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『生活記録の社会学――方法としての生活史研究案内』

Plummer, Kenneth 1983 Documents of Life: An Introduction to the Problems and Literature of a Humanistic Method, George Allen & Unwin.
=199106 原田勝弘他 監訳 光生館,251p.


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■Plummer, Kenneth 1983 Documents of Life: An Introduction to the Problems and Literature of a Humanistic Method, George Allen & Unwin. =199106 原田勝弘他 監訳,『生活記録の社会学――方法としての生活史研究案内』,光生館,251p. ISBN-10: 4332610016 ISBN-13: 978-4332610014 \2472 [amazon][kinokuniya]

■内容

■目次 ■引用
こうした個人的データは,それらを解釈するうえで疑わしいとされる理論的問題点に関して,充分に検討を重ねる必要がある.たとえば,個人的記録に批判的な論者は,それらの資料が客観的価値を持ちえないという理由から,認識論上妥当な位置を与えることに,大きな疑問を抱いている.実証主義とリアリズムとは相反する立場にあるが,いずれも,人間が主体的で個人的な存在であるという観念を否定する点では,かなりの程度一致している(p. 4)。
このように個人の復権をめざす社会学を,人間主体の社会学と呼ぶことができるとすれば,それは少なくとも4つの主要な基準をもつと言えよう。

第1に,それは人間の主体性と創造性を尊重しなければならない。つまり,個々人が社会的束縛にいかに反応し,どのような行動の仕方で社会的世界に働きかけるのかに注目することである。
第2に,人間主体の社会学は,話したり,感じたり,行動するといった人間の様々な具体的経験を,社会組織,とりわけ経済的組織のなかでとり上げなければならない(この場合,単に個人の内的・心理的ないし生物学的反応の側面だけを問題とするのではない)。
第3に,そうした人間の諸経験を,博物学者のような眼で親しみをもって扱い,その内容を詳しく吟味できるようにしなければならない。対象者に密着しすぎて相手の情況に巻き込まれることから生じる,中途半端にぼかした説明や抽象化は,排除すべきである。
最後に,搾取や抑圧,不公正を阻止し,創造性と多様性,平等性をいっそう高めることのできる社会構造の実現に向けて,根源的な意味での道徳的かつ政治的役割を果たそうとする社会学者としての自覚がなければならない(pp. 8-9)。

啓蒙主義時代の幕が上がるまでは,生活の記録はまず第一に武勇伝のような偉大な行為,あるいは哲学者の生涯といった,記憶すべき出来事を記録する回顧録の形をとっていた。聖アウグスチヌスの『告白』は著名な例外として,ひとりの人間の内面的な'性質について考察した記録は殆ど見られなかった。しかし,今日,自伝的研究をすすめる大方の研究者にとって,この自己探究こそが必須の要件なのである.このことは,近代の個人的生活記録の研究にとって,道しるべとなる何人かの重要な人物が存在したことを物語っている(p. 15)。
オルポート(Alport,1942)にとって,日記は何にもまして優れた生活の記録文書である.それは,日記作者にとって意味のある,しかも同時期に現下に起った公私両方の出来事の流れを,そのまま書き留めているものである。「同時期に起った」という言葉は,ここでは非常に重要である。なぜなら,生活史と違って日記に記載されたそれぞれの事柄は,折りにふれて書き留められたものだからである。つまり,それらは過去についての感想を「にわかに」思い起したのではなく,絶えず変化する現在を日々記録しようと努められたものである(p. 28)。
社会科学の分野では,手紙は比較的珍しい生活記録といえる。これまで手紙を徹底的に使用したのは,疑いなくトーマスとズナニエッキの「ポーランド農民』である。彼らは,ポーランド人とアメリカのポーランド移民とのあいだに大量の往復書簡があるのを発見した。そこで,シカゴの新聞に1通につき10セントから20セントを支払うという広告を出し多数の手紙を入手した。そのうちの764通は,彼らの研究の第1巻で公表された。それは総頁800頁からなり50家族が順にまとめられている。一連の手紙の前には前置きとして,家族貝と書き手の主たる関心事の紹介が付けられた。これらの手紙はかなり儀礼的な特色をもっていることから,トーマスとズナニエッキによって挨拶の手紙」と称され,何にもまして「離れ離れなっていても家族の結束が持続していることをあらわす」ために書かれた(p. 33)。
社会科学において写真を使用する際のもっとも判りやすい方法の一つは,対象者に家族のアルバムを見たいと頼むことである(Musellql979)。もっとも印象的な方法は,子供の頃の人間関係,友人,家族の儀式的行事,家族の歴史など,あらゆる種類のささいな出来事を強調することである。この種の手法を選んだ社会学者は,写真を読みとるという問題に波長を合わせることが必要である(p. 46)。
彼(ブルーマー)はこのトーマスとズナニエッキの研究報告を,非常に好意的に受け入れたのである。事実,彼の審査基準は大変厳しく,この研究が全体として科学的失敗であるとさえ言うほどであった。たとえば,この点について彼は次のように論じている。この研究は,採用された各記録の代表性が確立されていないこと、採用した各記録は研究者の利用目的に対して適切であったかどうかを証明していないこと,こうした記録がどれほど信頼,性をもつものかを,個々の資料的源泉に即して点検していないこと,最後に,個々のどのような記録から引き出された解釈なのかについての妥当性が明示されていないこと,などの諸点があげられた。逆説的であるが,これらの重大な欠点にもかかわらず,ブルマーはこの研究報告が成功をおさめた作品であると主張した。そのうえで,「『ポーランド農民』の研究がなぜ価値ある業績であり,なぜ社会学や社会心理学に多大な影響をもたらしているのかを明らかにする重要な貢献」であるかについて8つの点を列挙している。
    (1)社会生活における主観的要因を研究することの必要性を例証していること。
    (2)資料源泉としての人間の記録,特に生活記録の活用を提起し,生活史手法として知られる接近方法を導入していること。
    (3)社会心理学の枠組と社会学の特質の輪郭を明らかにする社会理論が論じられていること.社会心理学的な視角,特に文化の主観的側面を,影響力のある分析要素としてとりあげたこと。
    (4)社会学を科学的理論の学問にしようとする関心を刺激し,強くうながすような科学的方法について論じられていること。
    (5)パーソナリティ論や社会統制論,社会解体論など一連の重要な理論を提起したこと。 (6)態度,価値,生活組織,状況の規定,4つの願望などのように,広く受け入れられるようになっている様々な諸概念を明らかにしたこと。
    (7)内容豊かな洞察,知的喚起をうながす一般化,そして鋭敏で抜け目のない観察。
    (8)ポーランド農民社会に照明をあて,その特質を明らかにしたこと。
(pp.71-72)
相互作用論者の考え方の基礎にあるのは,抽象化や物象化,決定論にいたる絶対化を強く嫌悪する性向である。つまり,人間の判断によって構成され,それ故に多義的であるとともに生きていくうえで創発的に構成される意味こそが,彼らの根源的な関心の対象であった。それは,人間が物質的でありしかも象徴的で.あるという,二重の世界に生きていることに向けられており,そうした世界に生きる人間の相互作用をとらえるためには,自省的であろうとし,伝達し合ったり,他者の役割にとって代わろうとするような「自己」の存在を浮び上がらせようとしているのだ。そこでとらえようとする意味は,人びととの出会いのなかで見いだされるべきであり,たとえ仮説的な合意ができたとしても,その意味は絶えず流動的であり,決して固定してとらえてはならない(p. 79)。
シカゴ学派の人びとがとるアプローチは,自分たちが関心をもつ文脈から切り離された理論的抽象や演鐸的論理,哲学的な二元論ないし真理には近づかないようにした。つまり,哲学者が演ずる哲学ゲーム(それが真理か否かは与り知らないところであるが)の代りに,彼らは問題解決に直結した,具体的経験をめぐる関心を選んだのである。さらに「社会」とか「個人」といった抽象概念に代えて,彼らは抽象的なものよりも個別的なものを対象とすることが重要であることを明らかにした。かくして,ジェームズは『プラグマティズム』のなかで次のように訴えた.「絶対的なるものを内に抱えた大帝国を葬れ・・・・燗々の人びとが募らす生きた活動の舞台をこそ私に与えよ」と。これに対してクーリー(Cooley,1956)は,「個々ばらばらにされた個人というものは,経験的には知りえない一つの抽象であり,社会もまた,個人と切り離してみるときには同じことがいえる。真に現実的なるものは,まさに人間の生活にあるのだ」と,『人間性と社会秩序』のなかでのべている.このような主張には,「生きられた生活」(livedlife)を哲学全休の基調に据えていたデイルタイの思想が反映されている。
伝記というものは、絶えず生成される状態を描いており,その人生の展開につれて主人公の生活をめぐる主観的な説明がくり広げられる.相互作用論者の思想には,世界に関する静態的概念化はみられず,あるものは流動性,創発性,不確実性,そして変化力,あらゆる分析レベルをつらぬく一貫した要因なのである(p. 83)。
人間にとって状況のリアリティは,その人の生活とともに変わっていくもので、人びとはものごとの客観的な`性質とはかかわりなく,彼らの理解を基礎にしてものごとに働きかけるのだ。けれども,異なる視座から,ものごとの「客観的な性質」が見えてくることに注目することは重要である。しかし,これもまたひとつの視座からの産物であり,常にそのことに結びつけられる必要があるだろう(p. 84)。
ものごとの全体性を把握しつくすことは不可能だという考えは,上でのべたことと密接に結びついている。捉えることができるのは,限定ざれ選びとられた真理ないしは視座にすぎない。この点でシカゴ学派の伝統は,ジンメルとウェーバーを通じてカントにさかのぼる――知識の現象的形態をさし示す明確な推論の筋道は把握され,理解されるかもしれないが,ものそれ自体における実在の領域は,基本的には決して知ることのできない暗黒の空間なのだ(p. 84)。
たいていの社会科学は,全体から切り取った部分的過程にかかわっている.特に定性的調査や生活史調査は,全体を把握することを求めない。心理学者が人間経験の全体から「パーソナリティ」や「態度」,「知能指数」を切り取ってくるのに対し,社会学者は日々の生きた経験の総体のなかから「構造」や「文化」を切り取ってくる。すべての社会科学は,常にある観点から分析するための素材を切り取り,選別し,編成しなければならない。ただ,生活史研究の視座(または観点)は,ある人の人生の経験の全体性のなかに求められるものであり,この全体性とは,生物学的な身体的欲求,身近な社会集団とのかかわり,状況についての個人的規定,そして自分自身の生活とそれをとり巻く外部世界の双方における歴史変化などの、それぞれの部分を織り合せ.結び合せているものである。生活史を完全に個人的なものと考えるのは,全くの誤りだ。生活は歴史と構造を通じて,たえず変動しているからである。このような意味で,生活史研究の方法は他のいかなる方法にもまして,−つの生活の全体`性を把握するのに有効`性を発揮するのである(p. 104)。
多くの社会学者は,個人を能動的・創造的な主体であり、世界の作り手として見る視点から出発する。だが,理論的な把握を完成していく段階では,その同じ人間存在を鎖で縛り人間性を奪いとり,受動的存在にしてしまいついには見失うのである。主体は客体化され個人は統計的対象となり,創造者は被抑圧者に変り,人間は抽象的な存在に変えられる。デュルケムやマルクス,パーソンズといった社会学者の場合も,すべてこうした流れに沿う視点から解釈することができる.彼らが語ろうとしてし、た「人びと」は,「体系」に変ってしまうのだ。ここで,彼らが理論的実践をとおして繰り返し表現してみせるものは,人間の創造性が,いかにして個人を支配したり疎外するようなシステムに組み込まれ,慣習化され,また構造化されていくのかをめぐる理論にほかならない(p. 116)。

情報提供者の選定方法

選定方法のなかで一番多く採用され,また最も豊かな成果をおさめてきたのは,「境界人」だろう。伝統的な表現からすると,境界人とは,「2つの文化,たんに異質であるばかりでなく互いに敵対的な2つの文化のはざまに生きることを運命づけられた人物」のことであるが(Stonequist,1961),社会学的にいうと,ジンメルとシュッツが名づけた「異邦人」であり,また、ガーフィンケルのう「実際的な方法論者」のことである。どちらの場合にも,対象満は複数の文化が交叢する接点上に生きている。対象者は,日分がいかに生きるべきかについての相反する発想を体験するなかで、社会生活とは本質的に人為的なものであり,社会的に作り上げられたM)であること,つまり人びとが作り上げている現実とは,実際にはいかに脆いものであるか,という点に気づくようになる(p. 131)。
■書評・紹介

■言及


*作成:中田 喜一
UP: 20091208 REV:
身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 
 
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