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『胎児の世界―人類の生命記憶』

三木 成夫著 19830525 中央公論新社, 226p.


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■三木 成夫 19830525 『胎児の世界―人類の生命記憶』, 中央公論新社, 226p.
 ISBN-10:4121006917 ISBN-13:978-4121006912 1983 [amazon] ※ b



■目次

T 故郷への回帰――生命記憶と回想
    
  民族と里帰り
     「椰子の実」の記憶
     絹の道
     里帰りの生理

  母乳の味
     母乳と玄米
     哺乳動物誌
     味覚の根源――「憶」の意味

  羊水と古代海水
     出産
     脊椎動物の上陸
     いのちの塩

U 胎児の世界――生命記憶の再現
    
  ニワトリの四日目
     墨汁の注入
     四日目の出来事
     上陸の形象
 
胎児の発生
     胎児の顔
     受胎1か月の像
     おもかげ――原型について
    
  再現について
     個体発生と宗族発生
     奇形の意味するもの
  胎児の夢

V いのちの波――生命記憶の根原
    
  食と性について
     ヤツメウナギの変態
     植物メタモルフォーゼ
     食と性の位相交替
    
  内臓波動
     いのちの波
     万物流転――リズムの本質
     胎児と宇宙
    
  永遠周行
     東洋の「道」
     遷宮の意味
     母なる海


■「いのちの塩」より p62より引用
 わたしたちは母胎のなかで、いわゆる十月十日の間、羊水に漬かって過ごす。そこでは、この液体が、胎児であるわたしたちの口のなかはもちろん、鼻のなか、耳のなかなど、およそ外に通じるすべての孔に入り込み、からだの内外をくまna く潤い尽くす。胎児は、拇指の先ほどの大きさになると、舌の輪郭が定まってくる。それは受胎二ヶ月の半ばのころか。もう神経はできているだろう。だから、そこでは感覚も運動も可能なはずだ。これが三ヶ月に入ると、一人前に舌なめずりをおこない、舌づつみを打ちはじめるという。身長は四センチで三頭身といったところだが、このころかれらは、この液体の味見に明け暮れる。というよりも、そこでは顔も口も鼻もどこもかしこも”羊水漬け”で、それ以上はもうどうしようもないのだから……。

■味覚の根原――「憶」の意味
 「記憶」とは「憶を記す」ではあるが、この「憶」は「啻=言中也」と『説文解字』にあるように、いわば、寒くもない暑くない、あるいは空腹でも満腹でもない、そういった過不足ない状態を象るものといわれる。ここでは、だから、温度や胃袋の存在そのものが忘れられているのであるが、ここでわたしたちの日常をふりかえってみると、じつは一日の大半をほとんど無意識のちにこの状態で過ごしていることが、じつは一日の大半をほとんど無意識のうちにこの状態で過ごしていることがうかがわれる。という以前に、すでに肉体のほうがひとりで動いている、ともいうことができる。いまの例で考えてみると、温度が上がれば皮膚の血管が開いて血液が開いて血液が体表に現れ、空冷の効果が発揮される。この血管の拡張を助けるのが、あの暑気払いの”一杯”だ。一方、気温が下がれば、皮膚の血管を縮んで血液は内臓に集まり、体温の放散が阻止される。この皮膚血管の感受性を高めるのが、例の乾布摩擦に代表される皮膚の鍛錬にほかならぬ。したがって、ここでは、暑さ・寒さの皮膚感覚が、血管平滑筋の拡張・収縮という、一種の内臓運動でもて受け止められその結果として体温の平衡状態が保たれることとなる。神経性調節である。
 これに対し、満腹感・空腹感をひき起こす胃袋の拡張・収縮は、生理学的に血中の糖分の消長で左右されるというのだが、人々が一日の大半を胃袋の存在を忘れて生活できるのは、血糖の<042<平衡状態を保障す拮抗的な内分泌系のはたらきに負うところが大きい。消化吸収が盛んになって血糖値が上がると、同じ消化管に由来する内分泌系が作動して、これを下げる。一方、刺激興奮が活発になって血糖が下がると、これにたずさわる感覚-運動系と近縁の内分泌系が目ざめて、これを補う。前者は膵臓から出たホルモンであるとすれば、後者は副腎の髄質と皮質から二段階に出たそれである。体液性調節である。
(三木 1983:42-43)

■おもかげ――原形について
 いつとはなしに肌身にしみ込んだその顔を、人びとは「おもかげ」とよぶ。古くは「まぼろし」といったが、今日では「イメージ」のことばが使われ、形態学の世界では「根原の形象」、略として「原形」とよばれる。わたしたちはこうした原形を、身近の者から、しだいに遠くの者へ、深浅さまざまに瞼に焼き付けながら、それぞれを間違いなく識別していく。それは知覚の基盤をなすものでなければならない。
 このおもかげの体得は、もちろん「個」の段階にとどまらない。「個」から「類」に及ぶ。たとえば、街角でどんな怪奇な容貌に出くわそうとも、ただちにこれを”仲間”として認めるだろう。いかなる人間の顔貌・容姿にも、そこにはサルとは峻別されるおもかげが存在する。わたしどもは、この人類の顔のもつ根原の形象を母親のそれと同じくらい、あるいはそれ以上に体得しているものだ。そして、この「類」のおもかげもまた、近く<119<から遠くへ、月日とともに深浅さまざまに瞼に焼き付けられていくのであろう。
 こうして「イヌ族」から「ネコ」族を、さらに「草食獣」から「肉食獣」を識別し、やがてこれらのすべてを「獣類」として「魚類」や「鳥類」から分けていく。いわゆる生物の分類はこの操作を経ておこなわれるのだが、さきに胎児の顔の移り変わりに動物のおもかげを見てとったその奥には、こうした「獣」の原形体得があったからであろう。
(三木 1983:119)

ところで、その種のもつ本来の姿かたちは、その種族形成の物語すなわち宗族発生誌のなかで<123<初めて知ることができる。どんな宗族も、それらしい形態が定まるまでに、まず曙の時代が先行する。この未熟な段階を経て初めて、その種のかたちが完成することになるが、こうした根原形象、すなわち原形の完成によって、その宗族発生の物語は一つのクライマックスを迎える。(中略)
 芸術の様式の変遷に、アルカイック、クラシック、バロック、ロココ、・・・・・・とつづき、最後はグロテスクとなる一連の流れがあるが、この宗族発生の物語にもこれと同じ経過がみられるのであろう。このなかで「クラシック」とよばれる一時期を必ず経過するが、人びとはこのときの様式に何か無意識の基準を見出し、つねにこの原点にもどろうとするひとつの動向を示す。
 宗族発生誌のなかで、さきに述べた種の原形の定まる時期というのが、まさにこのクラシックの時期に相当するのではないかと思われる。「典型」とよばれるものであるが、こうしたかたちが、時の流れによって歪曲されることなく、脈々として保たれてきたのが、ここにあげた動物たちではないかと思う。
(三木 1983:123-124)

*太字は追加者による。

作成:櫻井 浩子
追加:松田 有紀子

UP:20071219 REV:20081116
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