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『ソシュールの思想』

丸山 圭三郎 19810715 岩波書店,384p.

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last update: 20171027

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丸山 圭三郎 19810715 『ソシュールの思想』,岩波書店,384p. ISBN:4000012207 ISBN-13: 978-4000012201 4200 [amazon][kinokuniya] ※

■内容(本書のカバー折込部分より)

近代言語学の父、ソシュール。だが広く流布したその像をこえて、彼の仕事は何処に全体像を結ぶのか。言語機能と人間精神の関係への多様な思索は、人間諸科学の方法論と認識に実体概念から関係概念へというパラダイム変換を促し、構造主義以降現代まで、20世紀後半の思想の共通基盤を造った。本書は「一般言語学講義」原資料に拠って、原初の記号理論と思想の本質を明らかにする。精密な実証的裏付けと、神話やアナグラム研究の初の紹介とは、ソシュール研究の決定版として今後の眺望を拓くことになろう。

■目次

まえがき
T ソシュールの全体像
第1章 ソシュールの生涯とその謎
 1 家族と幼年時代(1857―1869)
 2 処女作「諸言語に関する試論」と《鳴鼻音》の発見 ――中等学校時代(1869―1875)
 3 『覚え書』と学位論文――大学時代(1875―1880)
 4 パリ時代(1880―1891)
 5 ジュネーヴ時代(1891―1913)
第2章 『一般言語学講義』と原資料
 1 ソシュール批判
 2 『講義』の成立事情と、原資料
第3章 ソシュール理論とその基本概念
 1 言語能力と社会制度と個人
   ランガージュとラング ラングとパロール
 2 体系の概念
   価値体系としてのラング 連辞関係と連合関係 共時態と通時態
 3 記号理論
   言語名称目録観の否定 シニフィアンとシニフィエ 形相と実質
   言語記号の恣意性 記号学と神話・アナグラム研究


U ソシュールと現代思想
第1章 ソシュールとメルロ=ポンティ ――語る主体への帰還――
 1 ムーナンのメルロ=ポンティ批判
 2 コトバの非記号性
 3 経験主義批判
 4 主知主義
 5 真の命名作用
第2章 ソシュールとテル・ケル派 ――貨幣と言語記号のアナロジー――
 1 ソシュールの用いた比喩
 2 テル・ケル派の解釈と批判
 3 ラングの価値とパロールの価値創造
第3章 ソシュールとバルト ――記号学と言語学の問題をめぐって――
 1 バルト批判
 2 ソシュールの記号学
 3 《原理論》としての記号学と、《構成された構造》の記号学
第4章 ソシュールとサルトル ――言語の非記号性と意味創造――
 1 非記号の記号化と、記号の非記号化
 2 言語の内在する意味
 3 外示(デノテーション)と共示(コノテーション)


V ソシュール学説の諸問題
第1章 ラングとパロールと実践
 1 ラング概念の多様性
 2 パロール概念の多様性
 3 《構成された構造》と《構成する構造=主体》
 4 《構成原理》の次元
 5 個人的実践とパロール
第2章 シーニュの恣意性
 1 パンヴェニストのソシュール批判
 2 外的必然性と記号学的恣意性
 3 分節言語の自立性と恣意性
第3章 言語における《意味》と《価値》の概念
 1 二重のソシュール現象
 2 『講義』自体に見出される疑問点
 3 ピュルジェの仮説
 4 二つの実現
 5 価値と意義(シニフイカシオン)と意味(サンス)

 参考文献
 ソシュール手稿目録
 ソシュール著作目録
 事項索引
 人名索引

■引用

P. 27
言語記号そのものより記号間の差異であり、それが対立的価値の働きを構成する
P. 44
その一つは、ソシュール思想の根柢をなす《ラング》と《パロール》の概念規定に関わるものである。たとえばラングのもつ社会制度というアスペクトと示差的価値体系というアスペクトとは矛盾しないであろうか。言語はそのあらゆるレヴェルにおいて変異体(ヴァリアント)をもっているが、変異体というのは示差的機能を有していないので、社会的制約もまた蒙らないのが原則である。ところがこの拘束を受ける《結合変異体variante combinatoire》は、ラングによって義務づけられ、個人の自由にならないという意味では制度的である一方、音素とは違って弁別機能を持たないため示差的ではない。それでは結合変異体は強制されたものとしてラングに属するべきか、非示差的なものとしてパロールに属するべきか。また社会制度に対立する個人の言行為として捉えられる活動としてのパロールと、形相(フォルム)に対する実質、本質的(p. 44)構造に対する物理的顕在現象でしかないパロールとを、同一概念として扱ってよいかどうか。
いや一言にしていえば、ソシュールにおいてすべてが両義的なのは何故か。言語記号(シーニュ)の不分離性(=言語表現と意味の一体化)とその二重性(シーニュはシニフィエ、シニフィアンからなる)、言語記号の必然性とその恣意性、言語の不易性と可易性、ラングの現実性と抽象性、さらにはパロールの創造性と没意味的物質性、等々の逆説的真理はどこから生まれるのか。(p. 45)
P. 46
周知のごとく、この書が外国語に翻訳されたのは、日本における小林英夫氏のものがはじめてである。出版の十二年後である一九二八年に、『講義』は『言語学原論』という題名のもとに岡書院から訳出され、のちにその版権が岩波書店に移って一九四〇年にはその改訳新版が登場し、さらに一九七二年にその題名を『一般言語学講義』と変えた改版が出された。今でこそ現代言語学の元祖であるとともに、ひろく人間科学一般にわたる方法論とエピルテモロジーにコペルニクス的転回をもらたしたソシュールの評価は高まる一方であるが、当時はお膝元のヨーロッパにおいてさえごく一部の専門家の間でしか話題とならなかった。日本語訳についてドイツ語訳がなされ(一九三(p. 46)一年)、ロシア語訳が続き(一九三三年)、さらにスペイン語(一九四五年)に訳されたものの、アングロ=サクソン系の最初の翻訳は、一九五九年まで出されなかったのである。これに続いて、ポーランド語(一九六一)、ハンガリア語(一九六七年)、イタリア語(一九六七年)、スウェーデン語(一九七〇年)とさまざまの国語に訳される(p. 47)
P. 79
ソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化の能力およびその諸活動をランガージュlangageとよび、個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングlangueとよんで、この二つを峻別した。前者はいわば《ヒトのコトバ》もしくは《言語能力》(p. 79)と訳せる術語で、これこそ人間文化の根柢に見出される、生得的な普遍的潜在能力である。まことに、ヒトがhomo faberでありhomo sapiensであるためには、まずhomo loquensである必要があったし、ランガージュの所有は、その間接性、代替性、象徴性、抽象性によて人間の一切の文化的営為を可能にせしめた。レヴィ=ストロースLevi-Straussは、自然と文化の境界線を《道具》の存在の中に見る従来の定説をくつがえし、《コトバ》の所有のうちにこそ、人間の真の飛躍があると言っているが、この考え方はソシュールの次の発言に照応している。
 ランガージュは、人類を他の動物から弁別するしるしであり、人類学的な、あるいは社会学的といってもよい性格をもつ能力と見做される。
これに対して、ラングは一応《言語》という訳があてられる概念で、ランガージュがそれぞれの個別の社会において顕現されたものであり、その社会固有の独自の構造をもった制度である。この普遍性と個別性・特殊性とはいささかも矛盾しない。たとえば、家族制度というものはどんな人間集団にも共通して認められる普遍的な特徴となっているが、民族や時代の違いでさまざまな形をとって現われるように、ヒトのコトバも、その機能に関しては同一でありながら、別の言語共同体に属する人々(たとえばスワヒリ語を話す人々と日本語を話す人々)がお互いに伝達しあうことは不可能に近い事実を想起しよう。換言すれば、ランガージュは自然に対置された人間文化la cultureの源であり、ラングは社会との関係においれ歴史的、地理的に多様化している個別文化les culturesにあたるのである。(p. 80)
P. 88
第一のパロールは、全く物理的・偶然的な現象に過ぎず、厳密な意味では科学の対象にはなり得ないもので、データとしての意味しかもたない副次的行為である。ソシュールがベートーヴェンのソナタやシンフォニーをラングに譬え、その演奏をパロールに譬えた時のパロールがそれで、まさに「一つのシンフォニーはその演奏なしにも存在する現実である。同じように、ラングの中に与えられているもののパロールによる実行は、非本質的」であると言えよう。もし、パロールがこの現象だけであったら、《二つの言語学》の必然性は失われ、言語学はラングの言語学の同義語にならざるを得ない。事実、「生理的音声は言語学に属さず、……言語学の補助的な学である」と断言しているソシュールは、第二のパロールの重要性を知っていればこそ、パロールの言語学に言及したのであった。
第二のパロールは、ひとり類推的創造の源となるばかりでなく、個人の言行為が、あらゆる瞬間に世界の再布置化であり新しい価値の創造である点において第一のそれとは比較にならない重要性をもち、第U部で詳しく見るように、メルロ=ポンティの言う言語の創造的使用とコノテーションの問題に深く関わっているのである。
さて、この項を終える前に、もう一つだけ押さえておかねばならないのは、ラングという概念も多義的であるという事実である。先に、「一応」と断ってラングを「言語」と訳したのもそのためで、私見によれば、ラングは次の三つの概念に分けられよう。第一は、ソシュールがles kanguesと複数形で用いたラングであり、これが「諸言語」、「諸国語体」と訳される、現実の自然言語の謂である。第二は、ソシュールがla langueと単数形で用いたラングで、これは前者の一般化から帰納される普遍的事象をさす。もちろん、ソシュールも注意深く断っているように、これとランガージュを混同してはならない。ランガージュは普遍的存在とはいっても、あくまでも生得的な構造化能力であり、構造でないことはすでに見た通りだからである。
P. 89
第三のラングは、この章の後半でも再びとりあげる記号学的原理であって、ソシュール的なラング、パロールの分岐をもつ方法論およびエピステモロジークな重要性(p. 89)は、ここに至ってはじめて見出されるのである。すなわち、ラングが社会制度の一つではなく、社会が、そして文化総体が、一つのラングとして捉えられる記号学的認識であって、ホイットニーからソシュールへの矢印を、ソシュールから(ヤーコブソンを介して)レヴィ=ストロースの方向へ逆転せしめたものとも言えるであろう。(p. 90)
P. 98
さて、以上に見てきたような言語、ひいてはこれを根柢とする文化の構造(=体系)を研究するにあたっては、即自的な実体ではなく、言語主体の視点から生ずる関係の網を対象とせねばならないことは当然であろう。ソシュールはこの関係が二つの異なった次元に見出されることに気づいていた。彼によれば、「ある語が隣接し、配列され、近づけられ、他の語と接触する様式は二つあり、これを語の二つの存在の場、もしくは語同士の間の関係の二つの領域と呼ぶことができる」のである。
第一の関係は、《顕在的》な連辞関係rapport syntagmatiqueと呼ばれるものである。話された(または書かれた)言葉は、時間的(または空間的)に線状の性質をもっており、その発話内に現われた個々の要素は、他の要素との対比関係におかれてはじめて差異化され意味をもつ。英語に具体例を求めるならば、I saw a boy. という文中で、sawがseeの過去形であることがわかるのは、Iに先立たれa boyが後続しているからこそであり、もしその前にtheとかmyといったような限定辞が来ればsawは名詞の「のこぎり」という意味になってしまう。……このように個々の語のもつ意味と機能を決定する第一の関係は、与えられた一定にコンテクスト内で直接観察されるものであり、ソシュールはこの結合グループを連辞suntagmeと呼んだ。この連辞は従来の句や節および文といった統辞論上の単位のみならず、語の下位要素の結合をも含めるもので、形態論と統辞論の壁をとりはらった画期的発想である。
第二の関係は、各要素と体系全体との関係で、その場に現われる資格は持ちながらもたまたま話者が別の要素をす/でに選択してしまったためそのコンテクストから排除される要素群との《潜在的》な関係である。先に挙げた例を使うならば、I saw a boy. のsawの位置を占め得たであろうmet, hit, lovedなどという同系列要素群との関係とも言えよう。文法的にはsawの位置を占める資格がなくても、その形の上の類似からpawやlawなどを連想したり、「のこぎり」という意味のsawから、carpenter, chisel, planeなどを想起する場合がそうである。これらは現実の文には現われず、同一コンテクスト内では相互排除、対立の関係にある。ソシュールはこれを連合関係rapport associatifと呼び、のちにイェルムスレウが範列関係rapport paradigmatiqueという術語に言いかえた。この新しい術語によって、ソシュールの考えていた「イメージの帯」という豊かな発想が幾分とも損なわれたのは残念なことと言わねばならない。確かに範列も、連合関係におかれる一つの関係ではあるが、連合関係には、まだほかにいくつもの意識的、無意識的連合の絆が存在するからである。
P. 102
ソシュールの言う連辞の型とは、換言すれば諸要素の連辞結合の規則にほかならず、のちの生成文法学派が唱える《回帰的規則recursive rule》や、テニエール用語の《結合価valance》をも含めた携帯、統辞の両領域をカヴァーする規則である。
P. 110
このように、ソシュールの提起した方法によれば、時代の移り変わるさまざまな段階で、まず共時的断面に目を据え、その俯瞰図と俯瞰図とを検討することによって体系総体の変化をたどるのが通時言語学であるということになる。
P. 113
通時的一連の事実の変化のなかには、共時的体系に結果的に影響を与える関与的変化と、共時的構造に何等の影響を及ぼさない非関与的な変化があるのは何故であろうか。自然界においては、すべての変化が、たとえ個別現象の連続であっても、その体系に影響を与えずにはおかない。個の価値は、その絶対的特性によって与えられ、個の集積と運動が、全体を形成しているからである。自然の次元においては、要素の同一性と差異は、その積極的(ポジテイヴ)な辞項間に樹立される。実質が変化すれば関係が変化するのであり、差異は客観的な差異でしかない。ところが、コトバを根柢におく文化の世界においては、差異を対立化するのは人間の視点であり、主体の意識である。共時態における同一性と差異の基準は、その体系内の他の共存辞項との対立であり、この対立を現象として生み出すのは言語主体の意識以外の何ものでもない。先にも述べたように、言語体系内の単位とは、この差異を対立化する現象の同義語なのである。
P. 114
これに対して、通時的同一性なるものは、言語主体の意識を逃れている。その基準は、形相(フォルム)(=体系内の関係)ではなく、実質(シュプスタンス)の次元にある。上古時代の「つま(妻・夫)」と現代の「つま(妻)」を同一の語と考えるとすれば、これは意味の実質が変ったにも拘らず音的実質の同一性が保たれているという事実からであり、平安時代の「いたつき」と現代の「病気」を同一の語と考えるとすれば、これは音的実質が変ったにも拘らず意味の実質が同一という事実からである。いずれの場合にも、シニフィアンとシニフィエが分離された抽象の実質(シュプスタンス)における同一性であり、言語学の対象とはならない。しかも、言語とはその話し手によって史的事実である以前に意識事実である。「つま」の意味的変遷も、「いたつき」と「病気」の意味的絆も、一般に言語主体には国語学者から知らされるまでは意識されないものなのである。これはちょうど、ある音素のさまざまな変異体が、言語主体にとっては意識されず、意識されるのは音素間の対立のみであるという事情と同じであろう。ソシュールが《具体的なもの》と呼んだのは、語る主体に感じられるもののことであり、これが唯一の表意的事実、言語現実であって、触知可能な物理的・客観的事象を《具体的なもの》と考えていたのでは全くなかった事実を忘れてはならない。「言語において具体的なものは、語る主体の意識にあるものすべてのことである。」
P. 119
我々の常識は、記号(シーニュ)とは「自分とは別の現象を告知したり指示したりするもの」と考え、日常的な経験から、たとえば黒雲が嵐を予告するシーニュ、煙が火のシーニュ、三十九度の熱が病気のシーニュであるのと同じように、コトバは事物や概念のシーニュであると思いこんでいる。ところが、こうした一般常識に反して、「コトバは《記号》ではない」という認識がソシュール思想の根底にあることを忘れてはならない。もちろん、コトバは結果的には《構成された構造》内で記号の様相を呈する。しかし、コトバ以前には、コトバが指さすべき事物も概念も存在しないのである。先に見たように、言語が名称目録でないという事実は、コトバが、既に区切られた言語外現実を指し示すものではなく、一次的には、自らのうちに意味を担っているという理論を導き出す。換言すれば、言語記号signe linguistiqueは、記号と呼ばれていても他の一切の記号と異なって、自らの外にア・プリオリに存在する意味を指し示すものでは決し(p. 119)てなく、いわば表現と意味とを同時に備えた二重の存在であるということである。(p. 120)
P. 124
ソシュールは、こうしてコトバに意味を奪回した。言語記号は、自らに外在する意味を指し示す《表現》の道具であることをやめた。しかし、ソシュールはさらにこれをとことんまで追求する。この取り戻した意味の源泉は何か。これこそラングという体系に依存する価値にほかならない。そしてその価値は、一つには言語主体が樹立する差異の対立化活動から生まれ、二つにはこの実践が獲得する社会性に裏づけられて確立される。
P. 136
そもそも、ラングに内在しラングなる価値体系を支えている二つの関係、すなわち連合・連辞関係は、それぞれの領域における差異化活動の原理であると言えるであろう。連合関係は潜在的かつ同時的意識の次元、連辞関係は顕在的かつ線状的空間(時間)の次元において。言語主体の意識は、辞項の差異と関係しか知覚せず、したがって、別々に分けられたシニフィアン、シニフィエとか、個々の辞項といった、他の辞項との関係を捨象した個別抽象体は意識の領域に達しない。つまりそんなものは、もともと存在していないのである。
P. 137
先にも述べたように、形相と実質の対立はシーニュの内容面にも見られることは言うまでもない。自然言語に限って言えば、実質は音的実質と意味的実質の二つに分けられよう。そのいずれも、言語の網(形相)を投影させない限り、どこに区切りを入れようもない連続体であって、それ自体は体系と無関係な存在である。音的実質が、人間によって発声可能なすべての物質音であるとすれば、意味的実質は、人間によって体験可能なすべての非言語的現実である。ラングは、形相を通してその両面に区切りを入れ、一方では物質音を対立関係におき、他方では非言語的現実を概念化する。この対立音のイメージと概念の一体化したものが言語記号であり、言語主体はその一方だけを切り離して意識することはできない。
P. 142
言語の中には差異しかない。それでは、意味はどこに求めたらよいのであろうか。ソシュールによれば、コトバの意味は、綴織と同じように差異と差異のモザイクから生まれるのである。「言語は音のイメージと、心的対立の上に成り立つ体系である。綴織に譬えてみよう。重要なことは、一連の視覚印象なのであり、色調の組合わせが織物の意味を形成するのであって、糸がどのように染められたかというようなことではない。」……綴織の材料である糸の物質性や、その製造法、色の染め方は実質に属し、非関与的なパロールであっても、言語主体がそれらの差異を用いて対立化させ、差異のモザイクを創り出す行為は形相化活動であって、第二のパロール活動にあたる。《実質》の対置概念は《関係》であると同時に結果として関係の網を生み出す《関係づくりの活動》でもあるのだ。……ドレミファソラシドという音階は純粋な関係に過ぎず、ドはそれ自体では何の意味も担っていない。しかし示差的である。ドはレでなく、レはミではない。この音階を用いて作曲家が一つのメロディを生み出した場合に、はじめて作曲家の意味志向が分節されて一つの意味が生れる。あらかじめ分節された即自的(アン・ソワ)な意味が存在し、人がそれを発見し、《実質》を用いてそれを表現するのではない。内容面における《実質》というものは、それがイェルムスレウのパーポートという意味である限り、我々の生きられる世界、生体験、意味志向なのであって、この意味志向には、志向性はってもまだ分節されない連続体であるそこに言語の網をかける時に、この網が投影さ(p. 142)れて影が映ることも、その時に切り取られる形、影によって縁どられたパーポートが、もう一つの実質すなわちイェルムレウの言うシュプスタンスであることも先に述べた。ソシュールの《実質》の対置概念は、言語の網《形相》であると同時にこの網を投影させる活動、さらには網自体を創り出す活動をも意味していることを再度強調しておこう。ここにこそ、網状組織としてのラングと、網を裁ち直すパロールの相互依存の接点が見出され、コトバとは「関係」と「動き」であるというソシュールの命題の正当な位置づけが、《形相(フォルム)》と《形相化》という概念を通してなされるのである。(p. 143)
P. 144
ソシュールの述べた恣意性は、実は次の二つの意味を持っているのだが、そのいずれもが言語内の問題であることを忘れてはなるまい。
第一の恣意性は、記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエとの関係において見出されるものである。つまり、シーニュの担っている概念xと、それを表現する聴覚映像yとの間には、いささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であ……る。
P. 145
これに対して、第二の恣意性は、一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(?)に見出されるもので、個々の辞項のもつ価値が、その体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。具体的に言えば、英語のmuttonの価値がフランス語のmooutonの価値とは異なる、その異なり方の問題で、その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという、その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。すでに見てきたように、ラングは一つの自立的体系であって、その辞項の価値は、言語内現実の中に潜在する価値が反映しているのではない。その区切り方の尺度は、あくまでもその言語社会で恣意的に定められたものであり、自然法則にはのっとっていないのである。ソシュールはこの第二の恣意性を《価値valeur》の概念とともに導入している。
P. 147
第二の恣意性すなわち価値の恣意性は、価値を生ぜしめる二つの関係に見出される。まず潜在的な連合関係に見られる恣意性は、その体系内における概念の配分と大きさの恣意性である。……「等価性を持つと見做される単語のそれぞれは、意味内容の微妙な差異を持ち、その単語が属している言語の外では、これに対応するものはないことが明らかになる。ある言語を所有することによって観念の練り上げが条件づけられる限り、また言語がすべて独自の、他とは混同されない歴史的特性を持っている限り、観念と人間の知識は何か時間の外にあるというものではなく、時間の中に浸りきった、人間共同体の経験の結実」であり、同一共同体内の個人ですら自らの語る意味内容を正確に他人に伝えられるとは言えないのであるまいか。
P. 161
《二重分節》というのは、言表ないしは信号がそれより小さい記号に分析され(=第一次分節)、さらにその記号表現面(=シニフィアン)が、その内容面に対応因子をもたない《形成素figure》へと分析される(=第二次分析)ことの謂である。換言すれば、内容面の最小単位は必ず表現面にその対応物を有するが、表現面の最小単位は内容面にその対応物を見出さない。
P. 200
ソシュール言語学の見地に立てば、分布主義にはいくつかの根本的誤謬が見出されるが、中でも最も大きいものは単位(ユニテ)の決定に関する問題である。分布主義はその定義からして、言語の諸単位があらかじめ存在していることを前提としており、その単位を発見し分布を知って全体の構造に至ろうとするタクシノミーにほからならないが、ソシュールの考えでは、コトバの要素は決してア・プリオリに与えられているものではなく、その要素が属する体系とともにしか見出されない。これはラングなる体系が、自然の潜在構造の反映ないしは敷写しではなく、人間の参加、社会的実践によってのみ決定される価値体系であるからにほかならない。確かにラングはそれが体系である限り、不連続な単位の存在を想定する。しかしその単位(ユニテ)は、自然の中に見出される実体ではないのである。
P. 201
   確かに書こうと決意する人間は、過去に対して彼だけが持っているような何らかの態度をとるものだ。文化というものはすべて、過去を継承する。……言語活動は、過去を超えるだけに満足せず、過去を要約し、回復し、実体として保持しようとする。
人間的事実=文化の構造は、正確には客観的でない。自然が法則の宇宙であるとすれば、文化はまさに尺度の宇宙である。まず存在するのは視点であり、その視点をどう選びとり主体的に事件を構成していくかが問題なのである。人間はモノをコトに仕立てあげ、過去の事実を歴史に変える。人は世界に意味を与えると同時に世界から意味を与えられ、すべての個人は世界を全体化する。
P. 224
パロールにおけるラングの現働化は、それ自体が二重であるという事実である。パロールは、一、形相の実質化(物質的表現)と、その正反対の、二、実質の形相化(生産活動)という逆説的二面性を有している。すなわち、
一、ソシュールが《音声作用phonation》と呼ぶパロールがそれで、これはシニフィアンをラングの規範と慣用の拘束下で物質化する行為である。文字通りラングの形相を実質化する無意識的作業であって、語る主体の意志はほとんど反映されない。メルロ=ポンティの言う、言葉の経験的使用がこれにあたり、ラングを曲に譬えれば、この種のパロールは既成の曲の機械的演奏である(芸術活動の一と考えられる真の演奏については別に考えたい)。
二、ソシュールが《結合combinason》と呼んだ言語行為がそれで、のちにヤーコブソンが《選択selection》という概念で補ったパロールの活動である。これは語る主体がラングのシーニュを範列軸のなかから選びとり、それを連辞軸において、言述(ディスクール)、さらにはテクストとしてつくりあげる活動である。これはその主体が《生きられる世界》である意/味の実質を《コトバの宇宙》に変える働きであり、意味志向の状態にある《沈黙》に表現を与え、それを分節化し意味化する――すなわち形相化する行為にほかならない。メルロ=ポンティの言う、言葉の創造的使用がこれにあたり、ラングを曲に譬えれば、この種のパロールは作曲活動である。
P. 232
確かに指標indiceと信号signalをあたまから同一視することはできない。だが、指標には自然的指標(たとえば、空の呈する色と天候、三十九度の熱と病気の関係など)と人工的指標(信号やパントマイム、身振り、祭儀、さらには文学作品、造形美術作品、音楽、映画など)があるのであって、後者は必ずしもコミュニケーションの意図をもつ指標とのみは断定できず、むしろ潜在的・無意識的表意作用をもつ指標の方がわれわれの行動をより大きく左右していることを忘れてはなるまい。別のいい方をすれば、一方にコードを照らし合わせて解読decoderされる人工的指標(=信号)があり、他方にはコードのメカニスムとは無関係に解釈interpreterされる人工的指標がある。文学作品が解読されるべきものではなく解釈されるべきものであることは常識であろう。これはデノテーションとコノテーションの対立であり、ルポルタージュ言語と詩的言語、さらには、透明な《道具としてのコトバlangage-instrument》と不透明な《対象としてのコトバlangage-objet》の対立でもある。いずれも同等の資格で《文化のコトバ》である。
P. 237
著者がすでにくりかえし述べたように、言語の本質はその《非記号性》にある。すなわち、ア・プリオリに切り取られ秩序づけられている《モノ》を指さすのではなく、連続体としての意味のマグマに働きかけてこれを非連続化し、概念化し、カテゴリー化するのが言語の本来の働きである。しかし同時に、言語記号が、自らの内に含むシニフィエを通して言語外現実を指さすということもまた、記号行為を成立させるための必須条件である。この逆説的真理の解明は、ソシュールの思想を解く大きな鍵の一つであって、これこそ、「コトバはすでに区切られた事物を指さしはしないが、自らが切り取ったものを、二次的に指さす」事実の指摘にほかならず、二次的に指さされている指向対照referentは、言語によってしか生れない《コト》である点を忘れてはならない。すなわちここで言う《コト》とは、言語の網formeが意味と音のカオスpurportに投影された結果はじめて生ずる実質substanceであり、これが社会の言語外現実、すなわち《構成された構造》の実質を形成しているのである。
P. 247
ソシュールの指摘をまつまでもなく、言語とは一つの社会制度であり、いくつかの位相を持つ集団的言語活動が、そこからそれぞれの集団における主体的な価値意識が捨象され対象化されたものとしての姿を呈している。それは一言語共同体に属する個人が否応なしにくりこまれてしまう規制の構造であり、一切の生体験がそのラングのシュマによって分節され条件づけられる。そこでは《意味》はもはや人間的意識が産出するものではなく、あらかじめラングによって決定されラングに内在しているものとして人間はそれに支配される。コトバは人間の産物であり、その意味は生産し得るものであるはずなのに、我々は生れ落ちてから一度も意味生産に参加したという自覚を持たない。類としての人間の創造物であるはずのコトバが、個としての人間にとっては既成の支配物となって現われ、我々はまさに自分と無縁な意味にとりかこまれる存在となる。
P. 254
ソシュールの、そしてその記号(シーニュ)理論をさらに発展した形で継承したメルロ=ポンティの理論におけるコトバは、実はこの第二次言語であった。しかし、最後に述べておかねばならぬ最も重要なこととして、ソシュールたちの主張は、いわば一時的な日常的な言語を止揚した文学言語が第二次言語であるというのではさらさらなく、第二次言語と呼ばれているものこそ本質的なコトバの姿であり、それが惰性化したものがいわゆる第一次言語であるという認識の定立化にほかならない。コトバは本質的には非記号的なものであるため、自らの誕生と同時に意味をもつ。言語外現実に働きかけてそれを切り取った瞬間瞬間にコトバの表現が完了し、それまでは存在しなかった意味が生れるのである。この行為の過程こそ本来のパロール活動であって、ラングはその結果に過ぎないにもかかわらず、実践的惰性態と化したラングの現実は巨大なシメールとなって個人の上にのしかかっている。いわゆる第一次言語はコトバの本質を隠(p. 254)蔽しながら我々の日常の生活を支配し、規制する。コトバが記号の姿を呈し、我々はその指さす先になる既成の意味世界を追いながら一つ一つ名を覚えさせられていく。これは虚像の意味世界であるが、それが虚像であることは一般には意識されない。一見そこに見出される必然は、自然的動物である人間を支配する自然の法則であるかのようにさえ思われる。生れ落ちたときから制度化された言語現実の中に身を置き、ラングによって外から規制されながら主体的価値意識を抑圧されている我々は、その拘束が《自然的必然》と同質のものと考えてしまい、そう錯覚することによって自らの内なる自然をも蝕んでいく。(p. 255)
P. 268
ラングの多様性の中でも、さらに問題をしぼってみると、社会制度としてのラングと記号学的価値体系としてのラングという二つのアスペクトが浮かび上ってくる。
まずラングとは、ホイットニー的な意味での社会制度である。個々の言行為であるパロールに対してラングとはこの社会的条件装置であり、人間のもつ潜在的言語能力の社会的産物である。それは集団の同意によって認められてはじめて成立し、個人は社会生活を通していわばこれを受動的に蒙るものである。ラングとは、ランガージュ能力の行使を個人を許すべく社会が採り入れた、必要な契約の総体である。したがって、社会制度としてのラングのもつ本質は、個人への規制の中にこそ最も顕著に見出される。パロールが個人的な意志と知能の働きであるのに反し、ラングの方は社会の制約という形を呈している。個人はひとりでこれを創ることも変えることもできない。このことは、……「原語の恣意性」という問題とも当然関わるが、この意味のラングにおいては、言語ほど必然(p. 268)なものではないと言えるであろう。(p. 269)
P. 269
第二のアスペクトは、一つの価値体系として捉えられたラングであって、ソシュールによればこれは社会制度としてのラングが同時に有するもう一つの特性である。この価値は、自然的事物のもつ絶対的特性によって定義される即自的価値ではなく、体系内の他の辞項との共存と対立から生れる相対的・否定的価値にほかならない。体系を離れてア・プリオリに存在する積極的意味も音のイメージもないのであり、あるものは相互間の差異だけである。
……
この差異という概念は、ソシュールにおいて記号の恣意性の原理と切り離すことができない。恣意性と示差性は相関的特性なのである。恣意的な記号は差異の上にのみ成立する。ある観念に対してある音のイメージを結びつけるのが恣意的なのではなく、無定形な意味と音を同時に切り取る、その切り取り方が恣意的なのであって、もしそうでないとしたら、価値の概念は自然の中に見出される絶対的要素を含むことになり、非社会的特質に裏づけられるものとなってしまうであろう。
P. 280
著者が、《構成された構造》であるラングに対置して《構成する構造=主体》と呼んだパロールのもつ社会性がこれであって、くり返すまでもなくこのパロールは単なる生理的発声現象や物理音といったシュプスタンスとは違い、一つの構造を有するものである。これは、イディオレクトの概念にも近い、個人の価値観やイデオロギーを支える言語・意識構造にほかならないが、これまた当然のこととして既成のラングという大きな構造の中にくりこまれ、否応なしに規制されている構造でもある。一方においてラングはパロールの産物として成立し、他方においてパロールはラングに規制されるように、この二つはつくり作られる永続的な相互依存関係におかれている。このパロールこそは、物質的なものに働きかけて、それをのり超え、しかもそれを保有しながら、具体的実践を行なう個人の社会行動の本質であり、歴史や社会の中にあってそれを動的なものにする《否定の契機、反構造的契機》である。またこの意味でのパロ(p. 280)ールとそれをくりこむラングとは、いわば同心円的であり、二つの逆の矢印が示すように、ラングによって規制されるとパロールと、逆にパロールによって変革されるラングの間に烈しい緊張関係が生ずると言うことができよう。(p. 281)
P. 306
「しかしコトバとエクリチュールは、事物の自然な関係に基盤を置いてはいない。」人間は他の動物と同じく生物学的に存在しながら、同時に記号学的世界に生きている。人間はしたがって、他の一切の動物とは異なり、環境に自分を適合させるというよりは、むしろこの表象的次元を介して環境の方を自分に適合するように《恣意的に》これを変形する。人間の周囲には、自然音とそれが言語の形相を通して変形された文化音がある、と言ってもよい。《語聾症surdie? verbale》という病気が知られているが、これは耳そのものの生理的故障とは全く関係なく、言語音のみに局限される症状で、話された語の意味が理解できない一種の失語症である。つまり、この(1)のシーニュの不分離性とあいまって、言語命名論と主知主義の否定の根拠でもあり、(2)の価値体系の概念が意味する言語の自立性とともに、経験主義否定の根拠/でもある。ア・プリオリに秩序をもち、カテゴリー化され、分類化された世界の潜在構造を、人間が言語を通して発見していくのではない。また言語が、その彼方にある思考とか知性のもつ《意味》をただ指さすものではなく、自らのうちに意味を担っているということは、のちにメルロ=ポンティの言葉を借りれば「コトバは意味を持つ」という認識であり、条件反射の道具や意味の転轍手に成り下がろうとしていた人間に、《語る主体》と《語る意味》を回復せしめたとも言えるであろう。コトバは観念の表現ではなく、観念の方がコトバの産物なのである。
P. 329
ビュルジェによれば、ラングは価値の体系であり、この《価値》は純粋に潜在的な実体で、これが具体的言述の中におけるさまざまな《意義》の現前を可能にせしめている。「意義を生み出す源が価値である」という考えは、まさにこの抽象的条件が、具体的・個別的実体を生み出す要因であるという意味に外ならない。また、フランス語のmoutonと英語のsheepは、その体系内の《価値》が異なりながらも、具体的連辞においては全く同じ《意義》をもつこともあり得るし、ここにこそ、価値体系を異にする言語からもう一つの言語への翻訳が可能である理由が見出されるのだ。《価値》はラングに属する形相であり、《意義》はパロールに属する実質(シュプスタンス)ということになろう。
P. 330
ビュルジェは、ラング自体がもつ潜在性と顕在性、抽象性と具体性という二重の性格を見落としている。潜在的なものはすべてラングに、それが現前され実行されたものはすべてパロールに属せしめることは、一見明快な区別であり、ソシュールの根底的区別である形相と実質に対応しているかのごとく思われぬこともない。潜在的実体である《価値》をラングに、それが条件となり源となって《意義群》をパロールに属せしめたのは、おそらく右のような論理に基づいているだろう。ところが、事実はそれほど単純ではないのである。
P. 333
本章で特に照射したい問題は、ラング自体のもつ《潜在性》、《抽象性》と《具体性》という二重の性格である。最も端的な例として言えることは、人間のもつ生得の普遍的な言語能力、抽象化・カテゴリー化・概念化の能力(p. 333)であるところのランガージュとの関係で考察されたラングは、前者があくまでも《潜在能力》であるのに対し、後者はそれが社会的に実現された《顕在物》であるという事実である。一方、この顕在的ラングも現実の言表に現われる個々の言行為であるパロールとの対比においては、《潜在的・抽象的条件装置》であって、決して具体的・物理的実体ではない。したがって、このラングとパロールの区別という視点に立つと、今度は前者が《潜在構造》であり後者はこれを顕在化し具体化したものと言えるであろう。このパロールの行為を《個人的実現realisation individuelle》と呼べば、先のラングの《社会的実現realisation sociale》との間に見られる。同じ実現のもつ位相の差が明確になってくるのである。(p. 334)
P. 335
以上から判明することは、ソシュールのラングには、@《形相》としてのラングと、A社会的に実現された《規範》としてのラングがあるという事実である。後者の具体性は、もちろんパロールの実質(シュプスタンス)とは異質のものであるが、純粋な関係の網である形相が社会的に実現された結果、一つには音的性格を持ち(原理的には、視覚・嗅覚・味覚・触覚といういかなる実現形式をとることも可能である)、二つには、その社会慣習が許容する変異体のみが強いられる(原理的には、いかなる差異でも対立化されさえすればよい)という意味で、一種の有形性を具えているラングなのだ。@の《形相としてのラングlangue-forme》は、イェルムスレウの《図式schema》と全く一致するのに対し、Aの《規範としてのラングlangue-norme》は、イェルムスレルの《規範norme》と《慣用usage》の概念をあわせもったものであって、Aは@が社会的に実現された実態である。ちなみに、イェルムスレウはソシュールのラング概念を次のように三分した。
   まずラングを考察することにしよう。それは次の三点から考察される。
  a その社会的実現と物質的顕現とは無関係に定義される、純粋な形相として(=図式)。
  b 特定の社会的実現によって定義されるが、なお顕現の細部には依存しない、物質的形態として(=規範)。
  c 特定社会において採用され、観察される顕現によって定義される、慣習の総体として(=慣用)。
P. 338
連辞関係と連合関係の問題を再び取り上げてみると、《形相としてのラング》に属する連辞関係は、連合関係と同じ資格で潜在的である。……組合せを可能にする結合規則そのものが、《形相としてのラング》の属する連辞関係であり、その規則によって実現される言表は、《規範としてのラング》に属する連辞である。連辞化された結果、確かに言表は一つの具体的コンテクストをもつが、これはあくまで言語的コンテ/クストに過ぎず、「文脈」と訳されるべきものであって、他の一切の状況と比べると、かなり抽象的なものにとどまっている。……いかなる現実の場で、誰によって、どのようあイントネーション、どのような声音で語られ、その対話者が誰であり、発話者といかなる関係にあるか、といったコンテクストや、さらにひろく、マリノフスキーB. Malinowski的な意味での《文化的現実のコンテクスト》、《状況のコンテクスト》といったコンテクストのもつ具体性と比較するだけで、連辞のもつ抽象性は明白であろう。右のような、文脈を除くすべての状況こそ、パロール次元における実現の場にほかならず、《規範としてのラング》の実現環境とは峻別されねばならない。
P. 345
この《意義》が絶対的自然の特性によって即自的に存在する実体でないことも忘れてはならないだろう。この歴史的・社会的産物は、《形相としてのラング》に属する恣意的《価値》に依存しているのである。

■書評・紹介

■言及


*作成:岡田 清鷹
UP: 20080605 REV: 20081115, 20090507,0730, 20171027
Saussure, Ferdinand de/フェルディナン・ド・ソシュール  ◇哲学/政治哲学/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
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