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『めぐり逢うべき誰かのために――明日なき生命の詩』

石川 正一・石川 左門 19821215 立風書房,287p.

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last update:20160124

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■石川 正一・石川 左門 19821215 『めぐり逢うべき誰かのために――明日なき生命の詩』,立風書房,287p. ISBN-10:4651140084 ISBN-13:978-4651140087 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ n02. md

■目次

序章
第一章 たとえ短い命でも
第二章 主にあって完全燃焼をめざす
第三章 新しい日々の歩みの始まり
第四章 めぐり逢うべき誰かのために
第五章 神さまの台本のままに
終章
あとがき

■著者

石川正一
 昭和30年11月13日=東京生まれ。幼稚園のころ、筋ジストロフィーの宣告を受け、10歳の夏に歩行不能となる。14歳の初夏、父親から「20歳までしか生きられない」事実を知らされ、残された青春の日々に、みずからを完全燃焼させて生きぬこうと決意する。その後、身体の衰えに比し、精神の成長いちじるしく、奇跡的にも“20歳の壁”を超すが、昭和54年6月=23歳7ヶ月で、ついに神に召された。
石川左門
 正一君の父親(昭和2年8月15日=東京生まれ)。早大・政経学部中退。息子の疾病を知り、昭和42年=運輸業・副社長の職を辞し、筋ジス患者運動に身を投ずる。以後、福祉運動に専心し、社団法人・東京進行性筋萎縮症協会を設立、理事長に就任。患者の純粋な立場を中心に据えた難病・福祉・検診事業・地域ケアの体制づくりに奔走し、各種団体の重責を歴任、兼運転手として現場をかけずり回り実績をつみ重ねている。著書に『死と向かい合う看護』(川島書店刊=大段智亮氏との共著)あり。

■引用

 「正一が立ち向かう人生の山道は険しく、荒野を吹きすさぶ風は厳しい。それを生きぬく力は、他人から借りてきたり、他から借りてきたりできるものではなく、正一自身の生命力や人生観の中から、自分で汲みだしてくる以外はなかった。生きる力が信仰から生まれるとするならば、それを正一は、自分で自分のものにしなければならない。その時に、親として正一にしてやれるものがあるとすれば、それは、信仰に立って生きる私自身の姿を、正一に見せることであった。」(☆→石川・石川[1982:31])

 「(…)すべての患者運動がそうであるように、運動が発展すると、必ずひとつの壁にぶつかるのである。東筋協の場合も、組織が大きくなり、運動の規模が広がり、その社会的な影響力が増してくると、患者の親たちの片手間運動では処理し切れないほどに、運動の負担が重くなって大きな壁にぶつかっていった。」(石川[1982:32])

 「本物の福祉の心に目覚める動機は、募金箱に入れるか入れないかに左右されるほどの、軽い事柄ではなく、福祉の貧困の事実や実態に触れて初めて人間として何かをしないではいられないという、衝動にかられた時におのずと生じてくるのではないだろうか。」(石川[1982:109])

  「われらは同情と愛を拒否する」という、ある障害者団体の宣言。それは自分に対してか健常者に対してか?もしそれが自分自身にではなく外に向けたものであり、健常者の差別意識や思い上がりへの指摘であるとするならば、正しいか否かの問題としてではなく、障害者問題を広く人間の生きる問題として健常者が受けとめ、問題を共有し、共に担う関係を成立させることは難しい。」(石川[1982:163-164])

 「最首〔悟〕先生はノーブルな感じで、大学の先生で、そしてお茶の先生の資格もあり、何時も落ち着いていて穏やかだ。その最首先生ご夫妻の間に8月26日、小さな天使が生まれた。天使の名はダウン症児・星子(せいこ)ちゃん。父と母が出産のお見舞いに行った時に、最首先生は、「授かりました」とおっしゃったそうだ。その後、しばらくしてからの先生の告白。「不遜にも、私は心ひそかに、障害児の親になれたらという、思い上がった願望があったので、つい口に出てしまいました。それは、障害児の親の方々のいきいきと生きている姿が、うらやましかったからです」
 と、父もまたその言葉に対して、「お仲間になりましたね」と思わず口に出してしまったそうだ。わが家にはぼくがいて、八十八先生のところには卓君がいる。父もまた、自分の言葉に自分でショックを受けてしまったそうだ。それは、障害児の親の思いは障害児の親同士でなければわからない、という心の中の秘めた思いを、告白してしまったことになるからだ。だがそれは誤りである。つまり、障害児問題の理解を他者に促しながら、一方では、他人には所詮わからないという、排他的な矛盾した態度をとる結果になってしまったからだ。
 けれども、最首先生の不遜な願望や、父の排他的親意識は、やはりこれらは許されてはならないものだろうか。しかし、仮に、もしそれが許されないものだとしても、二人を裁く資格のある人間は、いったいどこに居るというのだろうか。」(石川[1982:168-169])
 
  「(…)正一君が20年間、難病者として生きてきて、この社会に言いたい事、訴えたい事が、いっぱいあるだろうと思うのですが、その叫びを思いきり映画の画面にぶつけてもらいたいのですよ。そうしたらこの映画が、グッと締まって生きてくると思うので、何かセリフを考えてくれませんか」。ところが監督の申し入れは、あっさりと正一に断られてしまいました。
    「……ううん、お父さん、どうも困ったな、それはぼくには言えないよ。つまりぼくは、難病患者として生きてきたのではなく、人間として生きてきたので、筋ジスを福祉の問題として言うべき事はあっても、筋ジスだから社会に言いたいことがあるという考え方は、ぼくにはないんだよ」(石川[1982:224])

■書評・紹介

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


*作成:安田 智博権藤 眞由美
UP:20160124 REV:20220831
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