には、いつの場合も私たちが助けていただいているのが実情です。
 五〇年五月二五日には、京都支部結成十周年を記念して、全国大会を誘致しましたが、会楊は、広大な国立京都国際会館だけに、多くの人手を要しました。その際にも右の会員二百名にボランティアとして協力していただいた次第です。
 以上、京都守る会にかかわる前半十年の歩みを紹介してきました。それにしても、生まれも育ちもすべてが違う人たちが、それが重症の子(それも多様な)を持つ親だからという理由だけで、よく結束したものです。役員になられた方も余暇どころか、仕事さえも打ち捨てて事に当たられてきましたが、それは私たちが「共感の世界」に住むからです。しかもこの世界に、世間の人びとを引き込みました。折柄の、高度経済成長の波に乗っただけでは、「福祉の奇跡」は生まれなかったでしょう。
 しかし、私たちにも世代の交替が始まって、共感の基盤にゆるみが生じる恐れがあります。本書が、その支えになり得たら、幸せこれに過ぎるものはありません。

(本文を重篤な病床から寄せられた東出氏は、本書の出版を待つことなく、去る七月に逝去されました。絶筆となった本文に盛られた氏の情熱を深く味わうと共に、その御冥福をお祈りします)

□言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:20160624 REV:20160708
重症心身障害児施設  ◇病者障害者運動史研究  ◇BOOK
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