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『続 わらじ医者 京日記』

ミネルヴァ書房,248p.


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■早川 一光 19800915 『続 わらじ医者 京日記』,ミネルヴァ書房,248p. ISBN-10: 4623013219 ISBN-13: 978-4623013210 980 [amazon][kinokuniya] ※

■引用

 「はいえな
 だんだん、西陣の人々との触れあいが深まっていった。”頼りになる診療所”から、やがて”ガよすがになる診療所”になっていった。”それでは病院をっくろうか”と理事会でもきまった。地域の人たちも”あんな診療所が病院になったら”と望んだ。こんどは千円、二千円とみんながお金を集め出した。気の遠くなるような運動だった。
 生活保護をもらっている一人ぐらしのおばあさんが、往診の時ふと私にことばをかけた。
 「セソセ、病院をつくらはるそうやな」
 「うん、入院もできん人たちが多いさいなァ」
 「わても出すさかい。センセ、わてに何ぼぐらい出せ言わはりますな」
 「うん、そうやな。おばあちゃんはひとリやさかいな。これぐらいええ」
 と私は指を三本出した。つめに火を灯すような生活の家。三百円でも言い過ぎたかと拾汗をかいて、指を出した。心を見破ったか。
 「三百円ぐらいで、センセ、病院建ちますかいな。あほな」「あさって、おいでやす。用意しときます」とおばあさん。
 後日、ひよっこりと家を訪ねた。新聞紙に無造作に包んだお金が古びた長火鉢の上に置いてあった。三十万入っていた。
 「何やな、これ」
 「わては、ひとりぐらしどす。いつ死ぬかわかりません。もしものことがあったらご近所に迷惑をおかけしますさかい、これで葬式してもらおうと、始末してためておいたもの。
センセが病院つくらはるんやったらお使いやす」
 私は手が震えた。
 ――病院づくりにはぜひ欲しいお金。しかし、しかし、このお金をいただいたら……。このお金に手をつけたら、もう病院はつぶせない、もう私は西陣から去れない。なぜなら、このお金はおばあさんの死に金(葬式代)だから。
 どうしようと一瞬迷って、おばあさんの目を見たらけ"アソタハンニオマカセシマス”と▽067 澄んでいた。「もらいます。おばあさん!」と言って私はカバンに入れた。
 もうその時、私はこの病院から離れるわけにはいかなくなった。少なくとも、こういういおばあさんの死をみとらん限りは、西陣を去るわけにはいかなくなった。このおばあさ人は、その時ぽつりと私に言った。
 「センセ。病院はな、外からはつぶれませんえ。つぶれるんやったらけ”うち”からどっせ」と。
 この言葉は、いまも私の頭の中に焼きつくように残っている。
 このおばあさん、やがて出来上がった新しい病院で、職貝のみんなの手厚い看護に見守られて老衰でなくなった。
 おばあさんがなくなっくから、親類と称する人々が現れてくる。「私はおばあさんの――に当たる」「僕はおばあさんの〇〇だ」。生前、何ぽかの財産分けてやると言▽068 われたという。まくら探しのように家の中を探し、三十万円の預かり証を見つけ、返済金を持って消えていってしまった。私は「これでいい」と思った。
 「こういう世の中だからこそここで医療するんだ」と私は思った。
 ここに私たちの病院の意義があるとも、思った。」(早川[1980:109-112])

 「いしとかんじゃ

 つちの院長は、背丈の高い人である。
 古稀(こき)をいくつか越えてなお若々しく京都の私立病院協会の会長として、また高等看護学校、臨床検査技師学校の校長として、卓越した指導力を発揮されている。
 ”人を教えるということは、自分が学ぶということ”だと主張して、さかんに講師や実習病院を引きうけよと私たちにすすめる。
 ”私たちはまだ実習病院として実力もなく模範でもないので困る”
 ”教科書(たてまえ)とはちがったほんねをやっているので教育にならない”
 と反論すると「いや、それが教育。理論と実際とはちがうということを教えることが何より大切だ」と言い切る。▽106
 そして「教えようとすればこそ、こちら側も身を正すのだ」という。
 なるほど私たちが講師を引き受け、診察室に実習生が入れば、病人への応対、ことば遣,い、診察態度にも姿勢を正す。
 曲がりなりにも胸だけ診て背中を診ない手抜き診察をするわけにはいかない。,
 この院長は、私たちが青年医師のころ、大学の民主化の旗をかかげて教授会の公開をせまった時
 「教授会は、公開にすべきだ」
 と主張してやまなかった数少ない教授の一人だ。そのために休職処分になり、退官せざるを得なかった気骨の人だ。
 退官後、市中に耳鼻科医院を開くが、診療のかたわら日本の医師のあるべき姿を、健康休険制度の民主化の中に打ち立てようと情熱を燃やされた。
 特に健康保険の運用の中で”この薬は保険では使ってはいけない””この注射は保険ではこれ以上使ってはいけない””往診のしすぎだ””二日で治るようなものに、なぜペニシリンを使ったんだ”などと、医師の医療行為に制限を加え、病人の治療に当たる医師の良心を制限する官僚統制に、医師の力を結集して盾ついた。▽107
 その運動は、京都では日本の先頭を切って大波のように盛り上がった。
 とかく萎縮しがちな医師に深い自信と確信を与える運動だった。
 私はこれを”医師の主体性の確立”の運動だとみている。
 そういう院長が、私たち青年医師の”住民の中へ住民とともに”医療活動しようとする動きに援助の手をさしのべてこられる。
 いわば「医師の主体性の確立」と「患者の主体性の確立」との結合だった。この院長とともに医療をすること二十二年、いまだに患者さん、時々私のところに文句を言いに来る。 「院長先生は、何を聞いてもちっとも返事をしてくれへん」
 「この間も”病気ぼ何でしょう?”と聞いたら”君が病名を聞いてどうするんだね”と言わはった。”こん▽108 どいつきたらよろしいでっしゃろ”と聞いたら”たかったらきたらいいよ”と言わはつた。そんな殺生な!」と訴える。
 ”これは困った。院長えらいこと言うてくれた”と思ったが、
 「そりゃあんたの聞きまちがいや。院長先生は”たかったら来たらいいよ。といわはったんやで。あんた耳が悪いさかい””と””とききちがえたんや」ととっさに説明したら「あ、そうかいな」と、半分納得して患者さん帰らはった。
 胸をなでおろして院長に言うと、
 院長は頭をかきながら「僕は君らのようにはできん。おれにできんことをしているから、ばくは君らを応援してるのだ」と素直にいう。」(早川[1980:105-108])

 「戦後まもない京都では、健康保険制度の普及につれて医師運動の柱として保険医協会は「医師の主体性の確立」を強く主張した。
 健康保険の赤字を理由にともすれば制限治療、統制医療の強化される中で、京都独得の反官僚・反中央の土根性は、二枚腰のような反骨の抵抗運動を起こした。
 私たちの病院のの竹沢院長たち在野気骨の師が
「医師の主体性仕が守られてこそ、患者のいのちが守られる」
 と主張して確信をもって、医療の民主化の波を起こしていった。
 それは医師の「良心」を守る運動でもあった。
 当時、政府は「国民皆保険」の制度化を急速にすすめていた。国民から一定の保険料を▽110 徴収し、国は補助費を出して、乏しい財政の中から、国民はどこかの健康保険に入る皆保険の制度を推しすすめていた。
 確かに”誰でも医療にかかれる”一応の保障は国民の要望でもあり、国民のいのちを守るのにすばらしい効果があった。
 日本人の平均寿命は目にみえてのびていった。
 しかし、乏しい国の補助では、国民保険はいっも赤字の運営にさらされた。
そのしわよせは、うなぎのぼりに高くなる国民の負担と、診療をあずかる医師側に、強く寄せられていった。
 現場での医療は、同じカゼでも、病人のひとりひとりの顔がちがうように、患者の生活・体質・環境によってみなちがっている。従って治療の仕方も内容もちがって当然である。
 ところが、保険制度となれば、その制度の一定の方針の中で、自ずときめられたワクの中で医療が行われざるを得なくなる。
 今までのような、医締ひとりひとりの特技、治療に対する方針はだんだんと認められなくなって、型にはめられた通り一ぺんの治療を余儀なくさせられる。
 これは医師にとっては「苦痛」であった。まして、往診は何キロまではいくら、診察料▽111 何時まではなんぼ、この薬は何グラムまでこれだけと報酬がきめられれば、好むと好まざるとに拘らず、収入の少ない医療行為はしなくなり、労力の多くかかって保険の評価の少ないことは避けようとする。
 医師も人。医者も労働者。生きていく権利があり、休む権利があるとなる。
 生活保護法による医療は、一番ひどかつた。「生活保護の患者は、必要最低の医療を行うべきだ」との厚生省通達が私たちにおりている。
 「何たる事だ! 生活を保護しなくてはならない患者こそ、最高の医療であるべきだ。食うに困っておればこそ、栄養もおとろえている。最高の食事と、充分な手だてが必要だ」と私たちは、どんどんと治療をした。
 何回も呼び出され、「濃厚治療だ」「過▽112 剰診療だ」と言われた。「何さ」と私たちは、生活保護患者友の会をつくって、患者さんと一しょに交渉してゆずらなかった。京都の人たちは、この運動を影に日なたに応援してくれた。これを、
 私は「都びとの反骨」と呼んでいる。
 戦後の医師会運動を指導した竹沢院長は、「医師の主体性」を主張すると同時に、「医師の果すべき社会的な責任」をも医師運動の中で提案して実行をせまっている。
 医師会の手による休日診療体制、看護、検査、放射線技師教育、医師会オープン病院、医師会主導の地域医療活動等々……。
 しかし、その主張は医師の生活権保全の運動の強さにおされて、その頃は容易に実現されなかった。
 医療機関の日本一多い京都が、土曜、日律曜、深夜、お正月には無医村に近くなる時もあった。
 私は、医師の主体性の圧迫は、「医療の萎縮」を呼び、患者の主体性の無視は、「医療の不信と荒廃を来たす」――
 と思っている。」(早川[1980:109-112])

 「全力出してみてやれば
 問い合わせの中で私が一番気になるのは「いっそのこと精神病院に入れて治療を受けさ、せた方がいいのでは?」という質問である。それに対して私はこう答える
「わたしたちはボケてうまれたんです。親が年をとって、物忘れしくぼけたって順おくりや。おむつして世話するのはあたりまえではないか。病院送りはウバステと同じや。共倒れしそう毎日なんやと思いますが、これは三十年後の自分だと考えて、全力をつくして看てやってほしい。ぼけを病気とみるのでなくて、人問の自然の姿としてとらえて最後までっきあっくあげてほしい。いつまでもとはいいません。やがて間もなく”みなくてもい時”がきます。八合目あたりが、山登りでもつらい時と思いますが、登りきってやってやってほしい。頂上に達した時、きっと、登ってよかったと、しみじみ思われるだろう。登りきった人だけが味わう満足感、その満ち足りた家族の人たちの顔を私は何人も見てきているんです」(早川[1980:231])

■言及

◆立岩 真也 2014/09/01 「早川一光インタビューの後で・1――連載 103」『現代思想』41-(2014-9):-


UP:20140730 REV:20140814, 0905
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