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『日本政治思想史研究』

丸山 眞男 19830620 東京大学出版会, 420p.

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■丸山 眞男 19830620 『日本政治思想史研究』,東京大学出版会,420p.ISBN-10: 4130300059 ISBN-13: 978-4130300056 3600+ [amazon][kinokuniya]

← 19521220 『日本政治思想史研究』,東京大学出版会,363p.

■内容

amazonより

日本近世社会における正統的な儒教的世界観の内面的崩壊過程を問題史的に解明し、〈自然〉〈作為〉の対抗の中に日本思想の近代化の型を探求。戦後の日本思想史研究の道を切り開いた古典的名著。毎日出版文化賞受賞。


■目次

第一章
近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連
第一節 まえがき――近世儒教の成立
第二節 朱子学的思惟とその解体
第三節 徂徠学の特質
第四節 国学とくに宣長学との関連
第五節 むすび

第二章
近世日本政治思想における「自然」と「作為」――制度観の対立としての――
第一節 本稿の課題
第二節 朱子学と自然的秩序思想
第三節 徂徠学における旋回
第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義
第五節 昌益と宣長による「作為」の論理の継承
第六節 幕末のおける展開と停滞

第三章
国民主義の「前期的」形成
第一節 まへがき
第二節 徳川封建制下における国民意識
第三節 前期的国民主義の諸形態

あとがき
英語版への著者の序文
人名索引

■引用

※なるべく旧字体のままの引用を心がけたが、表示されない場合は平仮名に置き換えた

「将軍乃至大名を頂点とし若党・仲間等武家奉公人を最下位とする武家の身分的構成、更に武家の庶民に対する絶対的優越は恰も、儒教の理想とせる周の封建制度における天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民といふ如き構成と類型的に相似してゐたから、そこにおける諸の社会関係は儒教倫理を以てイデオロギー的に基礎づけるにきはめて適切なものであつた。(p. 9)」

「近世の儒教はすぐれて教学としての意義をもち、その研究も特殊なサークルを脱して独立の儒者によつて多少とも公開的になされたことにある。かかる転回の思想的契機になつたのは宋学の渡来であつた。宋学は夙に鎌倉時代の禅僧によつて我国に移入され爾来五山の僧侶らによつて伝承されたが、そこでは宋学の哲学は当然に仏教教理とくに禅宗に教理と妥協せしめられて、いはゆる儒釈不二が説かれ、例へば窮理尽性は見性成仏と、持敬静坐は坐禅と同一視された。宋学とくに程朱学にかかる仏教への一方的依存から独立せしめ近世における儒学発展の磁石を置ゐたのは藤原惺窩(1561-1619)とその高弟林羅山(1583-1657)であつた。二者いづれも僧門に生れながら後に還俗して宋学に帰し、却つて儒学の立場から出世間教としての仏教を排撃する至つた経歴は、近世における儒教の独立過程をさながらに物語るものであつた。(p. 11)」

「世界実体論に及ぶ厖大な思想大系が完成された。それはまことに儒教といふ本来的に実用的な性格を担つた思想が持ちえた空前にして恐らく絶後の(陽明学と雖も体系の広汎性に於ては到底及びえない)大規模な理論体系であつた。そこには一を衝けば忽ち全構成を破壊するほどの整合性があつた。この整序性そのものが朱子学的思惟方法の特性から来る当然の結果であることは追々明かとなろう。徳川期の朱子学者が、古学派は勿論陽明学派に比しても理論的創造性においても最も乏しかつた所以は、あながちその無能の故のみでなく、一つには朱子学のもつかうしたGeschlossenheitによるものである。(p. 21)」

「ところでかうして天地万物は悉く「形而上」の理と「形而下」の気の結合より成つてゐるがその際、理は物の性を決定し、気は物の形を決定すると考えられる。万物は一理を根源とするといふ意味に於て平等であるが、(万物各々其の性を一にす――大極図説解)気の作用によつて差別相が生ずる。そこで人間も他の自然物も同じく理によつて貫かれてゐながら、人間は最も秀でた気を稟くることによつて万物の霊長となる。ところがかうした平等と差別の関係は人間一般対自然物の間にのみ存在せずして人間相互の間にも存在する。かくて朱子学の宇宙論はそのまま人性論へと接続する。(p. 23)」

朱子学の「理」の性格
「それは事物に内在してその動静変合の「原理」をなすといふ意味では自然法則であるが本然の性として人間に内在せしめるときはむしろ人間行為のまさに則るべき規範である。換言すれば朱子学の理は物理であると同時に道理であり、自然であると同時に当然である。そこに於ては自然法則は道徳規範と連続してゐる。…この連続は対等的な連続ではなく従属的なそれであることだ。物理は道理に対し、自然法則は道徳規範に対し全く従属してその対等性が承認されてゐない。(p. 25)」

「人性論におけるオプティミスティックな構成はこの様に規範が自然と連続してゐることに胚胎してゐた。ところでこの連続的思惟といふことがまた朱子哲学の大きな特色である。われわれが宇宙論において見た「理」の超越的内在、実体即原理もかかる連続的思惟の表現である。天理は人性と、気は人欲と、法則は規範と、物は人と、人は聖人と、知(格物窮理)は徳と、徳(修身斉家)は政治(治国平天下)と悉く直線的に連続せしめられる。さうしてかうしたすべての連鎖がさきに述べた道徳性の優位(理=誠)の下に一糸乱れざる配列を示してゐるのである。(p. 28)」

「かくしてわれわれは厖大な朱子学体系を蒸溜してそこに、道学的合理主義、リゴリズムを内包せる自然主義、連続的思惟、静的=観照的傾向といふ如き諸特性を検出し、かうした諸特性を貫く性格としてオプティミズムを挙げた。さうしてかかる特性こそ朱子学が近世初期の思想界にかちえた独占的な地位をなによりもよく説明する。けだしここに朱子学の性格とされた如きオプティミズムは安定せる社会に相応した精神態度(ガイステス・ハルトウング)でありまた逆に社会の安定化へ機能する。(p. 29)」

「しかし基本的な思惟方法については朱子学に依存するところが多い。この朱子学への依存性はとくに我が国の陽明学派において大であつて、そこには古学派や朱子学派におけるごとき独立した学派としての発展はみられなかつた。従つて陽明学者の思惟方法は多分に個別的で、ある者には、ここに述べた如き朱子学的特性が強く出で居り、他の者にはさほどではない。概括的にいへば、やはり思想界一般の推移を反映して後期になるほど朱子学的特性から離れてゐる。たとえば陽明学派の祖といはれる中江藤樹と、その弟子熊沢蕃山と、さらに近世後期の大塩中斎らの思想において、静的=観照的性格がいかに後退して行つたかは縷説をまたないであろう。だから朱子学的特性と対立した意味での陽明学(p. 32)一般の性格を論ずることは日本においてとくに無意味であつて、儒教の学説史を説くのではなく、近世初頭において普遍的であつた思惟方法乃至精神態度がいかに変化したかを説くことにわれわれの問題が存する以上、さうした思惟方法の崩壊過程を朱子学的特性のそれとして叙述してもさしたる不都合は存しないと思う。だからそれは陽明学におけるモメントの崩壊過程でもあるわけである。(p. 33)」

「これらの朱子学者は殆ど程朱に対して聖人に対する様な帰依を示し、従つてその学説も朱子の言説の忠実な紹介以上に一歩も出ていない。井上哲次郎博士の言葉を籍りていえば、『朱子学派は其中に尚ほ幾多の分派あるに拘らず、洵に単調なり「ホモヂニアス」なり、朱子の学説を叙述し敷衍するの外復たなす所なきなり、若し大胆に朱子の学説を批評し、若しくは其れ以外に自己の創見を開くが如き態度に出づとせば、最早朱子学派にあらざるなり、苟も朱子学派の人たらんには唯々忠実に朱子の学説を崇奉せざるべからず、換言すれば朱子の精神的奴隷たらざるべからず、是故に朱子学派の学説は千篇一律の感あるを免れず』といふ状態であつたのである。(p. 33)」

「藤原惺窩は、戦国時代にとくに普遍的な通俗道徳として流行した「天道」といふ観念を朱子学の理と結びつけた。「夫れ天道とは理なり。此理天に在りて未だ物に賦せざるを天道といふ。此理人心に具はりて未だ事に応せざるを性といふ。性も亦理也」(惺窩文集第九、五事之難)。かうした天道と理の等置は近世初期における朱子学の独立と一般化といふ客観的事態によつて可能になた事は勿論であるが、また逆にその一般化のためのきはめて有効な方法であつた。さうして朱子学の理における連続性はそのままこの天道は反映する。(p. 34)」

「さて林羅山が家康に仕えたのは慶長十年で家康が征夷大将軍に任ぜられて二年後、まさに十七世紀初頭である。藤原惺窩はその十四年後、元和五年に生を畢えた。三代家光の下に武家諸法度が改められ参勤交代制の確立したのが寛永十二年で、慶長十年より恰度三十年を経てゐる。その時在府諸大名の列座の前で高らかにこの画期的な法度を読み上げたのが羅山であつたことはいう迄もない。山崎闇斎は惺窩死去の一年前、即ち元和四年に生れ、寛永二十年前後より儒者として頭角を現し始めた。彼が吉川惟足より神道説を継いだのは寛文五年(西紀一六六五)以後とされてゐるから、彼の純粋の朱子学者としての活躍は、正保・慶安・承徳・明暦・万治・寛文の約二十余年に汎るわけである。秀忠の子として家継将軍を補佐し承応より寛文にかけて幕政に至大の権威をふるつた保科正之は闇斎に対して敬信措く能はざる熱烈な朱子学者であつた。しかるに同じ寛文五・六年ころには、山鹿素行・伊藤仁斎の二偉人によつて、殆んど同時に宋学より古学への/一大転換が試みられた。すでにその約十年前、家康・秀忠・家光・家綱の四代に歴任した羅山は他界してゐる。さうして朱子学に対するアンチテーゼの大成者としてわれわれのテーマの中心となる荻生徂徠はまさにこの寛文六年、江戸二番町、呱々の声を挙げたのである。そこでわれわれは朱子学が、より適切には朱子学的思惟方法が、最も普遍性を誇つた時代を十七世紀初頭より半ば過ぎ迄と規定することが出来る。それは幕府権力の確立による戦国動乱状態の固定化の過程と恰も併行してゐた。しかし徂徠が古文辞学を提唱したのは享保年間で、素行・仁斎の古学転換よりなほ半世紀を経過してゐる。半世紀――それは徳川封建社会の二百六十年に汎る存続に比すれば必ずしも長い歳月ではなかろう。しかしこの寛文より享保に至る半世紀の間に社会と思想は何たる巨大な変容を閲したことか!そこには元禄という徳川時代を通じても最も問題的な時代が介在してゐる。朱子学的思惟の普遍性の度合も急速な推移を示した。(p. 38)」

「是によつて素行が宋学にあきたらなかつた点はなによりもその窮理や持敬のごとき実践道徳の方法にあつたことが分る。前者については「天地万物は其の形象、陰陽五行に因る。其の本は一なり。而れども既に天地と為り既に万物となれば一理を以て之を論ずべからず。聖人既に格物と曰ふ。則ち窮理を以て之を易ふべきらず」(山鹿語類巻三十三)とされる。むろん素行は理とふ範疇を抹殺するのではない。「条理ある、之を(p. 44)理と謂ふ。事物の間必ず条理あり。条理あり。条理紊るれば先後本末正しからず。性及び天を皆理を訓ずるは最も差謬なり」(聖教要録中)といふ様に理の超越的、形而上的側面が否定されて、直ちに事物そのものへの緊迫が主張されるのである。(p. 45)」

「ここに早くも朱子学人性論における規範性と自然性との連続は断ち切られ、規範主義は自らを純化しようとする。尤も素行においてはこの方向は武士道の基礎づけとなつて発展し、本来の儒教の倫理的純化は後述する仁斎によつて遂行された。他方、規範性の鎖をふりほどゐた自然主義も当然その独自化への歩みを開始しなければならない。素行の思想で徂徠との関連において、とくに注目すべきはむしろこの側面であり、彼の社会的政治的関心は宋学の道学的合理主義の批判をこの方向から押しすすめることによつて実り多い成果を結ぶこととなる。まづ、彼にあつてはもはや人間の諸情欲は「敵」として憎悪されていない。(p. 46)」

「朱子学における規範と自然との連続的構成の分解過程において、後者の独自化によつて「人欲」の消極性を積極的に転回し、この方向から宋学合理主義を批判したのが素行であるとすれば、むしろ逆に、規範性を推し進めて儒教の倫理思想としての純化を試み、この立場から同じく原始儒教への復帰を主張したのが伊藤仁斎(1627-1705)である。(p. 52)」

「仁斎の宇宙論は宋儒の静態的理性的自然観に対してすこぶるヴイタリスティッシュな色彩を帯びる。「天地の間は一元気のみ、或は陰となり陽となる。両者は只管両間に盈虚、消長、往来、感応し、未だ嘗て止息せず。此れ即ち是の天道全体にして、自然の気機なり」(同上)。かうした動態的自然観は当然気に対する「然る所以」としての理の優位の否定に導く。「理有りて後に斯の気を生ずるに非ず、所謂理とは反つて是気中の条理のみ」(同上)。むろん「理は気の条理」といふ命題はさきに素行にも見た処であるし、陽明学に於ても「理は気の条理。気は理の運用」といはれる。しかし仁斎におけるこの命題のもつ意味は素行におけるよりはるかに深く、陽明学におけるのとは全く異る。仁斎において理は明白に天と人への連鎖を絶たれて「物理」に限定されてゐる。(p. 53)」

「しかし彼(仁斎)の実践的意欲は単に倫理を自然から解放せしめるのみでは満足しない。進んで儒教倫理の理論構成の内部に立ち入つて、之を理想主義的に純化せんとする。さきに天道との連続性を否定された「道」は此において更に人性から超越せしめられることとなるのである。(p. 55)」

「仁者の要件として私心無しといふ個人的動機よりも民衆が福祉を受けるといふ社会的成果をより重視してゐるのである。もとよりかうした方面の豊饒な展開も徂徠学を俟たねばならなかつた。しかし口を開けば徳行を言ひ、語を発すれば拡充を説く道学者仁斎においてすら、政治的契機がこの様に個人倫理から独自化しようとするところに、われわれは、連続的思惟構成の分解が、もはや何物を以てもさきへ難き勢を以て進行しつつあるんを見てとることが出来る。(p. 60)」

「(益軒は)理気の不可分を論じ、この点で明の羅整菴の説に与する。ところが益軒は理気不可分からさらに気一元論にまで進まうとする。…大極は理ではなくまさに気と等値される。そこで「理は別に一物あるに非ず。乃ち気の理のみ」として仁斎と同じく理の実体性が否定されることとなる。(p. 64)」

「聖人に対する絶対的な信仰と、賢人に対する批判的態度と、それはまさしく古学派のすべてに共通した性格であつた。現代の基準から平面的に理解すればこの二面性は奇怪な矛盾ではあろう。しかし歴史的=立体的に見るとき、それは朱子学的な思惟の崩壊過程が必然に通過すべき段階であつた。人(一般人)―賢人―聖人といふヒエラルヒつシュな連続の分解は、一方においては聖人の絶対化として、他方においては賢人といふ「中間層」の?落として現象したのである。(p. 67)」

「元禄十五年十二月十五日の朝、漸く眠から覚めたばかりの江戸市民に忽ち電波の様に重大な事件が伝えられた。この前夜、赤穂の浪士四十六人は霏々として降る雪を冒して本所の吉良義央の邸を襲ひ、めざす義央の首級を得て泉岳寺に引揚げた上、公儀の処置を仰いだのである。俄然、彼等の行動をめぐつて轟々と世論は沸騰した。この事件は封建的主従関係――それは幕府自らの拠つて立つ基礎でもある――幕府の統一政/権としての政治的立場との端的な衝突であつた。さうして同時にそれは君臣道徳を父子夫婦兄弟朋友といふ如き私的な関係と並列させる儒教倫理への致命的な鉄槌をも意味した。この事件が儒学者に与へた混乱と当惑は実に想像にあまるものがある。「赤穂義士」が現実の「問題」から、過去の「物語」になつた近世後期までも儒者の論争は綿々と尽きていないものを見ても、彼らに与へたショックの如何に大であつたかがわかる。(p. 73)」

「(徂徠の主張の)そこに貫くものは何か。一言以て表現するならば、政治的思惟の優位といふことである。上の二事件はいづれも元禄期の出来事であり、徂徠はいまだ独自の思想大系を完成していなかつた。にも拘らず、まさしくこの政治性の優位こそ、後年の徂徠学を金線の様に貫く特質にほかならぬ。三十代の徂徠に芽生へた思想傾向は五十代の徂徠において漸く「弁道」・「弁名」の二名著として最初の実を結んだのである。この著において彼は崩壊に瀕する儒教を政治化(ポリテイジーレン)することによつてその根本的再建を試みた。(p. 76)」

「かくて宋学における大学・中庸中心主義は仁斎学の論語・孟子中心主義を経て、更に徂徠学の六経中心主義へと移つた。かうした根本経典の時代的遡及は、一方において聖人が一般人との連続性を断たれて益々絶対化する過程と、他方において、理学(朱子)より古義学(仁斎)へ、古義学より古文辞学へといふ、主観性――徂徠のいはゆる「私智」――の漸次的な排除の過程と、それぞれ密接な照応関係に立つのである。(p. 80)」

「天は「知」の対象ではなくまさに「敬」の対象とされる。此において仁斎の理論構成においてうまだに一隅に蟠居してゐた人格的意味における天概念(天命論)は堤を切つた様に徂徠学の体系に氾濫する。(p. 81)」

「彼は彼自身の理論を異説から峻別したに拘らず、他学流に対しきはめて寛容的な態度を取つた。例えば儒者が最も嫌悪する僧侶とも彼は広く交り、けん園学派には僧侶もかなりゐた。(p. 85)」

「ところが道がこの様にもはや単なる「当為」ではないとすれば、仁斎において自暴自棄者を道に向はせる方便として僅か尾てい骨的存在を保つてゐた性善説が決定的に廃棄されるのは当然である。しかしまた徂徠は荀子の性悪説にも与しない。けだし道は彼において絶対であり一切を包括する。従つてそれが人間性に反す(p. 86)るなどといふことはありうべからざる事だからである。彼によれば荀子の性善説は老子が聖人の道を偽だと言つたのに抗争するために説かれたものであり、荀子の性悪説はまた性善説が道徳的修練を排するのを懼れて主張されたものでいづれも前述した論争的概念に属する。それらをそのまま聖人の道にまで絶対化するのは逆に聖人の道を異説と対立した相対的存在にまで引き下す結果となる。問題は性善か性悪かではなく、先王の道を信ずるか否かである。(p. 87)」

「ところが徂徠のペシミズムはむしろ人間存在の、一は天命の主宰に対する無力性の、他は道の包括性=普遍性に対する部分性=特殊性の、謙虚な未認なのである。(p. 88)」

「徂徠はここでも世界といふ全体性から問題を考察する。宋儒や仁斎における現実と目標との関係は徂徠において部分と全体との関係に変じた。部分はその特殊性を貫くことによつてはじめて全体の部分たりうる。各人はその天性の異なつた気質のままで、その個性をのばす事に努力した方がいい。この特殊性を涵養することを徂徠は「移」という言葉であらはした。(p. 89)」

「徂徠学における道の本質が治国平天下といふ政治性に存し、従つてその内容が礼楽刑政といふ客観的=具体的な定在に求められた……
 徂徠学の道は唐虞三代の制度文物の総称である。かうして一定の歴史的かつ場所的に限定された道が何故に時空を超越した絶対的な普遍妥当性を帯びるのであらうか。宋学においては道の窮極的根拠はいふまでもなく大極即ち理に存した。そこでは聖人の道は天地自然の理に合致するがゆえに絶対的とされるのである。しかしかかる形而上的な理は徂徠学のなによりも排するところである。むろん徂徠は理の存在自体を否定するのではない。それを人間認識の限界の外に置くのである。けだし人間的立場よりしては「理は定準なきもと」(弁名下)である。従つて道を理に基礎づければ各人が自己の見解を以て理とする所を立てて是を道とするに至り、その結果は質善に道の統一性を破壊する。諸子百家の争はかくして起こつた。道他思想との対立から超越せしめんとする徂徠学がこの帰結に甘んじる筈はないのである。(p. 95)」

「名より実へ、主観的道徳より客観的人倫態へ、その徂徠学の工作をしてバベルの塔を建築するに終らせない為に残された方向はただ一つ、道の背後に道を創造した絶対的人格を置き、この人格的実在に道の一切の価値性を依拠せしめるよりほかにはない。徂徠学における先王乃至聖人はまさにかうした窮極的実在として登場するのである。(p. 96)」

「唐虞三代といふ時間的にも場所的にも制約された制度に道を求めた徂徠学が何故に非歴史的なドグマティズムに陥らなかつたか、むしろ逆に儒教思想において比類がないほどの歴史意識がそこに高揚されたかといふ疑問は、道の根拠としての聖人のかかる彼岸性を考慮することによつてはじめて解明せられるであろう。唐虞三代の制度は彼岸的性格をもつた聖人の製作なるが故にのみ絶対的なのである。この基本命題は消極・積極両面から歴史意識を喚起する。(p. 98)」

「ただ道が天地自然の道とされてゐる限りは、換言すれば非人格的なイデアに窮極の根拠が置かれてゐる限りは、歴史は畢竟そのイデア――しかも道学的な――に合致するか否かといふ見地からのみ観察されるのは必然であり、従つてその歴史意識には本質的な限界が存する(仁斎や益軒において依然通鑑綱目が史書とされたことを見よ)。道それ自体の窮極性を否定して之を古代シナに――複数的ではあるが――夫々一回的に出現した人格に依拠せしめ、/その人格を彼岸的なものにまで高めることではじめて此岸的(デイーズザイテイヒ)な歴史は固定的な基準の束縛を脱して、その自由な展開が可能ならしめられるのである。(p. 100)」

「ここでも他人を訴える事を潔しとしない気持が「私」の義理であり、国家的立場を敢て訴える態度が「公」の忠節であるとされてゐる。この二つの場合を通じて「公」と「私」が全く同じ意味をもつてゐる事は明かであらう。即ち「公」とは政治的=社会的=対外的なものを指し「私」とは個人的=内面的なものを示してゐる。かうした意味づ/けかたは現在の普遍の用法とほぼ一致しなんら異とするに足らぬ様であるが、必ずしもさうではない。理念型的に言えば一般に非近代的な、ヨリ正確には前近代的な思惟はかかる意味における公私の対立を知らないのである。それは前近代的な社会構成そのものが――やはり理念型としては――この意味での公私の分裂を有しないことをと照応してゐる。即ちそこでは政治的な支配関係が詩的な経済関係とからみ合つてゐる。統治者の財政的支出は個人的な消費と混淆せられる。行政事務の遂行はまた主従義務の履行でもある。公法は同時に私法であり、私法は同時に公法である。広く文化的営為における公的な領域の独立、従つてまた私的な領域の解放こそまさに、「近代的なもの」の重要な標徴でなければならぬ。(p. 106)」

「朱子学においてはどうか。ここでは公とは天理であり私とは人欲とシノニムである。天理が人欲と峻厳な倫理的対立関係に立つことは既述した。かくて「私」はまさに否定されるべき悪にほかならぬ。徳川初期の朱子学者は忠実にこの用法を踏襲してゐる。(p. 108)」

「かくて徂徠学における公私の分裂が日本儒教思想史の上にもつ意味はいまや漸く明かとなつた。われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程は、徂徠学に至つて規範(道)の公氏=政治的なものへまでの昇華によつて、私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現れたのある。(p. 110)」

「学問の公的領域はひとへに六経にあらはれたいはば狭義の聖人の道に独占せられる。そこでは、朱子学・陽明学・仁斎学・老荘・仏教等一切の――彼によれば――非治国平天下的思想の混入は厳密に斥けられる。しかるに他方、公的領域から締め出されたこれらの異思想は私的領域において悉く存立を許されるのである。(p. 112)」

「窮理と徳行と、徳行(修身斉家)と治国平天下とを直線的に連続せしめる朱子学においては、その理論的性格が非政治的であるが故に却つて儒者の任務は政治的となり、私的道徳と政治との連鎖を断ち切つた徂徠学においては儒教の本質を治国平天下に見出したが故に却つて儒者の地位は非政治的なものとされるのである。そこではたかだか道を認識して之を叙述することのみが学者の業であり、道を実践し乃至は道を作為することはもつぱら政治的支配者の任務に委譲せられる。ゾルレンよりもまづザインをといふ徂徠学の方法論(古文辞学)は実にかうした立場の具体化にほかならぬ。(p. 114)」

「「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」徳川幕府の政権が確立してから約八十年、国内的無秩序と国際的交通に乗じて政治的社会的領域において著しい活動を示した戦国的な精神は、国内秩序の固定化と、鎖国による対外発展の遮断のために一時全く沈倫したが、やがて外への出口を塞がれた国民的エネルギーはひたすら内面的に?醸されて、ここにいはゆる元禄文化といふめばゆくもあでやかなる絵巻物を繰りひろげることとなつた。(p. 118)」

「しかし元禄の学芸を特徴づけるものはなによりもその自主性であつた。従つてそこには各領域にあわつて伝統に反抗した辞優奈る右派が競い立つたのである。之まで述べてきた堀川学派や?園学派の興起にかかる一般的気運の儒学界への反映にほかならぬ。(p. 119)」

「幕府の初期以来の峻烈かつ巧妙な大名統御策はこの頃までに完全に成功し、いまや辺地の大名もかつての政治的野心を江戸の享楽生活のなかに融かし込んでしまつた。秘かに変を思ふ牢人も大方整理され、「慶安事件」も老人の昔語りと化した。かうして武士も町人も挙げて「御静謐の御代」(西鶴)を寿ゐたのであつた・文化的及至政治的な面から見た場合、元禄時代はたしかに史家のいふごとく徳川の最盛期であつた。
しかしひとたびわれわれがきらびやかな元禄の舞台に奪はれてゐた眼をその楽屋裏に転ずるならば、そこには既に封建的権力の将来にとつて容易ならぬ事態が徐々に醸成されつつあるのを見誤らないであらう。その震源は深く徳川封建社会の成立過程そのものの裡に根ざしてゐた。徳川社会は士に対する農・工・商の身分的分離、並に君臣上下を貫通する階層関係の固定化を決定的ならしめた点で、まさしく我国封建制度の完成形態ではあるが、同時に一方室町末期以来の領主分国の拡大と他方武士の城下町集中によつて、政治的支配が土地の事実的使用収益関係から浮き上がつたことは、封建制の重大特質の喪失をも意味してゐた。(p. 121)」

「貨幣政策の一角から崩壊し始めた「享保改革」は吉宗の引退と共に砂楼の如く潰え、家重・家治に至つていはゆる田沼時代といふ元禄にもまさる放漫期に入つた。かくして之以後、松平定信による寛政改革、さらに文化文政の驕奢期その後を受けた水野越前守の天保改革と、幕府政治はシーソーの如く放漫時代と緊縮時代とを繰り返しつつ幕末の動乱期へと突入して行つたのである。「元禄」と「享保」はこの意味においてはかならずも近世封建社会の下降期を交互にあざなふ二つの時代的類型を提示したものであつた。(p. 124)」

「しかし他方かうした町人の勃興の歴史的性格は過大視されてはならない。武士が「首をたて」た町人は蔵元・掛屋・札差にしても金銀座の商人にしてもまた材木商などしても、悉く封建的権力の寄生者でありそれ以上ではなかつた。彼等は新しい生産方法をつくり出す力を欠ゐた商業=高利貸資本でありその利潤獲得は決して正常的とはいひ難くむしろ暴利資本主義(Wucherischer Kapitalismus)の性格を濃厚に帯びてゐた。彼等は封建的権力に寄生し、それが農民より収取する貢租を直接間接に吸取することによつてのみ生存してたから、一旦円力の怒りに触れるやもろくも潰えるはかない存在にすぎなかつた。(p. 126)」

「幕府をはじめ他の封建領主は夙に近世初期からその経済的基礎たる貢租確保のため総ゆる手段を講じたが、就中それは農民の生活に対する広範囲な干渉として現れた。(p. 127)」

「しかるに商品経済の発展はここにも種々の方面から影響を及ぼした。まづそれは前述の如く武士階級を窮乏に追込むことによつて貢租の収取を量的にも質的にも強化せしめた。他方それは農村に直接侵潤することによつて農民の自然経済を漸次分解した。(p. 128)」

「領主と農民の関係は悪化してゐた。しかも商業資本の農村侵入は土地金融化を齎し、田畑永代売買の禁止は種々の脱法行為によつて破られ、一方土地兼併、他方その零細化が進行した。かうして最低生活線まで押しつめられた農民は物狂はしい一揆に最後の打開を求めて行つたのである。黒正博士の計算のみによるも、宝永から享保にかけての百姓一揆は四十回を数え、従来一年一回に足りなかつた平均回数は俄然倍加するに至つた。(p. 129)」

「華かなる元禄文化の蔭には既に都市にも農村にも、或は消極的な腐蝕を通じて、或は積極的な反抗によつて封建的権力を脅かす一切のモメントが(p. 129)出揃つてゐた。しかもこれらのモメントはいづれも未だ根本的な打撃を封建社会に与える程に強力な生長を遂げてはいなかつた。徳川封建社会は最初の大きな動揺を経験しつつもなほ全体として健全性を喪失しなかつた。徂徠をして儒教を「政治化」せしめた社会的契機はまぎれもなくここにあつたのである。(p. 130)」

「彼(徂徠)の政治社会改革論が復古的な方向に向けられてゐるのは否みえない。にも拘らず、彼が必ずしも儒教的ならぬ思惟方法を以て原始儒教を基礎づけんとした様に、原始封建制への復帰を主張する彼の政治思想の裡にもそれと逆行する政治的集中の要素が潜んでゐることを看過してはならぬ。彼の人材登用論の如きもその一つであるが、ここでは絶対主義(アブソルーテイスムス)的観念――むろん徳川氏本位ではあるが――の萌芽に注意を喚起して置かう。(p. 136)」

「徂徠学の公的な側面と私的な側面は?園学派において夫々異つた担い手(トレーガー)を見出すこととなつた。前者を代表するものに太宰春台・山形周南があり、之に対して服部南郭・安藤東野・平野金華らはいづれも私的側面の継承者であつた。(p. 143)」

「かうして徂徠学が後継者において益々分裂し頽廃しながら、他方宋学は古学派から蒙つた創痍の恢復に悩んでゐるとき、儒学界に進出して来たのは、井上金峨・山本北山・亀田鵬斎・細井平洲・片山兼山・吉田篁暾・皆川淇園・太田錦城ら一連のいはゆる折衷考証学派である。彼等の説は「学派」と称すべくあまりに雑多であるが、その共通点は。党派的偏異を排し諸説の最長補短を通じて中正の道を求め、広汎な考証的=文献的渉猟によつて是を裏付けて行かうとする態度に存する。彼等はけん園の跋扈とその齎した党派的論争に反発した出現したから、宋学をもあはせ斥けつつも、むしろアンチ・徂徠学的色彩が強い。しかし他面、井上金峨や片山兼山の如き一たび徂徠学を通過した者はもとより、其他の者も多かれ少なかれ徂徠学の感化の下に立つてゐる。結局彼等は各学派のドグマティつクな党派性に抗議して自由研究を主張した点で多少の積極性を持つたが、「折衷」はどこまでも「折衷」でなんら「創造」を意味せぬごとく、理論的には殆んど新たな(p. 145)ものを提示するところなかつた。(p. 146)」

「かうした折衷的傾向は、享保の後年頃から主として庶民層に普及した心学――いはゆる石門心学――において頂点に達する。心学の枢軸をなす思想はやはり宋学であるが、そこには宋学のもつてゐたGeschlossenheitは見るかげもなく失われ、神道と妥協するは勿論「仏法を以て得る心と儒道を以て得たる心と、心に二品のかわりあらんや。何れの道にて心を得るとも、其心を以て仁政を行ひ、天下国家を治めたまふに、何を以て害あらん」(都鄙問答巻之三)とすることによつて仏教とも吻合し、進んでは「仏老荘の教もいはば心をみがく磨種なれば、捨つべきにもあらず」といひ「一法を捨てず一方に泥まず、天地に逆はざるを要とす」(同上・巻之三)といふ如く個人修養の具となるものは一切取入れる態度に出でた。(p. 146)」

「朱子学の道は天地自然の理に基礎づけられてゐた。それは天人を貫通し、社会と自然を包摂し、規範であると共に法則であり、当為であると同時に存在(本然の性)であつた。かうした絶対包括的な道は素行・仁斎・/益軒らにおける連続的思惟の分解過程を通じて漸次にその中の諸契機が独自化し、人道は天道から、規範は人性から、当為は(自然的)存在から離れて行つた。しかしその分離を最も綿密に理論づけた仁斎においてもなほ道は「人有りと人無しとを俟た」ざるイデーとして先験性を帯びしめられてゐた。徂徠に至つてはじめて道それ自身の窮理性が否定され是が聖人といふ人格に依拠せしめられた。この人格は徂徠において彼岸的なものにまで高められることによつて、道はよく絶対的な普遍妥当性と維持しえた。しかるに儒教の道の行く手にはこの時既に危険信号が鳴り響いてゐた。けだし道の価値はもはや天然自然の真理に合することに存するのでもなければ、それ自身窮極的なイデーなることに存するのでもなく、ひたすら聖人の制作なることに係らしめられてゐる。…しかもその聖人は古代シナに出現した政治的君主である。かうした歴史的―場所的に制約された神格の創造した道が何故しかく尊崇に価するのか。徂徠学は、儒教的思惟の殻内から一歩外に踏み出て問題を考える余裕を持つ者を必然にこの疑問に誘致する。果して国学者はまづこの点を衝ゐた。(p. 152)」

「むろん国学者は徂徠学によつてはじめて儒教に対する懐疑に到達したわけでは決してない。契沖以来の我国古典の研究によつて、既に儒教道徳と古代精神との乖離は彼らに意識されてゐた。しかし彼等の儒教批判の方向を決定したのはまがふ方なく徂徠学であつた。これはいはば徂徠学と国学との否定的関連である。(p. 154)」

「徂徠学の出現とその風靡はかうした滔々たる神儒抱合の大勢を電撃の如く遮つた。古文辞を通じて見出された聖人の道を絶対視し、あらゆる後世的歪曲、乃至は異思想の混入を厳密に排除した徂徠は、あくまでその論理的帰結に忠実に、神道の存在それ自体を全く否定した。(p. 156)」

「ところで神道が近世初期以来儒教ことに朱子学に理論的根拠を求めて来たといふことは、そこにおける神の構想に共通な特質を与える。宋学は理を以て宇宙万物に個々的に内在しつつ、同時にそれら個物を超越してそれに価値を賦与する窮極的実在とするから、宋学的思惟が神道の根底に置かれたとき、その神道は多かれ少なかれ汎神論的、いなむしろ汎心論(Panpsychismus)的構成を持つこととなる。(p. 160)」

「徂徠によつて道の一切の価値性がそれを作為した人格(聖人)に帰属せしめられ、しかもその人格が天と連続して彼岸性を帯びるに至つて、人格的な天による非人格的な理の駆逐が完成された。ここに徂徠学と宣長学との思惟方法における深き契合が存在する。徂徠学は単に神道否定をつじて外から宣長学を接続するのみならず、近世神道が依拠した儒教思想の汎神論的構成を破壊することによつて宣長学による旧神道の確信を内面的に援助したのである。(p. 162)」

「かうして徂徠学と宣長学とが、彼岸的な人格に窮極の根拠を置き、非人格的な「理」の価値基準性を否定することにおいて共通の立場に立つたことからして、さらに重要な関連が生れる。朱子学的合理主義の日本儒教史における解体過程を通じて漸次に育成され、徂徠学において儒教の限界内に最高度に開化した諸々の成果は、宣長学において徂徠学の最後的制約――儒教そのものの本質的性格から来るそれ――が除去されたことによつて飛躍的な発展を見ることとなつた。(p. 164)」

「非人格的なイデーの優位性の否定に伴う第二の関連は歴史的意識である。われわれは前節迄の叙述によつて、朱子学の合理主義が実践的には「三代以前は尽く天理に出づ。三代以後は総て是れ人欲」といふ峻厳な規範的復古主義になり、古学派の興起は却つて規範の歴史的変容の認識を齎したことを知つた。さうして道を聖人の歴史的行為に依拠せしめた徂徠学によつて規範の歴史の道学的理解がほぼ完全に排除されたことを見た。道のあらゆる規範化を斥ける宣長学が徂徠学の歴史意識を徹底しこそすれ、道学鉄器歴史観に陥らう筈はないのである。宣長は単に人間的基準による勧善懲悪史観を排するのみならず、超人的基準(例えば天命・天道・神)による歴史の合理化にも反対し、好んで善人の滅び悪人の栄える実例を挙げた。(p. 167)」

「さて道学的合理主義の分解は朱子学によつて、「人欲」として抑圧された人間自然性の解放となつて現れたことも既にわれわれの知るところである。ここに第三の関連が生れる。宣長学の反リゴリズムはあまりに知られていて改めて述べるまでもなからう。ただここに注意すべきは、朱子学における規範と自然との連続の分裂は、一方に規範性の純化、他方に自然性の解放といふ二面的な発展をとつたが、重点は之までつねに前者に置かれ、後者は文字通り解放として消極的な意味をもつてゐたことである。その分裂を最高度に押進め、規範を純政治的なものに迄高めて、一切のリゴリズムを排除した徂徠学においても、聖人の道の本質は公的な側面にあつた。しかるにいま宣長が徂徠的な道をなほ斥け、一切の規範なき処に彼の道を見出したことによつてはじめて人間自然性は消極的な容認から進んで、積極的な基礎づけを与えたれた。(p. 169)」

「「そもそも道は、もと学問をして知ることにあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有ける。真心とはよくもあしくもうまれつきたるままの心をいふ」(玉かつま一)で、かうした道は本来万人の心に備わつてゐる。(p. 170)」

「問題は宣長学の発展とともにさらに重大な展開を遂げる。かく宣長において固有価値を自覚した文学はやがて真淵から受けた古代主義と融合して、漸次に古道の核心的な地位を占めるに至つた。(p. 173)」

「朱子学においては、治国平天下は徳行に、徳行は更に窮理に還元せしめられた。かうした「合理主義」の解体によつて政治は漸次個人道徳より独自化し、徂徠学に至つての儒教は完全に政治化された。しかるに規範の政治的なあるものへの昇華は他面、人間内面性の解放となり、その自由な展開への道をひらゐた。国学はまさにこの後を承けて、一切の儒教的作為の否定者として登場し、徂徠学において私的領域としていはば消(p. 177)極的な自由を享受してゐた内面的心情そのものに己が本来のゆう家を見出したのである。かくて国学は徂徠学の公的な側面を全く排しつつ、その私的、非政治的なそれを概ね継承することとなつた。徂徠の経学を窮極まで発展させた春台が最も激しい論難の対象となつた所以はここにあるし、また春台の弁道書に憤激した真淵が、徂徠学の私的側面の継承者としての南郭と親交を結びえた所以もかくて理解される。(p. 178)」

「しかし規範性の否定が否定として徹底化されるや必然にそれはそのまま肯定に転ずる。苟も宣長学の道が、儒仏等の道と区別される限り、区別され特徴づけられる事自体に既に「事の跡」の観念的上昇を伴うのである。かくていつしか否定と相即してゐた肯定は肯定としての自己発展を開始する。古道は一つの積極的規範となる。(p. 181)」

「かうして、儒教思想の自己分解過程を通じての近代意識の成長を、思惟方法の変容といふ観点から見ることにどの様な根拠があるであろうか。…まづ第一に、近代意識を内面/的な思惟方法の中に探つて、必ずしも政治思想における反対者的要素のうちに求めなかつたのは何故かといふ事である。もし封建権力に対する意識的な反抗といふ点から観るならば、幕府的絶対主義を主張した徂徠や、幕府政治の神意性を説ゐた宣長の思想は、大塩中斎はむろんのこと、竹内式部或は山鹿素行よりすらも「封建的」といふことにならう。しかしさうした見方は、根柢的な思惟様式の変革がその上に立つ政治思想の変革とほぼ併行した欧州近代思想史の観察方法たりえても、そのまま我が国のそれとなしえない。…われわれの問題にするのは、あれこれの思想における断片的な「近代性」ではなく、思想の系統的な脈絡のうちに一貫した近代意識の成長探ることなのである。さて第二の論点は、然らば近代的意識を主として儒教の自己分解の過程にのみ跡づけたことの意味如何といふことである。(p. 183)」

「ところで近代的精神は合理主義をその重要なる特質の一としてゐる。しかるに朱子学より徂徠学を経て国学に至る経過は一応合理主義よりむしろ非合理主義的傾向へと展開を示してゐる。これは如何に説明さすべきか。この問題についても、われわれは二つの側面から考察を進める必要に迫られる。第一はいはば世界史的な過程からの考察であり、第二は朱子学の特殊的性格からのそれである。(p. 185)」

「しかし徂徠学や宣長学の非合理主義に近い近代的性格を賦与するものとして、なほ第二の側面、即ち朱子学の特殊的性格から来るそれを無視することは出来ない。即ち朱子学の合理主義が強い道学性を担つてゐたために、その合理主義の分解は、諸々の文化価値の独立を呼起すに至つたことである。(p. 188)」

「思想の変革も社会のそれと同じく、いな社会変革にもまして、唐突には起らない。現象的にはいかに唐突に見える場合でも内奥に於ては必ず旧きものの漸次的な解体によつて先行されてゐるのである。いはゆる開化思想が直接的な思想的系譜に於て「外来」のものであるにせよ、外のものが入り込みえたのは、既に在来の「内のもの」が外のものをさしたる障害なく迎えうるだけに変質してゐたからにほかならない。(p.196)」

「五倫が現実の社会関係を一切抱合すると考えられたんは、近世封建社会の構造的特質から見て無理からぬ事であつた。近世封建社会は、中世知行権の一方に於ける公法的徴税権、他方に於ける私的所有(所持)権への分化が或る程度まで明瞭となり、政治的支配が土地を基礎とする経済的収益関係からヨリ一層抽象・集中されたことによつてたしかに近代社会への大きな接近を示してゐるけれども身分的階層関係の整備という点からみれば、むしろ社会制度としての封建体制はこの時代に入つてはじめて完成したといふ事が出来る。そのことはなによりも封建的結合とが、主従関係の横えの拡大であるとすれば、武士団内部が身分的に細分化し、さらに庶民の社会関係が多くの主従的結合をモデルとして形成されたことはいはばその縦への波及にほかならない。(p. 199)」

「宋学は秦漢経学に於ける原始儒教思想と易や陰陽説の雑然たる交差を厖大な形而上学にまで統合したことによつて、天人相関にも確たる理論的基礎を与えた。即ち朱子学によれば、天地万物はすべて理と気の結合より成る。理は宇宙の窮極的根拠として万物に通ずる普遍的性格を有するが、気の作用によつて事物に特殊性が賦与される。天地万物は現象形態に於て千差万別/あるが、それは畢竟一理の分殊したものにほかならぬ。自然界の理(天理)は即ち人間に宿つてはその先天的本性(本然の性)となり、それはまた同時に社会関係(五倫)を律する根本規範(五常)でもある。(p. 201)」

「五倫に於てまさにあるべき当為は、天覆ひ地載せ、寒来り暑往くといふ自然必然性と同じ「実理」に基礎づけられる。…かくて儒教の倫理的規範は朱子学的思惟に於て二重の意味に於て自然化される。一は規範が宇宙的秩序(天理)に根柢を置く意味に於て、他は規範が人間性に先天的に内在(本然の性として)すると看做されることによつて、そこにはほぼ典型的な形に於て、自然法思想が内包されてゐる。(p. 201)」

「朱子学的な自然法思想からも現実的所与に対する変革的帰結が引き出せないことはない。朱子学的理気論からいへば君臣の事実的存在は既に気の支配を受けてゐるから、君臣の義=理とは区別される。理が気に対して優位すべきものならば君臣の義に反する現実の君臣関係は変革されねばならないといふ事になる。しかし朱子学の理論構成に深く浸透してゐる自然主義はかうした理の、したがつて自然法の純粋な超越的理念性を甚だしく稀薄にする。いなむしろ宋学には…「道」と「物」と、規範と現実的事態との間隙を規範の側からたえず埋めて行こうとする衝動が内在してゐるのである。況やここでの問題は朱子学自体ではなく、徳川幕府が戦国の下剋上の動乱状態を完全に鎮定して、将軍より武家奉公人に及ぶ武士団内部の階統を編成し、進んで封建的主従関係を被支配階級の内部にも拡張して、上下を寛つするヒエラルキー的原理の上に鉄の如き統制力を揮つた近世初期に於ける朱子学なのである。(p. 203)」

「近世初期朱子学によつて殆ど一色にぬりつぶされた思想界も中江藤樹が晩年に陽明学を唱道し、やがてこの学派はその門弟、淵岡山や熊沢蕃山によつて飛躍的に発展せしめられ、更に山鹿素行と伊藤仁斎は夫々江戸と京都に於て殆ど同時に古学を創始するなど、漸く分化の徴候を示すに至つた。彼等の理論は朱子学の体系的構成に上に夫々注目すべき内面的変容を与へ、とくに蕃山や素行は初期朱子学者に乏しかつた政治的社会的現実の経験的考察に於てかなり貴重な成果をあげた。しかしながら社会関係の「自然」への基礎づけといふ点では彼等は依然として朱子学的思惟の埒内を超えなかつたのである。(p. 205)」

「特定の政治的社会的秩序を自然法によつて基礎づけることはたしかにその秩序の不易性の最も強固な精神的保障である。しかしそれが考えうる最も強固な保証であるといふ事がまさにその基礎づけの可能性に対して一つの限界を与えてゐる。逆説的にひびくけれども社会秩序が自然的秩序として通用しうるのは、当該秩序が自然的秩序と見える限りさうなのだ。もしそこで政治的安定性が著しく損はれ、社会的変動が顕はに現象するに至つたならば、もはやその社会の根本規範が自然法であるといふ基礎づけは一般的な受容性を喪失する。自然法的基礎づけは社会の安定化への作用すると共に社会のある程度の安定性を前提としてゐるのである。(p. 208)」

「かくて封建社会を現実の難局から救い、それを確固たる地盤の上に再建するためには、まづその前提として、封建社会の観念的基礎をなしてゐる儒教倫理そのものを根本的に変革し、その自然的秩序の論理を主体的作為のそれにまで転換せしめねばならない。徂徠はこの課題を大胆かつ徹底的に遂行した。(p. 210)」

「道(規範)の人性的自然よりの超越化は道を専ら礼楽といふ外部的客観的制度に限定することによつてなされる。(p. 211)」

「聖人(=先王)が道の絶対的作為者であるといふことは、聖人が一切の政治的社会的制度に先行する存在であることを意味する。自然的秩序の論理に於て聖人が秩序の中に置かれてゐたとすれば、それを完全に転換させる立場は当然に聖人をかかる内在性を救い出して、逆に無秩序から秩序をつくり出す者としての地/位を与えねばならぬ。聖人の作為以前は「無」であり、作為以後は「全」てである。「聖人の作為」を契機としてその前後は深淵を以て断絶してゐる。この立場は当然、聖人の出現以前の社会をなんらの規範なきホつブス的自然状態と見做すこととなる。(p. 213)」

「夫婦の倫を伏羲が教えたとか、神農が農業の祖だとかいふ事柄はそれ自体はなんら新し概念ではなく、儒者一般の常識であつた。たださうした観念の方法的意義を追求して之を自然的秩序の論理に対する明瞭な対立にまで高めたところに彼の/独自性がある。徂徠の方法的徹底性は遂に近世社会の最も根本的な身分的秩序たる士・農・工・商の発生をも純然たる先王の作為に帰せしめねばやまなかつた。(p. 214)」

「天地自然に存在する先験的な「理」に道の本質を求める朱子学的な論理と、先王といふ実在的人格が原初的にいはば「無」から道を作為したとなす徂徠学的なそれとが、同じ儒教の名を冠しながらいかに根本的に対立する思惟方法の上に立つてゐるかは、以上の叙述からも容易に窺ひうるであらう。それは畢竟するにイデーがペルゾーンに対して先行し、ペルゾーンはそのイデーを体現したものか、それともペルゾーンが現実在として存し、イデーはペルゾーンによつてはじめて実在性を与えられるものか、といふ哲学上の根本問題に連なる対立なのである。(p. 217)」

「徂徠の前に置かれた政治的課題は二つあつた。一は封建社会の拠つて立つ根本規範の新たな基礎づけと、他は現実の社会的混乱を克服すべき強力な政治的処置の提示と。(p. 218)」

「彼(徂徠)の社会組織改革論は徳川時代に於けるこの種の論議の最も著名なものの一つであり、ここに更めて縷説する要は見ないが、一言を以て覆ふならばその根本的基調は復古的と規定しうるであらう。彼は封建社会が現在立つてゐる難局は貨幣経済とその地盤の上に立つ商業資本の急激な発展に由来し、後者はまた、武士が土地との牽連を失つて城下町に集中して「旅宿ノ境界」に入つたことにその要因を仰いでゐることを鋭く看取した。かくて彼は武士をその知行所に土着せしめ、戸籍を設けて人口移動を制限し、身分的差別を厳重にして、その上下に従つて欲望を制限し、かくして封建的再生産過程を順調な軌道に乗せようとしたのである。(p. 220)」

「人間の社会的結合には根本的に相反する二つの態様がある。一つはその結合が個人にとつて必然的な所与として先在する場合であり、他は個人が自己の自由意思よりして結合を作り出す場合である。最初の場合には、結合様式は固定的客観的な形態を有し、人は己にとつていはば運命として与えられてゐるその様式に入りこ込む。後の場合には、個人はある意図をもち、その目的を達成する手段として新たな社会関係をとり結ぶのであるから、その結合様式にはなんら子礼的客観的な定型が存せず、目的の多様性に応じて任意な形態をとる。(p. 223)」

「中世の人間が未だ一切の社会的結合を家族のごとき自然必然的団体(所謂societates necessariae)を原型として理解してゐたとすれば、近世の人間は逆に社会関係を可能な限り人間の自由意思による創設から(所謂societates voluntariaeとして)把握しようとした。近世に於ける「人間の発見」の真の意味はここにある。中世に於ても「人間」「個人」が説かれなかつたわけでは決してなく、却つてそこでは個人の職分について論じられる事最も多かつた。人間の発見とはかうした対象的意味に於てではなく、人間が主体性を自覚したといふ意味に於て理解されねばならぬ。(p. 226)」

「政治的=社会的秩序が天理自然に存在するといふ朱子学的思惟から、それが主体的人間によつて作為さるべきものとする徂徠学的論理への展開が上述した意味での「中世的」社会意識の転換過程にほぼ対応してゐることは、以上のごく一般的な考察からでも大体推知出来ると思われる。(p. 228)」

「徳川封建社会の成立と共に、朱子学はいはば代表的な政治的=社会的思惟様式たる地位を占めた所以は、そこに含まれた自然的秩序観が勃興期封建社会に適合したばかりでなく、それがとくに勃興期封建社会に適合したことに由来するのである。身分関係が整然と確/立し、すべての生活様式がその線に沿つて類型化された点で世界史上にも「模範的」我国近世封建社会の下に於て、社会関係を自然必然的な所与と見る意識形態がいかに普遍化する素地をもつてゐるかは容易に推測しうる。「家」――最も厳密な意味での自然的秩序――の公法的重要性、身分の封建的乃至事実的世襲、格式門閥の広汎な支配、租税及刑罰に於ける連帯責任、これらは悉く社会関係を以て人間の自由意思を以て如何ともし得ない自然的運命的な関係と映ぜしめるモメントとなるのである。(p. 229)」

「自然的秩序思想の転換に際して、彼方に於て神の営んだ役割こそ、此処徂徠学に於ける聖人の役割にほかならぬことはもはや明瞭であらう。秩序に内在し、秩序を前提してゐた人間に秩序に対する主体性を与えるためには、まづあらゆる非人格的なイデーの優位を排除し、一切の価値判断から自由な人格、彼の現実在そのものが窮極の根拠であるそれ以上の価値的遡及を許さざる如き人格、を思惟の出発点に置かねばならぬ。このいはば最初の人格が絶対化されることは、作為的秩序思想の確立に於ける殆ど不可避的な迂路である。とくに朱子学が自然的秩序思想として徹底してゐただけにイデーのペリゾーンに対する優位性は強靭であり、従つてそれだけ又、之を顛倒さすべき人格は絶対化される必然性をもつてゐた。この点、クリスト教的創造神の観念が有機的思惟乃至自然的秩序思想の徹底化を絶えず制約してゐたヨーロつパに於ける場合に比して、徂徠の果すべき思想史的使命は遥かに困難であつたといふことが出来る。(p. 238)」

「近世封建社会の確立とと共にその基礎づけとして一般化した自然的秩序思想は封建社会が元禄享保期に最初の大規模な動揺を経験するにあたって、そこに内在する楽観主義が維持され難くなり、現実の危機に対処して之を克服すべき新たなる立場が要望されるに至った。徂徠学はまさにかかる使命を満すべく登場し、自然的秩序思想の根源たる、イデー的なるものの優位を排除して、「道」を聖人という絶対化された人格的実在の作為に帰した。それは政治的には必然に徳川将軍の「作為」によって現実の社会的混乱を安定し、純粋な自然経済に基く身分的秩序を建立するのが徂徠の窮極の意図であった。しかるに一見成功的に見えるこの徂徠の企図は、深刻な矛盾が内在していた。(p. 241)」

「本来、聖人とその作為せる道を理性的認識及び価値判断の彼方に置いたことは、朱子学の静的合理主義の克服の従ってかうした歴史認識の生誕の論理的前提であるのに、かく絶対化さrた筈の聖人の道が、己れの生み出した子によっていつの間にか歴史的相対性の刻印を額に受けているのである。(p. 243)」

「しかし徂徠の論理に潜む魔物の作用は必ずしも之のみではない。それは封建的社会関係を全体として外から揺すぶるだけでなく、その内面的価値を吸ひとつて内部から之を空虚にする。それは如何にしてか。封建社会は本来閉鎖的完結的な社会圏(その枢軸をなすのは主従関係と親子関係)が階層的に牽連することによって全体の秩序の統一性が保たれているところにその本来の特徴がある。それは政治的には間接支配の原則として現はれる。かかる支配の間接性に対応して政治の物的基礎が各社会圏に内在的に分属せしめられている。所謂人的行政職(Der personliche Verwa;tungsstab)と物的行政手段(Das sachliche Verwaltungsmittel)との結合がそこで典型的に見られる。従ってまた法の定立乃執行も広汎に各身分関係に分散する。しかも社会圏の閉鎖性の原則は武士だけでなく庶民間の社会関係にも及ぼされる。この様な封建社会の特徴を一言をもて意味づけるならば、それは内在的価値の階層的体系と称することが出来よう。全社会秩序の価値が個々の閉鎖的な社会圏に個別的に内在し分散し、それによって夫々の社会圏が全秩序の不可欠の担ひ手となっている。従って封建社会の秩序の維持の上に、かうした価値の身分的=地域的内在性の保持、社会圏の閉鎖性の保持がいかに生命的要求たるかは多言を要しない。この閉鎖性が破れ、個々の社会圏に内在し分散していた価値がピラミッドの頂点に凝集した瞬間に封建体制は崩れる。支配の間接性が消え、中間的権力が最高権力に吸収されたとき、行政の物的設備(建物、馬匹、武具等)が行政職の私的所有から切離されて国家に集中したとき、立法権や裁判権の複数分布が中央に統一されたとき、それは即ち近代国家の誕生にほかならない。(p. 245)」

「道は天地自然に存在するのではなく、聖人が作為して始めて生じたものだとすれば、五倫五常という如き社会規範はもはや人間性の中に根を下すことは出来ぬ。(p. 246)」

「徂徠学が導入した主体的作為の思想が封建社会に対して及ぼす政治的機能はかくして二つに分れる。一はそれが封建的秩序の変革、新秩序の樹立の論理的武器たりうること、二はそれが封建的社会関係及びその観(p. 247)念的紐帯(五倫、五常)から実質的妥当根拠を奪って之を形骸化すること、即ち是である。(p. 248)」

「しかしこの商業資本があくまで商業資本にしかとどまらざるをえないところに、その封建社会に対する変革力としての歴史的限界があった。当時の支配的な生産はむろん農業であり、工業は農村の家内工業或は同業組合的手工業乃至たかだか問屋制的手工業の段階を脱しな(p. 248)かった。前期的商業資本による生産工程に支配を免れて逆にそれを自己に従属せしめるところの純粋な産業資本は徳川時代を通じて殆どいふに足る程の生長を遂げなかった。鎖国による海外市場の遮断はかうした生産方法の変革への社会的刺激を欠如せしめたのである。(p. 249)」

「「万国叢話」は吉田賢補・箕作麟祥・鈴木唯一・川本清一、川本清次郎等の洋学者が中心となって明治八年に発刊され、欧米の政治・社会・文化に関する論説の翻訳紹介を主たる内容としている。ここに掲げたのは鈴木唯一によって政体取捨有限論といふ題で訳出された論文の一節である。原著者は明らかではないが、恐らくJ・S・ミルの代議政体論(Representative Government, 1861)の冒頭からとったものではないかと推定される。(明治文化全集、第十八巻、雑誌篇、三六六頁)(p. 250)」

「かくして昌益は徂徠が一切の価値の根源を置いたところの聖人の作為にまさに一切の堕落の出発を見た。従って彼にとっては問題の解決の方向はただ一つ、聖人の作為以前の「自然の世」に帰るより外にはありえない。しかし、それにはまづ数千百年に汎って「法世」の支配下にあったために、自然状態を全く忘却している世人一般の(p. 256)意識の根本的改造が前提となる。(p. 257)」

「昌益の課題がこの様に「不耕貧食」のイデオロギーの打破にあったとするならば、彼の哲学的思索の一貫した指導動機(ライトモテイーフ)をなすものが「直耕」であることは理解に難くない。聖人の「作為」の排除を通じて彼の見出した「自然」は直耕ちふ事実であった。さうして直耕の意味を掘り下げることによって、昌益は徂徠学の主体的作為の立場と朱子学的自然のそれとを併せ止揚するところの彼独特の論理を築き上げて行った。(p. 257)」

「「不耕貧食」に対する「直耕」のための闘争は必然にその哲学的表現をば実体概念に対する機能概念の闘争んうちに持たねばならなかったのである。さうしてその際中心的な役割を演じたのが「互性」という原則であった。(p. 259)」

「しかしながらこの徹底的な封建社会の敵対者が作為の論理的価値の単純な否定者として現はれたところにまた、その反封建制の抜くべからざる限界があった。昌益がいかに封建社会を観念的に否認し、また「自然ノ世」の到来を期待しようと、法世を自然世に転換さすべき主体的契機は一切の「人作説」に対立する彼の理論のなかには見出されない。昌益の理論からは、「直耕」といふ自然世に於ける論理はあっても自然世を齎らす論理は出て来ないのである。(p. 263)」

「国学の複雑な構成内容に於てその現実的な政治社会思想は最も脆弱な一環を構成しているといってもさしたる過言ではない。国学は主として歌学の領域にとどまっていた初期の段階はもとより、それが漸く古道としふ一定の思想的立場を自覚するにいたった真淵・宣長に於ても、彼等の生きた現実の政治的社会環境を直接の対象とした考察は彼等の厖大な労作の中で殆んど云ふに足る程の地位も占めていない。(p. 266)」

「表面に現はれた政治的思惟をそのまま受取るならば、国学は終始封建社会の枠内を一歩も立ち出でなかったといってもよい。しかし、それならば国学思想の革新的な意義はもっぱら純学問的領域に局限され、政治的社会の観察方法の推移といふ本稿の観点に対してはなんら新たなるものを提示しないのであろうか。決してさうではない。逆説ではあるが国学はその本質的性格が非政治的であるが故にこそ、換言すればその封建社会の肯定が非政治的立場からなされているといふまさにその事に於て、かへって一つの政治的意味をもちえたのである。国学の変革的イデオロギー化を抑制した(p. 268)ところの非政治性は、同時にまたその保守的機能をも相対化したのであった。(p. 269)」

「国学は本来上代文学の文献的研究から始まった。さうしてそこになんら後世の理知的反省や倫理的強制を伴わはない人間心情の赤裸々な姿態を見出し、それがやがてさうした自然的性情の自由な発露を楽しんだ上代の生活への熱烈な憧憬を生んだのである。(p. 269)」

「かくして人間的作為に対して内在自然性を優越せしめつつ、しかも「自然」それ自体の観念的絶対化を避けるためには、この内的自然そのものの背後に、それを根拠づえるところの、超人的な絶対的人格を置く以外にない。神の作為としての自然――それが宣長の行きついた立場であった。(p. 270)」

「徂徠の主体的作為の論理は最初から封建社会の輔弼といふ目的のための論理であり、いはば本来的に公的=政治的性格を担っていた。従ってそれは徹頭徹尾、政治的支配の観点から説かれた。しかるに宣長にとっては国学の伝統を受けて、内面的心情(まごころ、もののあはれ)の世界こそが第一の関心事であり、その純粋性を貫く結果として到達した論理が「神のしわざ」といふ構成なのである。従ってその論理が政治的社会を対象とする場合でも、それはつねに自らの私的個人的立場を意識しつつ、主として政治的服従の観点から論じられた。(p. 273)」

「しかも封建権力はかく「下から」脅かされたばかりではない。それは又この頃に至って「外から」の勢力を身近に感ずるに至った。その脅威はさしあたり北方から来た。ロシア絶対王政は国内商業資本の支援の下にその勢力を侵々乎としてシベリアの曠野に進め(た)。(p. 277)」

「このような政治的社会的動揺に伴ふ思想統制の強化に一つのエポックを画したのが、かの「寛政異学の禁」であった。それは直接には林家に対する「正学」維持の申達にとどまるが、さうした幕府の政策は自から諸藩に及ぶし、朱子学以外の学者は進仕を許されなくなるので、実質的には一般的にな思想統制たる意味をもったことは改めて述べるまでもない。(p. 283)」

「かくの如くにして、近世封建社会の内面的腐蝕過程の進行と対外的危機の増大とは、思想界に於て、城述の如きさまざまな制度的改革の主張を生み、それらの内容はもはや単純に封建的範疇の中にとどまりえなか/ったのだけれども、しかも、他方そのいづれもが封建的支配関係そのものの変革には一指も触れえなかった事も否むべからざる現実であった。(p. 297)」

「かうした近世末期の一連の制度改革論の変革性を制約した共通の特色は、それらがいづれも上からの樹立さるべき制度であり、庶民はそこでなんら能動的地位を認められていないという事である。そのことの意味を更に吾々の主題との関連に於て突詰めるならば、かういふ事になる――徂徠学の制度の立直しの要請は夫々これらの思想家に受継がれて、著しくその内容を豊にし、そこに近代的なものも混入した。その限りでそれは作為の立場の具体的発展ではあった。だが同時に此等を通じて、作為の立場そのものの理論的展開は殆ど全く見られなかった。徂徠学的「作為」の理論的制約――作為する主体が聖人或は徳川将軍といふ如き特定の人格に限定されていること――はまた彼等のものでもあった。いな、この制約は徂徠学以後我々が辿って来た「作為」の立場のすべてに執拗に付纏っていた。云ひ換へれば、そこには「人作説」(=社会契約説)への進展の契機が全く欠如していたのである。(p. 299)」

「歴史は昌平黌の朱子学者の絶望的な反抗を踏み越えて前進を続けた。領主対農民、武士対町人、上級対下級武士、公家対幕府、幕府対雄藩――封建体制に内在するかうした諸々の対立矛盾はそれを隠蔽せんとする一切の努力にも拘らず幕末に至って集中的に激化する。それと共に、伝統的支配関係のひたすらな保持が決して国際的重圧から二本を救ふ所以ではないといふ認識はようやく事態の冷静真摯な観察者の共有財産となりつつあった。(p. 305)」

「国民が己れの構成する秩序に対する主体的自覚なくして、単に所与の秩序に運命的に「由らしめ」られているところ、そこには強靭な外的防衛は期しえない――かうした自覚の成長は、必然的に尊王攘夷論をして、ヒエラルヒッシュな形態から一君万民的なそれへと転化せしめずにはやまないのである。(p. 307)」

「しかも維新後に於けるかうした「作為」観の優位を決定的にしたのはかの自由民権論の擡頭であった。ここに至って「作為」の立場はその理論的帰結を最後まで歩み通して遂に明白な「人作説」に到達したのである。(p. 310)」

「ところで一寸注意を要する事は、こおの自由人権論に理論的基礎を提供したのは、かの啓蒙的自然法であり、それは人間の権利の天賦に出る事を説く点で、むしろ自然的秩序思想の系列に属する如き外観を呈していることである。しかし少し立入って見れば、その反対であることは直ちに知られる。そこで人権と云はれているのは、さんら実定的秩序の中に於ける権利ではなく、却って、逆に実定的秩序を形成すべき人間の主体性を具象化したものにほかならない。(p. 311)」

「封建権力は外を恐れるよりまづ内を警戒したのである。いな、内を恐れたが故にこそ外を恐れたといひうるであらう。とくに純被治者としての庶民に対しては、幕府諸藩を通ずる、封建支配者一般の深い疑懼が集中した。(p. 333)」

「しかし国民意識の割拠的分裂を白日下に照し出す契機となったところの外船渡来は同時にまたそれの止揚としての国民的統一観念を発芽せしめる契機でもあったのである。もとより一方、神国日本の意識及それと不可分の尊王観念は近世を通じて脈々と伝へられたし、他方国内交通の発達、商品交換の普及による国内市場の漸次的形成等統一国家の内的条件は準備されつつあったけれども、さうした内的条件の急激な成熟を促し、宗教的及至倫理的情操としての尊王観念に政治的性格を与える端緒をなしたのはまぎれもなく外国勢力との直面であった。(p. 339)」

「茲に於て国際的脅威の排除のためにはまづその前提として国内の経済的安定をはかりそれを通じて国防を充実せしめんとする思想的動向が生れる。かくの如くして初期の海防論はやがて富国強兵論へと転化して行くのである。もとよりさきの海防論者らに於ても、国内経済問題は対外策との関連に於て土着論や蝦夷地開発論として取上げられてはいた。しかしそこで主たる論点を構成したのは、国防の技術的契機であった。しかるにいまや国内の経済的窮迫の打開こそが対外危機克服の中心課題にまで高められる。さうして、かかる窮迫が一時の政策的失敗や個人的遊惰の所産ではなく、深く近世社会に機構的に根ざしたものであることが――主としてヨーロッパ事情との対比に於て――多少とも洞察されるに及んで、その対策も断片的な政策としてではなく、多かれ少なかれ制度的変革としての意味を帯びる。しかもかうした変革の遂行は自らの政治力の集中を必要とし、茲にその内容からもまたその推進力の主体といふ点からも所謂「大名仕掛」を逸脱して中央集権的絶対主義的色彩を帯びた国家体制の構想を成熟せしめるに至る。かかる「富国強兵」論は、幕末に近づくと共にますます喧しい問題となりやがれ後述の尊王攘夷論の潮流と合して前期的国民主義を最終的に形成するファクターとなるのである。(p. 342)」

「彼等の国防論は消極的な鎖国とは反対に、或は外国貿易により、海外経路による、積極的防衛体制であり、その極まるところ、信淵の「宇内混同」すなはち世界統一にまで至っている。鎖国政策のいまだ盤石の如き時代にあって、「渡海運送交易」(利明)による立国を説き、商業に対する伝統的蔑視ではなく工業生産と商業の国家管理による「殖産興業」を企図し、それを通じて日本を「世界最大一の大豊穣大剛強の邦国」(利明)乃至「世界第一の上国」(信淵)にせんとする彼等の根本思想(もとより両者はその思想内容を異にするが、いまだ差当りその富国強兵論としての共通面だけを問題とする)がいかに当時の時代から飛躍的な、むしろユートピア的色彩を帯びていたかは容易に窺はれる。(p. 344)」

「ところでかうした利明や信淵の絶対主義的植民帝国の「国君」は如何に考ふべきか。多元的勢力の一元化は必然にこの問題を惹起せずには置かない。さうした居だな大日本国の最高主権は信淵に於て既に「皇居」等の言葉に於て暗示されている様に、単なる覇者的存在以上の伝統と神聖性を担っていることが要請される。とくにさうした理想国家の構想が切実な国際的脅威を動機としているだけに、それは自から歴史的伝統の裡に自国存率の精神的支柱を求め様とする。かくして富国強兵論はやがて己れの胎内から尊王論を生み出して行くのである。(p. 346)」

「大隈の言葉は、尊王攘夷論が前期的国民主義の最後段階として果した役割を大綱的には指示しているけれども、さうした「国民的大運動」の内容にやや具体的に立入って見ると、一口に尊王攘夷といってもそこには動機と方向に於て著しく異る潮流が併存し錯綜して居り、到底単純な図式化を許さぬものがある。(p. 347)」

「若し幕末尊攘が日本を植民地化乃至半植民地化の運命から救ふに与った一つの力であったとするならば、それは諸侯的立場に於けるそれではなくして、いはゆる「書生の尊王攘夷論」(大隈候昔日譚)だったのである。さうして諸侯的攘夷論は大体に於て尊王敬幕論乃至公武合体論と結び付き、「書生の尊王攘夷論」はやがて反幕乃至倒幕論と合流した。尊攘思想の面から見た幕末史は、前者の優越性が次第に後者に移行して行く過程にほかならぬ。(p. 349)」

「水戸学の実践的影響は、はるかに広汎な派にに浸透し、恰も一切の――下士的乃至は草莽的立場をも含めた――尊王攘夷運動の思想的基礎をなした観を呈した。それは一つには、そこで国体論がはじめて具体的に時務論と結び付けられ、尊王論と富国強兵論が不可分の一体として力強く説かれたことが、なんといっても時代の冥々の動向に適合していたため、その尊王論なり富国強兵論なりの具体的内容が問われるより先に、一つの政治的パローレとして人心を吸着したからであり、更に一つには水戸学の中心的人格たる斉昭と幕閣との政治的対立関係が――事実はなんら幕藩機構の革新に関する対立ではないに拘らず――水戸藩が親藩といふ特殊的地位にあるだけに却って大きく映し出され、恰も幕末の漠然たる現状打破的諸動向の集中的表現の如く看做されることによるのである。(p. 353)」

「いはゆる富国強兵論に於て、或は海外貿易乃至植民的見地〔信淵・利明(帆足)万里・象山〕からであれ、或は農兵論的立場〔子平・幽谷・正志・東湖〕からであれ、殖産興業の遂行と軍備の充実のために多かれ少なかれ要望された政治力の集中はいづれも大名領の政治的経済的自足性を超えるものではあっても、それを破るものとはされなかった。そのことはその中心的政治力お帰属点が朝廷に求められようと一応幕府中心に考へられようと変りはない。尊王論が尊皇敬幕論から公武合体論を経てようやく倒幕論にまで行きついたときも、…尊攘論者の大勢は未だ藩の独自的権力に一指を触れる事を思ひ及ばなかった。吾々は僅かに松陰の末期の思想等に於て、日本の対外的「フレーヘード」の保持のためにもはや全体制のなにかしら根本的転換が不可欠の課題として迫りつつあるといふ予感を読みとりうる程度である。(p. 361)」

「一九二〇年代の後半から日本のアカデミックな世界をもまきこんで、知識人を台風のように襲ったのは、マルクス主義であった。したがって、マルクス主義の唯物史観に立脚した日本思想史の研究が、上述したのとちがった、第三の類型として登場したのは当然である。思想史という領域においてマルクス主義の方法があたえた衝撃は、日本ではきわめて興味深い両義性(アンビヴアレンス)を示した。詳説するまでもなく、マルクス主義に特有の「イデオロギー」論によれば、およそいかなる時代の宗教的教義であれ、倫理的教説であれ、形而上学的体系であれ、――政治・経済・社会についての諸観念はなおさらのこと――社会的経済的土台の上部構造であって、それから独立して自律的な発展をするものではない。イデオロギーは、たとえ社会的「土台」との相互作用が容認されるとしても、「究極的には」土台によって制約されつつ変動するように運命づけられている。したがって、こうした史観が歴史研究者をとらえるとき、彼の第一義的関心は、社会の経済的構造、階級構成、あるいは階級闘争の具体的状況に向けられ、思想や哲学の歴史的発展は、右のような基本的契機の「繁栄」として、せいぜい副次的な意味しか持たないように映る。(p. 387)」

■書評・紹介


■言及



*作成:岡田 清鷹
UP:20080822 REV: 20090204,1225, 20180223, 0305
国家  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
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