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『リハビリテーションを考える――障害者の全人間的復権』

上田 敏 19830615 青木書店,障害者問題双書,327p.


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上田 敏  19830615 『リハビリテーションを考える――障害者の全人間的復権』,青木書店,障害者問題双書,327p. ISBN-10: 4250830187 ISBN-13: 978-4250830181 2000 [amazon][kinokuniya] ※/杉並369

■関連

◆立岩 真也 編 2017/07/26 『リハビリテーション/批判――多田富雄/上田敏/…』Kyoto Books

立岩真也編『リハビリテーション/批判――多田富雄/上田敏/…』表紙
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■引用

 「障害者の選択権と“自己決定権”が最大限に尊重されていなければならないのであり、そうであるかぎり、たとえ全面的な介助を受けていても人格的には自立しているのだ、という考え方である。」(上田[1983:27])

 「一九八一年にスタートした障害者の国際組織である障害者インターナショナル(Disabled Person International)が障害者の立場からの独自のリハビリテーションの定義をおこなって<0030<おり、それが国連の「障害者の十年」の世界行動計画にもとり入れられていることを紹介しておきたい。それは「損傷を負った人に対して、身体的、精神的、かつまた社会的に最も適した機能水準の達成を可能とすることにより、各個人が自らの人生を変革していくための手段を提供していくことを目指し、かつ時間を限定したプロセス」というものである。
 これは、リハビリテーション・インターナショナル(Rehabilitaion International; RI, 以前の国際障害者リハビリテーション協会で、代表的な障害者のための国際組織【「のための」に傍点】)の、「八〇年代憲章」のリハビリテーションの定義が次のようにのべていたのと比べると力点のおき方がかなり異なっている。すなわちRIの定義は「医学、社会、教育および職業的方法を組み合わせ、調整して用い、障害のある人の機能を最大限に高めること、および社会のなかでの統合を援助する過程である」というものである。
 八代栄太氏も指摘しているが(10)、RIの定義がたんに「機能を最大限に高める」としているのにたいして、DPIの定義では「最も適した機能水準の達成」と、「各個人が自らの人生を変革していくための手段を提供する」との二点が含められている。すなわち主体が個々の障害者自身であること、および機能の向上は必ずしも常に最大限が望ましいのではなく、「最適な」ものであってよいという二つの点に違いがあるわけである。このような考え方の根底には機能の向上それ自体は人生における手段であって目的ではないという理念があると思われる。さらに「社会の中での統合の援助」という重要な項目がぬけていることについては、これはリハビリテーションのプロセスと密接不可分ではあるものの、社会の環境を改善し、構造を変革することによって実現しうるものとして、DPIとしては「機会の均等化」という概念を別個に新たに導入して、これをリハビリテーションと並び立つ概念として位置づけたものである。そしてこれとの<0031<関連においてリハビリテーションには「時間を限定したプロセス」【「時間を限定した」に傍点】)という規定が加えられたわけである。」(上田[1983:30-32]、「Disabled Person International」は「Disabled Peoples' International」)

 「ここで、やや旧聞に属するが、一〇数年前の学園紛争の時代にしばしば学園を風靡した「労働力修理工場論」について一言触れておきたい。これは学園紛争が医学部からはじまったこともあって、医学・医療への根源的な批判として、当時の「新左翼」の論客たちが展開した議論であって、リハビリテーション界の一部にもかなりの影響を与えたものである。それは医療はすべて、そしてなかでもリハビリテーションはとくに、もっぱら資本家の利益のために、傷ついた労働力を修理し使えるようにし、ふたたび資本家によって搾取されるために社会に送りかえすものだ。したがって、それは権力への加担であり、犯罪的であるとの主張である。今聞くとまるで嘘のように幼稚な議論であるが、当時は若い医学生、リハビリテーション関係職種の学生の心を少なからずゆるがせたものである。当時私はこれについて、小文を発表したことがあるが(14)、その一部をここに再録しておきたい。

 「「労働力修理工場論」を非常識な幼稚な議論として一笑に付すことは易しいが、私はむしろこれを軽視せず、真正面からこれと対決することによって、リハビリテーション、あるいは医療全般の、真に正しい社会科学的な分析と位置づけを発展させていく必要があるように思う。<0038<
 この種の議論にたいする批判の第一は、それがまさに資本家側の医療にたいする見方に立って、それを絶対視した議論ではないかという点である。
 資本家の利害だけから見れば、たしかに、医療の水準は国民を「生かさぬよう、殺さぬよう」に保つのがよいといえるのかもしれない。あるいは低廉な労働力の適当な供給が保障される範囲内に保てば十分だと考えられるかもしれない。
 たしかにわが政府をして「低医療費政策」(とくにリハビリテーションにおいてほど、この政策が顕著なところは他にない)を固執せしめているモチベーションのひとつには、これがあるであろう。
 しかし、問題は、医療を決定する力はこれしかないのかということである。
 そこで第二の批判点になるが、彼らの議論は、医療の水準を支え、それをたえず高め、かつ広めようとしている根本的な力の存在を見落としているということである。
 それは何よりも、よりよい生活を求め、より健康な生活を求め、健康の破壊を許さないとする国民全体の要求であり、次に、それにこたえるべく、医療の理論と技術をたえずたかめ、普及しようと努力しているわれわれ医療技術者の活動である。
 第三の批判点は、彼らの議論には、医療の現実をこの二つの力、すなわち、医療を発展させようとする下からの、そして科学的な力と、それにあまり多額の費用はかけないで、労働力の供給維持程度におさえようとする上からの力とのダイナミックなぶつかり合いとして見ていこうとする立場がないということである。上からの力の一方的な貫徹として、つまり、元気のよい言葉はともかくとして、基本的にはきわめてペシミスティックな見方で、スタティックにとらえることしかできていない点にある。<0039<
 以上は、医療全般に共通の議論であるが、リハビリテーションに限っていえば、これはまさに新しい医療の可能性の拡大であり、医療の任務を全人間的な復権、より意義のある人生の実現にまで拡大したという点で、医療の水準についての考え方を質的に一段高い段階に高めるものである。
 国民の基本的要求に奉仕するための医療の科学・技術のひとつの先端にあるものとして肯定的にとらえるべきものなのである。

 以上いささか「喧嘩すぎての棒ちぎり」といったおもむきがないでもない、若かしころの議論であるが、現在の障害者運動やリハビリテーション論のなかにも、表面にはあらわれないまでも、ひとつの底流としてこれに類するペシミスティックな、あるいはニヒリスティックな思想が流れているとはいえないので、またこのような議論がいつ復活してこないものでもないので、あえて御紹介したしだいである。
 実はこの「労働力修理工場論」批判は、医療(リハビリテーションを含む)の位置づけというだけでなく、本節のテーマである労働の意義についての考察とも深い結びつきをもつものである。すなわち、十数年前の論文では触れなかったが、このような「新左翼」的な議論の根底には「労働は苦役である」という思想があり、実はそれが最大の問題なのである。労働が苦役であればこそ、障害者を労働に送りかえそうとするリハビリテーションが犯罪的なのである。そしてこう言い換えてみれば、現在の障害者運動の一部にもあきらかにこの「労働苦役論」は底流として存在しており、「苦役から労働を解放5しようとするのではなく、「労働からの解放」こそが障害者運動の目的であるかのような議論も聞かれるのである。」(上田[1983:38-40])

「(14)上田敏「リハビリテーション医学の諸問題」『新しい医師』一九七一年三月一日号。」(上田[1983:51])

*この部分への言及

◇杉野 昭博 20070620 『障害学――理論形成と射程』,東京大学出版会,294p. ISBN-10: 4130511270 ISBN-13: 978-4130511278 3990 [amazon] ※ ds

 「7) オリバーの医療批判に,1970年代の日本の新左翼運動による「労働力修理工場としての医療」批判(上田敏 1983:38)と同じ響きを感じる人もいるかもしれないが,あらためて言うまでもなく,それは誤解である.1970年代の医療批判は「資本家の手先」として医師が労働者を「治療=修理」することに向けられていたが,オリバーが問題視しているのは「治療」ではなく,「診断」による「選別」である.」(杉野[2007:155])*

◇立岩 真也 2010/08/01 「「社会モデル」・序――連載 57」,『現代思想』38-10(2010-8):22-33 資料

 「☆06 一九七〇年代からすくなくとも一九八〇年代までについてのこの国のことについては、「左翼」の内部?での対立の契機を抜きにして考えることはできない。上田の著書には例えば以下のような箇所がある。
 「ここで、やや旧聞に属するが[…]その一部をここに再録しておきたい。」(上田[1983:38])
 その「小文」は上田[1971](その紹介はHP→「上田敏」)。ついでに以下を引用しておく。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか。
 では医者になることを拒否するのかといえば、そういう形で問題は立てられない。いわば否定の否定として二転三転して医者になろうとする。しかし同時に受身的な医者になることを拒否して闘争を続けたときに、結果として医者になれないかもしれない。  自分は医者になってもならなくてもよい。けれど、闘争はまさに続くんだ。その闘争は医療の分野でだ。そこから自分が抜けたら、だれがやるのか。自分たちこそ医者になるんだ。このようなねばりつく運動形態が、どんなにラジカルであろうと、それは革命的敗北主義からも玉砕主義からも抜け出た運動であることは自明なのだ。」(最首[1969:101-102])
 「理系闘争委員会は、現代社会において科学は、それが平和のためであれ、戦争のためであれ、すべて資本家の財産、私有物として存在していると考える。そして科学は一面、労働者人民を抑圧するとともに、他方において労働者人民が自己を含めた社会の矛盾を解明する武器となる両刃の剣であるといういわゆる「科学の二面性論」は、科学者が発明した論理にすぎないと、はげしく攻撃する。」(最首[1969:102]*)
 何がどうなっているのか。[…]」
最首 悟 1969 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」、『朝日ジャーナル』1969-1-19:99-103(非常事態宣言下の東大・その2)

◇立岩 真也 2010/09/01 「「社会モデル」・1――連載 58」,『現代思想』38-11(2010-9): 資料

 「☆01 […]前回の後半の長い註ですこしふれたのは、医療・リハビリテーションの側に身を置きつつ、社会改革も大切であると説く革新的な論者と、片方にそうしたものを全面的に否定する(かのようにその論者たちから言われる)立場との争いについてだった。上田敏の文章と最首悟の文章を引いた。上田の文章が言うのは、片方を全面否定する輩がおり、その人たちは愚かであるということだった。他方、一九六九年の『朝日ジャーナル』に載った最首の文章を読めば、それが全面否定といった単純なことを言っていないことはわかる。ただまず、このような争いがあったこと自体が忘れられているか、知られていない。それはよくないことだと思う。私は双方が言っていることの両方に詰められていないところがあると思っていて、そしてそれは、結局はこのたびの「制限」を巡る出来事にも関係があると考えている。つま、何をよしとし、何をよけいなこととするのかという問題があるのだが、それがはっきりしないまま、両方が(しかしどのように、どれだけの割合で?)必要だと言っても仕方がない。また、否定しようとするにしても、ほんとうに全部いらないと言うのかといった反問に答える必要があると思う。ここがはっきりしないなら、財源の制約といった事情によって様々に浮動する現実を解析し評価し、ではどうしたらよいのかを言うこともできないだろう。そしてそれは、本連載の前々回「過剰/過少・1」に記したことでもあった。ある人々は「過剰」を言ってきた。もちろんよけいなものはいらないとして、何がなにゆえに余計なのかである。」

◆第3章 障害者の心の世界 
 四 障害の受容――その本質と初段階について
 1 障害の受容とはなにか  (1) 「あきらめ」とはどう違うか
 (2) 「いなおり」とはどう違うか
 (3) 受容の本質としての価値の転換
 「ここで、以上の各種の議論を参考にしつつ筆者自身の定義をのべておこう。すなわち、障害の受容とはあきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観(感)の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである、というのが筆者の定義である。」(上田[1980:209])

◆終章 リハビリテーションにおける倫理と論理

 「たとえばライトらは四七例の六歳以下の痙直型脳性麻痺児を二群に分け、一方にボバス法を実施し、他はまったく訓練をおこなわず経過だけを追って、一年半の期間の前後で二群を比較した。しかし結果は両群で運動発達に差はなく、どのようなサブグループ(病型、程度、付随型症状別)に層別化して検討してみてもほとんど差はなく、わずかに、運動年齢が六〜一二月の間にあった四肢麻痺型のみが、訓練群のほうが対照群より発達がよい傾向を示したにとどまったのである。注意すべきことは、これはこれまで例にあげてきたようなボバス法と一般的運動療法との比較(図のEとDの比較)ではなく、まったく訓練を行なわなかったのであり、BとEの比較、あるいはもっと極端にいえばAとEの比較でさえあったかもしれないのであるから、きわめて不十分な結果といわなければならないものである。もちろんこれをもってボバス<0297<法の価値をただちに否定してよわけではない。ただ、このような対照試験をもっと本格的に、多数行なう努力をしないで、自己の臨床経験(それは先にのべたようにしばしば論理的でないものである)だけにもとづく「信念」にとじこもりあるいは権威者の言のみにたよって、「適応」と「禁忌」を定める努力もしないで、いぜんとしてすべてのの脳性麻痺児にボバス法を適用していくのでよいとしたら、それはその人の主観的善意がどんなに大きかろうと客観的には反倫理的なことであるという他はない。もちろんここでボバス法というのは単なる一例であって、この点についてはボイタ法も動作訓練法も、あるいは成人脳性麻痺その他についての、さまざまな「特異的」技法もまったく同じことである。論理的でないものは倫理的でありえないのである。このように治療の専門家である以上、自分たちの治療の有効性について論理的・科学的にたえず反省し、常に客観的により確実な治療の有効性を求めていこうとする姿勢こそ、専門職に要求される最低限の職業倫理だと言ってもよいであろう。」(上田[1983:297-298]、下線部は本では傍点)


UP:20100713 REV:20101009, 1113, 20130116
上田 敏  ◇リハビリテーション  ◇東大闘争:おもに医学部周辺  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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