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『主婦論争を読むII 全記録』

上野 千鶴子 編 19821210 勁草書房,iv+288p. ISBN: 4326650338


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*このファイルの作成:村上潔(立命館大学大学院先端総合学術研究科・2004入学)
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/mk01.htm

上野 千鶴子 編 19821210 『主婦論争を読むII 全記録』,勁草書房,iv+288p. ISBN: 4326650338 2270→3990 [kinokuniya] ※ *r

◆磯野 富士子 19600410 「婦人解放論の混迷――婦人週間にあたっての提言」
 『朝日ジャーナル』1960-04-10→上野編[198212:002-022]
水田 珠枝 19600925 「主婦労働の値段――わたしは”主婦年金制”を提案する」
 『朝日ジャーナル』1960-09-25→上野編[198212:023-043] ※
◆渡辺 多恵子 196010 「労働者と母親・主婦運動」
 『学習の友』1960-10→上野編[198212:044-053]
◆畠山 芳雄 196010 「主婦経営者論」
 『婦人公論』→上野編[198212:054-065]
◆高木 督夫 196012 「婦人労働における労働婦人と家庭婦人」
 『思想』→上野編[198212:066-087]
◆磯野 富士子 196102 「再び主婦労働について」
 『思想の科学』1961-02→上野編[198212:088-106]
◆和田 照子 19610409 「主婦意識からの脱出――一夫一婦と女性解放」
 『朝日ジャーナル』1961-04-09→上野編[198212:119-126]
◆毛利 明子 19610409 「「労働力の価値」と主婦労働――”出稼ぎ賃金”構造のなかで」
 『朝日ジャーナル』1961-04-09→上野編[198212:107-118]
◆朝日ジャーナル編集部 19610409 「磯野論文をめぐって」
 『朝日ジャーナル』1961-04-09→上野編[198212:127-131]
◆武田 京子 197204 「主婦こそ解放された人間像」
 『婦人公論』1972-04→上野編[198212:134-149]
◆伊藤 雅子 197206 「主婦よ「幸せ」になるのはやめよう」
 『婦人公論』1972-06→上野編[198212:163-179]
◆村上 益子 197207 「主婦の自由時間こそ問題――「主婦こそ解放された人間像」をめぐって」
 『婦人公論』1972-07→上野編[198212:180-195]
◆武田 京子 197208 「ふたたび主婦の解放をめぐって」
 『婦人公論』1972-08→上野編[198212:196-211]
◆神田 道子 19740915 「主婦論争」,『講座家族 8』→上野編[198212:214-230]
駒野 陽子 197612 「「主婦論争」再考――性別役割分業意識の克服のために」,『婦人問題懇話会会報』→上野編[198212:231-245] ※

上野 千鶴子 19821210 「解説 主婦論争を解読する」
 上野編[198212:246-274] ※ *r


 
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《第二次主婦論争》

■磯野富士子 19600410 「婦人解放論の混迷――婦人週間にあたっての提言」
 『朝日ジャーナル』1960-04-10→上野編[198212:002-022]

「しかし主婦労働無価値説の帰結として、主婦はもっぱら消費係りとされ、「主婦と働く婦人」というように区別されたり、「妻は外に出て直接生産に従事しなければ、夫と対等になることはできない」といわれるのでは、主婦は婦人解放から取りのこされた前代の遺物のように肩身がせまく、劣等感になやまされるのである。それに、主婦の仕事の有用性は以前から認められているものの、それを強調することは、とかく妻や母のつとめという天職論とも結びつきやすいので、できることなら主婦労働は有用であって、しかも価値を生む方がありがたい」(pp.7-8)

「もちろん妻は扶養を受けることによって、実際には夫の収入の分け前にあずかっているわけだが、主婦が自分の労働に対して当然の報酬を受けているのか、それとも夫に養われているのかによって、主婦の地位に大変なちがいがでてくる」(p.8)

主婦の家事労働は価値を生まない――「問題は家事労働にあるのではなく主婦にある」(p.9)

主婦労働無価値説:妻に独立の人格を認めない立場

「主婦労働は価値を生まないというのではなく、生んでも認められないという意味だったのだろうか。それならば、主婦はまず自分が作り出した価値に対する報酬が、どこにまぎれこんでしまったのかを捜す必要がある」(pp.12-13)
――「主婦労働無価値説は、資本家にとってこそ都合のよい理論であろう」(p.13)

「なぜ主婦の労働力だけが人間の労働力のなかで剰余価値を生まないのか」――「主婦が資本家にとって生産的な労働者でないのはたしか」だが、それは「必ずしも主婦が本質的に非生産的な存在であることを意味しない」(p.14)


「もちろんこれは、独身の婦人や働かなければ生活できない婦人、あるいは家事労働を適正な報酬を払って他人に任せて自分の仕事を持とうとする婦人、家事と仕事を両立しうる婦人が、それぞれの仕事を持つのを否定するものではない。この権利は絶対に阻まれてはならない(…)。しかし夫の低賃金を補う共かせぎが、妻が働いているということの誇りによって美化されたり、「ただの主婦」では一人前ではないというだけのために、無理に就職して健康を害したりするような状態が、このまま推進されてよいのだろうか」(p.14)

* 下線部は原文の傍点部を示す


■水田珠枝 19600925 「主婦労働の値段――わたしは“主婦年金制”を提案する」
 『朝日ジャーナル』1960-09-25→上野編[198212:023-043]

相対立する女性解放の方法
(1) 職場進出論
(2) 家庭尊重論
「女性は家事労働に従事しているために、職場で男性と同等の能力を発揮しえないし、たとえ全体としては男性と同じだけ働いても、家事労働の部分について賃金は支払われない。だから、職場進出論の支持者も、家事労働の意義を無視してすすむことはできないだろう」(p.27)
「女性解放における職場進出論と家庭尊重論は、解放の方向については意見を異にしているのだが、いずれも女性の経済的独立を求め、そしてそれを阻むものが女性に課せられた家事労働であるという認識については、一致している」(p.33)

「ただはっきりしていることは、家族関係の存在が、資本主義的生産様式にとって障害ではなく、むしろ好都合だったということである」(p.35)

主婦の家事労働の裏付けによる経済的独立の方法
(1) 賃金を夫とともに要求する
(2) 夫の賃金を夫婦の共有財産とするか、賃金の何割かを主婦個人の所得として明示することを要求する
(3) 社会全体が主婦の無償奉仕にたいし、年金といったような制度で補償する ――主婦労働による経済的独立をもとめるには、これがもっとも有効な方法ではないか

「しかしながら、さいごに明確にしておかなければならないのは、主婦年金制は、女性解放の問題を終局的に解決する手段ではないということである。女性の経済的独立の目標は、女性がいくらかの所得をもつということではなく、女性が自分で独立の生計を営めるようになることなのである。ところが、年金だけでそれを実現するのは困難であるばかりか、生産力の上昇に伴う家事労働の社会化と、共かせぎ家庭の増大とは、年金制を裏付ける主婦労働の意義をしだいに縮小していく」(p.41)

「女性解放のふたつの道の対立は、女性のおかれた立場や感情の相違からきているというよりは、女性解放そのものに内在する問題なのである」(pp.42-43)


■渡辺多恵子 196010 「労働者と母親・主婦運動」
 『学習の友』1960-10→上野編[198212:044-053]


■畠山芳雄 196010 「主婦経営者論」
 『婦人公論』1960-10→上野編[198212:054-065]


■高木督夫 196012 「婦人労働における労働婦人と家庭婦人――磯野論文の問題点」
 『思想』1960-12→上野編[198212:066-087]

磯野論文に対する、労働婦人の側からの批判的反応
「当然ながら、その論調の主流は、婦人問題の原因を基本的には資本主義の矛盾としてとらえ、それへの抵抗の視角から問題をとらえるべきだとする立場である(…)。そこには、磯野論文が「主婦労働は価値を生む」とし、婦人は必ずしも職場に進出することによって解放されるものではないとした主張に対しての、職場で苦闘する婦人達の反撥があった(…)」(p.70)

「(…)磯野氏は、資本制家内工業のように、デ・ファクトとしての賃労働関係を、擬似的に主婦の家事労働にあてはめようとされる。つまり私的作業と社会的労働の本質的差異を無視して賃労働関係あてはめの観念的操作によって、主婦の家事労働を意味づけされようという訳である。この点、主婦の賃労働者化を解放の道ではないと否定しながら、論理的には、その逆に賃労働者化を肯定することにならざるをえない」(p.74)

「磯野論文の強みも弱みもその点にある。強みとは、「いえ」の内の近代化を基礎とし、そこから問題を考えようとする姿勢である」(p.75)……主婦の「いえ」の中の具体的な痛覚から出発する

弱み:「磯野氏は婦人の賃労働者化がそのまま解放の道なのではないと、正しくも近代化論を否定しながら、しかも本質的にはそれを否定しえず、逆に「いえ」の中へ持込まれた。婦人の賃労働者化の批判は、近代化論の止揚、体制批判の問題に当然展開するべきであったのに、それが「いえ」の内の近代化論に逆もどりしてしまっている」……「主婦の権利の確立(しかも家事労働の評価を基礎にしての、という条件がついた)という立場に矮小化されてしまう」(p.76)

「何故磯野氏の主張が家事労働価値生産説の形をとり、かつ婦人の賃労働者を一応たてまえとして否定したかという点を考えねばならない。民主主義意識や権利意識の展開が、主婦の活動の発展の中で、本来社会的なものへひろがってゆくのに対し、それが家事労働価値生産説として「いえ」の中に凝縮するのは、(…)実際的には家事労働に専従する主婦の階層的立場と結びついているためである」(p.80)……いわゆる新中間層

家事専業主婦の、労働主婦に対するある種のコンプレックス
「家事労働価値生産説はまさにこのコンプレックス治療剤の役割を果すといってよい」(p.82)

「しかし、問題は、労働婦人の側から批判を加えることだけにあるのではない。むしろ、磯野氏の主張が、一定の階層の立場にたった主張であり、それが一つの勢力となりうるものであることを直視し、その主張の中に、労働婦人自らがその階層を充分にとらえていない自らの弱さの原因を発見し、そのことを通じてその階層の主婦を統一運動の中に組み入れてゆく路線を打立てることが重要であろう」(p.85)


■磯野富士子 196102 「再び主婦労働について」
 『思想の科学』1961-02→上野編[198212:088-106]


「私の問題は、「主婦労働(主婦の家事労働)それ自体を意義づけることなしに、それを独立した個人の労働として考えることはできないか?」ということである。(…)私が主婦労働は「価値を生むか」という専門外の領域にあえて首を突っ込んだのは、主婦労働が尊い仕事であるか否かとか、それをするのがよいとか悪いとかいう前に、主婦労働とは一体何なのかを、もっとはっきりさせたいという模索の一つの現われにすぎない。そして、ある労働が価値を形成することと、その労働自体の意義とは別の問題であるし、また、もし主婦労働が価値を生むとすれば、それによって主婦の地位を固定することは、理論上不可能であると思われたからである」(p.89)

「生活資料の価値が下っても、しばらくの間は主婦の労働強化によって、BをB'にする過程を自ら行った方が有利かもしれない。しかし、やがては彼女の労働の支出はそれが作り出す価値に対して、割のあわないものになる。つまり、資本家に剰余価値を払ってもなお、「買った方が安くつく」生活資料がふえてくる。こうして、資本主義社会においても、家事労働は消滅に向う」(p.94)

◇主婦が必要でなくなった時、あるいは主婦の仕事の軽減に応じて、妻が何をなすべきか
・職場進出が一つの道
だが、「経済的に余裕があれば、(…)もっと直接に政治的運動や社会的な仕事に参加することが考えられてよい」(p.95)

「また「主婦労働」と「妻の役割」を分化することも重要である。従来は妻の役割と主婦労働とは、未分化に扱われてきたが、主婦労働が他人に委せられ、あるいは機械化などによって減少するという事実をみれば、家事労働が妻の地位に内在する活動ではないことがわかる」(p.96)

「つまり私が主婦労働に「価値論」を持ちこんだ理由の一つは、主婦の家事労働が持つ労働としての機能を、そのシンボルとしての機能と分離し、家事労働の形態に関する価値判断を離れて、人間労働として説明できないかという点にある」(p.97)

育児休暇などの条件整備
「(…)「職場進出」と「既存の家庭の強化」とは、婦人問題に内在する二者択一ではあるまい。この二つを動かしがたい宿命と見なすなら、「職場進出論」についてゆけない婦人たちは、自動的に「既存の家庭の強化」にたてこもらざるをえなくなる」(p.105)

* 下線部は原文の傍点部を示す


■毛利明子 19610409 「「労働力の価値」と主婦労働――“出稼ぎ賃金”構造のなかで」
 『朝日ジャーナル』1961-04-09→上野編[198212:107-118]

「一社会の平均賃金の高低は、婦人の地位とも、主婦労働の実質的評価とも深い関係がある」(p.109)

「労働力の価値を規定する労働が、労働力を再生産するために必要な労働というなら、主婦労働は当然その労働にはいるはずだが、労働者が必要とする生活手段の価値と規定されると、労働力を生産している労働は、主婦労働などの直接的労働とは区別された、間接的な商品生産労働に還元して考えられているようである」(p.110)

「理論家がこれに答えようとするなら、労働力という商品は、同じく商品とはいっても、他の一般商品とは本質的に違うことを明らかにしなければならないのではないか。主婦が生産していると考えられる労働力という商品が、他の商品とはまったく異なったものである点がはっきりすれば、主婦労働がなぜ労働力の価値を規定しえないかもわかるだろう」(pp.110-111)

労働力の商品化――日本のような特殊な資本主義社会では実現しえない cf.「出かせぎ賃金」
低賃金を、都市の労働者たちは妻や母の家事労働(自家労働)で補う

「賃金の低い社会ほど、主婦のより多くの労働が労働力の再生産のために費やされねばならず、反対に高い賃金なら、主婦の手をあまり借りずに労働力が再生産できる。以上によって、主婦労働と労働力の価値という問題は、賃金問題の一環として理解されなければならないことの説明ができたかと思う」(p.115)

日本の家事労働=「家計補助労働」

* 下線部は原文の傍点部を示す


■和田照子 19610409 「主婦意識からの脱出――一夫一婦と女性解放」
 『朝日ジャーナル』1961-04-09→上野編[198212:119-126]

「家庭は育児と教育にとって絶対不可欠かどうか、この問題こそ当面する女性解放の本質的問題である」(p.120)


■朝日ジャーナル編集部 19610409 「磯野論文をめぐって」
 『朝日ジャーナル』1961-04-09→上野編[198212:127-131]


《第三次主婦論争》

■武田京子 197204 「主婦こそ解放された人間像」
 『婦人公論』1972-04→上野編[198212:134-149]

なぜ主婦のリブグループがいないのか

主婦の2つの意見
(1)「リブの言っていることはわかるが、もはや私たちにとっては手おくれなんだ」:自分たちはもう「下りてしまった女」なのだと、あきらめとコンプレックスの中に差別の痛みを埋没させる……現在おかれた立場から抜け出したいと願いつつそれを許さない条件が多すぎるために、あきらめの上にたった現状肯定=消極的な肯定をしている。 (pp.137-138)
(2)「女性解放の目ざすところが、ほんとうの意味での人間解放になるか、現時点で比較するなら、人間として解放されているのは、むしろ主婦のほうなのではないか」……主婦のほうが、まだしも人間らしい生活をしているのではないかと、積極的に主婦という立場を肯定。家事、育児を女なるが故に強いられる役割としてではなく、たまたま選んだ仕事として受けとって、より人間らしく生きる方をとる。 (p.138)

主婦は百パーセントの生活人間

「私たち主婦は、現代の社会に存在するどんな人間よりも、より人間的な生き方をしている。あるいは、それができる状況におかれていると、自身を持つことである」(p.147)


 世の中のすべての人間を、現在の主婦のような人間らしい生活の線にまでレベルアップさせるためにはどうしたらいいのか。そしてその生活を、確固とした裏づけのある安定したものにするにはどうしたらいいのだろうか。
 「生産」より「生活」に価値をおくという主婦の論理を、男性も働く女性も巻き込んで押し広げていくことが、そのためには、まず第一になされねばならない。 (pp.147-148)

「主婦こそ、来るべき豊かさと余暇にみち、情報と知識が生活の中心的役割を果たすといわれる脱工業化社会の未来を先どりして生きる人間なのである」(p.149)


■林郁 197205 「主婦はまだ未解放である――「主婦こそ解放された人間像」を批判する」
 『婦人公論』1972-05→上野編[198212:150-162]


■伊藤雅子 197206 「主婦よ「幸せ」になるのはやめよう」
 『婦人公論』1972-06→上野編[198212:163-179]


■村上益子 197207 「主婦の自由時間こそ問題――「主婦こそ解放された人間像」をめぐって」
 『婦人公論』1972-07→上野編[198212:180-195]

主婦リブ
「自由時間」

「武田氏の論理には、人間性を不断に質的に向上させて行く発展の論理、従って人間性形成の労働の論理が欠けているのである。要するに武田氏の自由時間論は、寄生者の気ばらしの論理である」(p.194)


■武田京子 197208 「ふたたび主婦の解放をめぐって」
 『婦人公論』1972-08→上野編[198212:196-211]


 つまり、経済力を持つ、持たないだけの論議では解決できない新しい問題が、婦人の生き方の問題として、いやもっと大きく人間の生き方の問題として出てきている。
 「人間らしく生きるとはどういうことなのか」、そのことがはっきり把握されていないかぎり、悩める主婦が家庭を出て生産労働についたからといって、また、働きすぎてくたびれた主婦が家庭に戻ったからといって、結果は同じことである。 (pp.198-199)

「生産労働が人間にとって不可欠のものであるならば、少くともそれ自体にも楽しみを見出せるようでありたい。そのためには労働が人間優先、生活優先の論理と結びつく必要があろう。人間の生活に必要なもの(サービス)が、人間の生活にとって必要なだけ、人間にとって必要なやり方でつくり出される、そういう形で労働に生活の論理を持ち込むことで、私たちは「生産」の主人公となることができるのではないか」(p.201)

「前にも述べたように、職業を持つ主婦たちが、働いて得るものに比べて失うものの大きさを嘆き、生活奪回を叫んでいるとき、あるいは、働くことが決して婦人の解放、人間の解放につながらないことに働くものたちの間から疑問が出ているとき、働くことが魔法の鏡のように生活の中の悩みやみにくいものを消し去ってくれるかのような幻想を、働いていない主婦たちに与えるのは、危険なことではないかと私は考える」(p.203)

「主婦がもし解放像をめざすなら、自らの抑圧状況を「抜け出す」ことではなくて、抑圧するものを取り除くことが必要なのである。もし、抑圧状況をそのままにして、職業を持つとか、自己主張の場を外に持つとかいうことを目ざすなら、職業や自己主張の場が、抑圧された生活の気晴らし以外の何ものでもなくなってくる」(p.206)


「自己目的的人間像」――人間解放像にとっては、経済力が必要条件 → 「手段ではあるが不可欠の生産労働を生活の中に組み込んで、しかも「生活」を失わない方法」(p.209)を考える。

「確かに家庭にいる主婦たちは、いまのところ底辺を支えるパート労働、内職労働という形でしか生産労働への参加の道は開かれていない。しかしながら、目ざされる形での労働はもっと正規の労働者としての労働である」(p.210)
・パート労働といった形での産業界の要請をことわる
・働く主婦を初めとする男性をも含めた働く者たちに「生活奪回」を叫んでもらう
・生活上の必要に迫られている主婦:正規の労働者との共闘でパート労働者を正規労働に組み込む運動をやる

専業主婦と働く主婦たちとの共闘 男性を捲き込んだ働きかけ
「そのときこそ、「働かせる側」も「生活」の価値を認識せざるを得なくなるだろうし、どうしても「生活」を失わせない形で働いてもらう方向で労働力の再配分、再編成を考えざるをえなくなるだろう。それは、われわれの目ざす完全雇傭と労働時間短縮なしには考えられない」(p.210)

「家事労働も社会化、合理化によって時間短縮され、楽しみを伴った生活そのものと言えるような家事労働の部分を、家族全部(夫も子どもも)で分け合う方向にもっていく必要がある」(p.211)


《主婦論争研究》

■神田道子 19740915 「主婦論争」,講座『家族』8→上野編[198212:214-230]

◇初期論争
(1)職場進出論 ……石垣・嶋津・田中
 a.経済的自立の手段(男からの自立) b.社会主義婦人論(社会変革を前提に)
 [欠点]家庭の内容にふれられなかった
(2)家庭重視論 ……坂西 大熊
(3)主婦運動論 ……平塚・清水・丸岡

◇後期主婦論争
磯野:従来の革新的女性解放論イコール職場進出論にたいする批判
(1)主婦労働は経済的価値を生むか ……黒川・高木×毛利
(2)主婦の経済的自立の具体的対策 ……水田・毛利
 「主婦の家事労働を通じて経済的自立を獲得しようとする考え方には非常に無理があり、女性解放という点からみて、問題が多かった」(p.221)
(3)主婦の社会運動と職場婦人の運動との関連
 主婦による組織的社会運動
 職場婦人と家庭婦人それぞれの運動の連帯

主婦論争の中心は、余暇を手に入れた中間層の主婦たち

「革新的女性解放の方向は結論がでないままに、職場進出論・主婦運動論の二つのルートが並立し、どちらを選択するかは個人の自由であるという傾向が強まった」(p.228)
[マイナス面]二つの方向が段階的な意味をもっていること(現状では両論が並列して有効なのだという視点)が明確にされなかった(本質論として並列論は成立たない) ← 実質的な経済的自立についての議論が十分に深まらなかったことが原因


■駒野陽子 197612 「「主婦論争」再考――性別役割分業意識の克服のために」,『婦人問題懇話会会報』→上野編[198212:231-245]

性別役割思想の成立
「日本で性別役割の意識が出てきたのは、日露戦争後、資本主義がある程度の段階に達し、工業化、都市化の進行とともに、雇用労働者が増え、サラリーマン家庭が誕生して以降のことである。「主婦」という言葉が文学や雑誌に表われるのは明治四〇年代。大正期の資本主義の成熟と、大衆ジャーナリズムの興隆の中で、「青鞜」に端を発した女権思想の後を追って、主婦という階層の意識化は近代化のひとつの現われとして登場してきた」(p.233)

◇前期主婦論争――職業か家庭か
(1)性別役割肯定型 (2)職業進出必然論 (3)市民的婦人運動論
◇後期主婦論争――家事労働の経済的評価をめぐって


 主婦論争は、一口にいえば性別役割分業を肯定し、その中で主婦の権利を主張しようという立場と、主婦労働無価値説に立って、女性の経済的自立の必要を主張する立場の論争であった。
 その中で確認されたことは、
(1)主婦労働に経済的価値を見出すことは賃金理論上不可能。
(2)資本主義の発展は必然的に女性を職場に駆り出し、低賃金労働者として搾取する状況を作り出す。
(3)日本の低賃金構造は、主婦の無償の家事労働を基盤としてなり立っている。
(4)消費者運動、福祉要求などの市民運動は女性を低賃金労働者におとしめている同じ資本の意図に対しての闘いであるから、働く女性の男女同一賃金要求、賃上げ要求などと無縁ではなく女性労働者と、社会変革をめざして闘う市民的主婦とは連帯できる。 (p.241)

主婦論争の弱点:家事労働=主婦労働という性別役割分業の視点から脱けられないこと


 
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上野 千鶴子 19821210 「解説 主婦論争を解読する」
 上野編[198212:246-274] ※

労働が社会化されても性別役割分業はなくならない

性分業が性差別につながるか
「『産む性』であるという『女の特性』は、(1)[事実上]ハンディではあるが[道義的]に差別的な理由としてはならないのか、(2)全く差別の根拠にならないのか、それとも(3)むしろもっと高く評価されるべきなのか。それに伴って、性分業の水準は、現状維持されるべきなのか、極小化されるべきなのか」(pp.249-250)

「『家』制度は『家庭』の歴史的特殊ケースにすぎない。『家』制度を否定することは、『家庭』を否定することを意味しない」(p.251)

上野の立場は、「人間的自由の砦としての私生活の拠点=家庭を擁護しつつ、その内外での性別役割分業を否定する立場である。この立場に比較的近いのが、第三次主婦論争の口火を切った武田京子(「主婦こそ解放された人間像」)である」(p.262)

◆女性解放の戦略
(1)市場化と社会化というふたつの家庭解体論に抗して家庭を擁護し
(2)「生産」特化と「生活」特化というふたつの特化に抗して性別役割分業を否定する

前者:「市場化的家庭解体論は、女性を『私的抑圧』から『社会的抑圧』へ押しやるだけで、性差別の現状を少しも変革しない。他方社会化的家庭解体論は、『家庭』を極小化することによって市民的自由の抑圧をもたらす。これらの立場に対しては、家庭を抑圧の拠点としてではなく解放の拠点として問い直す作業で答えたい」(pp.266-267)

後者:「人間の一面的な属性へのあらゆる『特化』は、人間の全体性の疎外であるという立場で答えたい。『生活』特化した女が『生産』から疎外されてきたように、『生産』特化した男もまた『生活』から疎外されてきたのである」(p.267)

性別固定を避け、「能力と好みにしたがって」役割分業
 →×
役割分業を肯定するか否定するかの「選択の自由」を女性に認めよう
 →? 「選択の自由」は、専業主婦と有職主婦の相互尊重をもたらすよりは、かえって両者の間の分断と相互差別をもららす

「専業主婦と有職女性の間の分断と相互差別を止揚する途は、『生産』特化も『生活』特化もともに拒否すること、人間の生活には、働くことも生活することも、ともに同時に確保される必要があることを認めることである。この視点からはじめて、『生産』から疎外された専業主婦の痛みも、『生産』へと疎外された有職女性の、さらに男性の痛みも、共に分かち合うことができるようになるだろう」(pp.270-271)――人間の全体性の回復の問題


UP:20050709 http://www.arsvi.com/b1900/8212uc.htm REV:0711 20060108
女性の労働・家事労働・性別分業
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