『修訂 日本死刑史』
布施 弥平治 19830820 巌南堂書店,730p.+5p.
■布施 弥平治 19830820 『修訂 日本死刑史』,巌南堂書店,730p.+5p. ASIN:B000J7C01G \22000+税 [amazon]/[kinokuniya] c0132, c0134
■著者略歴(奥付より)
布施 弥平治(ふせ やへいじ) 法学博士
明治34年9月5日 山形市大字山寺227に生る
■内容
■目次
序
第一章 総記
一 死刑概説
二 公刑と私刑
三 縁坐と連坐
四 喧嘩両成敗
五 死刑の附加刑
(一)鋸挽 (二)没収 (三)晒 (四)引廻
第二章 大化以前の死刑
一 神代記紀に見えた死刑
二 天王記紀に見えた死刑
三 大祓の祝詞に見えた罪と罰
四 満韓史籍に見えたわが国の死刑
第三章 大化以後平安時代末までの死刑
一 律に定められた死刑制度
(付)八虐の罪
二 死刑の判決
(一)事発 (二)追捕 (三)裁判の準備 (四)死刑に関する特例
三 絞と斬
四 梟首と格殺
五 神亀の死刑廃止
六 弘仁の死刑廃止
七 刑制の弛緩
八 死刑例
(付)罪当死
第四章 鎌倉時代の死刑
一 幕府行刑の根拠
二 侍所と守護
三 死刑例
第五章 建武中期の死刑
第六章 室町、安土桃山時代の死刑
一 死刑制度
二 死刑例
三 分国法に規定された死刑
(一)大内家壁書 (二)里見家法度 (三)今川かな目録 (四)新加制式 (五)塵芥集 (六)甲州法度 (七)結城家法度 (八)六角氏式目 (九)長曾我部氏掟書 (一〇)吉川家法度 (一一)最上家掟
四 分国における死刑例
五 戦国安土桃山時代の死刑執行
六 戦国安土桃山時代の残虐刑
七 一銭切
八 安土時代の死刑
九 桃山時代の死刑
第七章 江戸時代の死刑
一 江戸幕府の死刑制度
二 江戸幕府の死刑執行
三 幼年者、婦女と死刑
四 乱心者と酒狂者と死刑
五 キリスト教徒と死刑
六 死刑例
七 諸藩の死刑
(一)中村藩 (二)仙台藩 (三)盛岡藩 (四)弘前藩 (五)米沢藩 (六)川越藩 (七)佐倉藩 (八)水戸藩 (九)名古屋藩 (一〇)金沢藩 (一一)新発田藩 (一二)亀山藩 (一三)和歌山藩 (一四)福知山藩 (一五)岡山藩 (一六)高知藩 (一七)徳島藩 (一八)熊本藩 (一九)福江藩
八 百姓一揆
九 盲人御仕置
第八章 明治以降の死刑
一 総説
二 刑法典と死刑
三 死刑の執行
四 死刑例
付録 死刑廃止論
索引
■引用(○とあるのは、エディタでは表示できなかった文字)
「江戸幕府は、東照神君以来の祖法変ズべからずとすることを以て、古例旧格としてかたくなまでに墨守してきたが、時勢の推移に対応したことはまた当然である。これを刑罰関係に見ても或は改め、或は追加するなどのことが、しばしば行なわれたのである。戦国の余風が消えやらない幕初と元和偃武をうたう時代の顕著な相異は、自ら罪の様相を変え、罰も次第に戦国の残虐刑は姿を消すことになった。
(中略)
裁判には、将軍御直裁判、五手掛、四手掛、三手掛、手切裁判の別があり、法廷も江戸城大広間、評定所、役宅、私宅などさまざまである」(p329)
「江戸幕府に於て執行する死刑は、幕初に於ける残虐極まるものは、次第に廃されたといっても磔、火罪、獄門、死罪、下手人、斬罪、切腹の七つがあり、その中でも、鋸挽、晒、引廻しなどが附加するものと然らざるものがあり、実に一三等の多きに達するのである。
江戸時代には士、農、工、商の身分階級制度は厳しく、武士に対する死刑と、農、工、商即ち庶民に対する刑罰とは、自ら差があり武士にも御目見以上と以下、陪臣、浪人がある。大まかに言えば斬罪と切腹は武士に加える死刑であるが、厳密に言えばこれは御目見以上の武士に加える死刑であり、間々これに則らない例もあり、武士でも庶民の刑である死罪に処せられることさえあった。これは評定所の裁決によるもので定式がないのである。僧侶も寺持のものと所化僧の別があったが、刑罰上は庶民の取り扱いを受けていた。火罪は放火犯に対する死刑であるが、江戸幕府>366>の始め頃は必ずしも放火犯に限ったものではなかった。例えばキリスト教徒に加えた、火あぶりもある。火罪は放火犯に執行されるようになったのは何時頃からかは明らかでないが、慶長十四(一六〇九)年に駿府本丸の女房局に放火した下女二人が、火あぶりになって殺され(慶長日記)たとあるところから、応報として放火したので火焙りという観念が古くから存在していたのであろう。これが火罪は放火犯に限定されるようになったものであろう」(pp.366-367)
「次に死刑には公示の上処刑するものと、然らざるものがある。例えば磔や火罪や斬罪は前者であって切腹、死罪、下手人は後者である。獄門は被刑者の処刑後、梟首して公衆に示すものである」(p367)
「次に磔と火罪は被刑者が下賎の者の手によって落命するのであるが、斬罪、死罪、下手人などは下級武士の同心又は山田浅右衛門によって刎首されるのである。即ち直接何人によって刎首されるかは死刑の軽重に作用するのである。切腹に際して介錯人の名を問うことがあるのは、名のある武士に刎首されることが、名誉であるということからである」(p367)
「もともと斬罪は御目見以上の武士に加えるものであることは>369>
斬罪ハ御目見以上御預ヶ之上、先ハ切腹之所切腹○重く揚り座敷ものにて、其以下ニ而候得ハ死罪可被仰付程之悪事有之、御目見以上重御方ニ而も切腹ハ難被仰付罪有之節如此被仰付候事ニ候、御評定所ニ而、三御奉行大目付御目付御立合、御老中御差図之趣、御懸り御申渡相済候上、品川浅草両所之御士置場へ連行、切腹之時ニ准し麻上下着為致、磔火罪見物之通り人之見候所ニ而御徒目付御検使之上、町組同心首討可被申哉之事(百箇条調書、内々篇)
とあることによって明らかである。なお御定書百箇条、御仕置仕形之事に
従前々之例
一斬罪
於浅草品川両所之内、町奉行同心斬之、検視御徒目付、町与力
但欠所右同断
とあり、斬罪に処せられらものの田畑、家、屋敷、家罪を没収すべきことを定めている。また刑罪大秘録にも
一於評定所申渡、上下之儘羽がひ○に致し駕籠ニ乗せ直ニ浅草御仕置場所江召連れ、目隠無之、染繩ニ而縛り候、羽がひ○の儘、町方同心首を討
但検使御徒目付、町方与力並ニ同心、御小人目付も罷越候事
とある。斬罪の執行法は江戸時代を通じて変化はなく、罪囚は評定所に於て斬罪に処せらるべき旨の言渡を上下姿で受けるや、直に羽がひじめに縛られて、評定所より品川か浅草の何れかの刑場まで駕籠に乗せて送られ、そこで衆人環視のうちに、奉行所の同心に斬首されるのである。目付というのは平素は旗本御家人の非違を糾弾する役で、評定所の定式日には立会うことは、三奉行と同じであるが、公事吟味を傍聴するだけであり、評決に加わるものではな>370>い。なお大目付は大名を糾弾するものであるが、この大目付と目付とは独立した機関であった。目付の下に小人目付、徒士目付があるが、一人の目付が徒士目付を何人まで使えるかは規定していない。小人目付は目付の指揮に従って姿を換えて探索する所謂隠密の仕事をするものである。また目付の非違については互弾とするのである」(p369-371)
→(補足:櫻井悟史)欠所とは、闕所のことである。闕所とは、本刑の軽重により動産、不動産を没収することを定めた刑罰である。
「死刑の一つとしての切腹は武士に対するものであり、死刑囚としての武士に、自ら屠腹を命ずるものであり、刑吏の手によって落命する斬罪よりも軽いものとされている。その目的は武士としての面目を保たしめることにあり、律令制度下における五位以上の有位者に対しては、自尽を行わせるものと規を一にするものである」(p371)
「江戸時代、幕府の執行する庶民の死刑のうちで最も重いものは磔である。軽い身分の者の手によって死に至らしむるの外、公衆監視の裡に死刑を執行するのである。獄門、死罪、下手人は何れも首切同心か朝右衛門(浅右衛門)の手によって牢内に於て死刑を執行するものである。この中の獄門は切った囚人の首を公衆の面前に梟すのであって磔に次ぐものとされ、死罪は様しものに供せられることがあるので、下手人よりも重いものである。下手人(解死人)は死刑のうちで最も軽いもので、様物に供されることなく没収という附加刑もない」(p377)
「獄門は牢屋敷に於て首を刎ね、その首を俵に入れて二人で担いで梟し場に運び、獄門台に梟すものである。その梟す場所は、御定書百箇条、御仕置方之部に
従前々之例
一獄門>385>
於浅草品川に獄門に掛る、在方ハ悪事致候所江差遺候儀も有之、引廻捨札番人右同断
但牢内におゐて首を刎欠所右同断
とあり、江戸に於ては浅草小塚原と品川鈴ヶ守のニ個所であった。また地方では夫々の場所に梟すものである。寛文十(一六七〇)年二月三日に上総国青木村の百姓、孫衛門、善太郎、三十郎の三人が芝浦で鴨を獲った罪により、佃島に梟首、また享保五年五月二十九日には、品川表と中川尻で鳥を獲った罪により、清兵衛は盤井町三丁目に住んでいたのであるが、本所三ツ目横堀に梟首されたことが、何れも御仕置裁記帳に見えている。このように江戸近辺のものであっても犯行近くのところに獄門に掛けることがあったのである」(pp.385-386)
「獄門ハ磔ニつゞき候御仕置にて磔同様之御取計ニ可有之哉、尤江戸中引廻しハ牢屋裏門○出、小船町、小田原河岸、日本橋四日市江戸橋へ出、牢屋へ帰り死罪ニ可相成哉之事
但浅草品川両所之内ニ而獄門台ニ首計を掛ヶ置、捨札を立、番人被附置候御仕置故、牢屋ニ而死罪ニいたし首計を両所へ遺候事ニ可有之哉尤欠所之儀右同断(百箇条調書)
とあるように獄門は磔に次ぐ死刑で、その手続は>386>
一死罪御仕置之通、首打役首討候得バ、非人直ニ首引揚、手桶之水ニ而洗ひ、兼而手当致置候俵ニ入、獄門検使、町方年寄同心双方弐人出居、右首請取、先江幟捨札持道具、其跡首入候俵を非人両人ニ而差荷ひ、右○使同心差添、浅草品川御仕置場江罷越、獄門ニ掛之
但引廻し無之候得バ幟無之(刑罪大秘録)
とある」(pp.386-387)
「死罪は町人百姓に加える斬首の刑で、下手人よりも一等重いものである。これには引廻しの附加するものと然らざるものとあり、引廻しの附加するものは、同じ死罪でも重い死刑である。また被刑者の所有する田畑、家、屋敷、家財は凡て没収され、死骸は様し物に供されるのである。御定書百箇条、御仕置仕方之事に
同従前之例
一死罪
首を刎、死骸取捨様しものに申付る
但欠所右同断
と定めている。様し物については>390>
死罪ハ申渡候上牢屋敷ニおゐて両御町組同心首を刎、死骸ハ取捨に相成、右死罪に可相成科人之内、からだに入墨、出来物之跡も無之きれい成もの有之節ハ町奉行所○御申上、御刀御脇差、御長刀等御様御用被仰付候得は右御品御腰物奉行○出諸御役人罷出右御品ハ御長持人ニ而同心附添諸人を払ひ牢屋敷へ罷越粧町藁谷ニ居候浪人浅右衛門御腰物奉行へ御引渡、麻上下ニ而罷出、牢屋敷御仕置場ニ而首討落し相済候上、御様もの場へ罷出浅右衛門様役相勤可申哉之事(百箇条調書、内々篇)
とある。これによれば、首を斬るのが同心で浅右衛門は将軍の刀剣の切れ味を試すことのように述べてあるが、後に至って同心に代って浅右衛門が斬首し、一般武士の依>391>頼によって刀剣の切れ味を試したようである。死骸に癩病とか腫物があるような場合には神聖な刀を以て斬ることを避けることは当然であり、入墨を施された前科者の死骸を、ためし物に供しないことは刀の穢れであるとの考え方からであろう。これは将軍の刀を試す時だけのものか、一般武士の刀を試すときも同じであったのかは明らかでない。なお様し物にならないものにこの外、揚り屋入のものと下手人に処せられたものと女囚がある。
なお浅右衛門について、横瀬夜雨は
麹町区紀尾井町六番地の裏長>392>屋、永井喜一方の二階六畳の間を借受け住むでいる母子四人の一家族がある。母は山田おかつ(七十二才)其子を浅右衛門(五十三才)又次郎(四十七才)、元三郎(四十一才)といふ。
首斬浅右衛門と唄われた御試御用山田浅右衛門九代の主人である。山田家の祖先といふは、白覇組六方組などゝ称して侠名を売った旗本奴の居合の師匠であった。居合に妙を得た処から幕府の刀剣お試し御用を仰付けられ、後に首斬同心といふ罪囚斬首役人の頭になった。七代目は鼠小僧次郎吉を斬った。八代目は橋本左内、頼三樹三郎らの勤王家を斬った。毒婦高橋お伝もまたこの八代目の手にかゝった。浅右衛門の家は麹町平河町にあった。土蔵の三棟もある立派な邸に住んでゐた(太政官時代)。
と伝えている。浅右衛門は罪囚の首を斬り、或は将軍の刀を試せば手当が出るし、新刀だめしの依頼人からも手数料が得られるので、自然と豊かになり豪奢な暮しができたようである。それが九代目に至って零落したということである」(pp.390-393)
「下手人は解死人とも書き、被刑者の首を斬ることについては死罪と同じであるが、死罪に行われる様しものに供されることなく、死骸は小塚原回向院寮に埋める(刑罪大秘録)のであり、死罪よりも軽い死刑とされていた。
(中略)
百箇条調書に
下手人ハ町人百姓等互格之ものを殺候節之御仕置にて都而人を殺候もの遺恨を以之儀與喧嘩口論等ニ而腹立之儘>395>打殺自害可致と思ひ候而も死に後レ候與何レニも人を殺候上ハ其身も可相果下賤之者杯死後レ全其可死期を不死付従公儀殺被遺候筋にて可有之哉ニ付欠所ニも不及牢屋にて首を被取捨ニ相成迄御定故死骸を貰葬度与願候を殺し下賎之もの之身として上たる人を殺候儀ハ其趣意ニより切捨死罪ニ可相成儀ニ可有之哉之事
但不届なから、公儀江対し候而之事ニハ無之全人を殺其身存命故之下手人故御様ものニも不破仰付哉之事
とある。
なお様しものにならないことは、御定書百箇条、御仕置仕方之事の中に
従前々之例
一下手人 首を刎死骸取捨
但様しものには不申付
と明記されている所のものである」(pp.395-396)
「諸藩の死刑
江戸時代には全国三千万石のうち四分の三は三百諸侯と称せられた大名が支配していた。下は一万石から上は百万石まで領地は広狭様々であるが、幕府はこれに或程度の自治を許した。これは経費節約の見地からであることは主目的であるけれども、完全自治を許したものではなく、老中、大目付などによる監督の下に、中央集権化をはかる施策も施されていた。大綱は幕府の政策に準ずるものとする為に武家諸法度を守らせ、領地没収の手段を採り幕府の統制の強化を図った。幕初から慶安の事件〔慶安四(一六五一)年〕までの約五十年の間には夥しい除封が行われたことは周知の通りであるが、その後、除封は激減するが大名にとって除封は一大脅威であったのである。従って幕府の方針に著しい差違ある政策をとることができなかった。
藩領内にも同じような犯罪は行われるので、大小いかなる藩といえども藩内の治罰は必要欠くべからざるものがある。従って藩自身に於て刑罰を加え、これを自分仕置と称した。従って各藩に刑事判例のようなものがあり、幕府の方針である、東照神君以来の祖法変ずべからずとすることを旨とし、前例に従うことをどこの藩でも重視したのである。前例に従うことは事にあたる吏員の批難を浴びることは少ないので、調法なものである。この点から見ても、例>483>集のような記録がどの藩にもあったものであろう。また幕府に於て、公事方御定書を編纂して、成文法典ができて以来いくつかの藩に於ても成文刑典が編まれた。それには御定書百箇条に準じたもの、明律を規範としたもの、或はこの両者を斟酌したものなどの別があるが、秘密法主義を採った、いくつかの成文刑典があらわれた。しかしこのような成文刑典と判例集などは明治まで残されたものは極めて少ない。
司法省布達(明治)八年一月七日達第一号各府県
従前各藩被立置候節徳川氏刑法ノ外其藩祖ヨリ用来リ候習慣ノ法律或ハ法律に類シタル罰則并ニ罰例存在シ居候分ハ本年三月迄ニ其府県於テ取調一本ツゝ当省へ差出シ可申候条此旨相達候事(法規分類大全、第一編、刑法門)
という布達を司法省から各府県に出しているが、或はこれは刑法制定の参考にする意図のものであったかも知れないが、果してこの布達に応えた府県がどれだけあったであろうか。現存する藩の成文法典と判例集が残っているのは殆ど三百年近くの江戸幕府時代に終始して同一地方に藩を保ったのが殆どであり、転封に転封を重ねた藩には殆ど例外なく佚失している。また明治維新の混乱の中にあって佚失したものも多いものと思われる。ここに諸藩に於ける死刑を明らかになし得ないものがある。藩治中どれだけの人が様々な死刑を加えられたか、計えることは全く不可能である。近時に至り幸にも地方史の刊行が盛んになり、古文献古文書の発掘も数多くなった。しかしそれでもまだ諸藩の死刑についての闡明は期すべくもなく、本書などは九牛の一毛にすら達しないことを残念に思うものである。
各藩にはその大小を問わず誇を持ち伝統を誇示し、他藩を外国視する傾向を有し、殊に徳川氏よりも古くから勢力のあった戦国大名の流れを汲む藩、また織田豊臣時代に徳川氏と肩を並べていた外様大名などは、内心徳川幕府の下風に立つを潔よしとせず大藩意識を持ち、外面問題を惹起しない程度の施策を幕府のそれと異にして無言の抵抗を試>484>みた藩もないわけではない。ここに藩によっては幕府の刑罰と異なった刑罰を用いているものもある。それが諸藩の死刑を考える上に複雑さを増すものである」(pp.483-485)
「仮刑律に於ける死刑の目は刎、斬の二等とするか絞首、刎首、梟首の三等とするかは遂に決定を見ないうちに仮刑律は用いられなくなった。刎、斬の二等とするときの刎は「身首処ヲ異ニス」つまり斬首することであり、斬は袈裟斬することであるので、この場合は、刎が重く斬は軽い死刑である。次に絞首、刎首、梟首の三等とするときは梟首は最も重く、次は身首処を異にする刎首、そして絞首は最も軽い死刑となるのである」(p565)
「また明治二年八月五日には磔を磔罪、梟首を梟示、刎首を斬罪と改めた。即ち袈裟斬による死刑はなくなったのである」(p566)
■書評・紹介
■言及
*作成:櫻井 悟史