『表現と介入――ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』
Hacking, Ian 1983 Representing and Intervening; Introductory topics in the philosophy of natural science, Cambridge University Press.
=19861128 渡辺 博訳 『表現と介入――ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』,産業図書
■Hacking, Ian 1983 Representing and Intervening; Introductory topics in the philosophy of natural science, Cambridge University Press.
=19861128 渡辺 博訳 『表現と介入――ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』,産業図書, 486p, 3250 ISBN-10: 4782800320 ISBN-13: 978-4782800324
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■目次
内容目次
前書き
序論――合理性
分裂したイメージ
戦場
共通の基盤
イメージの塗りつぶし
理性は問題なのか
通常科学
危機と革命
「革命」は新しくない
業績としてのパラダイム
共有する価値の集まりとしてのパラダイム
改宗
不可共約性
客観性
アナルコ合理主義
反応
合理性と科学的実在論
第一部 表現すること
第一章 科学的実在論とはなにか
吹きかけることができれば、それは実在する
なにに関する論争か
運動であって教義ではない
真理と実在
二つの実在論
下位区分
形而上学と特殊的諸科学
表現と介入
第二章 建築することと原因となること
唯物論
因果主義
諸存在であって理論ではない
物理学を超えて
第三章 実証主義
実証主義の六つの本能
公言する実証主義者
反形而上学
コント
反理論的存在
信念
受容
反説明
単純推論
広汎な偶然
成功物語
第四章 プラグマティズム
パースへの道
推理のモデルとしての反復測定
視野
分かれ道
実証主義とプラグマティズムはどのように違うのか
第五章 不可共約性
不可共約性の様々な種類
蓄積と包摂
主題不可共約性
乖離
意味不可共約性
第六章 指示
意味と指示
意義と意味不可共約性
パトナムの「意味」の意味
固定観念
言語的分業
指示対象と外延
「意味」の意味
指示対象と不可共約性
電子に呼び名を与えること
酸――二つに分岐する種
熱素――非存在
中間子とミューオン――理論はどうやって実験から名前を盗むか
意味
第七章 内在的実在論
内在的実在論と外在的実在論
形而上学的実在論に関する疑問
形而上学の実地調査
カント
真理
理論的存在と物自体
指示
猫と桜んぼ
科学的実在論に対して投げかけられる意味
前提
唯名論
革命的唯名論
合理性
第八章 真理の代用となるもの
方法論の歴史
ユークリッド・モデルと帰納主義
反証主義
研究プログラム(Research prgrammes)
ハードコアと保護帯
進歩と退歩
後知恵
客観性と主観主義
知識の成長
科学の理論を評価すること
内的歴史と外的歴史
合理的再構成
推論における大変動
小休止 本物と表現
この二つの観念の起源
哲学的人間学
隠喩の限定
話すものとしての人間
言語のはじまり
似せたもの
実在論に問題なし
デモクリトス的夢想
実在の規準
人間学要約
行為
第二部 介入すること
第九章 実験
階級とカースト
帰納と演繹
理論と実験と、どちらが先に来るのか
注目すべき観察(E)
理論への刺激(E)
意味のない現象
幸福な出会い
理論‐歴史
理論家、アンペール
発明(E)
理論を待機する多数の実験的法則
実例が多すぎるのだろうか
第十章 観察
観察は過大評価されてきた
実証主義的観察
区別の否定
理論負荷的
ラカトシュの観察に関する考え
理論的仮定を含むことについて
言明、記録、結果
理論なき観察
ハーシェルと放射熱
注目すること
観察は技巧である
見ることは言うことではない
感覚を増強すること
大規模に理論負荷的な観察(E)
独立性
第十一章 顕微鏡
存在の大連鎖
顕微鏡の哲学者
覗き込んでばかりいてはならない――介入せよ
不良顕微鏡
アッベと回析
顕微鏡夥多
理論と信念の根拠
顕微鏡法における真理
偶然の一致と説明
格子の論証
音波顕微鏡
顕微鏡によって見るということ
科学的実在論
第十二章 思弁、計算、モデル、近似
ファラデー効果
ファラデー効果を説明すること(E)
「理論」の六つの水準
思弁
計算
仮説=演繹的図式
モデル
モデルの役割
なんに関する実在論なのか
近似
世界
第十三章 現象の創造
文献学的脱線
現象を解くこと
効果
創造
現象の希有性
ジェーゼフスン効果
実験はうまくいかない
実験を反復すること
第十四章 測定
奇妙なこと
自然の定数
精確な測定
「他の手段による理論」
精確な自然の定数は存在するか
最小二乗補正
一切を測れ
測定の機能
機能主義
公式的見解
第十五章 ベーコン的主題
蟻と蜜蜂
科学のなにがそんなに偉大なのか
特権的事例
決定実験
ベーコンの事例
補助仮説
後知恵を持っている場合にのみ決定的
すべてに浸透するエーテル
実験
実験的機能と理性的機能
第十六章 実験活動と科学的実在論
実験家と諸々の存在
作ること
パリティと弱い中性カレント
PEGGYU
バッグ〔欠陥〕
結果
注釈
教訓
仮説上の存在が実在的となるとき
移り変わる時代
注
文献案内
訳者あとがき
事項索引
人名索引
■引用
太字見出しは作成者による
ポパーとカルナップの共通の基盤
ポパーとカルナップは自然科学は合理的思考のわれわれのもつ最良の実例である、と決めてかかっている。(p.8)
両者は観察と理論との間にははっきりした区別があると考える。両者は知識の発展は大体において累積的であると考える。(pp.8-9)
両者は科学はかなり厳密な演繹的構造を持つと考える。両者は科学の述語は相当に精確であるかまたはそうあるべきだと考えた。二人とも科学の統一性を信じていた。これはいくつかのことを意味している。まず科学はすべての同一の方法を用いるべきであり、従って人間の諸科学も物理学と同じ方法論を持つことになる。更に少なくとも、諸々の自然科学は一つの科学の部分をなすものであって、科学が物理学に還元されるのと同様、生物学が科学に還元されることが期待される。(p.9)
両者は正統化の文脈と発見の文脈との間に基本的な区別があることで意見が一致していた。(p.9)
けれどもカルナップやポパーの哲学は本質的な点において無時間的なのである。(p.10)
イメージの塗りつぶし
カルナップとポパーの共通点をすべて否定するかたちで、クーンの主張が要約される。
革命の構造
通常科学→危機→革命→新しい通常科学
異常性
科学における「革命」という考え
科学革命という考えはクーンに由来する訳ではない。われわれはずっと以前からコペルニクス革命という観念や十七世紀に知的生活を変容させた「科学革命」の観念を所有している。カントは『純粋理性批判』(一七八七)の第二版で、ターレスかもしくは他のだれかが行なった経験的な数学を論証による証明へと変形する「知的革命」について語っている。実は科学の領域における革命の観念は政治的革命の観念とほぼ同時代に現れている。両者はフランス革命(一七八九)と化学における革命(例えば、一七八五)によって定着した。それは無論最初という訳ではない。イギリスの人々は一六八八年に「名誉革命」(無血革命)を経験していたが、それはあたかも、化学革命もまた人々の心の中に起きていることが分かってきたときのことである。(pp.14-15)
「合理的」と「非合理的」
アリストテレスは人間は理性的動物であると説いたが、これは推理することができるということを言おうとしたものである。われわれは「理性的」を評価語と考えることなしに、これに同意することができる。われわれの現在用いている言語では「非合理的」だけが評価の働きを持ち、気のふれた、腐った、優柔不断な、信用できない、自覚を欠いた、などを、またその他多くのことを意味し得るだろう。科学哲学者達によって研究されてきた「合理性」はファイヤアーベントにとってと同様私にとってもほとんど魅力を備えていない。実在の方がもっと面白いのである。「実在」の方がましな言葉だと言う訳ではないのだが。実在……なんという概念。(p.26)
教義でなく運動
このような諸々の運動は教義を欠いている訳でもない。多くの人々がマニフェストを出した。それらはすべてその当時の哲学的な感受性に満たされており、またそれに寄与した。文学では輓近のあるリアリズムは実証主義と呼ばれていた。しかしわれわれは教義よりも寧ろ運動について語っており、類似する一群の動機を共有し、また部分的には、他の思考法に反対しつつ自らを定義づけるような創造的作品について語っているのである。科学的実在論と反実在論もそれに類似している。すなわちそれらもまた運動なのである。われわれは段落一つで語られる定義の一対で武装して論争の中に飛び込むことができるとはいえ、一旦中にはいれば競い合いまた互いに異る数知れぬ見解に出会うだろう。(p.40)
二つの実在論…存在に関する実在論(実際に存在するかどうか)と理論に関する実在論(正しいかどうか)
ラリー・ローダンによる合理性についての議論の要約…pp.24-25
「実在的」
ここでの私の教訓は、少くともある科学的実在論は「実在的」という言葉を、オースティンが標準的であると主張したのと殆んど同一の用法に従って使用することができる、という点にある。この言葉は特に曖昧である訳ではない。特別に深遠だというのでもない。それは実詞に飢えたズボン語である。それは対照を指定する。どんな対照を指定するかは、それが修飾する、もしくは修飾するために、それが選ばれている名詞もしくは名詞句Nに依存する。更にそれはNであることに対する様々な候補者がどんな具合にNになり損ねているかにも依存する。(pp.63-64)
ハッキングのいう「実証主義」
長い間反実在論の一つの伝統が生き続けてきた。一見したところそれは「実在的」という言葉が意味することに頭を悩ませているようには見えない。それは単に次のように言っているだけである――電子は実在しないし、他の理論的存在も実在しない。それほど教条的でない調子で言うときには、そのような事物が存在すると考えるべき十分な根拠はないし、確かに存在するということが示される公算もない、と言う。観察されるものでなければ、なんであれ実在的であることを知り得ない、と言う。(p.65)
デイヴィッド・ヒューム『人性論』(1739)からバス・ヴァン・フラーセン『科学的世界像』(1980)
実証主義の六つの本能…(1)検証(あるいは反証なども、(2)観察志向、(3)反原因、(4)説明の切り下げ、(5)反理論的存在、(6)これら(1)〜(5)を反形而上学として総括すること
ポパーと実証主義
では反実証主義の社会学の教授連はなぜポパーを実証主義と呼んだのであろう。それは彼が科学的方法の単一性を信じているからである。仮説を作り、結論を演繹し、それをテストせよ――これがポパーの推測と反駁の方法である。彼は社会科学に特有などんな技法、自然科学に対して最善であるものとは異なるどんあ理解(Verstehen)をも否定する。とはいえ私は「実証主義」を科学的方法論の単一性に関する教条に対してではなく、(1)から(6)までの観念の反形而上学集合に対する名称として保持することにしよう。とはいうものの、科学的厳密性に対する熱狂を恐ろしく思う人はみなポパーとウィーン学団のメンバーとの間にほとんど違いを見出さないものだ、ということは私も認めている。(p.70)
理論を受容すること
「良い理論が正しいと信じる必要はないし、またこのことから(ipso facto)理論が仮定する存在が実在的であると信じる必要もないことになる」、と彼は書いている。「このことから」がヴァン・フラーセンは理論に関する実在論を存在に関する実在論から余り区別していはいないということを思い出させる。人はある存在が実在的であるということを、なんらかの理論が正しいことを信じている「という事実のおかげで」ではなく、他の理由から信じることができる、というのが私の主張である。
少し後で、ヴァン・フラーセンは次のように説明している――「理論を受容するということは(われわれにとっては)それが経験的に十全である――理論が(われわれにとって)観察可能なことに関して言っていることは正しい、ということ信じることである」。理論は予測、制御、調査、また単なる娯楽のための知性の道具である。受容はなかんずくかかり合うことを意味する。調査を行なう分野である理論を受容することはそれが示唆する研究プログラムを展開することにかかり合うことである。理論が説明を提供することを認めてもよかろう。しかし最善の説明への推論と呼ばれてきたものは拒絶せねばならない。すなわち、理論をそれがあることを明白にするから受容するということは、だから理論が述べていることは文字通り正しい、と信じることではない。(p.82)
最善の説明への推論
「最善の説明への推論」という考え方はかなり古くからある。C・S・パース(一八三九―一九一四)はそれを仮説の方法、もしくはアブダクションと呼んだ。それはなんらかの現象に直面したときに他の方法では説明できない事柄を分かるようにする(恐らく最初からいくらかのもっともらしさを備えている)説明を一つ見出すなら、その説明は多分正しいと結論すべきである、という考え方である。パースは研究生活を始めた当初科学的推論には、演繹、帰納、仮説の三つの基本的様式があると考えた。年を経るにつれて彼は第三のカテゴリーについて懐疑的となり、彼の生涯の最後には「最善の説明への推論」にいかなる重要性をも与えなくなっていた。(p.84)
説明の重要性
私は手はじめに、説明は科学的推理においてある哲学者達が想像しているほど中心的な役割を演じてはいないと言わねばならない。また現象の本当の説明なるものは宇宙の構成要素の一つではない、あたかも<自然の作者>が<世界の本>の中に様々な事物――存在、現象、量、質、法則、定数、そしてまた出来事の説明を書き記していたかのように。説明は人々の関心に相対的なものである。私は説明すること――パースが語ったように「錠の中で鍵が回るのを感じること」――がわれわれの知的生活の中で確かに起こっていることを否定する訳ではない。しかしそれは主としてある瞬間の歴史的もしくは心理的状況の特徴なのである。(p.85)
パースと真理
パースは大変優れた実験家であった近代のおそらく唯一の哲学者である。彼は重力定数の決定を含む多くの測定を行った。彼は誤差論に関して大量に書いている。それゆえ彼は一連の測定を通して一つの基本的な値へと落ち着かせることができるという事態には通じていた。彼の経験では測定は収束し、そして収束するものは定義上正しいものなのである。彼は人間の信念もすべてそのようなものであると考えた。十分長い間なされた探求はわれわれが取り組むことのできるどんな問題についても安定した見解へと導くだろう。パースは真理は事実との対応だとは考えなかった。真理とは研究者の途絶えることのない共同体が到達する安定した結論なのである。(pp.97-98)
とはいえ、ジェームズとデューイには探求に関するパース的展望に対する無関心がある。彼らは、われわれは結局はどんな信念に落ち着くかということは意に介さない。信念の人間による最終的固定などは彼らにはキマイラのような妄想に思われた。プラグマティズムのジェームズによる書き直しにパースが抵抗を示した理由はそこにある。これと同じ意見の不一致がちょうど今起きている。ヒラリー・パトナムは今日のパース主義者である。リチャード・ローティはその著書『哲学と自然の鏡』(一九七九)でジェームズとデューイが演じた役割の一部を演じている。(p.100)
不可共約性
「不可共約性(incommensurable)」という言葉の新たな哲学的用法は一九六〇年頃ポール・ファイヤアーベントとトマス・クーンがバークリー電信通りで交わした会話の産物である。(pp.107-108)
不可共約性の三分類…主題不可共約性、乖離、意味不可共約性
アーネスト・ネーゲル『科学の構造』一九六一年
パトナムの意味…統語論的成分、意味論的成分、固定観念stereotype、外延
パトナムの最も独創的な貢献は真理よりも指示により多く関わっている。前章で述べた彼の「意味」の意味は自己崩壊の種子を含んでいる。それは明白に見てとれる。私が「外延の点々」と呼んだものがそれに他ならないからである。自然種語の意味は外延を最後に持つ要素の列のことである。しかし外延を書き留めることはだれにもできない。(p.164)
ラカトシュ
クーン批判
反証主義
ラカトシュは方法論のある歴史を切り詰めるが、また他のものを引き伸ばしてもいる。彼はポパーから学んだ事柄のうち順々に精緻になっている解釈を表わすものとして、ポパー(1)、ポパー(2)、ポパー(3)を持ってさえいた。これら三者はすべて推測を検証もしくは確証することではなく、それをテストして反証することを強調している。最も単純化した見解は、「人々が提案し、自然が決着をつける」というものであろう。すなわち、われわれは理論を考え出し、自然は、誤りであればそれを処分する。それは誤りに陥りやすい理論と自然の基礎的観察との間にかなり鋭い区別があることを含意している。後者は、調べてみてひとたび問題のないものであることが分かれば、究極的で疑う余地のない至上の法廷なのである。観察と矛盾する理論は斥けねばならない。(p.186)
それゆえ反証主義者は更に二つの支柱を付け加える。第一に、いかなる理論も、より優れたライヴァルの理論が存在するのでなければ、斥けたり、見捨てたりされるわけではない。第二に、ある理論は別の理論よりも多くの新しい予測をするなら後者よりも優れている。伝統的には理論は証拠と整合的でなければならなかった。ラカトシュの言うところによれば、反証主義者は理論が証拠と整合的でなければならない、ということではなく、実際にそれを凌駕するものでなければならないと要求する。(pp.187-188)
研究プログラムResearch programmes
われわれはこの言葉の二様の綴りを利用して、アメリカ的綴り(research program)を研究者が通常研究計画と呼んでいるものを表わすために使うことができるだろう――すなわち理論的な考えと実験上の考えとをある明確な仕方で結合させて、それを用いてある問題に特定のやり方で取り組むことを表わすために。研究計画とはある人物もしくはグループが企てるこことのできるもので、それに対する資金源を捜し、その手助けになるものを獲得し、等々のことを行う研究の計画である。ラカトシュが'reseach programme'と綴るものはあまりこれに似ていはいない。もっと抽象的で、もっと歴史的なものである。それは数世紀の間持続するかもしれないし、八〇年間忘却の淵に沈み、その後まったく新たに事実なり考えなりを吹き込まれて甦るかもしれないといった、発展する理論の系列のことである。(p.188)
発見的方法heuristic
研究プログラムは肯定的発見法と否定的発見法によって定義される、とラカトシュは言う。否定的発見法は言う――手をつけるな、ここで介入するな。肯定的発見法は言う――ここには重要度の順に並べられた一群の問題の領域がある、リストの最初の問題にだけ頭を使え。(p.189)
肯定的発見法はハードコアの原理となり、否定的発見法は保護帯を生じさせる。
進歩と退歩
なにが研究プログラムを優れたもの、あるいは劣ったものにするのだろう。優れた研究プログラムは進歩的であり、劣ったそれは退歩している。プログラムは理論T1、T2、T3、……という列になるだろう。理論は、それに先行する理論と少なくとも同じ程度に既知の事実と整合的でなければならない。それぞれの理論がめいめいにそれに先行する理論が予見していない新しい事実のいくつかを予測する場合、この列は理論的に進歩的である。プログラムは、理論的にも経験的にも進歩的である場合、単に進歩的である。そうではないときに退歩的である。(pp.190-191)
パトナムは、たとえわれわれが既に究極的な軌道に乗っているということをパースほどには確信していないにしても、単純なパース主義者である。合理性は未来を見通す。ラカトシュはもう一歩先へ行く。先を見通す合理性は存在しないが、われわれの現在の客観性をわれわれがここに至った道を再構成することによって理解することはできる。どこから出発するのか。知識の成長それ自体から。(p.194)
知識の成長を理解できるという事実の三つの側面
1 直接の点検によって知識の成長は知ることができる。
2 歴史的事象が知識の進歩を見せ付けるという論証があるわけではない。
3 科学的知識の成長は、分析を加えることで、ポパーやラカトシュが客観的知識と呼ぶものの合理性とそれ以外のものの合理性との境界設定を与える。
→前向きの評価は与えない。
ポパーの「第三世界」
第三世界というポパーの隠喩には惑わせるところがある。ラカトシュの定義によれば、「『第一世界』は物理世界である。『第二世界』は意識の、精神状態の、そして特に、信念の世界である。『第三世界』は客観的精神のプラトン的世界、観念の世界である」。私自身は第三世界は図書館に収蔵されている本と雑誌の、図、表、コンピューター・メモリーの世界であると言っているポパーの原点の方を好ましく思う。これらの人間の外なる事物、発話された文は、プラトンの話がほのめかしていた以上に実在的なものである。(p.201)
そこでラカトシュは客観性と合理性とを進歩的な研究プログラムによって定義し、科学史上の出来事は、その内的歴史を一つながりの進歩的な問題の推移として書くことができる場合には、客観的かつ合理的なものであると認める。(p.206)
実在
実在はまさしくある人類学的事実の副産物である。もっと地味な言い方をすれば、実在の概念は人間存在に関するある事実の副産物である。(pp.214-215)
表現representation
「表現(representation)」という言葉には哲学上の過去といったものがある。それはカントの表象(Vorstellung)の訳語として使われてきたが、後者は精神の前に置くことであり、もっと抽象的な思念と並んで心象をも含む言葉である。カントはフランスとイギリスの経験論の「観念(idea)」にかわる言葉を必要としたのである。が、それはまさに私が表現によって言い現わしてはいないものである。私が表現と呼ぶものはみな公になっているものである。<中略>しかし私にとっては、公になっている言葉からなる事象は表現になることが可能である。私が考えているのは単純な平叙文――これは確かに表現ではない――ではなく、われわれの世界を表現しようと企てる複雑な思弁である。
私が表現と言うとき、まずなによりも物的対象のことを考えている――小立像、彫刻、絵、彫版、それ自体を調べること、注視することができる対象のことを。(p.217)
実在は人間の創作かもしれないが、それ決して玩具ではない。それどころかそれは人間の創作の中の二番目のものである。人間に特有な最初の発明は表現である。表現するという慣行が存在するようになるやいなや、第二階の概念の一つが後につながって現れる。それが実在の概念であるが、これは第一階に属する表現が存在する場合に限って内容を持つ概念なのである。(pp.222-223)
類似
類似性は孤立している。それは関係ではない。最初に表現があり、次いで「本物(real)」がある。最初に表現があり、そしてずっと後になって、類似性が認められるあれやこれやの点を記述することができる概念の想像がある。しかし類似性は自立し得るのであって、x、y、またはzといったなんらかの概念を必要としたり、その結果zの表現である点では似ているが、xやyの点では似ていないといつも語られねばならない訳ではない。表現を作る際にうまれ出る類似性のなまの洗練されていない観念があり、それが人々の材料の加工がより巧妙になるにつれて、なにがなにに似ているかに注目する様々な種類の方法を生み出すと考えてもばかげてはいない。(pp.227-228)
知識の成長に伴い、われわれは革命の数々を経て、異なった世界に住むようになるというクーンや他の人々からの示唆からである。新しい理論は新しい表現である。それらは異なったやり方で表現し、それゆえに新しい種類の実在がある。そうしたことは実在を表現の属性とする私の説明の単純な帰結である。(p.228)
本格的な懐疑主義
知られているものに関する像がどんなに略画的なものであっても、哲学は知識の産物である。「私の前にあるこれは手だということを私は知っているのだろうか」という種類の懐疑主義は「素朴」と呼ばれている。退歩的と描写する方が良いのではあるが。これと関連を持つ本格的な懐疑主義は、「これはヤギや幻覚ではなくて手なのか」ではなく、肉と骨として表現されている手は誤りで、これに対して原子と空虚として表現されている手はもっと正しいのではないかという、より挑発的な迷いと共に生じる懐疑主義なのである。懐疑主義は原子論や他の発生期の知識の産物である。現象と実在の間の哲学的裂け目もまたそうである。(pp.231-232)
ロックはわれわれは現象を所有し、次いで精神的表現を形成し、そして最後に実在を探求する、と考える。そうではない。われわれは公になっている表現を作り、実在の概念を形成し、そして表現のシステムが増えるにつれ、懐疑的になり、単なる現象という概念を形成する。(p.232)
科学史の問題
時代は変わった。自然科学の歴史は今日ではほとんどいつでも理論の歴史として書かれている。科学哲学は余りにも理論の哲学になってしまったせいで、前理論的観察や実験の存在さえもが否定されてきた。私は以下の諸章で、ベーコンへ帰る運動をはじめたいと思っているのである。そこでは実験科学がもっと真剣な考察の対象となる。実験活動はそれ自身の生活を持っているのである。(p.244)
われわれは、第六章に描写した、ミューオン、すなわち中間子の場合にこのような歴史の書き換えの別の例を見てきた。研究者の二つのグループが宇宙船の霧箱研究と、ベーテ=ハイトラーのエネルギー損失公式とに基づいてミューオンを検出した。今日歴史は彼らは実際には湯側の「中間子」を捜しており、それを見つけたと誤って考えた、と言っている――実際には彼らは湯川の推測を聞いたこともなかったのだが、私は有能な科学史家はひどくまずく事を扱うものだということをほのめかしたいのではなく、通俗的歴史や民間伝承の絶え間なく生じるずれに注意を与えるつもりで述べているのである。(pp.262-263)
観察についての二つの歪み
観察に関するありふれた事実が二つの哲学上の流行によって歪められてきた。一つはクワインが意味論的上昇と呼んでいるものの流行である(事物について語ってはならない、事物について語る方法について語れ)。他の一つは理論による実験の支配である。前者は観察についてだけではなく、観察言明について考えよと言う――観察を報告するのに用いられる言葉について。後者はあらゆる観察言明は理論に負荷されていると言う――理論化に先立つ観察は存在しない。(p.271)
理論と観察の区別の否定について
観察と理論の区別がそんなに重要なものになったとすれば、それが否定されることになるのも確かだった。否定の二つの根拠がある。一つは保守的であり、その傾向において実在論的である。他の一つはラディカルであり、よりロマン的であり、しばしば観念論へと導く。一九六〇年頃、両方の種類の反応が噴出した。(p.276)
実証主義――(理論と観察の明確な区別)
――保守的反応(実在論)――観察可能な存在と観察不可能な存在との間に重要な区別は存在しない。
――ラディカルな反応(観念論的)――すべての観察言明は理論負荷的である。(p.278)
「理論負荷的」…1959年N・R・ハンスン『発見のパターン』
行なうことによって学ぶ
これが最初の教訓である――すなわち顕微鏡を通して見ることは、単に眺めることによってではなく、行うことによって学ぶものなのである。バークリーの一七一〇年の『視覚新論』にもよく似たあることが述べられているが、この本によれば、われわれは世界を動き回りこれに介入するというのはどういうことなのかを学んだ後にはじめて三次元的視覚を持つのである。触角はわれわれの二次元的であると言われている網膜像に関係づけられるが、この学習された情報獲得が三次元的知覚を生み出す。同様にスキューバ・ダイバーは泳ぎ回ることによってはじめて海という新しい環境の中で見ることを学ぶ。本源的視覚に関してバークリーが正しかろうが正しくなかろうが、幼児期以降に獲得された見る新方法は、単に受動的に眺めることではなく、行なうことによって学習することを必ず伴っている。(p.309)
初期の顕微鏡
最初の顕微鏡は諸世界の中に諸世界を示すことによって大変な大衆的興奮を惹き起こしたのではあるが、フックの複合顕微鏡以降、技術が著しく改良された訳ではないことに注意するのが重要である。また最初の観察の興奮の後に新しい知識が続いて沢山生まれたのでもない。顕微鏡はイギリスの淑女らと紳士連の玩具となった。その玩具は顕微鏡と植物の世界、動物の世界から選ばれて固定された標本の箱からできているのが普通だった。固定されたスライドグラスの箱の方が顕微鏡それ自体の買物よりも高くつくのも無理からぬことであったことに注意せねばならない。人々は単に池の水の一滴を細長いガラスの小片に落とし、それを見たというのではなかった。最も熟練した者を別にすると、だれにとってもどんなものであれ見るためには出来合いの固定スライドグラスを必要としたのである。実際、光学収差を考えると、そもそも複合顕微鏡を通してだれかがなにかを見たということは驚くべきことである。(pp.313-314)
エルンスト・アッベと顕微鏡の視覚
とはいえ、ある人々にアッベを信じるのを躊躇させたのは商業上の、もしくは国家的な競合関係だけではない。私は先に引用[A]はゲージの『顕微鏡』の中で用いられていることに注意した。この教科書の第九版(一九〇一)の中で著者は顕微鏡の視覚は「肉眼、望遠鏡、写真機と同一である」という代案となる理論にも言及している。「これは独創的な見解であり、今日では多くの人が支持している見解である。」第十一版(一九一六)ではこれは修正されている――「ある大変素晴らしい諸実験がアッベの仮説の正確さを示すために工夫されたが、多くの人々が指摘したように、顕微鏡の通常の使用はこれらの実験の中で実現される諸条件を伴ってはいない。」これはラカトシュが退歩的な研究プログラムと呼んだものの見事な一例である。この一説は第十七版(一九四一)になっても、本質的な点では同じものにとどまっている。このように、引用[A]が述べているように、「顕微鏡的視覚と巨視的視覚の間にはどんな類似もないし、またあり得ない」と語るアッベの学説に対しては実に根深い反感があったのである。(pp.319-320)
実在論の証明
人類が決して知ることのないだろう無数の存在と過程が存在する。ことによるとわれわれが原理上知ることのできない多くのものが存在する。実在はわれわれよりも大きい。仮定された、あるいは推論された存在の実在性に対する最良の種類の証拠はわれわれがそれを測定すること、あるいは他の方法でその因果的な力を理解することを開始し得るということである。次にわれわれがそうした種類の理解をもっているという最良の証拠はわれわれがあれやこれやの因果的なつながりを利用して、かなりあてになる仕方で働く機械を、無から組み立てることに着手することができるということである。それゆえ、理論化ではなく、工学技術(engineering)が存在に関する科学的実在論の最良の証明なのである。(pp.447-448)
*作成者:篠木 涼